Suicide Start
この日、少女はとんでもない現場に遭遇した。
妹と楽しい買い物帰り。
自分は重くなった袋を提げて歩き、隣で楽しそうに歩く妹と手をつないでいる。
守りたくなるような、小さな手だ。
その買い物袋を提げている少女は「円不二」といった。
ただいま中学二年生、学校ではいたって普通の女の子だ。
「お姉ちゃん!きょうの晩ごはんは?」
「すき焼き」
「ほんと?やったー!すき焼きだぁ!」
嬉しそうでよかった、とこぼした不二。
聞き逃さなかった妹に、こう付け足される。
「あ、すき焼きよりお姉ちゃんのほうが好きだよ!」
そんな妹の言葉で照れている不二だったが。
彼女は今日、人生で一、二を争うほどに運が悪かった。
いつも通っている道で通行止めがされていて、いったいなぜだろうと見に行ったところ、とんでもない事件に巻き込まれてしまったのである。
不二がいつも通りの道を通ろうとしたとき、どこかの団体の制服らしいものを着た男性に止められた。
いったい何があったのか、と言っても答えてくれない。
仕方がなく回り道をすると、けっきょく同じ道に抜け、通してくれなかった理由を嫌でも知ることになった。
なんとそこでは、怪物が暴れていたのだ。
蜘蛛の怪物があたりに糸を吐いて人を絡めとったり建物のあいだに巣を作ったりと大騒ぎだ。
ある程度距離をとったところに野次馬が集まっているが、いつこっちに来るともわからない。
さっきの制服の大人数人が、野次馬払いの仕事に追われていて、ほんとうに危険らしい。
状況は理解できなくても、とにかく危ないということはわかっていた。妹を連れて逃げ出そうとする。
人混みで見えなかったのか、蜘蛛のことを知らない妹はきょとんとして、また楽しそうに駆け出した。
背後では悲鳴がまた響いたが、とにかく妹のためには振り返ってはいられない。はずだった。
不二の頭のなかには、どうしてか疑念がよぎる。このまま逃げてもいいのだろうか。
不二がここで逃げたらまたあの場所にいる誰かが血を流す。
そう思うと、自分は妹といっしょに家に帰るだなんて幸せを享受してはいられなかった。
「行くの?お姉ちゃん」
「うん、誰かが助けを求めてる気がするから」
「そっか。じゃあ、買い物袋は私が持って帰るね」
理解のある妹で助かった。
そこそこ重い袋を渡して、不二は振り返る。
足は勝手に駆け出して、人の波を掻き分けて。
やっと抜けて出た先では、糸まみれにされて口を塞がれた少女が蜘蛛の背に乗せられている。
巣に持ち帰ろうとしているのだろう。
不二はそこらに転がる石を投げ、注意をひこうとしたが、すぐに気づいた蜘蛛は糸を吐いて石を止めた。
「……こっちだよ、化け物っ!」
誘導する先もあてはない。
けれど、こう叫ぶほかにない。
無謀なことであっても、あの少女が殺されてしまうよりも不二が殺された方が、少なくとも自分の心にはいいはずだ。
蜘蛛の注意は狙い通りこっちに向いている。
対処する方法はない。
ただ距離を保ったまま、考えているだけだ。
こういうとき、平均的な頭脳は会心の答えを出してはくれない。
もはや天に祈る他なく。
一か八か、蜘蛛に向かって駆け出し、もちろん好機とみた蜘蛛は絡めとってさらなる犠牲者とするために動いた。
糸は吐き出され、不二は巻き取られてあの少女と同じ運命をたどる。
「……もう、駄目かな」
「いいや。運命は変えられるさ。だって、君たちは生きているんだから」
不二の目の前には、美少女が立っていた。
不二よりもずっと頭身が高くて。
長い金の髪がさらさらとなびいていて。
振るった日本刀は放たれた糸をも断ち切る煌めきを放っている。
彼女は不二に手を伸ばし、その手をとった瞬間に身体が持ち上げられた。
お姫様だっこの形でこんな綺麗な人に運ばれれば、もちろん普通の女の子でしかない不二は照れてしまう。
そんなのお構いなしに、安全な場所へ置いてくれるだけで彼女は戻っていこうとする。
いったい何者なのか聞こうと思ったのに、不二は置いていかれた。
けれど、この場所からも蜘蛛と彼女のその後については見えていた。
「先に行かれると困りますよ」
「あぁそうだった、いま私戦えないんだっけ。ま、よろしく」
スーツ姿で、こちらもまた後ろ姿から整っていると感じさせる美人さんがいつの間にか立っていた。
これからあのふたりで蜘蛛に対処するのか。
それらしい武器は片手で持てる程度しかない。
刀の切れ味はさっきので見たけれど、あんなのに近づけるだろうか。
また、スーツの美人さんのほうが持っているアタッシュケースも小さいものだ。
まさかあんなの殺虫剤で倒せるわけがないだろう。致死量までが大きすぎる。
何を出してくるのかと思いきや、開けられたアタッシュケースからは何やら小さくて黒い、手榴弾らしいものが出てきていた。
けっこうな威力があってもおかしくはないが、あんな一個だけで蜘蛛を倒せるのだろうか。
そう思ってみていると、手榴弾のピンが抜かれ、金髪の少女が離れていく。
ある程度距離をとって隠れたのちに手榴弾は地面に叩きつけられ、二秒ほどしてそれらの衝撃がすべてスーツの彼女に与えられた。
彼女の整っていたであろう容姿は爆発の衝撃によって数多の血に汚れ、即死は免れない。
特に腹部はひどいものだった。
抉れた皮膚から、破裂した中身がいくつか見えてしまっている。
その中には、強く発光する鉱石らしい物体もあった。
あんなもの、人体にふくまれているのか。
そんな不二の疑問が解決されるより先に、突如爆発によって生まれていた煙たちの向きが変わった。
絶命しているだろう彼女の周囲を取り巻き、どうしてか張り付くようにまとわれていく。
さっきまで煙だったものどもは焼けてなくなったスーツの一部を補うようにして銀色のフリルがついた布となり、さらには頭にゴーグルが付けられる。
あれは爆弾を扱う兵のイメージだろうか。
髪は煙からシュシュができてまとめられ、できる女、という出で立ちからどこかかわいらしくなる。
それから、煙が晴れないうちに指がぱちん、と鳴る音が響き、続けて小さな爆発音が響いた。
蜘蛛の背中かららしい。
見てみると糸が焼ききれていて、捕まっていた少女がついに離れた。
宙に放り出された彼女はふたたび蜘蛛が捕らえようとするものの、先に金髪の少女が跳んで回収、不二と同様に助け出されていた。
次なる爆発音は、蜘蛛の注意をふたたび逸らすためのものだったらしい。
かわいらしくなった彼女は挑発的な笑みを向け、飛ばされてきた糸も爆破して灰に還してしまう。
遠距離からでは攻撃できないと判断したのか、地面にまで降りてきた蜘蛛と彼女で睨み合った。
向かい合い、やがて動き出したふたつの非日常。
蜘蛛は接近戦に持ち込もうとし、壁を伝ったり糸の粘着力と巻き取りで自らを飛ばしたりと活発に動き回るが、女性の側は余裕をもって対処しているといった具合だ。
時折撒く爆発は確実に蜘蛛の機動力を削っていて、脚は三本ほど喪われただろう。動きは遅くなり、標的を狩りに行くよりも防御に回ろうとしている。
彼女はそこへ、深呼吸をして踏み込んだ。
突き出された両手のひらからは衝撃が放たれる。先ほど彼女自身の死因となっていた爆発だ。
蜘蛛を飲み込み、瞬く間に崩壊させていく。
やがて燃え尽きてなにもなくなった蜘蛛のいた跡に、小さな石ころが転がった。
先ほど彼女が絶命した際に見た鉱石とそっくりで、あれは一体なんだったのだろう、と疑問のことを思い出した。
金髪の少女と黒髪の美人は、蜘蛛の討伐を終えて撤収していく。
回収した石ころは丁重に容器に入れられて、大切に持ち帰られていく。
さっき通行止めや人払いをしていた制服の人々が少女たちに頭を下げたりを繰り返していて、やっぱりあんなことができるなんてすごいひとたちなんだなぁとぼんやり思っていた。
わけのわからないことが起きすぎて、ちょっと頭が追い付いていないんだと後で気がついた。
途中でふと金髪の彼女がこっちに気がついて、声をかけてくれた。
不二に向かって、手を振って、だ。
「君があいつを足止めしてくれていたおかげで、あの子は助かった!ありがとう、ね!」
こうして事件に巻き込まれた不二は、いつもの日常に戻っていこうと思った。
ずっと踏み切ろうか迷っていたことも、もう迷わずにできるかもしれない。
不二は買い物袋はどこへやったかと思い、妹がすでに持ち帰ってくれていることを思い出して、今度こそ自宅への帰路についたのだった。