死を運ぶもの ヘカテー
いつだって、この手は届かない。
いつだってこの声はーー
「ナカイタカミのお家はこちらか」
近くを通る人に尋ねれば、そうだ、と返ってきた。
表札もナカイとなっている。
間違いないだろう。
「なぁ、もしかしてあんた、その……」
男はためらいがちに声をかけてくる。
「その黒い軍服は……」
「ヘカテーです」
通常は茶色の帝国軍の軍服の中で、別の色の軍服は二種類。
プロメテウスたち機械化兵の身にまとう、暗い赤の軍服。
そして、我々ヘカテー部隊のまとう黒の軍服。
「そうか……ナカイさんの家は……そうか」
それ以上何も聞かずに、男は去っていく。
この黒い軍服を見れば、聞かずともわかるのだ。
ナカイの表札を再度確かめて、呼び鈴を鳴らす。
すぐに中から人が現れた。
ナカイタカミの母だろうか。
少しくたびれた格好の、女性だった。
「ヘカテー部隊のイノウエと申します」
黒い軍服を見て顔を強張らせた女は、名乗った途端にその場に崩れ落ちた。
「ナカイタカミ陸軍歩兵の、戦死を伝えに参りました」
女は顔を上げない。
「こちらの手紙と、遺品を」
しゃがみこみ、女の手に手紙と銀のネームタグを握らせる。
「手紙はナカイ歩兵の上官からです」
謝罪と、戦死した者がどれだけ勇敢であったか、という内容だ。
手紙も全て、一度検閲に回っている。
「それでは」
いくつか事務的なやり取りをして、その場を立ち去る。
女はついぞ一言も喋らなかった。
一瞬、曲がり角で見えた女は、こちらに向かって深々と頭を下げていた。
感謝されるようなことは何もない。
命がけで遺品を本国に届けたのは戦地の兵達だ。
手紙を書いたのは上官で。
ただ安全なところでそれらを受け取り、家族に渡すだけ。
戦地で死にそびれた自分の、我々の、それが最後の務めだった。
いつかの戦地で無くした左足の、不出来な義足を引きずって歩く。
金属に馴染まなかった身体は、サイボーグ兵にも、当然機械化兵にもなれなかった。
戦地に戻れない自分を待っていたのは、こうして仲間の死を伝えて歩く日々だった。
「戻ったか」
ヘカテーの上官が、席に着いた自分に声をかけてきた。
一見五体満足の上司は、精神をやられているのだという。
時折、暗い倉庫で嗚咽を漏らしているのを、何人もの人間が聞いている。
ここにいる人間は、どこかしらに傷を負っているのだ。
「……机に、置いておいたぞ。お前宛だ」
それだけ言って、上官は部屋から出ていく。
部屋には自分一人だけになった。
「……」
机に置いてあった、白い見慣れた封書を手に取る。
この重みも、この感触も、慣れたものだ。
慣れたものなのに、全く別の何かを触っている気分になる。
「……兄さん」
封を開けて手紙を読む。兄の上官からの手紙だった。
謝罪と、兄がどれだけ勇敢であったか、ということが一枚の紙に綴られている。
検閲で見慣れた、よく見る内容だった。
兄の最期がどうであったかなど、こんな手紙では知ることもできない。
兄の死は事務的に処理されているのだ。
死が日常の戦地では。
「おかえり……」
一緒にあった銀のネームプレートを握る。
人の温もりなど感じない。ただの冷たい金属だった。
こんな物が、なんの慰めになるのだろう。
こんな薄っぺらな金属が。
優しくて、暖かくて、大きな兄の。
なんの代わりになるのだろう。
金属のプレートが、暖かな水を弾いた。
それが自分の流したものだと理解したのは、その小さな金属が体温で温まった後。
「ばか…おいて、いくなよ」
そんなちっぽけな温もりは、それでもないよりはマシに思えた。
いつだってこの手は届かない。
いつだってこの声は、届かない。
ただ虚空をさまようだけ。




