第1話 潜入、薔薇の団!
「クソ! 見失ったかっ! 」
「あの野郎、どこへ行きやがった! 」
「次に見つけたら確実に仕留めねえとな! 」
男たちの乱暴な会話。荒い足音。
是結は咄嗟に飛び込んだ路地の入口すぐの所に置かれた大きなゴミ箱の裏に寄り掛かり、耳だけで、自分を追ってきた男たちの様子を探ろうとする。
大量の出血のためか、視界はぼやけ、少しでも出血を抑えようと左二の腕の傷を右手のひらで直接圧迫しようとするも、全く力が入らない。
手だけではない。全身、もうどこにも力が入らず、1ミリメートルも動ける状態ではない。追っ手の男たちの動きについて、振り返ってゴミ箱の陰から目で確認出来たら、それが一番良いに決まっているのだが、当然無理。聴覚に頼るしかないのだ。
その聴覚も、どうなのだろう? 男たちの声や男たちのものと思しき足音が、遠くのように聞こえるが、本当に遠くなのだろうか?
と、その時、
「あ、リボンが……! すみません、止めて下さい! 」
是結が入って来たのとは反対側の路地入口、今、是結がぼやけて歪んだ視線を向けている方向から、よく通る少女の声。
男たちの声より、かなり近い。だが高音のため通るから近くに聞こえるのか、実際に近いのか、やはり自信が無い。
その少女の声とほぼ同時、路地にブワッと強めの風が吹き込んだ。
突然、
(! )
是結の目の前を赤い物体が塞いだ。強風に乗って是結目掛けて飛んできたのだ。
動けない是結にはどうすることも出来ず、これから自分の身を襲うであろう痛みを覚悟する。
(いや、「痛い」で済めばいいけど……)
しかし、
(っ? )
直後に顔面を直撃したそれは、一旦、完全に是結の視界を奪っただけで、全く痛くなかった。そして、風が通り過ぎた途端、スルッと膝の上に落ちる。
(……リボン? )
それの正体は、幅5センチメートル、長さ50センチメートルほどの赤いリボンだった。
是結は、半分安堵、半分は情けない気持ちで溜息を吐く。
(…何をリボンなんか怖がってるんだ……)
と、安心しかけたのも束の間、正面の路地入口に人影が見えた。
ギクリとする是結。
人影は、ゆっくりゆっくりと近づいてくる。
(…ここまでか……! )
是結は歯噛みした。
死ぬのは……まあ、いい。運命だ。だが、せっかく掴んだ情報を、まだ伝えていない。
しかし、人影が何者か霞む目でもハッキリと見える距離まで来たところで、是結はいっきに力が抜ける。
矢絣の小袖に行燈袴、黒い革製の編み上げのブーツ……女学生だ。
茶色がかった黒髪と意志の強そうな大きな目を持つ、肌の色艶の良い健康的な美少女。
下げ髪には不可欠のリボンをしていないところを見ると、是結の膝の上のリボンの持ち主で間違いないだろう。
女学生は、恐る恐るといった足取りで前進を続けていたが、是結と目が合うと、ビクッとしたように固まった。
(…オレが怖いか……。まあ、そうだろうな。こんな所に座り込んで、怪しすぎる……)
が、直後、
「…お怪我を、されているのですか……? 」
女学生は気遣わしげに口を開いた。
是結は驚く。
(オレを怖がっていたわけじゃないのか……! )
そう、女学生は是結を怖がったのではなく、その酷い出血を伴った怪我に驚いて竦んだのだ。
と、遠くの背後から、バタバタという足音と男たちの声。
女学生の視線が、ハッと是結より向こうに移動する。
それからすぐに自分もゴミ箱の陰にしゃがんで身を隠すようにしてから、小声で、
「追われているのですか? 」
是結の耳には男たちが遠くにいるように聞こえたが、女学生の反応から察するに、その距離は非常に近い。
(いけない。危険だ……! )
自分のことではない。自分も、もちろん1人でいるより女学生が傍にいると目立ってしまって見つかりやすくなる危険があるが、それより、全く無関係の女学生を巻き込むわけにはいかない。
男たちとの距離が近いのであれば、なおさら、早くここから離れてもらわなくては……。
是結は女学生に向けて口を開こうとするも、声が出ない。
気ばかりが焦る是結。
と、女学生がいきなり是結の腕を掴んだ。
(何をっ? )
是結は驚く。
女学生は、掴んだ是結の腕を肩の上に担ごうとしつつ、
「すぐそこに人力車を待たせてあります。2人乗れますので、病院へお送りいたします。大丈夫、私の知り合いの病院ですので、私がお願いすれば、あなたがその病院にいることを、あなたを追っている方々には内緒にしてもらえます」
(いや、でも……)
今は、立ち上がるのは危険性が高い。男たちに見つかってしまう。
自分と一緒にいるところを見られれば、この女学生だって、ただでは済まない。
それだけは絶対に駄目だ。関係の無い人を巻き込むことだけは、避けなければならない。
……出ない声が、動かない体が、もどかしい。
しかし、何とかしなければと、是結は全身の力を最後の1滴まで絞り出すようにして、何とか膝の上のリボンを手に取り、女学生の顔の前へ持っていき、
「…君の、だろう……? 」
やっとの思いで言葉を紡ぐ。
「あ、はい」
女学生はリボンを受け取り、
「これを拾うために、ここへ来ました。そうしたら、あながが血を流して……」
「だったら」
是結は、女学生の言葉をわざと途中で遮り、
「もう行け……」
女学生は驚いた様子で首を横に振る。
「あなたを置いて、ですか? 駄目です。死んでしまいま……」
「行け……っ! 」
是結は、またわざと遮り、女学生の目を真っ直ぐ睨んだ。
女学生は、一度、ビクッ。それから小さく息を吐き、
「分かりました」
是結からたった今受け取ったばかりのリボンで、手早く是結の左腕のつけ根を縛って止血し、
「どうかご無事で。幸運をお祈りいたします」
立ち上がり、会釈をしてから是結に背を向け、時々振り返りながら、来た所を戻って行く。
是結は胸が痛んだ。見ず知らずの自分にせっかく親切に手を差し伸べようとしてくれた女学生を傷つけてしまったであろうことを思って。
だが、これで良かったのだと心の底から思えていた。あの女学生を、絶対に巻き込みたくなかったから……。
ただ無関係だからという理由だけではなく、そう思った。
女学生の姿を見えなくなるまで見届け、是結はひとつ、長く息を吐く。
意識がスウッと遠のき……かけた直後、
「見つけたぞ! 」
背後から男の声。
是結は、ハッと引き戻された。
「今度こそ逃がすな! 」
「よし! 囲め! 」
複数の声、複数の足音。
囲まれた直後、是結の目の前は真っ暗になった。
(……? )
是結は目を覚ました。
目の前には、見慣れた天井。
(ここは……)
自宅の布団の中だ。
(夢、か……)
心の中で呟きながら、是結は起き上がる。
夢、と言っても、怪我をしながら追っ手から逃げて路地に入って隠れた、これは、3ヵ月ほど前の実際の出来事。
ただし、最後のほうが違う。
現実には、追っ手に見つかることはなく、女学生と別れた後に是結を見つけたのは、是結の職場の上司だった。
上司の手で運ばれた病院で、止血がもう少し遅かったら生命が危なかったと聞かされた。
あの女学生に救われたのだ。
是結は、洗濯をしてきちんとシワを伸ばし畳んだ女学生のリボンを、枕元から手に取り、見つめた。
是結はそれを、いつかまた偶然にでも会えたら返そうと思い、睡眠中以外は常に肌身離さず持ち歩いている。
* * *
是結翻人、21歳。内務省の下部組織である、帝都情報局勤務の特殊諜報員で、諜報員名を、零零七号という。
是結は、黒の背広を身に纏い、その上に襟に毛皮のついた愛用の黒の外套を羽織って、頭には黒の中折れ帽、手には赤みがかった茶色の革製の手袋、と、寒さに対しての完全武装をし、よく晴れた1月の朝の冷たい空気を自転車で切り裂きながら、職場へ向かう。
議事堂に隣接している洋風石造3階建ての総合庁舎2階に、情報局はある。
盗難防止のために、自転車は庁舎裏手の、通りに面していない所に置き、正面入口を入って階段を上り、是結は情報局へ。
「おっはようございまーす」
局内に入り、是結が帽子と外套を脱いで壁際の定位置に掛けているところへ、
「零零七号」
ちょっと渋めの女性の声が掛かる。
「はいー」
とりあえず先に返事だけをして、帽子と外套をしっかり掛けてから是結が振り返ると、冷たく整った美貌の40代女性、情報局内紅一点にして局長の加賀ハルが、吸いかけの煙草を片手、もう片方の手で色素の薄いサラサラの長髪を邪魔くさそうにかき上げながら、長い脚を高々と組み、入口正面奥の加賀自身の席にドッカと深く腰掛けた状態で呼んでいた。
是結が振り返ったのを確認したように頷き、加賀は、煙草を灰皿に押し付けつつ立ち上がる。
そして、
「こっちへ」
右手人指し指を立て、クイクイッと招いて見せてから右手側へ歩き出し、そのすぐ先の打ち合わせ室の扉を入る。
「この男だ」
打ち合わせ室の椅子に腰掛けた是結に、加賀は胸ポケットから写真を出し、見せた。
目元が優しく人の良さそうな、40代前半と思われる1人の男性の写真。
「この男は、憲政擁護団体・薔薇の団の団長、舘努」
「薔薇の団? 」
「ああ、小さな無名の団体だが、なかなかどうして有能な者が揃っていてね、軽視できないんだよ。その薔薇の団が、非常に威力の強い爆弾を製造しているらしいとの情報が入ったんだ」
「爆弾……」
「そうだ。そこで君の任務なのだが、舘に取り入って薔薇の団の一員となり、組織内部から爆弾製造の事実の有無を探ってほしい。つまり、潜入捜査だ。彼らの潜窟はロージアという喫茶店の地下にあることが掴めているのだが、地下となると、外部からの捜査だけで済ますのは難しい。少なくとも建物内を自由に歩き回れる必要があるとの判断からだ。頼んだぞ」
「はい」
加賀は頷き返し、先ほどから是結の視界の隅にも入っていた黒い革の箱型の鞄を持って来、
「これを君に。色々と便利な機能のついた鞄だ。簡単に説明しよう。まず、持ち手の下。3つの釦と左右可動式の摘みがあるだろう? 鞄を開ける時には、摘みを中央に合わせ、この摘みは90度捻ることが出来るのだが、捻った状態で中央の釦を押すと開くようになっている。摘みを左に合わせて捻り左の釦を押すと、持ち手の左つけ根から催涙ガスが、同じ要領で右の操作をすると、今度は右つけ根から催眠ガスが噴出する仕組みになっている。次に中身だが」
言いながら、加賀は、是結にたった今説明した通りの手順で鞄を開け、
「まあ、中身については、見たままの物がほとんどだな。懐中電灯に地図、変装用の伊達眼鏡・整髪料・櫛、それから用意した者の遊び心だろうが、舞踏会など用の黒の仮面、非常食と水、拳銃。拳銃の使用には細心の注意を払ってくれ。……ああ、一点だけ、通信機。鞄の内部に唯一固定されている、中央に大きな釦のある箱型の機械がそうだが、これだけは説明が必要だろう。先ず、鞄の外側、持ち手のある面の左上角に小さな突起がある。これを引っぱると細い棒が出てくるから、それを最大に伸ばした状態で通信機は使用する。通信相手は、私が持つこととなった同型の通信機だ。電話のように音声での通信となる。君の側への着信は、突起先端の光の点滅によって知らせるから、点滅を確認したら速やかに突起を伸ばし、鞄を開いて機械中央の釦を押してくれ。そうすれば、私の側へとつながる。君からの発信は、先ず突起を伸ばした上で機械中央の釦を長押しだ」
鞄についての一通りの説明を終え、鞄を閉めて是結に渡しつつ、加賀、
「舘に接触するきっかけは、私のほうで用意しよう」
言って、顎を指で摘み、そうだな……と、ちょっと考える素振りを見せてから、
「局員の誰かに警察官に扮してもらい、1905年の日比谷焼打事件時の襲撃犯をかくまっている疑いででも連行させよう。そこを助けるといい」
「日比谷焼打事件……って、もう7年も前じゃないですか」
「まあ、そこは正直、把握しきれないほど大勢の犯人がいる事件ならば何でもいい。とにかく、そんな感じで頼む」
* * *
薔薇の団団長・舘努の勤め先である帝都大学の正門の見える、正門と右斜向かいの民家の塀の陰で、いつもの外套と中折れ帽を着用しない黒の背広姿、髪を七三分けに整え伊達眼鏡をかけて、と、軽い変装をし、加賀から渡された黒鞄を持った是結と、加賀の命により詰襟の制服にサーベルをはい行して警察官に扮した中年の情報局員2名が、正門を窺う。
「お、出て来た」
局員・鈴木が押し殺した声で言う。
舘努と思われる人物が正門から出て来たのだ。
思っていたよりもかなり大柄だったため、局員・山田が胸ポケットから舘の写真を取り出して、門を出て来た人物と、今一度しっかり見比べ、
「ん、間違いない」
確認する。
是結・山田・鈴木の隠れている前を通過する舘。
「よし、行こう」
山田の言葉に鈴木も頷き、2人揃って塀の陰から出て行こうとしたのを、
「あ、山田さん」
是結は急いで呼び止めた。
これから行う舘努への接触作戦について、その後に舘に取り入るのがより楽になる方法を、突然思いついたのだ。
その方法とは、
「舘を捕まえた後、門から見て左に歩いて行って下さい」
「左? 行き止まりじゃないか」
「ええ、そうです。その上で、僕が舘を連れて逃げる時、サーベルで軽く僕を傷つけてもらえますか? 」
舘を逃がすために怪我をしたほうが、恩を着せ易く、また、自分が味方であることを疑われにくくなる、と。
山田は途惑った様子。
「な、何を言っているんだ。そんなこと出来るわけないだろう。仲間を、故意に傷つけるなど! 」
「それに、警察官はサーベルの使用に際し厳しい制限があるはずだし」
と、鈴木も続いた。
尻込みする両名に、是結は、この後、順調に事を運ぶために、この2人の協力が絶対に必要と、説得を試みる。
「お2人は本物の警察官ではないので大丈夫ですよ。加賀局長にも、僕から説明します」
そこまで言って、
「あ」
このやり方なら、この両名でも何とかやってくれるのではと新たに思いつき、
「だったら、こうしましょう。サーベルを抜いて、ただ僕に向けて構えて下さい。動かなくて結構です。そうしていただけたら、僕が自分で勝手に傷をつくるので」
「いや、しかし……」
「……うん……」
顔を見合わせて渋る両名。
是結は、
「はい、では、そういうことで、よろしくお願いしまーすっ! 」
強引に話をまとまったことにし、両名の背を押して塀の陰から出した。
仕方ないといったふうに舘のほうへと歩いて行く両名。
その様子に、自分の望みを聞き入れてくれるつもりであると解釈した是結は、やれやれと小さく息を吐き、初めに隠れていた民家の隣家の塀に隠れる形になって、両名の背中を見守る。
舘に声を掛ける山田と鈴木。
振り返る舘。
是結は注意深く様子を窺う。
何の容疑か、などの説明をしていたのだろう、特に動きの無いまま数分が経過した後、山田と鈴木が、舘を両側から挟むようにして立って、その腕を掴み、来た道を戻る方向に歩き出す。
そして是結の隠れている前を通過したのが、是結の中だけでの勝手な合図。
是結は塀の陰を出、早歩きで山田・鈴木・舘の背中を追った。
追いつき、山田と舘の間を体ごとぶつかってこじ開け、同時、舘の手を取って、
「こっちへ! 」
そのまま正面方向へ走る。
走りながら、後ろをチラッと確認し、
(っ? )
是結は軽くビクッ。
山田・鈴木の両名とも、抜いたサーベルを頭上に構え、目は完全に据わり……。これが演技なら、名俳優だ。
今、この距離でサーベルを振り下ろそうものなら、その切っ先は確実に是結に届く。
(…これ、今、振り下ろされたら……)
などと、是結が仮定している間に、
(! )
両名は本当に振り下ろしてきた。
(……あれだけ渋っていたのに)
舘を庇いつつ、皮一枚で避ける是結。
(…こいつら、本気……? )
鈴木は振り下ろした勢い余って体勢を崩し、よろけたが、山田のほうは刃を返し、薙ぎ払ってきた。
それを、今度は突然ではないため余裕でかわす是結。
(何か、怒ってる……? )
そうかも知れないと思った。彼らにしてみれば、多分、自分は生意気だろうから、と。
まあ、これならこれで迫力が出て本当っぽくてよいと、是結は思う。
山田が再び、是結を斬れる向きに刃を返す。
鈴木も体勢を立て直し、上段の構え。
その時、
(っ! )
舘が何かに躓いたのか、転ぶ。
一瞬そちらに気を取られた是結。
それを好機と思ったのか、山田と鈴木は、一斉に是結に斬りかかった。
(甘く見られたものだ……)
是結は小さく息を吐きつつ、鈴木の縦の攻撃を避け、山田のほうへ一歩踏み込んで、サーベルを持つ腕に黒鞄を押しつけ動きを封じる。そうしてから、
(…ああ、そうだ。忘れてた……)
思い出し、転んだままの舘から死角になっていることをちょっと見て確認後、完全に威力を殺した山田の刃に、わざと右腕を当て、傷をつくった。
是結の腕からパタパタパタと血が滴り、地面を濡らす。
血を見たことでか、固まる山田と鈴木。
その隙に、是結は舘に手を貸して立ち上がらせ、連れて逃げる。
わざと怪我をしようと思いついた時点で、是結は、はっきりと逃走経路を決めていた。
当初は、この段階では本当に舘との接触のみが目的であったため、逃走経路などは特に決めていなかったのだ。
是結の決めた逃走経路は、大学の門の前の道を門から見て左手へ進み、ぶつかる、長さ1・5メートルほどしかない橋……と呼べるものかどうか、幅1メートル弱の川の上を覆っている石で造られた丈夫な蓋の手前、民家の間を入り、流れる小川の脇に沿って続く30センチメートルくらいの幅のところを歩いて行く。
通常、そんな所を通る人などいない。いたとしても、子供が遊びで通るくらいだろう。それが証拠に、かなり低い位置に大きな蜘蛛の巣が張っている。
そこは、舘努が団長を務める薔薇の団の潜窟・喫茶ロージアへの近道。
午前中に大学及びロージア周辺の地理を下見に来た際に気づいたのだ。
小川の流れる民家の間を抜けて大学前の道路とは平行の道路に出、その道路を渡ったところの同じように小川の流れる民家の間を抜けて出た道路を左に少し行くと、もうロージアに着く。
怪我をした上でその経路を通れば、治療のためにロージアへ案内してもらえるのではと考えたのだ。
大学前の道は左に出ると行き止まりになってしまうため、大人、しかも大学教授などと社会的地位もある舘は、おそらく普段、ロージアに行くにしても他のところへ行くにしても、大学の門を右に出、間違っても小川の流れる民家の間など通らないだろう。是結がそこを入るように言うと、少しだが確かに抵抗感を覗かせた。
しかし、今は逃走中。是結が促すのに応じ、足を踏み入れた。
何となく不安げに、舘は是結の前を歩く。
そのまま進んで向こうの道路に出るよう是結の指示を受けて前を向いて歩きながら、舘、
「ありがとう。助かったよ」
舘が自分のほうを振り返ろうとしていることに気づき、是結は咄嗟にすぐ横の塀に右手をつき、まだ血の止まらない腕の傷を舘から見えやすいようにした。
舘が怪我に気づいていないように感じたため、気づいてもらう目的で。
実際に振り返ったところで、舘は、
「君! 」
驚いた様子。
「怪我をしているじゃないか! さっきの警察官との一件での怪我かっ? 」
やはり気づいていなかったらしい。
ちょっと気まずい感じをつくって頷く是結。
通ったことはなくても、ここがロージアへの近道であると知っていたのか、あるいは、方向などで気づいたのか、舘、
「もう少し歩けば、俺の知り合いが経営している喫茶店がある。そこで応急処置をしよう! 」
「ここが俺の知り合いの喫茶店だ」
舘が是結の怪我に気づいて以降、立場逆転。舘の案内でやって来たのは、床の高い小洒落た洋風の平屋の建物。
看板には、「ロージア」とある。
そう、薔薇の団の潜窟であるロージアだ。
下見で外からは見た、その建物に、是結は舘に言われるまま、足を踏み入れた。
言われるまま……だが、是結の思惑どおり。
舘が先に立って、店入口から仄暗い店内を奥へと進み、カウンター席の椅子を引いて是結を振り返って、
「ここへ」
座るようすすめた。
しかし是結は特に意味は無いが座らず、舘の声や存在を何だか遠くのように感じながら、ただ、周囲を見回す。
是結を見、見かけない子だな、と言うカウンター内の40代の男性店員に、舘、
「ああ、俺の恩人だよ。ついさっき、俺を助けるために怪我をしてしまったんだ」
と説明し、だから救急箱を貸してくれないか、と頼む。
そして、店員から救急箱を受け取りながら、今度は是結向けに、救急箱を渡してくれた店員を視線で示しつつ、
「彼が、俺の古くからの知り合いで、ここの店主の曽根だ」
言ってから、続いては店主・曽根に、また相手を移し、
「あと、コーヒーを2つ」
注文も済ませた。そこまでで、まだ座らないでいた是結に気づいたらしく、もう一度、座るようすすめた。
「あ、すみません」
ハッとし、急いで腰掛ける是結。
(…何だ……? 何か、ボーッとしてしまった……)
「こういう所は初めてか? 」
舘の問いに、是結、
「あ、は、はい。すみません……」
(…そうか、慣れない雰囲気に呑まれてしまっていたのか……)
舘は、フッと笑み、
「いや、大丈夫だ。年相応なところもあるのだと安心したよ」
(年相応? …まあ、年齢は外見で大体分かるだろうけど……。何か、オレ、この人に会ってからこれまで、年不相応なことしてた? …変わった人だな、会ったばかりで名前すら知らない奴相手に……)
舘は曽根から救急箱を受け取って蓋を開け、
「傷を」
是結の右手を取り、
「もう、血はほとんど止まっているな。それほど深い傷ではなかったようだ。これなら消毒くらいでいいな」
「あ、はい、ありがとうございます」
舘は実に手際よく、ピンセットで掴んだ綿を、消毒薬の瓶の中に一度浸してから出し、傷にチョンチョンと軽く押し当てるようにして消毒、その後、ガーゼを丁度いい大きさに切り、傷を覆い、その上から包帯を巻いて固定していく。
……そんなふうにしながら、舘は、口もしっかり動く。
「ここは大人の社交場だからな。君も成人はしているんだろうが、何と言うかこう、もっと経験を積んだ者たちの集まる場と言うか……。そう言えば、君は一体、何者だ? 会ったのは大学の前だったが、うちの学生ではないな? 何だか、ただ者ではない雰囲気があるのだが……? 」
そして上目遣いに窺われ、是結はドキリとする。
(怪しまれてる? )
動悸を抑え、
「僕は、是結翻人といいます。新聞記者です」
あらかじめ考えておいた偽りの職業を口にする。
そこまでで、ふと、是結は、あることに気づいた。
(どうしてオレは、このくらいで動揺などしている……? )
怪しまれたり疑われたりは、最初から作戦の中で起こりうる事態として想定している。この程度のことで動揺など、過去の作戦中にはなかった。
(…どうしたんだ、一体……)
と、そこでの、
「そうか。新聞記者か」
微笑ましげな舘の相槌。
(! )
是結は分かった気がした。
(そうか。オレはこの人が苦手なんだ……)
何故かは分からないが、どうも調子を狂わされる。
(きっと、この店内に入ったばかりの時にボーッとしてしまったのも、店の雰囲気に呑まれたのではなく……)
しかし、苦手だからどうと言っていられない。仕事をしなくては……。
是結は舘に気づかれないよう小さく小さく息を吐き、気持ちを落ち着かせた。
そして、
「先ほど、大学の前でお会いしたのは偶然ではありません。警察の方々が舘先生を捕まえると話しているのをたまたま聞いて、後をつけたんです。舘先生をお助けしたくて……。僕は、舘先生と先生の薔薇の団の『本当の民衆のための政治』という考え方に感銘を受けたんです」
「……そうか! 」
舘の声が微かに震えている。そして、その目には、うっすらと涙。
是結はビクッとする。
(…何だ? この人……。オレの言葉に感動したのか……? )
直後、舘が是結の両肩をガシッと掴んだ。
是結は、またビクッ。
舘は熱い目で是結の目の奥を真正面から覗き、
「君の政治に対する真剣な思い……それが君の年不相応な、ただ者でないとさえ思わせる独特の雰囲気につながっているのだな」
(…全く、怪しまれてない……? どころか、好感触? 突然すぎるけど、言ってみようか……)
「あの……。舘先生……」
是結はわざと遠慮がちな態度で口を開く。
「初めてお目にかかって、このような事を言うのは大変ぶしつけであると承知の上で、お願いが……」
そこまでで、あえて口ごもった感を出して言葉を切り、舘の出方を待った。
舘、是結の両肩を放し、
「うん? 何だ、言ってみなさい」
誠実な態度で是結を見つめる。
是結は一生懸命な感じをつくり、
「僕を、薔薇の団の一員にしてほしいんです。先生と薔薇の団のために働かせて下さい」
暫し沈黙が流れた。
舘の真っ直ぐな視線に晒され、いたたまれずに目を逸らしたいのを堪え、是結は見つめ返す。
ややして舘はフウッとひとつ、息を吐き、それから貫禄のある笑みを浮かべ、
「もちろんだとも、是結君! 歓迎しよう! 」
言って、握手を求めて手を差し出した。
応じて握る是結。
舘は更に強く握り返す。
「丁度、次代を担う君のような若者が必要と考えていたところだ」
(…何か、罠か……? )
あまりにもトントン拍子に事が運ぶので警戒してしまいながら、是結は、コーヒーを頂いた後、ロージア地下にある薔薇の団本部を案内してくれるという舘と共に、ロージア店内の最も奥、納戸内に仕舞われている様々な物の陰に隠れるようにして存在していた階段を下りて行く。
薔薇の団の潜窟の場所など、もちろん知っていた是結だが、その下り口の分かり辛さには感心し、せっかくなので、その素直な感情を利用して、
「本部って、こんな所にあったんですね。これは気づかない」
そうだろう、そうだろう、と、気を良くした様子の舘。
是結は続けて、こちらも本当に感心していた薔薇の団という名称の名付け感覚の良さについて口にする。
「ロージアって、フランス語で薔薇の茂みですよね? だから薔薇の団……素晴らしい名前のつけ方ですね」
すると舘、
「そういう意味だったのか! 」
驚いた。
「いや、薔薇の団の名付け親は、うちの副団長の中川という男でね。意味までは聞かされてなかったんだが、確かに、そう聞くと実に良い名だな! 中川は科学者で、俺と同じ大学で教鞭をとっている完全な理系君なんだが、そうか、こんな文系的な才能もあったんだな! そうかそうか! 」
明らかに心の底からの、中川という男性への称賛。
(…この人……)
やはり苦手だが、好きかも知れないと是結は思った。
舘は上機嫌で笑いながら是結の背をバンバンと叩き、
「君も博識だなあっ! 」
「あ、はあ……」
是結はほんの少し本気で照れた。
「お、噂をすれば……」
階段を下りきったところで、舘は足を止める。
そこは、階段を下りた正面に演壇、その上に演台と奥に黒板があり、演壇側を切れ目にコの字型に沢山の椅子や長机が並ぶ、議場のような開けた空間。
外からは分からなかったが、この階は半地下になっているらしく、下半分が地面の下になることで遮られ上半分からのみの夕方の赤みを帯びた太陽光が、是結と舘の背後、階段の奥にある窓から射しこんでいる。
舘の視線は、正面の演壇に立っている、20代後半くらいの青年に向けられていた。
青年は、コの字の両側の切れ目からそれぞれ6つ目の席までを埋めている計12名の男性たち相手に黒板に何やら難しいことを書いては男性たちを振り返って何やら難しいことを語り、また黒板を書いて……を繰り返している。
「今、演壇で話している彼が、副団長の中川。彼と彼を特に慕う彼ら12名は本当に勉強熱心でね。いつも感心しているんだ」
舘が是結向けに言った、その時、副団長・中川は是結と舘のほうを向き、瞬間、目を見開いて固まる。
しかし、すぐにハッと我に返った様子で、是結・舘のほうへと駆けて来た。
「中川、紹介するよ」
手のひらを顔の横の位置まで上げ、にこやかに軽く振る舘。
「俺を警察から助けてくれた恩人の、是……」
だが、是結・舘の目の前まで来た中川は、怖い顔をして乱暴に舘の手を掴むことで、その言葉を遮り、2メートルほど離れたところまで強引に引っぱって行った。
そして、丸聞こえだがおそらく小声のつもりで、
「またあなたは! どこの誰とも分からない人を連れ込んで! 連れて入る前に僕に相談して下さい! 」
「分からなくないよ。是結翻人君だ。新聞記者で、俺らの考え方に感銘を受けたんだって」
「…それだけ、ですか……。せめて、どこの新聞社か、とか」
溜息混じりの中川の言葉。
舘は徐に是結を振り返り、
「どこの新聞社? 」
「あ、帝都新聞です」
是結の答えに、舘は中川に視線を戻し、
「だって」
中川は深い深い溜息を吐く。
「『だって』じゃないですよ……。帝都新聞は大手ですから、末端の方々まで合わせると大変な人数になるので、何の安心材料にもならないです」
舘は笑いながら、
「だーいじょうぶだってー」
そして再び是結を振り返り、
「なあ? 是結君」
舘の肩越しに、中川が是結を睨む。
完全に疑われている。
* * *
「じゃあ是結君。また明日な」
別れ際、道が別々になる公園前で、舘が口を開く。
薔薇の団員としての初日の今日、是結は、初めの30分はロージア内を案内してもらい、残りは薔薇の団のほかの団員たちと共に舘を囲んで語って、夜8時までを過ごした後、偶然帰る方向の同じであった舘と帰路についたのだ。
是結、
「はい、お疲れ様でした。また明日」
舘の背中を見送り、見えなくなるまで見送ってから、是結は、公園を入ってすぐの外灯下の長椅子へ移動。
黒鞄を置いて開き、左上角の突起を伸ばして通信機の釦を長押しした。
すると、通信機の上部、無数の小さな穴があいた辺りから、
「私だ」
加賀の声。
「お疲れ様です。零零七号です」
「ああ、ご苦労」
「薔薇の団への潜入に成功しました」
「そうか、よくやった。では明日から早速、調査を始めてくれ」
「はい」
そうして、失礼します、と、是結が通信を切ろうとしたのを、
「ああ、零零七号」
加賀は止めた。
「聞きたいことがあるんだ」
「聞きたいことですか? 」
「ああ。夕方、君との作戦を終えて局に戻った山田と鈴木が酷く興奮していてな。仕事にならないから早退させたんだが……。山田のサーベルには血液が付着していた。一体、何があったんだ? 」
「ああ、あの血なら、僕のですよ。舘を庇って怪我でもしたほうが舘に取り入りやすいんじゃないかと思って、お2人にご協力頂いて、急遽、作戦変更したんです」
通信機の向こうから、大きな溜息。
「…まったく、無茶をする……」
是結は軽めの調子で、すみません、と謝るが、加賀側の空気は、どうも重い。
「君の任務は、もともと危険の伴うものばかりだが、どうも君は自分から危険なほうへ危険なほうへと向かって行っている気がしてならない。……零零七号……いや、是結。…お前はもしかして、今でも、死にたいと考えているのか……? 」
怒りか悲しみか不安か、加賀の声は震えていた。
是結は加賀に恩がある。
その加賀の声を震わせてしまったことで胸が痛み、同時、温かくなった。
今でも加賀が、自分を大切に考えてくれているのだと感じて……。
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「ほら、飯だぞ」
言って、父は、当時の定位置である自宅の居間入口の敷居の上にしゃがみ込んでいる幼い是結に、酒のつまみに食べていた焼魚の骨とぬか漬けのキュウリの端っこを投げて寄越す。
それが、物心ついた時には既に母のいなかった是結の食事。
別に、父が意地悪だったとは思わない。実際、是結はそれを喜んで食べていた。
父のほうも、意地悪のつもりは無かったと、大人になった今でも思う。野良犬や野良猫をかまう時のような無責任な優しさが、確かにそこにあった。
6歳頃になると、家で父からもらうより食品を扱う店の裏のゴミ箱をあさったほうが、まともな物を食べれると気づき、街をふらついては腹いっぱい食べるようになった。が、その方法は、同じ目的の敵も多く量も頻度も不安定で、しかも、父のほうも一旦是結にやる習慣が無くなってしまうと、別の野良犬に残飯を与えるようになってしまっていて、家に帰っても、もう是結の食事は無かった。
食べ物にありつけずに空腹のあまり庁舎の前に座り込んでしまったある日、目の前におにぎりが差し出される。差し出したのは、色素の薄いサラサラの髪をした30歳前後の冷たく見えるほどに整った顔立ちの女性・若き日の加賀ハルだ。以降、是結は、毎日庁舎に出掛けて行っては、加賀からおにぎりをもらうようになった。
しかし、そんな日々が3ヵ月ほど続いたある日、いつものように庁舎の前に行くと、
「ここはお前のような汚い浮浪児の来る場所じゃない」
と男性職員に追い払われた。それから是結は、庁舎へ行かなくなった。
……加賀との再会は、庁舎前で男性職員に追い払われた日から10年ほど経った、今から5年前。日々の食事にありつくことに忙しかったため父の暮らす自宅へは全く寄り付かず、荒みきった生活を送っていた是結が、他の、自分と似たような立場の者たちと、残飯をめぐって喧嘩になり、味方はおらず多勢に無勢、すっかりボロ雑巾のようにやられて地面に転がっていた時のことだった。
「おい、大丈夫か」
声を掛けてきた1人の女性。くわえ煙草に渋めの声での乱暴な言葉遣い、冷たく美しい顔立ちがそれらに迫力をあたえている。
是結は、
「あんたは……」
すぐに気づいた。その女性が、幼い頃の自分に美味しいおにぎりを食べさせてくれた女性であると。
「喋るな。喋らないほうがいい。今、病院に運んでやる」
女性の言葉を聞きながら、是結はスウッと意識を失った。
病院のベッドの上で目覚めた是結の顔を、
「目が覚めたか? 久し振り、大きくなったな」
おにぎりの女性・加賀が気遣わしげに覗き、
「私は昔、幼い日のお前との関わりをとても気に入っていた。だが、うちの職員に追い払われたと聞いて、以降、お前が姿を見せなくなり、後悔した。中途半端に構うのではなく、きちんと保護してやるべきだったのではないかと……。あれから、もう10年くらい経つか? 私はずっと、気に掛けていた。…私は、何故お前が幼い頃、浮浪児だったのかも、その後、どのように過ごしてきたのかも知らない。ただ不幸であったと推察するのみだ。しかし、会わないでいる間に、お前はすっかり大きくなった。まだ大人ではないが、それと近い存在になった。生まれや育ちがどんなであろうと、今のお前ならば自分で変えられる……違うか? 」
そうして、その気があるならばと、加賀から、現在の仕事と、それに必要なだけの教養なども含む様々な技術等を与えられたのだった。
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ひととおりの回想を終えた是結は考える。
自分は加賀におにぎりをもらった幼い頃からこれまでの長い時のどこかで、死にたいなどと口走ったか……? と。
思い当たらない。
が、口走ったかも知れないとも思う。
この仕事を始める前、ただ生き延びるために食物を探す日々が、とても面倒臭かったから。
しかし今は、死にたいなどとは思っていない。
特別生きていたいとも思っていないが、生きていることは、ひとつの現象であると受け止めている。
無茶は、本当に純粋に、作戦成功のため最良と思われるためだ。
是結は重いのは性に合わず照れくさいため、また、そうでないと逆に嘘っぽく聞こえる気がして、意識的に軽く、
「だーいじょうぶですってー。局長さんがせっかく引っぱり上げて与えてくれた人間らしい人生、人間としての命ですからね、粗末になんてしません」
「そうか。なら良いが……」
納得した様子の加賀。
通信機を通してそれをきちんと感じ取って後、
「では、また連絡します」
是結は通信を切った。