デウカリオンの洪水 後
救いの船は、ない。
「飛ばし過ぎでは?」
イツキの通信に応えてか、前方のプロメテウスは速度を落とした。
彼女はずっと、黙ったままだった。
あのようなデータを見せられた後では、気が滅入るのも当然のことだろうが。
「……すでに敵地だ。周囲の警戒を怠るな」
「了解」
フタツは単独行動向きな性格だということで、3番目に古い自分がこの作戦の隊長である。
プロメテウスは階級的に、この隊の長にはなれない。
……という建前で、彼女の負担を極力減らすのがこのメンバーでの暗黙の了解だった。
作戦の向き不向きによっても変わるが、だいたい3期から7期までの持ち回り制である。
「目標研究機関のシステムを完全掌握。監視カメラ、レーダー、音声、すべての情報をダミーに差し替えます」
ナナにとっては朝飯前のことだろう。仕事が早い。
「偵察機発見。二時の方向」
「撃ち落とせ。静かにな」
「了解」
ムツが隊から離れる。
すぐ戻るだろう。
「作戦を再確認。各自の役割を全うせよ」
作戦、などと言うものはあってないようなものだ。
ナナが施設の情報を掌握、外で待機しつつ全員を情報面でサポート。フタツ、シイ、ムツ、シチが陽動と建物の破壊。プロメテウス、自身、イツキ、リクが内部に潜入、目標を探し出し、データおよび2408を破壊する。
戦力差がありすぎるのだ。
油断でも慢心でもない。
純然たる事実として。
だから、作戦は必要ない。
ムツが戻るのを待って、号令を出す。
「作戦開始」
建物を破壊する轟音が狼煙がわりだ。
いの一番に建物へ急降したのは、プロメテウスだった。
焦っているのだ。彼女は。
「飛ばしすぎるなよ」
注意はその一言だけ。
遅れまいと後に続く。
ここにいる全員が、同じ気持ちだろう。
はやく、早く見つけてやらなければ。
「会敵、排除する」
「建物の損傷10パーセント」
「A区画には見当たらない。次へ向かう」
通信が入り乱れる。
内部は見慣れた研究所と同じような匂いがした。
プロメテウスやイツキたちが敵と戦っている間に、奥へと急ぐ。
大事なものを隠すのは、奥と相場が決まっている。
建物の中心部、最下層。
幾重にも重なる扉をぶち抜き、そこへたどり着く。
「遅くなったな」
研究者らしき男たちがそれを隠すように。
そして兵たちが、その前に立ちふさがる。
人が生身で扱える銃器もなど、脅威ではない。
人も銃器も紙くず同然だ。
脆い。
腕を一振りすれば、全員がその場に倒れ伏した。首と胴は誰1人として繋がってはいない。
サイボーグ兵は入念に潰す。
どこで通信が繋がっているかわからないからだ。
「さて」
手早く事を済ませて、目的へと目を向けた。
なるべくなら見たくはなかった。
「2408、生きて……いるんだな」
わずかに胸が上下していた。
開かれた身体は、自己修復を試みようと蠢いている。
けれどもう、手遅れだった。
本来自壊するはずのプログラムが停止され、チップと金属細胞が暴走している。
生きたい、という意志のもとに。
「喋れるか」
四肢の拘束を外しながら、そう尋ねれば、ピイ、と甲高い音がなった。
すでに声帯は機能しなくなっているらしい。
声なき声は、信号の形で訴える。
「デウカリオン、3期試作機だ。2408号機だな」
四肢もほとんど削られている。
削ったはなから、それはただの肉塊となっているだろうが。
ナナとだけ通信をつなぐ。
「どこにある?」
「幸いまだすべてこの施設の中」
「ムツを向かわせろ」
「了解」
肉一片たりとも、敵に渡せはしない。
機密の漏洩なんてことはどうでもいい。
ただ仲間の身体を、尊厳を守ってやりたい。
ピイーーと機械音がなる。
「あぁ、わかった」
ーー死にたいと叫んでいる。
殺してくれ、と。
思いとは裏腹に。
信号は絶え間なく訴えかける。
それは、兵であるものの矜持だろうか。
単なる意地のようなものだろうか。
希望が見えたなら、誰だって縋りたいんだ。
国がプロメテウスに縋ったように。
「正直で困るな、この身体は」
そう言って、身体にふれる。
感情が筒抜けになるこの身体で、それでも意地を張りたいのだ。
「大丈夫だ。プロメテウスが来る前に終わらせてやるよ」
ーープロメテウスには、殺されたくない。
その想いに、応えるためにここにいる。
考えることは、同じだ。
「最期に、言い残すことはあるか」
プロメテウスが飛び込んで来る。
「たった今破棄が完了した」
金属と骨と、炭だけになった遺体を指す。
「……もう直ぐここも崩壊する」
遺体を一瞥すると、プロメテウスは背を向けた。
「あぁ、行かないとな」
ーープロメテウスには、殺されたくない。
あぁ、そうとも。
プロメテウスには殺させない。
そのために、俺は、デウカリオンはここにきた。
プロメテウスより早く目標を見つけ、破棄する。それがデウカリオンの共通目標。
プロメテウスは、きっと。今回もまた、背負おうとしていたのだろう。
自らの手で、殺してやると、そう考えていたのだろう。
そうはさせるものか。
十字架を、たった1人で背負わせるものか。
その手をこれ以上、汚させるものか。
世界を飲み込む洪水が来ようとも、救いの船など必要ない。
共に水底へ沈むだけ。