この美しき世界
原稿用紙三枚、社会問題
じっと目を瞑る。頬に触れ東雲の風は仄か冷たい。私の頼りない両脚は小さく震えていた。
日々は無味乾燥に流れていく。手首に幾層もの赤線を刻み付けても何一つ変わりはしなかった。痛みが生きている証なのかと問われたら、私は否と応えるだろう。
何時からなのか、私の日々はただ繰り返すだけのものとなっていた。まるで微温湯の様なそれは平和ではあったけれど退屈で、とても憂鬱でもあった。
痛みはただ一つだけ私が認め得る刺激。父親の様な男に身体を売っても非合法物に手を出しても、自分への侮蔑の他には何も得られなかった。
罪と重なる憂鬱は私の中で重く大きく膨らんでいく。例え流行りの服に身を包んでいても中身はからっぽだ。ここにあるのは私という形をした人形に過ぎない。世界が平和であれなんであれ今を生きてなんかいない。
「つまんない」
肺の奥から搾り出すように呟いて、私は小さく震える足で一歩踏み出した。瞬間、身体が奈落の底へと堕ちていく。
何も考える必要はない。このまま目を閉じて数瞬もすればこの退屈で憂鬱な日々は終わるのだから。
唐突に手首が痛んだ。思わず顔を顰めて目を開けてしまう。その瞬間、私の目に飛び込んできたのは、朝焼けの陽に染まる美しい世界だった。
縦横無尽に走る路、輪廻する線路、連なる無駄に高いビル、転がる無意味に小さな一軒家、牢屋の様に狭いアパート、地平線には山と海が見えた。
少年が自転車で新聞配達に勤しんでいた。ダイエットでもしているのか若い女性がランニングをしている。朝から会議でもあるのかスーツ姿の男性が急ぎ足で駅へと向かっていた。
鮮烈な陽に照らされた世界は、とても美しかった。
なんということだろう。微温湯の様な平和、退屈な日々、重なる憂鬱、罪、からっぽの私。生きていなかったのは、私がこの美しい世界を見ようとしなかったからなんだ。
ふと、もっと生きたいと思った。でももう手遅れだ。ほら、もう目の前にアスファルトがある。
私は唇を噛み、目を閉じた。