(その七) ブス誕生
ついに美小子がブスに…心の葛藤は続きます。
着替えはちゃんと更衣室で、一人一人ヒロコ先生に着させてもらった。色はジャンケンで選んだ。恵子ちゃんはピンク。カヨコちゃんは水色。マキコちゃんは黄色。美小子は黒だ。
「あら、みんなカワイイわね。まるで熱帯魚みたいよ」
ヒロコ先生も何だか嬉しそうだ。
「よし、せっかくだから、君たちもまねごとだけしてみるか。ねえ?」
「はい!」
何のコトかよく分からないけれど、元気よく返事をした。素敵な予感がする。
「じゃ、ちょっと待ってね。今バレエの先生とお話ししてくるから」
更衣室でドキドキしながらしばらく待っていると、息を弾ませながらヒロコ先生が戻ってきた。
「少しだけなら構わないって。それじゃ、みんな行こうか」
教室に戻ると、お姉さんたちは休憩の時間だった。ケンくんにヒロシくんは、お姉さんたちとのオシャベリに夢中のようだ。
「じゃ、君たち、こっちに来て、このバーをつかんで立ってみようか?」
バレエの先生が美小子たちを促した。この先生、言葉つきは素っ気ないが、優しい目をしている。それで美小子たちも、ちょっぴり安心したんだ。
「はい、この棒、バーって言うんだけど、転ばないようにしっかりつかんで、そう、片足を上げてみようか?」
四人は言われた通りにしてみる。
恵子ちゃんにカヨコちゃん、マキコちゃんはへっぴり腰で、今にも倒れそうだ。でも、美小子は違った。背をぴんと真っ直ぐに伸ばし、すっと脚を上げる。四人の中では一番体格もいいので余計に目立つんだ。
「ふうん。そこの黒いキミ。やったことあるの?」
バレエの先生が美小子に近づいて尋ねた。
黙って首を振る美小子。
「ふむ。みんな同い年だって話だけど、キミだけお姉ちゃんかな?」
もう一度首を振る美小子。
バレエの先生は何かを考えているみたいだったけれど、また美小子に向かって言った。
「キミさ、言う通りにしてみてくれるかな? なに大したことじゃない。あのね」
こうして美小子だけ、違うことをさせられるコトになったんだ。
「いいかい。両足のかかとをつけてごらん。そう、爪先からこっちの爪先までが一本の線になるように」
「はい」
「うん。じゃ、脚のここ、ふくらはぎを前に向けて回して、ヒザ、うん、ここをこう外に開いたままで、引き延ばす」
「はい」
言われた通りにする美小子。自分でもうまくできたと思う。
「うん、そうだ。これが足の第一ポジションだ。じゃ、このまま自分の足一つ分の幅で立ってごらん」
「はい」
今度も出来た。
「これが足の第二ポジションだ。じゃ、次は」
いつの間にか、バレエの先生の目が真剣になってる。美小子も夢中だった。
「ね、ちょっとお母さん、やめてよ。この子、まだ幼稚園の年中さんなんだから。それにバレエを全く知らないど素人よ。ケガでもさせたら大変」
ヒロコ先生がバレエの先生に向かって突然そう言った。そう、このバレエの先生は、ヒロコ先生のお母さんだったんだ。彼女もハッとして我に返ったようだった。
「うん、そうだね。ゴメン。つい気が入っちゃった。でも」
「何よ。余計なコトして! まねごとだけって言ったでしょ!」
ヒロコ先生は幼稚園では見せたことのない顔で、お母さんにくってかかった。お母さんは、はじめは苦笑いをしていたけれど、急に真面目な顔になると
「この黒い子、才能あるよ。幼稚園の年中さんだって言ったね。今からなら充分に間に合う」
「何言ってんのよ。いきなり色々指図したら子供が不安に思うでしょ! はい、美小子ちゃん、ごめんね、変なコトさせて。みんな、もういいから、こっちでストレッチをしましょう」
ヒロコ先生はそう言うと、まだ何か言いたそうなお母さんを無視するように、美小子たちを移動させた。
ところが、今度はそれをずっと見ていたバレエ教室のお姉さんたちが、ざわめき始めたんだ。
「ねえ、ちょっと、聞いた? あのいずみ先生が才能あるって!」
「うん、確かに言ってた! 滅多に人をほめたことのない、あの、いずみ先生がよ!」
「じゃ、よっぽどなんだ。ふうん」
「わたしなんて注意ばっかりだもん。たまにはほめられたいわ」
「アンタなんか無理よ。足の第一ポジションだって怪しいものじゃない」
「ふんだ!」
「でもさ、たしかにあの子、全くの初めてには見えないよね。一度教えられただけで足のポジションだって決めたもん」
「それに立ち姿だって雰囲気あるしね」
「年中さんだって? 小学生でもおかしくないわね。あのストレッチだってご覧なさいよ。もの凄く柔らかい体をしてるわ。アンタも見習いなさいよ」
「ふん! アンタこそ!」
お姉さんたちは、少し離れたところでストレッチをしてる美小子を横目で見ながら、うわさ話に花を咲かせている。ケンくんにヒロシくんはそんな彼女たちに圧倒されたのだろう、走ってヒロコ先生の所に戻ってきた。
「やっぱり女のオシャベリはすげえな」
「でも、美小子ちゃんのことを噂してたね。雰囲気あるって」
美小子の耳にもお姉さんたちの話し声は入ってきた。
【わたしにバレエの才能がある? 滅多にほめない、いずみ先生がほめた?】
体を伸ばしながら、美小子はドキドキしていた。お腹の底の方から熱い何かが沸き上がってくる感じもしてくる。
「ねえ、恵子ちゃん。バレエって面白いね」
抑えられない気持ちが溢れるように、美小子の口からそんな言葉が自然とこぼれた。
「ねえ、カヨコちゃん、マキコちゃん?」
ストレッチをしながら仲間に相づちを求めたけれど、返事がない。
それはそうだろう。彼女たちは面白くなかったんだから。
美小子ばかりが特別扱いで、自分たちは何だか蚊帳の外、のような気分になる。おまけに悔しいけれど、たしかに美小子には雰囲気がある。黒いチュチュ付きのレオタードも似合ってる。床の上にただ立っただけで人の目を引く。だから余計に面白くない。自分の方がカワイイのに。そんな思いもあった。
「ねえ、恵子ちゃん?」
「う、うん、そうだね」
「うん」
「面白いかな」
残りの二人も曖昧な返事だ。
「そう言ってもらえると先生も嬉しいわ。それじゃみんな。そろそろお家の方に戻ろうか。お姉さんたちの練習もまた始まるからね」
「はーい」
ヒロコ先生の言葉に、そろそろ退屈していた美小子以外のみんなは、元気よく返事をした。その時だ!
「でも、あの子ブスじゃん!」
お姉さんたちの中の一人が、ハッキリと聞こえる声で言った。
「才能あってもブスじゃあね」
その後は一斉に起こる大爆笑。
「コラ、あんたたち、自分のブスは棚に上げて何よ。失礼よ」
他のお姉さんがたしなめているのも聞こえた。
「何よ。ほんの冗談じゃない。そんなにムキになると、アンタこそブスがこじれるから」
また笑い声でにぎやかになった。
「彼女、聞こえたらゴメンね。今のは冗談だからね」
一人のお姉さんがにこっと笑ってこちらに手を振った。ヒロコ先生がひらひらっと手を振り返す。
彼女たちにしてみれば、ちょっぴり美小子に嫉妬しての、ほんの言葉のお遊びだったのかも知れない。それに、彼女たちが使う『ブス』って言葉には、色んな意味が含まれているんだからね。さげすみの、言葉通りの意味から、親愛の情を込めた、仲間って意味までがね。そう、昔の学生が好んで使ったバカ野郎、『バッキャロー』って言葉と同じようにさ。
でも、当然、その時の美小子にはそんなことまでは分からない。
だから。
美小子は、壁側の鏡に、目が釘付けだった。今までは無意識に避けていた鏡だ。そこには美小子をはじめ、恵子ちゃん、カヨコちゃん、マキコちゃん、ヒロコ先生が映ってる。
彼女たちも笑ってる。遠慮しがちだけれど、たしかに笑ってる。ううん、一人だけ笑ってない子がいた。その子の顔は哀しげだ。いや、ただ哀しげなんじゃない。何かを悟ったような、あきらめの表情とでも言うのだろうか、見ているこちらも辛くなる、そんな顔をしていたんだ。
「あの子ブスじゃん!」
この言葉が繰り返し美小子の頭の中で響いた。急に力くんの顔が浮かんだ。
「なんでオレがこんなブスに!」
一年前の沈められた記憶が、意識の底から鮮やかに浮かび上がる。
弟、光の、天使のような笑い声もどこからともなく聞こえる。
「不憫な子だ」
父さんの淋しそうな顔も浮かぶ。
あ、あれはわたしだ。
美小子はその時、鏡の中の【自分】に気づいたんだ。
あのブスがわたし…?
「はい、みんな。ふざけるのはやめ、やめ。休憩は終わりだ。バーの前に集合!」
「はーい!」
お姉さんたちがまた練習を始めた。
「それじゃ、みんな、着替えてから戻ろうね。それから…」
ヒロコ先生が何かを言っていたけれど、美小子にはもう聞こえなかった。
前のように倒れたわけじゃない。でも、美小子の中で何かが壊れた。その時の見た目には、大して変わらなかったかも知れない。気づいたとしても、そう、少しだけボーっとして見える、そんな程度だったろう。
けどね、この時から美小子は確実に変わったんだ。本当のブスにね。
そしてそんな美小子には、バレエ教室に響く手拍子だけ、ただそれだけが聞こえていたんだ。実際には沢山の音、沢山の言葉があったにもかかわらずね。
窓の外にはピンクの花びらが舞っていた。
涙が出るほどの美しいピンク。美小子五歳になる年の、春の日のことだったんだよ。