「悪気はない」と幼馴染の従者を庇い続けた婚約者へ、真実を突きつけて婚約解消いたします
王都の喧騒を見下ろすアルベルト公爵家の執務室で、セシリアは手元の日記帳をそっと閉じた。
装飾の施された革表紙には、この半年に起きた出来事が、日時と証人の名とともに記録されている。
「……セシリア様、お茶の差し替えをお持ちいたしました」
控えていた侍女のアンナが、心配そうな眼差しを向けながら温かい紅茶をコップに注ぐ。
「ありがとう、アンナ。大丈夫よ、ため息をついていたわけではないわ」
「ですが……また本日も、ジュリアン様との約束がふいになったのでしょう?」
アンナの悔しげな問いかけに、セシリアは薄く苦笑を浮かべることしかできなかった。
そう、今日予定されていたのは、数か月前から楽しみにしていた王立劇場での観劇だった。
話題の劇団による1年ぶりの新作公演。座席の確保が極めて困難な特別観覧席を、セシリアが自ら手を尽くして2席分用意していたのだ。
だが、劇場前に現れたのは、婚約者であるジュリアン・ロザンベール伯爵令息ひとりではなかった。
彼のすぐ後ろには、いつものように当然といった顔で佇む青年——彼の幼馴染であり、専属従者でもあるレオンの姿があった。
『セシリア、悪いんだが、レオンも急遽同行させることになった。彼は舞台芸術に造詣が深くてね。僕たちの会話も弾むと思ってさ』
ジュリアンは呑気な笑顔でそう言った。
『ジュリアン様、私が用意したのは二人席です。レオンの席はありません』
そう指摘したセシリアに対し、横から割り込んできたのはレオンだった。
『おや、セシリア様。ジュリアン様の安全と健康をお守りするのが私の務めです。このような人混みの激しい劇場で、私が傍を離れるわけにはまいりません。まさか、公爵令嬢ともあろうお方が、主人の身を案じる従者の真心を突っぱねるおつもりですか?』
慇懃無礼な態度と、悲劇の忠臣を気取った言い分。
セシリアは劇場の支配人を呼び、予約にないレオンの入場を断らせた。するとジュリアンは「レオンを外で待たせるわけにはいかない」と言い、観劇そのものを取りやめた。
セシリアは引き留めなかった。二人が立ち去るのを見届けると、支配人に証言を頼み、その場で帰りの馬車を呼ばせた。
(これが、一度や二度のことならば、私もここまで追い詰められはしなかったでしょうに)
セシリアは冷めかけた紅茶に手を伸ばし、一口含んだ。
始まりは、半年前のお茶会だった。
半年前、王都で一番と名高いサロンでのお茶の約束。
静かな個室でゆっくりと歓談するはずが、注文の直後にレオンが室内に踏み込んできた。
『ジュリアン様! 大変です、昨晩の書類に不備が見つかりました! 今すぐ確認していただく必要があります!』
そう叫んでテーブルに書類を広げ、二人のティータイムは一瞬にしてロザンベール家の実務作業の場へと変貌した。
セシリアが注文した特別メニューの焼き菓子は、いつの間にかレオンの手によってジュリアンの口へと運ばれ、セシリアはただの置物のように扱われた。
その二か月後、街歩きの約束にもレオンは現れた。
セシリアが新しいドレスの仕立てのために街へ繰り出した際も、レオンは当然のように同行した。
『ジュリアン様、こちらのショップの新作男性用ジャケット、とてもお似合いですよ!』
『セシリア様のお買い物? いえいえ、ジュリアン様の装いを整えることこそが、同行者としての最優先事項でしょう』
そう言ってセシリアの予定を後回しにしようとしたため、彼女はその場で供の者に荷物を戻させ、一人で公爵家の馬車へ乗った。
観劇、お茶、街歩き。
最初のお茶会の後、セシリアはジュリアンに口頭で改善を求めた。街歩きでも繰り返されたため、今度はその日のうちに父へ報告した。アルベルト公爵家はロザンベール伯爵家へ正式な抗議書を送り、以後レオンを両家の会食と婚約者同士の面会に同席させないよう要求した。
伯爵から届いた返書には、要求を受け入れ、息子と従者を厳しく監督すると記されていた。それから四か月、短い面会や手紙のやり取りにはレオンが姿を見せず、セシリアも改善の約束を信じようとした。
「ジュリアン様にも、何度も訴えましたわ」
セシリアはつぶやいた。
劇場からの帰り道、我慢の限界を迎えたセシリアは、ジュリアンに直接その不満を伝えたのだ。
『ジュリアン様。次にレオンを私との約束へ連れてきた場合、両家の合意を破ったものとして婚約を見直します』
真剣に語りかけるセシリアに対し、ジュリアンが返した言葉は、あきれるほど呑気で、無責任なものだった。
『まぁまぁ、セシリア。そう怒らないでくれよ。レオンには悪気はないんだ』
ジュリアンはへらへらと笑いながら、セシリアの肩を軽く叩いたのだった。
『彼とは幼少期からの付き合いでね。僕のことが心配でたまらないんだよ。少し距離感が近いところはあるけれど、悪意があってやっているわけじゃない。君ももう少し広い心を持って、彼を受け入れてやってくれないか?』
悪気がない。
幼馴染だから。
広い心を持て。
ジュリアンの言葉は、セシリアの胸に冷たい石を投げ込むようだった。
婚約者の立場や感情よりも、従者の身勝手な執着を優先し、それを注意することすら放棄する男。
どれほどセシリアが傷つき、軽視されているか、ジュリアンは一歩たりとも理解しようとしていなかったのだ。
(悪気がないから許されるとでも? 悪意がない分、自分の異常さに気づいていない分、質が悪いというのに……)
静かな怒りが、セシリアの胸の奥でふつふつと燃え上がっていく。
アルベルト公爵家の令嬢として、セシリアは段階を踏んだ。口頭で注意し、書面で警告し、違反した場合の結果まで告げた。
ジュリアンは、その最後の機会を自ら捨てたのだ。
「アンナ」
セシリアは凛とした声で侍女を呼んだ。
「はい、セシリア様」
「お父様に面会の約束を取り付けてちょうだい。それから……ロザンベール伯爵家とのこれまでのやり取り、および本日の件に関する詳細な報告書を作成します。手伝ってくれるかしら」
アンナは一瞬目を見張り、すぐにセシリアの瞳に宿る強い決意を感じ取ると、深々と頭を下げた。
「喜んで、セシリア様。すぐにご用意いたします」
セシリアは机の上の日記帳を強く抱きしめた。
猶予は十分に与えた。ここから先は、公爵家の決定を示すだけだ。
(ジュリアン様。そこまであの従者が大切で、私の訴えを軽視なさるのでしたら……どうぞ二人で末永くお幸せにお過ごしくださいませ)
セシリアは日記帳から手を離した。
「婚約は、解消いたしましょう」
◇◇◇
アルベルト公爵家の執務室には、重々しい空気が満ちていた。
「またか、セシリア……。またあの従者が割り込んできたのか」
重厚な執務机の向こうで、父であるアルベルト公爵が深いため息とともに眉間を揉んだ。
セシリアが提出した日記帳には、この半年に起きた出来事が記録されている。
劇場支配人の署名入りの証言書も添えられていた。
お茶会の一件では、まずセシリア本人が改善を求めた。二か月後の街歩きでも繰り返されたため、公爵はロザンベール伯爵を屋敷へ呼び、正式な抗議書を渡した。レオンを婚約者同士の面会に同席させないとの確約を取り、さらに四か月の猶予を置いた。それでも今日、ジュリアンはレオンを劇場へ連れてきた。
「ええ、お父様。私はその場で拒絶し、二度の警告もしました。今日の件は、伯爵家が書面で交わした約束への違反です」
セシリアの声に迷いはなかった。
「一週間後の建国記念夜会で、婚約解消を通告いたします。レオンの入場を認めないことも、王城の侍従長へ届け出てくださいませ」
公爵は娘の強い決意を確かめると、深く頷いた。
「分かった。証拠と婚約契約書を整えよう。先方には夜会で正式に通告する」
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建国記念夜会の当夜。絢爛豪華な王城の大広間は、華やかなドレスに身を包んだ貴族たちで賑わっていた。
会場に入ってまもなく、ジュリアンが近づいてきた。その斜め後ろには、レオンがいた。従者服ではなく、男爵家令息と見紛う礼服をまとい、招待客用の青い徽章まで胸につけている。
セシリアは王城の侍従へ視線を送った。確認に走った侍従は、ほどなく険しい顔で戻ってきた。
「レオンなる者の名は招待者名簿にございません。その徽章の番号は、ロザンベール伯爵家にお渡しした客人用のものです」
「やあ、セシリア。今夜も素敵だね。アルベルト公爵閣下、ご無沙汰しております」
ジュリアンが恭しく礼をとる。公爵は礼を返さなかった。
「ジュリアン殿。レオンを同席させないという確約を破ったうえ、招待客の徽章まで与えたのか」
公爵の厳格な問いに対し、ジュリアンは相変わらず呑気に微笑んだ。
「大げさですよ、公爵閣下。徽章は余っていましたし、レオンは僕の幼馴染です。今夜もセシリアとの会話を盛り上げてもらおうと思っただけです」
そこへ、待ってましたとばかりにレオンが口を挟んできた。
「公爵閣下、お久しぶりでございます。ジュリアン様は心お優しいお方ですから、セシリア様のようなお堅いお方とお二人きりでは気詰まりでしょう。真の理解者である私が間に入り、滞りなくおもてなしするのが最善かと存じます」
またしても繰り返される、公爵家に対する不敬極まる発言。
「レオン。発言を許した覚えはありません」
セシリアは王城の衛兵を呼んだ。
「この者は招待者ではありません。徽章の不正使用について調べたうえで、退場させてください」
セシリアが淡々と指摘すると、レオンは大袈裟に肩をすくめて溜め息をついた。
「やれやれ、セシリア様は相変わらず冗談が通じませんね。私がどれほどジュリアン様のために気を配っているか、少しはご理解いただけないのですか?」
「レオン、言い過ぎだぞ」
ジュリアンは形ばかり注意し、衛兵の前へ立ちはだかった。
「まぁまぁセシリア、そうカリカリしないでくれよ。彼に悪気はないんだから。君がもう少し広い心を持ってくれれば、皆で楽しく過ごせるんだ」
「悪気の有無は問題ではありません」
セシリアはジュリアンを遮った。
「貴家は書面で確約し、あなたにも違反した場合の結果を伝えました。それを理解したうえで破った。これが、私たちの婚約に対するあなたの答えです」
衛兵がレオンの両脇に立つ。レオンが抗議しようと口を開くと、衛兵長が低い声で告げた。
「事情は詰め所で聞く。王城の徽章を不正に用いた疑いだ。従え」
ざわめきの中、セシリアはロザンベール伯爵夫妻のいる一角へ歩き出した。アルベルト公爵も続く。
そこには、重鎮である侯爵たちと歓談しているロザンベール伯爵夫妻の姿があった。ジュリアンは、衛兵に連行されるレオンを追おうか迷うように、その場で立ち尽くしている。
「公爵閣下、あれは……レオンではありませんか。なぜ衛兵に連れられているのです」
「貴家に渡された客人用の徽章をつけて、招待客だと偽っていた。ジュリアン殿が渡したそうだ」
伯爵は息子を振り返った。
「ジュリアン、お前は何をした! レオンを同席させないと、先方へ確約したことを忘れたのか!」
「ですが父上、レオンは私の従者です。徽章も一枚余っていたのですから、この程度で騒ぐことでは——」
「その認識こそが問題なのだ、ロザンベール伯爵」
アルベルト公爵は伯爵へ向き直った。
「貴家の確約が守られなかった以上、ジュリアン殿と我が娘セシリアの婚約を、本日付で解消する」
静まり返る周囲。
大広間の喧騒が嘘のように引き、周囲にいた貴族たちが一斉にこちらへ注目した。
「お待ちください、公爵閣下。息子には必ず厳しい処分を下します。どうか婚約については、再考の余地をいただけませんか」
伯爵が頭を下げる中、ジュリアンが声を上げた。
「公爵閣下、いきなり何を仰るのですか! 僕とセシリアはうまく行っています! 婚約解消だなんて、あまりに勝手すぎます!」
「勝手だと……?」
アルベルト公爵の鋭い眼光に射抜かれ、ジュリアンは思わず怯んだ。
セシリアは一歩前へ出た。
「ジュリアン様。『うまく行っている』とおっしゃいましたか? 正気でおっしゃっているのですか?」
「な、なんだよセシリア……。レオンを連れてきたことかい? たったそれだけで婚約解消なんて大げさだ。彼には悪気がなかったんだぞ!」
ジュリアンは納得できないというように首を振った。
「たったそれだけ、ですか」
セシリアは扇を閉じた。
「私が問題にしているのは、一度の失敗ではありません。注意を受け、書面で約束し、それでも同じ行為を選んだことです」
セシリアの合図を受け、後ろに控えていた侍女のアンナが、日記帳と数枚の書類を差し出した。セシリアは一番上の確約書を示した。
「ここには三件の記録と証言書、伯爵家から頂いた確約書があります」
「な、なんだそれは……!?」
「お茶会を無断で中断させたこと。街歩きの予定を横から変えようとしたこと。そして一週間前の観劇では、私が予約した二人席にレオンを同席させようとしたこと。私はその都度拒みました。父は直接注意し、伯爵家は再発させないと書面で約束しました」
セシリアは、記録した事実を一つずつ挙げた。
「ですがジュリアン様、あなたの返答はいつも同じでしたわね?」
セシリアはジュリアンの言葉を、そのまま返した。
「『まぁまぁ、悪気はないんだ』『僕を心配してくれているだけだ』『広い心を持ちなさい』——と」
「くッ……そ、それは……! レオンは僕の幼馴染で、親切心でやってくれていたことで……!」
「悪意がないという言葉は、責任を消してはくれません。婚約者の訴えより従者を選び、両家の約束まで破った。私は、その判断をなさる方と家を結ぶことはできません」
ジュリアンは顔を青ざめさせ、言葉を詰まらせた。
ロザンベール伯爵は確約書へ目を落としたまま、動かなかった。
アルベルト公爵は確約書を伯爵の前に置いた。
「署名は貴殿のものだな、ロザンベール伯爵」
「……はい」
「ならば弁明の余地はない。婚約契約に従って違約金を請求する。また、来期に予定していた融資と共同事業への支援は更新しない。徽章の管理については、王家の調査を受けてもらう」
「融資まで……。公爵閣下、せめて返済期限に猶予をいただくことはできませんか」
「既存の契約は守る。だが、新たな融資を続ける理由は失われた」
伯爵はそれ以上、言葉を返せなかった。ロザンベール伯爵家は近年資金難に陥っており、アルベルト公爵家から翌期も融資を受けられることを前提に、事業計画を組んでいたのだ。
「父上、融資がなければ来期の事業はどうなるのです!?」
「黙れ、ジュリアン。誰のせいでこうなったと思っている」
事態の深刻さをようやく理解したジュリアンが、セシリアへ手を伸ばした。彼女は半歩下がり、その手を避けた。
「私が差し上げた機会は、これで終わりです。ごきげんよう、ジュリアン様」
セシリアは一礼し、父とともにその場を離れた。
◇◇◇
王城で婚約解消を告げてから一か月が過ぎた。
契約違反に基づく違約金が確定し、翌期の事業支援も打ち切られた。資金繰りに窮したロザンベール伯爵家は領地の一部を手放し、屋敷と使用人を減らすことになった。
夜会での一件も社交界へ広まり、伯爵は王城の管理責任者から厳重な叱責を受けた。招待徽章を私的に使わせたジュリアンには、半年間、王家主催行事への出席禁止が申し渡された。
レオンは招待徽章を不正に使い、身分を偽って王城へ入った罪に問われた。調べの過程で、彼が門衛に「伯爵家の客人だ」と名乗っていたことも明らかになった。
判決は六か月の労役と罰金。ロザンベール伯爵家からも解雇され、主人の名を利用した虚偽が記録に残ったため、貴族家の従者として再び雇われる道は閉ざされた。
身分が低いから罰せられたのではない。警告を無視し、他人の名と徽章を使って王城へ入り込んだ。その行為に対する処罰だった。
ジュリアンは嫡嗣の座を弟へ譲らされた。父から領地の会計補佐を命じられ、失った信用と支援の重さを、帳簿の数字を通して思い知ることになったという。
それでも彼は、何度かアルベルト公爵邸へ謝罪と復縁を求める手紙を送ってきた。
『セシリア! 会ってくれ! 僕が悪かった! レオンの言葉を真に受けて、君を傷つけていたことにようやく気づいたんだ!』
『悪気はなかったんだ! 君を愛しているのは本当なんだ! だからお願いだ、もう一度やり直してくれ!』
セシリアは一通だけ返事を書いた。
『悪気がなかったことは承知しております。だからこそ、あなたは同じ選択を繰り返しました。私はその選択の結果を受け入れただけです』
以後、ジュリアンからの手紙はすべて家令に返送させた。
「悪気はなかった」——その言葉で自身の無神経さと怠慢を正当化し続けた男が、今さら何を言おうと胸に響くものは一切ない。
一方、アルベルト公爵家の執務室。
窓の外では、庭園のバラが盛りを迎えていた。
「セシリア様。王立劇場の支配人から、お便りが届いております」
侍女のアンナが微笑みを浮かべながら、銀のトレーに乗せた手紙を差し出す。
手紙には、先月見損ねた演目の再公演が決まったことと、あの二人席を改めて用意できることが記されていた。
「二席、ですか」
セシリアは少し考え、一枚の便箋を取り出した。
「アンナ。あなた、あのお芝居を見たいと言っていたわね」
「え……私がご一緒してもよろしいのですか?」
「ええ。今度こそ、最後まで静かに楽しみましょう」
アンナの顔がほころぶ。セシリアは支配人への返事を書き始めた。
誰と時間を過ごすかは、自分で選べる。
その当たり前のことが、今は何より晴れやかに思えた。
お読みいただきありがとうございました!
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