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ナイトクライマー

作者: 九榧むつき

 ちょうど23時を回ったあたりだったと思う。住居兼オフィスであるこの室内で、急ぎの仕事をしていた時だ。

 窓の向こう、遠くに街の灯りが見える程度の暗闇の中を、人影が動いたような気がした。

 …なんだ?

 気のせいか、と思ったのには理由がある。何故ならここは44階の、高層マンションだからだ。


 きっと、根を詰め過ぎて、目がおかしくなったのだろう。休憩がてら、席を立つ。

 香り高い珈琲をカップに注ぎ、先程の窓辺へ場所を移し、気分転換に外を眺めた。

 はめ殺しの大きな窓からは、街の夜景が静かに煌めいて見える。

 今日はこの位にしておこう…。そう思った瞬間、今度ははっきりと人影を見た。

「………。」

 黒い革の服に身を包み、一瞬で通り過ぎる。黒い髪が乱れながら、窓を滑り落ちた。

 その白く美しい目元が、脳裏に焼き付いて離れない。

 嘘だ、と思った。

 いや、確かにはっきりと見た。

 だが、ここは44階だ。それにこの上にはまだ10階以上、階もある。

「………。」

 取り敢えず、今日の所は休もう。考えるのは明日にしよう。

 疲れ過ぎておかしくなった自分を労るように、デスクの上も全てそのままに、寝室へ足を運んだ。




 翌日。


 残りの仕事を終え、その他すべき事も、大体は片付いた。時計の針は、昼食を取るには、まだ少し早い時間を指している。

 少しは体を動かしておかなくては、な。

 ここの所、部屋を出る時間すら、ろくになかったのだ。

 たまには運動しておかないと、実に不健康極まりない。

 ウォーキングの準備をして、そのまま出掛ける。勿論、昼食も外で済ませるつもりだ。


 ヒルズマンションを出て、快調に歩を進める。

 連日の猛暑が身体を苛んだが、それでも水分を補給し続け、足を進める。

 少し離れた、市街の緑地まで足を伸ばす。目的の場所へと到達して、漸く歩くのを止めた。

 木漏れ日が爽やかに、火照った身体に降り注ぐ。

 緑地のシンボルツリーである大楠の周辺で、5番目の大きさに当たる楠の木。大木ではないが、お気に入りの樹であった。

 その根元に置かれたベンチに腰掛け、疲れた体を投げ出す。休憩を取っていると、不意に、白い人影が横切った。

 白いワンピース、白い日傘、白い肌と、なびく黒髪。

 そして、腕に浮かび上がるトカゲの刺青。

 アクセサリーのように、張り付いている、トカゲの輪郭。不釣り合いなイメージに、脳が違和感を覚える。

 しかし同時に、彼女に自然と溶け込んでいた。

「御覧になられますか。」

 にこやかに、彼女は言った。その目元が美しく、魅了する。既視感に似た錯覚が惑わしているようでもあった。

 …そんなにも凝視していたのだろうか。

 話しかけられるまで、気付かなかった。

 また、彼女は別段それを気にする風体でもなく、近寄ると、ごく自然に腕を差し出して、見せてくれた。

『守り神』なんです。私の。

 そう言って、愛しげに刺青の入った腕を撫でた。

 どきり、と鼓動が脈打った。一瞬止まったかに思えた心臓はゆっくりと、確認する様に、一鼓動ずつうねっている。

 彼女の眼差しが美しく微笑んだ。木漏れ日の陰影が、そんな彼女を見え隠れさせているようだ。




「では、失礼」

 鮮やかに、笑顔を残して彼女は立ち去った。白いワンピースと、白い日傘が、夏の日差しに溶け込んで消えていく。

 不思議な光景に、暫し呆然とその、後姿を眺めているだけであった。




 結局、何処へ寄る気にもなれず、昼食はヒルズのラウンジで済まそうと、エントランスの扉を潜った時だ。

 2つ下の階の、IT仲間である山波氏に偶然会い、軽く話をする羽目になった。

「この間はどうも。お陰様で、取引に穴空けずに済みましたわ。」

「いえ、こちらこそ。」

 軽く受け流す。

 ちょくちょく仕事を頼まれはするものの、どちらかと言えば、苦手なタイプだ。

「そう言えば、例の会社、顧客情報を昨晩の内にごっそり持っていかれたらしいですよ。」

 例の会社、と言えば、40階に事務所を置く、あの会社か…。何かと色んな意味で噂になっていた会社だ。

「顧客情報とは珍しいですね。」

 確かあそこは、顧客情報だけ別に、サーバーに繋がないPCで管理していた筈だ。

「社員にスパイでも?」

 ごく自然な、当たり前の流れで言った…つもりだった。

「いや、それがどうも物取りの仕業らしいって、話なんですよ。」

 不意に昨夜の光景が蘇る。

 闇に浮かび上がる、白く美しい目元。

 顔の大半は黒いマスクで覆われていたので、そこだけが強調されて残っている。

「先程まで警察の人間がそこいらを彷徨いていましたよ。」

 本当に鬱陶しくて、かないませんわ、と苦笑して喋る彼の言葉に、内心冷や汗を浮かべ、聞いた。

 愛想笑いをするのが、精一杯であった。







 何が起こったのか。

 いくつかの符号を組み合わせてみる。

 物取り…昨晩…窓辺に移る人影。

 恐らく、昨夜見た人影は、先程の話にあった泥棒であろう。

 解らないのは、何故あの窓の外を通って行ったのか、だ。

 はっきりと覚えている、あの美しい目。白い目元に浮き上がるように、黒い瞳が輝いている。

 …何処かで?

 曖昧な記憶が、既視感のような錯覚を思い出させた。

 白いワンピースに、微笑む瞳。

 心臓が飛び出す程、激しい動悸が身体を襲う。

 雷に打たれたように、脳裡に交錯した。

 間違いない。確証はないが、恐らく彼女だ。

 だが、何故…? 疑問ばかりが増えていく。

 彼女は知っていて、近付いてきたのか? それとも、唯の偶然なのか。


 解らないまま、日が落ち夜になっていく。

 複雑な心境が渦巻くなかで、静かにその夜は過ぎて行った。




 翌朝。


 一晩中、碌に眠る事も出来ず、ぼーとする頭を抱えて、朝食を取る。

 一昨日の件で、警察が聴き込みに回っていると、御丁寧に山波氏からメールが届いた。関わりたくはないが、そうもいってられないだろう。

 そうこうしていると、案の定こちらにも回ってきた。

「…はい?」

「こういう者ですが、捜査にご協力願います。」

 定番の手帳を見せ、二人の男が立っていた。内容は、聞かれる前から、分かっていた。

 いいタイミングだ。

 寝起きのこの状況を利用して、さっさと片付けてしまおう。

 真剣に考える振りをしながら、覚えていないと振り払う。

 向こうも、今聞いたところで無駄だと判断したのか、名刺だけ置いて帰った。







 部屋に戻る。

 とある壁の、一点を見据えた。

 彩りのない部屋の中で唯一、殺風景な壁を飾る絵画だ。

 小さな額面の中の絵には、大きな熱帯性の植物の葉の上に寝そべる、爬虫類の姿が描かれている。

 身体をくねらせ、尻尾の先を丸め、5本の指を広げている。

 彼女の腕にあった刺青と同じだ。

 触れよう、としたがやめた。まだ…その時ではない。

 ひと溜め息を吐いて、まずは着替える。

 出掛ける支度をして、部屋を後にした。




 確認をしたかったのだと思う。昨日と同じ、ベンチに腰掛け、彼女が現れるのを待った。

 待てど暮らせど、一向に彼女は現れない。ここに来れば会える…と、浅はかな思いに、どうしようもない気持ちが募っていく。

 確証は無いのだ。もしかしたら、もう二度と彼女とは会えないのかもしれない。

 たまたま、偶然に会っただけ。

それならそれでも良かった。そう確証されたなら安心出来る。違うにしても、彼女に会える確率が上がる。

 木漏れ日が、夏の日射しを柔らげる。じっとりと汗ばむ中、ただひたすらに座り続けた。

 日が陰り、暗くなるまで。







 部屋に戻ったのは、20時を過ぎていた。

 明かりを点けると、殺風景な部屋の中央に、何故か絵画があった。

 壁に掛けてあった、あの絵だ。

「!!」

 慌てて駆け寄る。

 絵の一部が切り取られ、代わりにメモが挟まれていた。

“貴方との一時、楽しかったわ。”

 短い文章と共に、キスマークが捺されている。

 紙には彼女の刺青と同じ柄が印刷されていた。

 そうか。わかった。

 メモを手にして、ソファに深く身を沈ませる。

 思い出したのだ。彼女の正体を。

 深く息を吸い、全てを吐き出した。

 あれは、あの刺青は“トカゲ”ではない。この絵に描かれているのと同じ“ヤモリ”だ。

  ─ナイトクライマー

 そう呼ばれた女が、かつて存在した。

 彼女のトレードマークは、夜間に自由に壁を伝い歩く“ヤモリ”だ。

 そして、この絵から持ち出されたのは、決して表に出してはいけない、社会の裏の極秘情報。

 かつて、その為に彼女が命を落としかけた、危険極まりない代物。


 生きて…いたんだな。


 不思議と、笑いが込み上げてくる。どうにも止まらない。

 腹を押さえ、蹲る様にひとしきり、笑い転げながら、ただひたすらに泣いた。

 切り札だったんだ、彼女に逢う為の。

 もうこれで、彼女に逢う術は無くなってしまった。持って行かれたデータと恋心は、二度と元には戻らない。

 それでも、フッと彼女が微笑んでいる気がした。また逢いに来る、と空耳のメッセージを残して。




 守り神なんです。私の。


 絵の中のヤモリが静かに笑った。




   ─ 了 ─


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