Case45.記憶の残滓
希の部屋は城華への配慮もあってか不二とは別室になったが、彼女も城華と同じようによく遊びに来るということになった。
希とは今までどおりに話せるし、最初から気軽に話せる。
うろこやリノはフレンドリーだけれど、言ってはいけない部分を踏むかもしれないぶん気を使うから、妹ほど気の許せる存在があるのはありがたいことだ。安心して日々を過ごせるだろう。
だが。まだ、そんなぬるま湯に浸かっていられるほど事態は収束していない。
あれから、希がストレセントを前に暴走する理由もわかっていないし、仮にまだそれが残っているとしたら彼女は前線には出せない。
不二といっしょに検査をもう一度受けてみるといいと言われ、その通りにしてみて、特に異常はないと言われたが油断は禁物だ。
その希から、デートに行こう、というお誘いが来て、ちょっぴり困っているのが現状であった。ストレセントに狙われれば大変、暴走まですれば一大事だ。
けれど、久しぶりに姉に会えて、いっしょに遊びたいと思う妹の気持ちには応えたかった。
「わかった、じゃあ、行こうか」
「いいの? やったー!」
やっぱり、無邪気に喜ぶ妹の姿には勝てない。
希に急かされながら軽く支度をして、すれ違った職員さんにも快くあいさつをしつつ外へと踏み出した。
気分のいい晴れもようで、空に伸びた雲も清廉な白をもってふたりを出迎えている。
「行こっか、お姉ちゃん!」
こうして手をつないで、そこからは大変だった。
希は年相応の好奇心にあふれている女の子だ。不二とお出かけになると引きずり回すし、服屋に連れ込まれると小一時間待たされる。
いや、小一時間なだけまだましなのかもしれない。希がうろこくらいの年になったら、きっともっと待たされるに違いないし、化粧品でも小一時間かかるだろう。
不二はそういうのあまり気にしないのだが、これでも女の子なのだからかわいいなと思うものはある。
前まではお金の心配で買わなかったけれど、今なら買ってもいいかもしれない。
実際小一時間待たされているだけなのも暇だったので、適当に物色し、そういうものを見つけて手に取った。
こういう清純そうなワンピースは、自分にはどうなのだろうか。ふだん支給されているらしいものにそういうのはなかった覚えがある。
「お姉ちゃんはどう……って、それ! すっごい似合いそうだよ!」
「そ、そうかな?」
「うん! 私のお姉ちゃん好き好きセンサーに狂いはないもの!」
聞いたことのない用語が飛び出したりしたけれど、とにかくおすすめされているのはわかった。
希の欲しいものといっしょにレジに持っていって、数万円くらいは痛くも痒くもなく平気で出し、荷物持ちは不二が引き受けて、次の場所を目指すことにした。
流行りの喫茶店やデパート、ゲームセンター、水族館まで。
ほんとうにいろんなところで遊んで、思い付く限りの行ったことのある娯楽を楽しもうとして、いつの間にか外は真っ暗になっていた。
今からの映画は時間も遅くなり青少年はお帰りくださいになるだろうからあきらめて、そして家に帰ろうとした。
帰路の途中で不二は気づく。こっちの道は、天界社ではなく、今までの自宅へと続く道であると。
工事中の道路はいつか自分がタチバナになるよりも前に誰かを助けようとしたことをほのかに思い出させる。
けれど、希はまだ天界社に慣れていないのか、当然のように鼻唄をうたいながら歩いている。それを壊すのは姉としてよくないことだ。
きょうくらいは連絡を入れて、こっちで泊まらせてもらうことはできたりしないだろうか。
普通の住宅街を歩いて、普通の家に着いた。すこし懐かしい景色だった。
別に立ち入り禁止テープが張られているわけでもなく、何も変わらない不二たちの家だった。
中へ入ろうとして、希が立ち止まったため不二も歩みを止める。なにか見つけたのだろうか。お隣のお兄さんか、あるいはもっと異質なものか。
彼女の視線の方向を見ると、そこに立っていたのは、家族で間違いなかった。
「アメリィ……!」
「ん、おや、おかえりなさい。晩御飯はなににしようか」
どうやら敵意はないように思える。希も暴走する気配はなく、スタンガンを取り出そうともしない。
唯の優しさに甘えて、ふたりで円家に帰ってきたのだ。
見た目が金髪紅眼の小さな女の子になったとしても、姉は姉なのだから。
ちゃんと靴を揃えてくれて、先に先にと準備してくれる。不二よりも率先して家事をすることが当たり前になっているのだから、家主なのにメイド服でもよく似合っている。
電気はまだ切られていなかったのか、照明も問題なくついたし、ずっと放っておかれていたらしい冷蔵庫からは飲みかけのペットボトルや食材が出てくる。
それらをうまく使って、唯は軽く食事を用意してくれる。
今のうちに、自分と希は夕食を食べて帰るから必要ないと連絡をいれておく。
早めにやらないと唯は手際がいいし、残り物しかなくともしっかり形にしてみせる。メイドとしては最適の人材だろう。
小柄になっていても不自由そうな姿を妹に見せることはなく、簡単に軽くポトフなんかを作って出してくれて、今だけは安心して口をつけた。
久しぶりに食べる、ちょっと薄い、唯らしい味付けだ。
ソーセージはきっとまだ開けていないものがあったんだろう、多めに入っていて、希も満足そうだった。
食卓ではストレセントもタチバナのことも忘れて、いつ振りかの団欒と、家庭の味を楽しんだ。
「ごちそうさまでした」
「うん、ごちそうさまでした! おいしかった!」
節約のためにうすめていても、希はほんとうに嬉しそうな表情をしてくれる。
だから唯もやってこれたんだろう。あるいは、心の底には申し訳ない気持ちがあったのかもしれない。
小さくなった唯も自分の料理を完食して、小さくため息をついた。
そして、食器を片付け、不二が洗っている最中に希は口を開く。
「唯お姉ちゃん。もう、これでおしまいなの?」
「……どうしてそう思うんだい?」
「リノさんも、ミナミ先生も言ってたんだ。私たちタチバナと、唯お姉ちゃんたちストレセントは敵なんだって」
唯はずっと、表情だけは変えずに聞いていた。
「あぁ、だから言ったじゃないか、妹が相手でも容赦はできないって」
「……どうしてストレセントなんてなろうと思ったの」
希は今にも泣き出しそうな眼で唯を見て、唯だってつらそうな眼で希を見る。
不二はつい、皿を洗う手を止めてしまう。背後を振り返り、束の間ながら『唯』でいる彼女を呆然と見てしまう。
「わからない。あぁ、僕は忘れてしまったんだ。どうしてストレセントになろうとしたのか。どうして怠惰を遠ざけようと思ったのか。わかっているのは、この手を止めれば後悔が襲ってくることだけ。いつだってそうだ。今だって、この時間で何かをしていられれば」
強く握った唯のてのひらに血がにじみ、すぐに治っていく。
心からの言葉はふたりの心に重く突き刺さってくる。
原因はあの日々だ。
入ったばかりの高校を中退し、身体を壊してしまうほどに働き続けて妹たちを生活させようとしてきたせいだ。
「……ごめんね。僕は行ってくる。もうこの家には帰れない」
「そんな、唯お姉ちゃん!」
「もう僕は唯じゃないんだ。アメリィ・ストレセントなんだ。一緒にはいられないんだ」
去っていくアメリィを、希は追いかけたけれど。止めることはできなかった。
それから不二と希は、さっきまでのデートの明るいのも、団欒を楽しんでいたのもどこかへ消えて。静かに、夕食の後片付けを進めるしかなかった。
「……唯お姉ちゃんはああ言ってたけど」
ふと、希が呟いた。
「この家に、またみんなで帰ってこようね」
不二はこの言葉に答えられなかった。きっと唯のことだって、結礼のようになってしまうのだと、心のどこかで思っていたからかもしれない。
もう、きっと戻れない。不二がこの家で過ごすひとときも、きっとこれで最後だった。




