(その二十二) 第二のワナ
「うん。どうやら熱は下がったようね。どう? 何か食べられそう?」
コクン、とうなずくと、母さんはやっと安心して美小子の食事の支度を始めたようだった。
学校を休んだ日の午前十一時。今頃は、みんなは体育の授業をやってる時間だ。それにひきかえ、自分はこうやってベットに寝ている。申し訳ないような、嬉しいような、ヘンな気がする。
美小子は元来丈夫な子供だ。幼稚園時代は、風邪をひいたコトも無かったくらいだ。それがかなりの熱を出した。朝になってもまだ熱がある。学校に行くと言い張る美小子を母さんが止めた。それが今朝のことだった。
「ねえ、美小子、これからは無茶なことはしちゃダメよ。雨に濡れたら風邪をひくのは当たり前なんだからね」
母さんが食事を運んで来てくれた。ベットで食事なんて、どれくらいぶりだろう。
ミルクがゆをスプーンですくって口に運んだ。優しい味がする。
「あのね、学校で嫌なことがあったら、母さんには教えてね。母さんはいつでも美小子の味方なんだから。いい?」
「うん」
そうは言っても、家族だから、母さんだからこそ言えないこともあるんだ。母さんだって小さい頃はそうだったでしょ?
そう思う美小子だったけれど、うなずいて母さんを安心させた。
「傘のことだけど」
「うん」
「また、美小子の好きな傘を買いに行きましょう」
こう言ってくれる母さんに感謝をした。細かいことまで根ほり葉ほり聞いてきたみか先生とは大違いだ。
みか先生、今頃わたしが休んだことで、また困った顔をしてるんだろうか?
想像したら、なんだかおかしくなって笑ってしまった。
「美小子ってば、何を笑ってるの?」
「ううん、なんでもない。これを食べたらもう少し寝るね」
「よかった。美小子が元気になって」
母さんはほっとした顔でそう言ったんだよ。
夕方、目が覚めて、トイレに行ったら、もう元気が出た。パジャマから、普通の服に着替え、顔も洗った。
「まだ寝てなさいよ」
そう言う母さんに
「もう平気。元気いっぱい!」
ポーズ付きでそう答える美小子だ。
その時、玄関でチャイムが鳴った。一瞬ハッと思った。熱を出して学校を休んだことが、悪いことでもしたような気になる。慌てて自分の部屋に戻り、ベットに潜り込んだ。
「ねえ、美小子、お友だち。恵子ちゃんが来てくれたわよ」
「恵子ちゃん?」
これでベットから飛び起きた。
「入ってもらって」
ワクワクしながら待っていると、恵子ちゃんがドアの間から顔を出した。
「美小子ちゃん、大丈夫?」
「うん。もう平気。あ、恵子ちゃん、こっちに来てよ」
招き入れようとすると
「あのね、クラスの代表がまだいるの。わたしたち、クラスの代表としてお見舞いに来たんだ」
そう言い終わらないうちに山本さんが顔を出した。
「ふうん。ここが美小子ちゃんの部屋なんだ」
ズカズカと部屋に入ると、品定めでもするかのように、辺りを伺ってる。
「ごめんね。クラスの多数決で、代表を二人決めたから。それも女の子だけだから、こうなっちゃったの」
美小子の耳元で、恵子ちゃんがそうささやいた。
「うん。分かってる」
美小子には何となく状況が想像できた。あのマユミちゃんがいないだけでも良しとしよう。そう思った。
「あのね、これ、お見舞いの花。うちの商品で悪いけど」
「ありがとう」
「あのね、美小子ちゃん」
恵子ちゃんは何かを言いたそうにしている。それに気づいた山本さんが
「ねえ、あまり長居しちゃ、病人にさわるわ。みか先生もそうおっしゃってたでしょう? もう失礼しましょう。美小子ちゃん、また明日学校でね」
そう言うと、ふふん、と鼻で笑ったんだ。
恵子ちゃんもそう言われると、返す言葉がない。
「あ、美小子ちゃん。それじゃ、また明日ね」
二人はこうしてすぐに帰っていったんだ。
「ねえ、あれじゃ、お見舞いと言うより視察ね」
母さんがうまいことを言った。
「うん。でも、きれいな花。嬉しい」
「そうね。美小子も明日はちゃんと学校に行こうね」
「うん!」
こうして、その日は何事もなく、平和に過ぎていったんだった。
次の日の朝。この春から幼稚園に通うようになった光が、玄関先で近所の友だちとじゃれていた。幸せなことに、光には同級生が多い。まあ、多いといっても美小子たちに比べれば、ということで、このエリアで五人程か。
「それじゃ、いってきます」
元気よく家を出た美小子の目に、真新しいスモックを着た、光の姿が映った。
「オッ、光!がんばれよ!」
いつもだったら『おまえもな!』というのが光の反応だ。でも、今朝は違った。美小子の顔を一瞬見て目をそらし、知らん顔を決め込んでいる。
「ん?」
「おはようございます」
光の友だちたちは、美小子に挨拶をしてきた。
「おはよう」
光のヤツ、ちょっとヘンだな、と思いながらもそのまま行こうとした時だ。
「今の、お姉ちゃんじゃないんだ。親せきの人」
光の声が聞こえた。
「え?」
美小子には一瞬、何のことだか分からなかった。頭の中に、はてなマークが浮かんだ。
「光、ちょっと来なさい!」
美小子が光にどういうことかを訊ねる前に、母さんが光を呼びつけた。
母さんは鋭い。おまけに美人なだけに、怒っても迫力がある。たちまち光は居間で正座をさせられ、素直に理由を話し始めたんだ。
「昨日来たお姉ちゃんが、ボクに言ったんだ。キミのお姉ちゃんはブスだから、恥ずかしいって。キミはそんなコトはないけど、一緒にいるとキミまでブスに見えちゃうよって。ボク、美小子姉ちゃんのこと好きだけど、恥ずかしいのはイヤだよ」
ちょっと遅い第一反抗期を迎えてる光にとって、自分のお姉さんのことをそう言われたら、やっぱりさっきみたいな反応は当たり前だろう。
「光。そんなコトはないのよ。恥ずかしいのは、人を差別することなの」
「ふーん」
「たとえばよ? 光はちょっと見は女の子みたいでしょう?」
「うん。よくまちがわれる」
「あいつは男のくせに女みたいだ、仲間はずれにしちゃえって差別されたらどう思う?」
「ヤダよ! そんなのヤダ!」
「でしょう? たとえどんな理由があったにせよ、差別はいけないわ。いい? 分かった? 差別する人が恥ずかしいのよ。これは忘れちゃダメ」
「うん」
「だったらお姉ちゃんに謝りなさい」
「うん。お姉ちゃん、ゴメンなさい」
この母さんと光の会話を黙って聞いていた美小子は、自分でも驚くほど冷静だった。怒りはあった。けれどそれは静かな、悲しみにも似た感情だった。
【昨日来たお姉ちゃん。恵子ちゃんがそんなこと言うはず無い。山本さんだ。彼女が光に吹き込んだに違いない。まてよ。あの傘の件にしても、山本さんと、マユミちゃんとわたし。この三人だけが関係者だ。二人の傘は無事戻った。わたしのだけが燃えた。これは偶然とは思えない。マユミちゃんがわたしにキツく当たるのだって、もしかしたら山本さんが…】
「ねえ、美小子。山本さんには注意しなさい。あのタイプは色んな手を使ってくるから。相手の術中にはまってはダメよ」
母さんが微笑みながらそう言った。美小子の気持ちが手に取るように分かるみたいだ。
「ねえ、母さん。どうして山本さんのことが分かるの?」
美小子の疑問に
「だって、私も美小子くらいの時は、あんなタイプだったもの」
ふふふ、と笑うと母さんは続けた。
「美小子、山本さんと友だちになってあげなさい。美小子みたいな子が、彼女を救えるのよ」
「救う?」
「そう。昔お父さんが母さんを救ってくれたようにね」
「え? どういうことだか分かんないよ」
「いいの。分からなくてもね。まあ、がんばれや、美小子!」
そうして母さんは、光と美小子を送り出したんだ。




