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(その十八) 黒い思い

山本さんはある思いを抱きますが…

 教室を出てから、保護者と一緒に解散ということになった。みんな三々五々、サクラの舞い落ちる道を帰ってゆく。中には記念写真を撮るもの、ビデオを回すものなどもいて、それぞれに忙しそうだ。

 美小子たちは歩きながら、次の予定を話していた。

「ねえ、せっかくだから軽くお食事でもしていきましょうよ。光だったらおばあちゃまの家だから安心だし」

 母さんが父さんにウィンクした。父さんだってこんな時間に自由でいるのは珍しい。だから一も二もなく賛成した。

「いいねぇ。出来れば、軽く一杯飲めるトコの方がいいんだけどな」

「あなたったら。ねえ、美小子、あんたは何が食べたい?」

「うーんとね、そうだな。お子さまランチはもう小学生だからやめといて、カレーはうちの方が美味しいし、スパゲッティーじゃ物足りないし…」

「あ、美小子、ほら、靴のヒモがほどけてる。危ないからしっかり締め直しなさい」

 父さんが美小子の足下を見て言った。なるほど、新品の白い靴のヒモが片方、ほどけてる。しゃがみ込んで締め直そうとした。

「おい、ゆっくりでいいからね。父さんはブラブラ先に歩いてるから」

「うん」

「だから靴はヒモ無しにしなさいって言ったのに、美小子ったら聞かないんだから。母さんも先に行くわよ」

 二人は美小子を後に、歩いて行った。美小子はどうやら悪戦苦闘を始めたようだ。

「ねえ、ホントに何にしようかしらね。ファミレスじゃありきたりだし」

「どこでもいいよ。お前が好きなところで」

「何よ、それ! それが一番困るのよ!」

 母さんがあきれて父さんをにらみつけた。母さんが普段、不満に思っていたことがコレだったから、つい機嫌も悪くなる。

「おい、悪かった。なあ、そんなに急ぐなって!」

 母さんは勢いづいて歩みが早くなった。

と、その時だ。横道から突然現れた何かと急にぶつかりそうになり、あわててそれを受け止めた。瞬間、あ、子供だ、と思ったからだった。

「ああ、ビックリした。あ、あなたも新一年生ね。大丈夫?」

 ぶつかってきたのは、真新しい紺色のブレザーを着て、胸に紅い花をつけた、一目でソレと分かる子供だった。色白でポニーテールのよく似合うカワイイ女の子だ。

「あ、はい。大丈夫です。ゴメンなさい。わたしがよく前を見てなかったから」

 女の子は、美小子の母さんの顔を見てからニッコリと笑うと、軽く会釈をした。

 しかし!

 このわずかな瞬間に、女の子は頭の中でそれこそスーパーコンピューター並の計算速度で計算をし、判断を下していた。

 そしてそれは彼女の予想をくつがえすものだったんだ。

【え? わたしが負けた? これまで一度も負けたことのなかったこのわたしが? でも、ちっとも悔しくないのはなぜなの…】

 もう、お分かりだろう。女の子は山本さんだった。彼女もこの後の予定で両親ともめて、ひとりで駆け出して来て、美小子の母さんとぶつかった、そういう状況だったんだね。そこで彼女のいつもの習慣がつい出た、という訳。

【こんなにキレイな人は初めてだ。見ていてなんだか気分が良くなる。こんな人もいるんだ。完璧にわたしの負けだ。この人は一体どういう人だろう? タレントさん? ううん、もしかしたら有名な女優さんかもしれないな。絶対に普通の人じゃないことだけは確かだわ。だって、このわたしを初めて負かした人だもの】

 山本さんは、自分のこの感覚を不思議に感じながらも、そう考えてしまった。

「あの、失礼ですが」

 何とかしてこの人の正体も知りたいし、出来ればお近づきになりたい。山本さんはそうも思ったんだ。

「はい?」

 美小子の母さんにしてみれば、たった今ぶつかってきた子供が真面目な顔で、あの、失礼ですが、と来たから不審に思うのも当然だ。

「テレビに出ている人ですか? タレントさんとか、女優さんとか」

「え? 私? 違うわよ。普通のおばさんだもの」

 答えるその顔がまた素敵だ、そう思った。

「ホントですか?」

「ええ。今日だって娘の入学式で来たんだもの。あなたもそうでしょ?」

「え? それじゃホントに普通の人ですか。それに娘さんが?」

「そうよ。あなたほどしっかりはしてないけどね」

「いいえ。わたしなんか。でも、あなたの娘さんならさぞかしおきれいなんでしょうね」

「え?」

 二人の間に暫しの沈黙があった。

 その時、美小子がやっとのことで追いついた。なんとか自分でチョウチョ結びを完成させることが出来たんだ。

「ねえ、待ってよ、母さん! あれ? 山本さん?」

「え? ウソでしょ!」

 今度は山本さんが驚く番だった。

 初めて自分が負けたと思った相手。それがコトもあろうに、このブスの、美小子の母親?

 お願い! ウソだと言って!

 山本さんのコンピューターは、非常事態宣言を出して、今にも暴走しそうだ。

「山本さん、どうかしたの? ねえ、母さん、この子、今度一緒のクラスになった山本さん。ほら、遅れて二人で体育館に入っていった、その相手よ」

「ああ、あの時の。美小子の母です。この子と仲良くしてやってね」

「え? あ、はい」

 予想外の出来事がこうも続くと、なんだか訳も分からなくなる。山本さんは少しの間、まあ、時間にしたらわずか二・三秒なんだけど、ボーっとしていたらしい。

「ねえ、キミ、ホントに大丈夫かい?」

 美小子の父さんの声で我に返った。その顔を見た。ああ、この人が美小子の父親なんだ、と確信した。と同時に、無性に目の前のこの男が憎らしく思えてきた。

【この不細工な男のせいで、こんなに美しい人が、美小子みたいな娘の母親になったんだ。そうよ、許される行為じゃない。ホントだったら、子供には、わたしみたいな娘こそがふさわしいのに。すべてはこの男のせい。こんな不細工はブスと結婚すればよかったんだ】

「ええ、大丈夫です。それじゃ、失礼します。美小子ちゃん、またね」

 思いとは裏腹に、笑顔でそう答えた。それから、美小子の母さんの顔をもう一度じっと見てから会釈をして、元来た道を駆け足で戻って行った。

「なあ、美小子、随分カワイイ子じゃないか。仲良くするんだぞ」

 父さんは目尻を下げてそう言った。

「うん」

 そう、答えてみた美小子だったけれど、ホントは少し山本さんが苦手だった。どこが? と聞かれても困るけれど。

 そんな美小子を見抜いていたのだろう、

「そうね。私もあんなタイプは苦手だわ。でもいい? 美小子は仲良くするのよ。子供のうちは、色んなタイプの子とつき合ってみるのも悪くはないからね」

 母さんはいつもの様に、笑顔でそう答えたんだ。父さんはご機嫌で

「ヨシッ、それじゃ、今から美味しい釜飯を食べに行こう。いいところがあるんだ」

「ホント? いいわね。ねえ、美小子もいいでしょ?」

「うん」

 こうして美小子たちは何も無かったかのように、サクラの舞い散る道を歩いて行ったんだ。

 一方、山本さんは、

【あんなにも美しい人が美小子の母親…】

 歩きながらも、頭の中はその想いで一杯だった。遠目に、両親が山本さんを捜しているのだろう、キョロキョロしているのが見えた。新たな怒りで体が震えた。

【あれがわたしの両親。お母さんは美小子の母親とは比べようもない。年だってとってる…許せない。絶対に許さないから!】

 何に対する怒りなのか、自分でもよく分からなかった。けれど、怒りにはぶつける相手がいる。それがどこに向かうのかは、この時の山本さんにも、まだ分からなかったんだよ。


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