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第6話 愛の怪盗・ジゴマ


(…家にもいないのか……)

 舘邸の屋根裏に忍び込み、そこから一通り各部屋を見てまわって、是結は溜息を吐いた。

 舘からピンを盗もうとしている是結。何も盗まなくとも、舘にピンを捨てるよう進言し、そうしてもらえればよいだけのことなのだが、秘密裏に全て済んでしまえば、それが一番楽だと考えた。

 ピンは舘が持ち歩いているのか、どこかに仕舞ってあるのか、あるいは、舘も是結と同じくロージア壱号の無力化を考え既に捨てたか、分からないため、とにかく舘をつけ回して機会を狙う作戦でいくことにしたのだった(捨てたのであれば、確かに捨てたのだと確認が取れさえすればよいのだが)。

 初めは学生になりすまし大学内に紛れ込んだのだが、そこで、今日は舘が欠勤していることを知った。

 それならば自宅だろうと思い、杏奈に会いたくないため躊躇われたが、一方的に見かけるだけならば、むしろ会いたいのが正直なところで、来てみた。

(……って言うか、あれっ? )

是結は、ふと気がつく。

(そうだ。会ってもよくなったんだった)

 職業上の立場的には敵であることに変わりないが、是結は今、舘親子を救うために動いている。もう、傷つけることは無い。

 これからは、舘とも杏奈とも、何の後ろめたさも無く接することが出来るのだと、是結は嬉しくなった。

 杏奈もおらず、静子が1人、丁度是結のいる真下の家事室で洗濯物を畳んでいるのを、嬉しさから浮ついた気分で眺めながら、舘の行き先について、

(じゃあ、どこへ? )

考える是結。

(『じゃあ、どこへ』って……。別に、仕事を休んだからって、必ずしも風邪とかじゃないんだから、自宅以外でも行っている可能性の高い場所はいくらでもあるよな……)

自分の思い込みに、ちょっと笑ってしまう。

 だが是結は、他に舘の行く場所と言えば、ロージアくらいしか知らない。

(とりあえず、行ってみるか……)

 ロージアにいてくれれば、それでいいし、いなくても、誰かに舘の行きそうな場所を聞けるかも知れない。

(大学で、だいぶ時間をくったし、早い人は、そろそろ来る頃だ……)

 と、その時、

「あら、お嬢様! お帰りなさいませ」

 是結の真下で、よく通る静子の声。

 杏奈が帰って来たようだ。

 天井板の隙間から覗いてみると、女学生姿の杏奈がいた。

(…そう言えば、初めて会った時も女学生姿だったな……)

 是結はほんのり甘く切なく、杏奈の、静子とのやりとりを微笑ましく見守る。


 突然、

(? )

杏奈が駆け出し、是結の目の前からいなくなった。

 が、ほんの20秒かそれぐらいで戻って来、直後、

「そこだっ! 」

 ドスッ! 

 威勢のよい声と共に、是結の目の前の天井板の隙間から、薙刀の切っ先が突き出した。

(! )

驚き、反射的に飛び退く是結。

 薙刀はすぐに引かれ、是結は薙刀のおかげで少し大きくなった隙間から、また切っ先が突き出されやしないかと注意しつつ、そっと下を覗く。

 すると、

(おっと……! )

杏奈と目が合いそうになり、

(危ない危ない……)

向こうからは見えないであろう位置まで身を引いて、再度下を窺う。

 下では、薙刀を構えた杏奈が、真っ直ぐに是結のいる方向を見据えていた。

「何者ですっ? そこにいるのは分かっています! 出て来なさいっ! 」

 初め、是結は杏奈のその様子を、勇ましくて可愛いなどと、やはり微笑ましく眺めていたが、杏奈は、「さあっ! 」「さあっ! 」と怒鳴り続け、薙刀を天井に向けてギラギラと睨み続け、さすがに、

(どうしちゃった……? )

おかしいと感じ、心配になった。

 その場から離れ難くなった。

 そこを、

「お嬢様! 」

 静子が後ろから抱きしめる。

「お嬢様っ! 」

 繰り返され、杏奈は、ハッとしたように動きを止め、

「…静子さん……」

薙刀を下ろした。

 静子は一度、杏奈を放し、正面に回って、もう一度抱きしめなおす。

 杏奈は俯き、

「…ごめんなさい、私……」

 静子は、宥めるように杏奈の背を優しくトントンとやる。

「疲れてらっしゃるんですよ。今、お茶とお菓子をご用意致しますから」

「…ありがとう……」


 とりあえず、杏奈が落ち着いたようなので、静子がいるから大丈夫、などと、是結も努めて自分を安心させ、その場を離れることにした。

 何故、杏奈がこのような状態になってしまっているのか? 何かあったのか? 気になるが、それは、ちょっとやそっとの時間、天井から覗いていたところで分かりそうもないため、仕方ない。

 この後、ロージアででも舘と会えた時に、聞けそうならば、聞いてみるのが一番早い、と、自分を納得もさせて……。




 外に出ると、雪がチラついていた。

(寒いと思ったら……)

 是結は舘の関係で動く時には、最も簡単な変装として、愛用の外套と帽子を身につけないことにしており、今日も身につけていないが、雪が更に強くなるかも知れないことを考え、防寒と防雪のため、また、舘邸からはロージアより自宅のほうが近いため、一旦、取りに戻ることにした。

 物陰に隠しておいた自転車を引っ張り出し、自宅へと漕ぎ始めた是結は、外套と帽子の必要性を痛感した。

 雪が首の辺りから入って来て冷たく、また、伊達眼鏡に雪がはりつき視界を奪われ、かと言って眼鏡を取れば、雪が目を直撃する。



             *  *  *



 ロージア前に到着し、今日は自転車を雪を防ぐため庇の下に停めさせてもらい、外套と帽子もそこに置いて、是結は中に入った。

 ロージア店内を通過し、階段を下りて地下1階へ行くと、中川が演壇に立ち、いつも一緒の一派12名以外の人たちも集めて、何やら演説中だった。

「『彼等は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱え、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱えてありまするが、其為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。彼等は玉座を以って胸壁となし、詔勅を以って弾丸に代えて政敵を倒さんとするものではないか』……立憲政友会の尾崎行雄先生は、そのようにおっしゃり、立憲国民党と共に、桂内閣の不信任案を提案された。それを桂は汚くも、議会を停会することによって避けたのだ。我々は、これを看過すべきではない。我々は小さな団体だが、大いなる力を持っている。それは他でもない、私が作り出した兵器、小型爆弾・ロージア壱号だ。兵器は持っているだけでは意味が無い。使って、生かしてこその兵器。生かしてこその力。今こそ生かす時だ。昨晩、舘団長が怪我をして入院され、副団長の私が団長代理をしているわけだが、舘団長は爆弾製造を許可しておきながら、その使用には消極的すぎる。これを機に、舘団長には引退していただき、また、今は団長の手元にある起爆装置であるピンもご返却願って、私、中川が代理ではなく正式な団長となり、兵器をきちんと生かし、薔薇の団の皆はもちろん、他の多くの同志の方々とも力を合わせて、民衆のための新しい社会を築いていきたい」

(…怪我して入院……っ? )

 中川の小難しい演説の中から、その部分だけはしっかりと聞き取った是結は、最前列で中川一派が大喝采する中、自分の近くで途惑い気味に顔を見合わせつつパラパラ拍手をする2名を掴まえて、何があったのかと聞いてみた。

 すると、昨日の夜、舘がロージアからの帰りに何者かに襲われたらしいとの話だった。

(昨日の帰り? …オレと別れた後か……。何者かに襲われた、って、ああ、だからさっき……)

 杏奈の先程のおかしな様子についても納得する。

 父親が前の晩に正体の分からない者に襲われたばかりなため、得体の知れぬ侵入者の気配に敏感に反応したのだ、と。




 舘の入院している病院がどこであるかも、途惑い気味パラパラ拍手の2名は知っており、教えてもらえたため、しかし演説中はさすがに、入って来る分には良いが、途中で出て行くのは抵抗があり、きちんと皆まで聞いてから、是結は早速、行こうとした。

(今度は、別に何かになりすましたり、天井裏に潜んだりしなくていいよな。普通に、見舞いに来たってことで……)

 そんなことを考えながら演壇に背を向け、階段へと歩く是結を、

「是結君」

呼び止めた人がいた。

 薔薇の団には、それほど明確な派閥は無いが、それでも舘派か中川派かと問われれば、どちらかと言えば舘派である年配の団員。

 本物の新聞記者である彼は、自分と同じ新聞記者で、しかも自分よりも深い舘派である是結を、今回、舘が怪我をした一件について気にかけ、声を掛けたとのことだった。

 ここ暫くロージア内では常に舘と行動を共にしていた是結は、今や、舘派の中に於いて、ちょっとした有名人だ。

 最初に声を掛けてきた本物の新聞記者の彼の後も、次から次へと舘派の団員が、是結当人と舘のことを心配して話しかけてくる。

 他人が心配して思い遣ってくれる……それは、とても有り難いことのはずなのだが、なかなかロージアを抜け出せずに、正直、是結は困った。




 結局、いつも通り8時頃、皆が解散するまで抜け出せず、ロージアにいてしまった是結。

(まだ、面会させてくれるか……? )

 足早にロージア店内を通過しようとしたところ、

「是結君」

今度は、曽根に呼び止められた。

「どうしたんだい? そんなに急いで」

「あ、僕、舘先生がお怪我をされたの知らなくて、お見舞いに行きたいんですけど、まだ面会時間、大丈夫ですかね? 」

 曽根は壁の時計を見、

「ああ、確か夜8時までだったね」

 是結も時計を見れば、丁度8時になったところだった。

(間に合わなかったか……。…それならそれで、忍び込むだけだけど……)

「でも」

曽根は意味ありげにニヤッと笑う。

「身内なら構わないんじゃないかい? 」

(身内って……)

「僕、身内じゃ……」

(それに、病院は、そういうとこ厳しいから、身内でも駄目なんじゃ……? ) 

「身内みたいなものだろう? 杏奈ちゃんといい仲なんだし、それに、この間、舘が言ってたよ。是結君みたいな息子が欲しいって」

(いい仲……? )

 是結は初め、曽根が何を言っているのか分からなかったが、ハッと思い出す。

(そうか、そう言えば、この間、あの娘と百貨店にいる時に、この人とたまたま会ったっけ……。で、その時にも軽く冷やかされたよな)

「本当に、君たちはお似合いだね。この間、杏奈ちゃんのほうから声を掛けてくれなかったら、僕のほうからは声なんて掛けれなかったと思うよ。何ていうか、こう、他人の入り込めない空気を醸し出していると言うか……」

そこまでで一旦、言葉を切り、曽根は、フッと遠い目になる。

「しかも父親公認なんて、羨ましいよ……」

 全く興味の無いことだが、曽根のその態度に、話を聞いてほしい空気を感じ取り、礼儀に近い感覚で、是結、一応聞いてみる。

「何か、あったんですか? 」

「聞きたいかい? 」

 自分から聞いてみたものの、長くなりそうな気配を察知し、そうでなくても地下で余分に時間を沢山使ってしまって、その上それは困るため、

「いえ、結構です」

バッサリと切る是結。

 その是結の態度がどこか面白かったのか、笑い出す曽根。

 静かに、しかし、腹の筋肉が痙攣を起こすほどだったらしく、腹を抱えて……。

 一頻り笑ってから、笑い過ぎて目に滲んだ涙を指で拭いつつ、

「つれないなあ……」

 そして一呼吸。

「…まあ、いいや……」

これまでの笑いを消化し、新たに穏やかな笑みを作って、

「是結君。いい匂いがしてきただろう? 」

「え? あ、はい」

 唐突だったため、是結は上手く反応できなかった。

 曽根は背後のオーブンを視線で示しながら、

「舘の好物のケーキを焼いてるんだ。洋酒をたっぷり使った大人の味のやつさ。もうすぐ焼けるから、舘のところへ行くなら持ってってくれるかい? 一晩置くとしっとりして美味しくなるから、明日の昼間に見舞いに行く時に届けようかと思っていたんだけど、焼きたても、それとはまた違った美味しさがあってね。焼きたては舘も食べたことがないから、せっかくだから食べさせたいんだ」

(…もう面会時間は過ぎてんのに……。『身内なら構わない』前提だな……)

 しかし、断るのを面倒に思った是結、

「わかりました」

 一晩置くと美味しいと言っていたし、とりあえず病院に行ってみて、面会させてもらえれば、それでいいし、面会させてもらえなかったら自分が忍び込むだけ忍び込んで、渡すのは、「昨日は面会時間に間に合わなかった」と説明した上で明日でいいか、と。




 父親公認を曽根が羨ましいと思うに至った理由である昔話を結局聞かされながら、ケーキが焼けるのを待ち、それを曽根が紙で包むのを待って、片手のひらに載るほどの大きさのそれを手に是結がロージアを出たのは、薔薇の団の団員の中では結果的に最後だった。

 雪は、ロージア内に入る時より強くなっており、足下に2センチメートルほど積もっていた。

 焼きたてを食べさせたいのだから、少しでも温かい状態で届けられるほうがよいだろうと、是結は、黒鞄の中に何とかケーキを入れられるスペースを作り、仕舞った。

 それから外套を着、帽子を被って、自転車に乗っては滑りそうなため、押して、病院へと向かう。



               *  *  *



 角をもう1つ曲がれば病院に到着というところで、

(っ! )

是結は、角の向こうから、ヒャーという悲鳴を聞き取った。

 聞き覚えのある声。

 是結は急いで角を曲がった。

 すると、病院の門の前、雪の上に膝をついている静子と、転がっている人力車の車夫。

 悲鳴は静子のものだった。

「どうされたんですかっ? 」

 自転車を病院の塀にたて掛け、是結は静子に駆け寄る。

「…お嬢様が……! お嬢様が……っ! 」

 是結に縋りつく静子。

 聞けば、舘を見舞った後、人力車を呼んで自宅へ帰ろうとしていたところを、十数名の男に囲まれ、車夫は気絶させられて、自分は人力車から放り出され、人力車ごと、杏奈を連れ去られたのだと言う。

「あれは確か、旦那様の薔薇の団の人たちです……! お嬢様を返して欲しければ、ピンと引き換えとか何とか……! 」

 薔薇の団の人間で、ピンと引き換えという静子の言葉、十数名という人数……。

 是結には、中川一派の仕業以外ありえないと思えた。

 雪に、人力車のものらしい新しい轍が残っている。

 おそらく、杏奈を乗せた人力車のものだ。

 これが雪で消されてしまう前に追わなければ、と、焦る是結だが、気絶している車夫はもちろん、腰が抜けているようで自分で立てない様子の静子も、雪の中、放っておくわけにはいかず、

「静子さん、とりあえず病院の中へ」

言って、静子を肩に担ごうとする。

 それを静子は、首を横に振り、

「私と、この車夫の方のことは、私が何とかしますから、早くお嬢様を……! 早く、お願いします! 早く……! 」

泣きそうになりながら懇願。

 それに押されるようにして、是結は静子と車夫をそのままにし、自転車に跨った。

 相手は過激な中川一派と思われる。

 運動神経の良い自分が自転車で滑って転んだ時の危険よりも、自分の足で走って向かったために助けるのが遅くなることの危険のほうが高いと判断したためだ。

 轍は海の方向へと、ずっと続いている。

 どうしようもなく気持ちが焦り、胸が苦しい。




 轍を辿り、是結は、港に無数に立ち並ぶ倉庫のうち1つの前に到着した。

 入口の戸をそっと細く開けてみると、そこにいたのは案の定、中川一派の面々だった。

 彼らも到着したばかりらしく、自分の頭や体についた雪を払っている最中。

 人力車ごと倉庫内に連れ込まれた杏奈は、まだ人力車の上だ。…位置的に、是結のところからは、ちゃんとは見えないが、長い髪の一部と少女のものらしい白く華奢な手が見えるため、恐らく……。

(…舘先生を襲ったのも多分、いや、間違いなく……)

 昨日、舘を襲ってピンを手に入れようとしたものの上手くいかず、杏奈を誘拐したのだ。

(これじゃあ、ピンを舘先生から盗んで始末したところで……)

是結は頭を抱えた。

 ピンを始末するだけでは、既に存在しないピンを求めて、中川一派が舘親子に何をするか分からない。

 是結は、舘親子を護りたかった。

 そもそも、ピンを盗もうとしているのだって、親子を護るためだけなのだ。

 任務的には、加賀に一言、通信機ででも、「爆弾製造の事実有り。既に完成」と、伝えるだけで充分なのだから……。

(…どうすればいい……? どうすれば、舘親子を救える……? )

 ロージア壱号を無力化できて、舘親子の身の安全も確保できる方法……。

 是結は考え、そして、思いついた。

(…これしか、無いか……)


 舘親子を救うため、まず、今、やるべきは、中川一派に自分が是結であると知られずに杏奈を奪還すること。

 中川一派の態勢が全く整っていない今が好機だ。

 是結は一旦帽子を取り、髪をクシャクシャッとやって七三分けを崩してからまた被り、伊達眼鏡を外して、代わりに、

(…まさか、本当に使うことになるとはな……)

黒鞄の中から舞踏会用の黒い仮面を出して身につける。

(入れた奴もビックリだろうな……)

 それから、拳銃も取り出して手に持ち、催眠ガスがすぐ出せるよう黒鞄を操作しておいた。 

 と、覗いていた視線の先、人力車の陰から杏奈が飛び出す。

 やはり杏奈は、まだ人力車に乗っていたのだ。

 すぐ次の瞬間、

(! )

中川一派の1人が、杏奈に追い縋って、ドンッと突き飛ばすように乱暴に人力車の座席に戻した。

 是結の鼻の奥と言おうか眼の奥と言おうか、あるいはこめかみの内側と言おうか、その辺りが、カアッと熱くなった。

 一瞬、何も考えられなくなり、戸に拳銃を持つほうの手を掛けて、中に飛び込むべく大きく開こうとする是結。

 直前でハッとし、踏みとどまった。

(何やってんだ、オレは……。らしくないな……)

 一度、戸から手を放し、深呼吸。

 そしてあらためて戸に手を掛け、バンッと勢いよく開けて、同時、黒鞄を持つ手の人指し指だけを伸ばして右釦を押し、催眠ガスを噴出させる。

 シュワーッと、かなりの勢いで噴き出るガス。

 モクモクと空中に充満し、視界をかすませるほどだ。

 これは是結も考えていなかったほどの量。

(吸い込まないようにしなきゃな……)

 気をつけつつ拳銃を片手で構え、倉庫の中へと一歩、踏み出す是結。

 倉庫内がザワつき、中川一派の視線が是結に集中する。

 杏奈も人力車の陰から覗き、

「…あなたは……! 」

是結の正体に気づいたらしく、声を上げた。

 是結は杏奈向けに、拳銃を持つ手の人指し指を立てて唇に当てて見せて黙らせてから、また一歩、歩を進める。

「貴様! 何者だっ! 」

 気色ばんだ一派の面々が集まって来た。

(何者……)

 何と答えようかと、是結は一派を銃で牽制しつつ、ちょっとだけ考え、渋めの声を意識し、軽く気取って、

「オレの名はジゴマ。怪盗ジゴマ。お前たちの盗んだ少女を盗み返しに来た」

 一昨年輸入されて大当たりしたフランスの活動写真、ジゴマ。模倣犯が続出したなどの理由で昨年10月に上映禁止となり、実は是結は観ずに終わったのだが、その主人公の名を借りてみた。

「ふざけやがって! 」

 余計に怒り出す一派の面々。

 ある者はたまたま足下にあった角材を手に持って振りかざし、帯刀していた者は抜刀し、何も無い者は拳を握り、是結に向かって来た。

 是結は、各人の自分に到達する順番と時間の差を見極めるべく、面々を見据え、身構える。

 直後、バタン。

 バタバタバタ……。

 一派の面々は次々と倒れていき、やがて、全員が倒れて眠った。

 催眠ガスが効いたようだ。

(…やれやれ、やっと効いたか……)

 是結は大きな溜息。

(モクモクと見た目が凄いわりに遅っせーよ……)


 拳銃を黒鞄に仕舞い、是結は人力車のほうへ。

 2人乗りの人力車の広めの座席に、顔だけ少し横に向けてうつ伏せで眠る杏奈。

 こんな騒ぎの中、その寝顔は安らかで美しく、是結の心もフゥッと和む。

 是結は暫し、その寝顔を眺めた。

 催眠ガスの効果が如何ほどのものか分からず、中川一派の面々がいつ起き上がってくるか知れないため、出来るだけ早く杏奈を連れて逃げなければならないのだが、今日の昼間に屋根裏から見た杏奈の様子を思い出し、抱き上げるなどすることで、この穏やかな眠りを邪魔してしまうことになるかも知れない、寝かせておいてやりたい、と、躊躇ったのだ。

 その時、

「…是結、さん……」

杏奈が姿勢はそのままに口を開いた。

 是結は、特に触ったりなど刺激を与えていないのに、もう起きたのかと、ドキッとし、咄嗟に、転がっている一派のほうを確認する。

 一派の面々も、もう起きるのではないかと。

 しかし、目を覚ました様子の者はおらず、ホッとして、だが急がねばと、是結は杏奈に視線を戻した。

 その視線の先で、杏奈は、先ほどと変わらぬ安らかな寝顔。静かに、だが寝息までたてている。

(…寝言か……)




 雪は、是結が杏奈を背負って倉庫を出た時には既にやみ、空には大きな月が出ていた。

 真新しい雪を踏みしめながら、片腕で背中の杏奈を支え、もう片方の手で自転車を操り、舘の入院している病院へと歩く是結。

 胸には、ひとつの決意。

 月光が、積もった白銀に反射して、街灯など要らない感じだ。

(このまま……)

時が止まればいいのに、と、是結は思った。

 杏奈の香りに包まれ、背中にその温もりを感じて……。



              *  *  *



 もう少しで病院に到着するという頃になって、是結の背の杏奈はムクッと頭を持ち上げた。

 そして、

「えっ? あっ、嘘っ! ごめんなさいっ! 」

背負われていることに気づいたようで、軽く暴れて背から下りる。

 途端、まだ催眠ガスの効き目が残っていたのか、膝がカクンとなって崩れそうになり、

(! )

是結が咄嗟に受け止めた。

「大丈夫か? 」

 是結の問いに、杏奈は、

「あ、は、はいっ、ごめんなさいっ! 」

薄暗い中でも分かるほどにハッキリと顔を赤らめ、慌てた様子で是結の腕から身を起こす。

 が、また、カクン。再度是結が受け止める。

 申し訳なさそうな様子の杏奈。

 是結は、

(可愛いなあ……)

それを愛しく見つめた。

 足下がおぼつかず歩くのは大変そうに見えたため、是結は、また杏奈を背負おうとするが、重いだろうし申し訳ないからと断られ、肩を貸して歩いた。

(重くないし、別に、申し訳なくも無いんだけどなあ……) 




 病院に着くと、門の前に静子と車夫の姿は無かった。

 ちゃんと病院内に入れたかどうかと心配しつつ、是結は杏奈と共に病院の中へ。

 催眠ガスの効果は、ほぼ切れたようで、杏奈は、ゆっくりだが是結に支えられることなく歩く。

 舘の病室のある2階へ行くべく階段へと歩く途中、夜なのに煌々と明かりのついた処置室の前を通り過ぎざま、何の気無く中を覘くと、診察台の上に車夫が横になり、医師の手当を受けていた。

(…良かった……)

是結はホッとする。

(じゃあ、きっと、静子さんも、どこか別の部屋で休ませてもらってるか、それか、静子さんは元気だったから、舘先生の部屋にいるか、だな……)


 階段を上り、廊下を進んで突き当たりが舘の病室。

 杏奈が入口の戸を、ゆっくり3回叩いて先に立って入り、是結が続く。

 と、

「まあまあまあまあまあまあ! お嬢様っ! 」

静子が2メートル近く離れた舘のベッドの脇からふっ飛んで来、ギュムッと杏奈を抱きしめた。

 その目には、うっすらと涙。

 一方、ベッドの上で勢いよく半身起き上がった舘は、途端、顔を歪めて再びベッドに沈んだ。傷に響いたのだろう。

 そんな舘に、

「まあ! 旦那様っ! 」

静子は杏奈を離して駆け寄る。

 その静子に対して、舘は、大丈夫、といったように小さく手を上げ手のひらを見せてから、つい数秒前のようにならないよう見るからに意識してゆっくりと起き上がり、ベッドの上から、杏奈に向けて両腕を広げた。

「…お父様っ……! 」

杏奈は涙声で呟き、舘に向かって、タッと駆け出す。もうすっかり、催眠ガスは抜けたようだ。

 そうして舘の胸に飛び込み、頬をその厚い胸に寄せる。

 舘のほうも、杏奈が傷に触れてしまったのか、一度、ウッとなってしまってから、杏奈を包み込み、その髪に鼻先を埋めて杏奈を呼吸した。

 年頃の娘とその娘を持つ父親らしからぬ行動。だが、とても舘親子らしい。

 是結は微笑ましく、しかし少しの羨望を持って親子を眺めた。

 羨望……是結が密かに想いを寄せる杏奈を堂々と抱きしめられる舘に? いや、どちらかと言えば、舘のような尊敬出来る父を持つ杏奈に対して……。

 ややして、舘は杏奈を離し、真っ直ぐに是結を見つめて、

「是結君! ありがとう! 何と礼を言ってよいか……! 」

涙ぐみ、いつもの熱い調子で言う。

 その隣で、杏奈もペコリと頭を下げた。

 それを、

「いえ、礼など……」

是結は小さく儀礼的に笑んでかわした。

 心に余裕が無いため、そのような態度になった。

 是結には、舘に伝えなければならないことがある。

 それは、舘親子を救うため、どうしても必要なこと……舘に、自分の正体を明かさなければならない。

 正体など明かせば、その瞬間に舘親子との関係は終わりを迎える。

 是結はずっと、舘親子を欺き続けてきた。舘親子にしてみれば、それは立派な裏切り行為であり、これまで目を掛けてくれていた分、酷く傷つけることは避けられず、到底許されるものではない。

(いや、別に、どうしても必要、ってわけじゃないか……)

 そう、どうしても必要なのは、ピンを手に入れること。その手段は、当初の考えどおり、盗むのでも構わない。そのために自分の正体を明かすことなど不要だ。

 全ては、是結の気持ちの問題。

 舘親子を欺いたままになるのが嫌だった。

 嫌われても、この2人には、最期ぐらい本当の自分として向き合いたかった。

 最期ぐらい……。そう、最期。

 先程、是結が思いついた、舘親子を救える「これしかない」方法。それは、他に被害が出ないよう団長室の正方形の下の空間で、中川と中川一派を巻き込み、ロージア壱号を爆発させるというもの。そうすれば、爆弾製造の証拠は残らず、爆弾そのものも無くなる。そして、中川と中川一派もいなくなるため、今後、舘親子に危害が及ぶことも無い。唯一の欠点と言えば、自分も死んでしまうことだ。

(まあ、これだけの条件が揃ってんだ。贅沢は言えないよな……。けど、だからせめて、本当の自分として……)

 だから、伝えようと、正体を明かそうと、杏奈を救出した後、病院に向かって歩き出した時には、決意していた。……はずだった。

 だが、いざ舘親子を目の前にしたら、迷いが出てきた。理由は大まかに分けて2つ。1つは、舘親子との関係が終わることへの名残惜しさ。もう会うことが無くとも、永遠にその温もりを、たとえ偽りでも、大切に胸に抱いているのも悪くないと思いはじめた。もう1つは、舘親子を傷つけてしまうことへの抵抗感。最期くらい本当の自分として、など、完全に自分の我儘なのに、それで舘親子を傷つけてよいのか、と。知らないなら知らないままで済むのに、傷つけない方法もあるのに、救いたいと望みながら自ら傷つけるのは違うのではないか、と。

 そこへ、

「ところで、静子さんから聞いたんだが、杏奈を連れ去ったのは薔薇の団の者だったと……。そうだったか? 」

舘が難しい表情になって口を開いた。

 迷い、悩んでいた是結は、舘が話し始めたことで自分の責任でなく決断が先延ばしにされ、内心ホッとしてしまいつつ、

「はい。中川一派の方々でした」

「…中川か……」

舘は、片手で両目を覆い俯き、小さく首を横に振りながら深い溜息。

「俺のせいだな……。俺が、中川たちの努力を踏みにじるような真似をしたから……。中川たちに申し訳なかったのももちろんだが、そのために杏奈を危険な目に遭わせ、是結君にも迷惑をかけた……」

 両目を覆っていた手が、力なく重力にまかせて下ろされる。そうして露になった瞳は、自己嫌悪に満ちていた。

(…この人は……)

本当に真っ直ぐで、優しい人だな、と是結は思った。そして、自分には厳しい。

 大体、是結は自らの意思で杏奈を助けに行ったのだ。舘から迷惑などかけられてはいない。むしろ、舘親子の役に立てて嬉しかった。それに、他人との意見の相違も、自分自身の考え方が時間の経過とともに変わっていくことも、仕方のないことで、舘が悪いわけではない。

 是結がそう言うと、舘、明らかに作った笑みで、

「そう言ってもらえると、気持ちが楽になるよ」

 沈黙が流れる。いよいよ決断の時であると、是結は心を引き締める。後悔の無いように、よく考えろ、と。

 だが、心のどこかで、まだ、決断を先延ばし出来る何かを求めていた。

(…この期に及んで、オレは……)

そんな自分を、情けなく思う是結。

 しかし、求めるまでもなく、

(あ)

是結は思い出した。曽根から託されたケーキのことを。

(まずいまずい)

完全に忘れていたそれを、是結は黒鞄から取り出し、

「舘先生、これを」

舘に手渡した。

 もう長い時間が経ってしまったため、すっかり冷めてしまっていたが、包みの上から持った感じでは、鞄の中で揺られ続けたために崩れてしまったなどの様子は無く、忘れていて全く意識していなかっただけに取り出す瞬間には心配したが、ホッとする。

 ケーキの包みを受け取り、舘は、開けてみなくても中身が分かったようで、

「お茶にしよう」

言って、包みを静子に渡して、

「4つに切ってきてくれ」

「私も頂けるのですか? 」

今、この場にいるのは4人。それで4つに切ってこいということは、と、驚いたふうを装う静子。

 しかし、本当に驚いている感じではない。おそらく舘家では、家政婦もお茶を共にすることが珍しくないのだろう。

 そんな些細なところからも舘親子らしさを感じ、微笑ましさに笑みが零れるのを禁じ得ない是結。

 静子は、お茶の用意のため給湯室へと、病室を出て行った。

 静子を何の気なく見送る是結。同じく見送っていた杏奈より先に見送るのをやめ、視線は自然と杏奈へ向く。

 その時、杏奈が突然、バッと、特に何も無いはずの杏奈自身の背後の壁を振り返った。

(? )

つられて見る是結。だが、やはり何も無い。

 杏奈は眉間にシワを寄せ、

「何の音? 」

(音? )

 音は当然、色々と聞こえるが、眉間にシワを寄せなければならないようなものは聞こえない。

 舘を、父親を襲った者の正体は分かったも同然だが、その分かったきっかけが、自分が誘拐されたため、など、余計に、色々な音や気配に敏感になって当たり前。

(…そうか……! )

是結は気づいた。自分の正体を明かすことは、完全に自分のためなどではなく、舘や杏奈のためにもなると。

 それは、正体を明かさなかった場合と比べての、絶対的な安心感の違い。

 どちらにしても救われることに変わりはなくとも、自分の本当の立場であれば、正体を明かした上で安全を約束することで、安心を与えることが出来る、と。

 是結は決断した。

 小さく息を吸って吐き、気持ちを落ち着けてから口を開く。

「舘先生。実は、先生にお話ししなければならないことがあるんです」

「ん? 何だ」

 誠実な態度で是結の次の語を待つ舘に、是結は背広の胸ポケットから情報局の身分証明書を出し、見せる。

「…帝都情報局特殊諜報員、是結翻人……」

舘は声に出して読み、驚いた様子で表情を険しくし、是結を見た。

 そんな舘に、是結、

「薔薇の団が爆弾を製造しているという情報を掴み、その事実確認目的の潜入捜査のため、舘先生に近づきました。すみません」

頭を一度、深く下げてから上げ、

「しかし、先生に爆弾を使用する意思が無く、この先は製造を許可されることが無いと思われる以上、僕は、薔薇の団で爆弾の製造が行われていたことを、上に報告するつもりはありません。僕はただ、先生と杏奈さんをお護りしたい。僕を信じて、ロージア壱号のピンを預けていただけませんか? 預けていただけるなら、お2人の安全をお約束いたします」

真っ直ぐに舘を見つめて答えを待つ。

 その視線を静かに受け止める舘。

 病室内に、重い沈黙が流れる。

 ややして、舘は小さくひとつ、息を吐き、

「今日の是結君は、いつもと随分、雰囲気が違うが、何だか、このほうが、しっくりくるなあ! 」

おおらかに笑った。それから、枕の下をゴソゴソと探り、何やら掴んだらしく握った手を、是結の前に突き出した。

 条件反射で、その手の下に自分の手のひらを上に向けて出す是結。

舘が握った手を解くと、そこから、ロージア壱号のピンが落ちてきた。

「先生……」

呟く是結。

 舘は無言で静かに、しかし力強く頷いてから、

「だが、俺たち親子のために君が危険を冒すようなことは、ないようにしてくれよ! 」

「はい、ありがとうございます」

是結は強く強くピンを握りしめた。




 もうすぐ茶の用意ができるのだから茶ぐらい飲んでから行くよう舘は言ったが、是結は、それを遠慮し、ピンを受け取って早々に病室を出た。

 是結には、舘親子の作り出す空気は温か過ぎるのだ。茶など一緒に飲んでいては、気持ちが揺らぐ。

 ずっと、舘や杏奈の傍で生きていたくなる。

 だが、それでは舘親子を護れない。

 ロージア壱号を爆発させる、あの方法しか、きちんと護りきれる方法は無いのだ。


 夜の病院の冷たい廊下を、玄関へと歩く是結。

 と、背後から、

「是結さん! 」

杏奈の声。 

 振り返ると、杏奈が息を弾ませながら駆け寄って来、

「あのっ」

息を整えてから頭のリボンを解き、是結に差し出した。それは、最初に会った時、是結の腕を止血したものと同じ、赤いリボン。

「私、本当は是結さんについて行きたいのですけど、是結さんは駄目とおっしゃるでしょうから、これを、私の代わりに連れてってください」

 杏奈は考えすぎの部分もあるが勘が良いと、初めて出会った時に是結が怖い顔で杏奈を追い払おうとした真意や、加賀への贈り物を買いに行った際「贈り物……。どなたへですか? 」との杏奈からの質問の後の一瞬の間の機微に気付いたらしいことなど、これまでのことで、是結は思う。

 その勘の良さで、是結がこの後、何をしようとしているのか、もちろんちゃんとは分からなくとも、危険なことをしようとしているということぐらいは気付いたのだろう。

 杏奈の一生懸命な様子があまりに愛しくて、気持ちが揺らぐのを感じた。もっと、ずっと一緒にいたいと願ってしまった。

 頭では分かっている。愛しいならば、大切で護りたいならばなおさら……。

「ありがとう」

自分の弱い心と戦いながら言って、是結は受け取る。

 杏奈は真っ直ぐな瞳で続けた。

「次に会った時に返して下さいね」

 是結はあいまいに笑って応える。


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