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離縁は承知しました

婚約破棄で娘の席と名を奪われた父ですが、堰の割符を引き上げただけで、婚家は詫びを寄越すことになりました

作者: 真神 慧
掲載日:2026/08/01

娘の椅子が、床を擦った。


 祝い膳の皿がかすかに鳴った。花嫁の父として、私はその音をよく覚えている。


「家の名がなければ何もできぬ娘」


 ガストン・ローデルは、卓の向こうからリディアへ言った。声はよく通り、列席者へ聞かせるための言葉であることだけは、聞き違えようがなかった。


 リディアは婚礼衣装の袖を膝に重ねていた。銀糸で縫った小花の一つを、右の人差し指が半分だけ隠した。


「お父上、その言い方は」


 ヘンリクはそこで言葉を切った。父親が杯を置くのを待ち、小さく顎を引いた。


「そのとおりです。これからローデルの者になるなら、セランの名に頼るべきではありません」


 ガストンの指が、リディアの前に置かれた皿を指した。次に、その指先が椅子へ下がった。


「まず、その席を外しなさい。家の名を取り去ったあとに何が残るか、見せてもらいましょう」


 リディアが顔を上げた。唇がわずかに開いたが、ヘンリクは返事を待たず、背後の従僕へ手を振った。


 従僕の手が椅子の背へ伸びるより早く、ヘンリク自身がそれをつかんだ。椅子を卓から引き離し、父親の横へ寄せる。木の脚がもう一度床を擦った。


「父の言うとおりにしてくれ。しばらく席を外せば済む」


 リディアは椅子の動きに合わせて立った。花嫁のために整えられた席には、皿と杯と、折られた白い布だけが残った。


 祝い膳の端に、縁組の覚書が二通置かれていた。娘の署名を待つ紙の角へ、ヘンリクが外した椅子の脚が触れた。


「婚礼の日に、このような試しが必要でしょうか」


 リディアはガストンに尋ねた。声は杯を揺らさず、袖の小花を隠した指だけが動かなかった。


「必要かどうかを決めるのは当家です。実家の名で口答えを許されてきたのでしょうが、ここでは通りません」


 ガストンは娘の返事へ言葉を重ねた。ヘンリクと目を合わせると、二人の口元が同じほど上がった。


 ヘンリクは外した椅子の背を二度たたいた。リディアには座る場所を戻さず、父親には杯を満たした。


「水のことも同じですな、エドガー殿」


 ガストンは今度は私に向き直った。娘へ向けていた顎をわずかに引き、私の名に敬称を添えた。


「水は天から降るもの。婚姻によるご厚意がなくとも、ローデルはローデルとして立てます。娘御にも、そのくらいの覚悟を持っていただかねば」


 私は膝の上で親指を曲げた。朝ごと割符を帳場の釘へ掛ける前に、その縁をひとなでする指だった。


 今朝もリディアは帳場へ来て、水順を書いた板を見ていた。いちばん下の欄を指し、下流の田はずいぶん待つのですね、と言った。


「水の順は、割符を預けた者が決めます」


 そう答えてから、私は割符の縁を親指でなで、いつもの釘へ掛けた。リディアは釘の下で揺れる木札を見たあと、婚礼衣装へ着替えるため帳場を出ていった。


 祝いの席にある覚書には、読み合わせをした一条だけ、細い墨線が引かれていた。セラン家との縁が続くあいだ、家名に付随する水配りをローデル家の直営田にも認める。その一条である。


 卓の末席から椅子の鳴る音がした。レオン・ファルドが立ち、両手で自分の椅子を持ち上げた。


「では私が席を譲ります」


 レオンは椅子をリディアの背後へ運んだ。ヘンリクが下げた椅子の代わりに置こうとしたが、リディアは座らなかった。


「お気遣いを、ありがとうございます」


 リディアはレオンへ頭を下げた。それから外された自分の椅子を見ず、私を見た。


 レオンも椅子を押しつけなかった。背から手を離し、娘より一歩後ろへ下がって立った。


「ガストン殿」


 私は祝い膳から手を引いた。杯の水面が静まるまで、ガストンは私を見返していた。


「娘をこの家へ迎える意思はない、ということでよろしいか」


 尋ねるのは一度で足りた。娘の働きを並べることも、家名を除いた値打ちを量り直してもらうことも、先方が不要とした席には要らない。


 ガストンはすぐには答えず、覚書へ目を落とした。細い墨線の上を爪でたどり、水配りの文言のところで指を止めた。


「娘御に、当家へ入る者の分をわきまえていただきたいだけです。セラン殿とのお付き合いまで損なうつもりはありません」


「迎えるか、迎えないかを確認しています」


 仲介人のマティアスが筆を置いた。飾りのない声が、祝い膳の上をまっすぐ渡った。


「リディア・セランをローデル家へ迎えない。それが当主の意思で相違ありませんか」


 ガストンの爪が覚書から離れた。リディアへ顔を向けたとき、背もたれに深く身を預けた。


「相違ありません。実家の名なしに立てぬ者を、当家へ迎えるつもりはない」


 ヘンリクは父親の言葉が終わるまで椅子の背に手を置いていた。やがて、短く答えた。


「父の決定に従います」


 私は立ち上がった。婚礼衣装の裾が卓の脚に触れぬよう、リディアへ腕を差し出した。


「承知しました。帰ろう、リディア」


 娘の指が、私の腕へ載った。袖飾りの銀糸が曲がり、隠れていた小花が一つ、掌の脇へ現れた。


 リディアはレオンへもう一度頭を下げた。自分のために置かれた椅子にも、ヘンリクが下げた椅子にも座らず、私と同じ扉へ足を向けた。


「エドガー殿、お待ちを」


 背後でガストンの椅子が鳴った。娘へ退席を命じたときとは違い、私たちの前へ回り込む足はなかった。


「これは娘御への教えです。両家の話まで終わらせる必要はないでしょう」


 私は足を止めなかった。私の腕を取る娘の指も、離れなかった。


    *    *    *


 廊下の半ばで、紙をそろえる音が追いついた。マティアスが二通の覚書を抱え、私たちの前へ回った。


「縁組の終了を記します。確認するのは一条だけです」


 マティアスは窓台に覚書を置き、墨線のある箇所を開いた。婚礼衣装、持参する調度、祝い膳の費用には触れず、縁と水配りが同じ文の中にあることだけを指で示した。


「縁組が成立しない場合、これに付随するローデル家直営田への水配りも終了する。双方、読み合わせたとおりで相違ありませんね」


「ありません」


 私は答えた。ガストンは部屋から出てきたが、マティアスの横にある覚書へ手を伸ばすだけで、こちらの前には立たなかった。


「待ちなさい。水利の条項は残してもよいはずだ」


 娘へ向けていた声より低かった。覚書を取ろうとした指をマティアスが紙の端で止めると、ガストンは私へ向き直った。


「セラン殿、別室でお話しできませんか。祝いの席で言葉が行き違っただけです。娘御の教育と、両家の水配りは分けて考えるべきでしょう」


「同じ一条に記されています」


 マティアスは覚書を動かさなかった。ガストンの指が置かれているのは、娘の名でも婚礼の日付でもなく、水配りの行だった。


「では、その箇所だけ書き直せばよい。ローデルはセランの名に頼るわけではないが、これまでの水順は維持する。それで双方の体面が立つでしょう」


「書き直しません」


 私の返事に、ガストンの指が紙から浮いた。敬称を付け直すまでに、呼吸が一つ入った。


「エドガー殿。婚礼支度まで整えたのです。娘御にとっても、今日のことを取り消すほうがよろしいのではありませんか」


 リディアは私の腕から手を外した。窓台の覚書へ向き、署名するはずだった空欄を見た。


「父が尋ねたとき、当主様はお答えになりました」


 それだけ言い、娘は廊下の先へ向き直った。ガストンはリディアへ返事をせず、もう一度、水配りの行へ指を置いた。


 マティアスは二通の覚書を重ねた。折り目を合わせ、一度、二度と畳んで私へ返した。


「縁組は成立しません。したがって、この一条も効力を持ちません」


 ガストンの手は空いたまま残った。ヘンリクは外した椅子を部屋の隅へ寄せ、廊下へ出てこなかった。


    *    *    *


 婚礼支度を積んだ車は、そのままセラン家へ戻った。仕立ての済んだ衣装、贈答用の織物、ローデル家の食器棚へ納めるはずだった銀器が、揺れるたび箱の中で触れ合った。


 取り消せない費用は私の帳面に残った。先方が不要としたものを引き取るには、空欄より数字があったほうが始末しやすい。


 リディアは向かいの席で、婚礼衣装の袖口をほどいていた。銀糸の小花を留めていた糸を一本ずつ抜き、外した飾りを掌へ載せた。


「お父さま」


「何です」


「私の支度で失った分は、私が働いてお返しします」


 車輪が石を踏み、掌の小花が一つ跳ねた。リディアは落とさず、もう片方の手で覆った。


「私の帳面へ記した。おまえの欄ではない」


 娘は次の糸へ指を掛けたが、引かなかった。窓の外へ顔を向け、家に着くまで小花を掌に置いていた。


 翌朝、帳場の釘には割符が掛かったままだった。前日の朝、私が掛けた木札である。


 リディアは婚礼衣装ではなく、いつもの薄青い服で戸口に立った。長持の鍵を持ち、空いた手で袖口を押さえていた。


 私は釘から割符を外した。毎朝してきたように、その縁を親指でひとなでした。


 木札の角には、長く掛けてきたぶんだけ丸みがあった。親指が一度、そこに留まった。


 私は割符を釘へ戻さなかった。紐を巻き、懐の内側へ納めた。


 木札が衣越しに脇腹へ当たった。帳場を歩くたび、乾いた音が一つずつついてきた。


「今日は、掛けないのですね」


「掛けません」


 リディアは釘の穴を見た。長持の鍵を机へ置き、婚礼支度の目録を自分のほうへ引いた。


「この織物は、普段着へ仕立て直せます。銀器は、家のものとして使ってもよろしいでしょうか」


「おまえが決めなさい」


 娘は目録の端を折り、仕立て直す品へ印を付けた。ローデル家へ運ぶ欄には、一本も線を足さなかった。


    *    *    *


 次の水期、雨は屋根を濡らしただけで去った。水路の底は日ごとに白くなり、泥の割れ目へ草の種が溜まった。


 上流の田から順に水門が開いた。流れは石へ当たり、細い泡を立て、定められた割符の田へ一日ずつ渡った。


 下流のファルド家は三日待った。四日目の朝には水が届き、畦の際まで黒い筋が伸びた。


 その隣にあるローデル家の枝水路だけは、砂を残したままだった。水口の板は閉じ、板の下には蜘蛛が巣を張っていた。


 ガストンは水路の底へ降りた。靴の先で砂を掻き、湿りのない土を掌ですくった。


「雨が少ないだけだ。次に降れば、ここにも来る」


 ヘンリクは土手から他家の田を見ていた。ファルド家の水口を越えた流れが、畦の向こうへ消えていく。


「ですが、あちらには来ています」


「下流ほど遅れる。順番の違いだ」


 ガストンは砂を捨て、裾へ付いた土を払った。待っても来ない日を順番と呼べば、もう一日だけ帳面を閉じずに済んだ。


 五日目にも、十日目にも、ローデル家の水口は乾いていた。苗の葉先は細く巻き、根元の土へ指を入れても、爪の間に粉が残るだけだった。


 ガストンは保管庫から前年の水順板を持ち出した。ローデル家の名の横には日付があり、その脇へ小さく「セラン家縁組分」と記されていた。


 今年の板に同じ欄はなかった。直営田の名を探した指が、板の端を二度往復した。


 ガストンとヘンリクはマティアスを呼び、畦道の上で覚書を開かせた。折り畳まれていた紙は婚礼の日と同じ箇所で開き、墨線の一条を見せた。


「縁組が成立しない場合、付随する水配りも終了する。読み合わせた文言です」


 マティアスが読むあいだ、ガストンは直営田へ背を向けていた。ヘンリクは父親の肩越しに紙をのぞき込み、水配りの行へ爪を当てた。


「これは、婚姻後に便宜を増す条項ではなかったのか」


「婚姻によって生じる割り当てです。婚姻がなければ生じません」


「だが、昨年までは流れていた」


「婚礼の準備期間に限り、セラン家が先に割符を掛けていました」


 マティアスは前年の板と覚書を重ねた。日付と墨線の位置が、紙越しに揃った。


 ガストンは私への面会を求めた。私は割符を持たずに水路へ行き、土手の上から閉じた水口を見た。


「エドガー殿。これは言葉の行き違いから生じた不都合です」


 ガストンは水路の底から上がった。私の前で裾の土を払い、両手を空けてから頭を下げた。


「娘御への言葉が過ぎた点は認めましょう。しかし、水配りまで止めるのは別の話です。以前の順へ戻していただけませんか」


「戻す順はありません」


「割符を掛けてくだされば済むことでしょう。これまで毎朝なさっていたように」


 声は抑えられていたが、覚書の水利条項へ置いた指だけが強く紙を押した。指の脇で、紙が浅くへこんだ。


「ローデル家は家名に頼らず立てると、当主御自身がおっしゃった」


「それとこれとは——」


 ガストンは言い差し、マティアスを見た。仲介人が覚書を畳み始めると、声をさらに落とした。


「別室で、条件を整え直せませんか。娘御との件を撤回し、婚礼を予定どおり進める用意があります」


 ヘンリクが半歩前へ出た。リディアの椅子を引いた手を、今度は自分の胸へ当てた。


「リディアが戻れば済む話です。父も言葉を改めると言っています」


「本人に尋ねたのですか」


 私が見ると、ヘンリクの手が胸から下りた。答えは乾いた水路の底へ落ちたまま、拾われなかった。


 マティアスは覚書を畳み、ガストンへ返した。閉じた紙の上から、水配りの一条を指で押さえた。


「この覚書は終わっています。縁だけを結び、水だけを戻すことも、水だけを残すこともできません」


 ガストンの背後で、直営田の苗が風に押された。葉と葉が擦れても、水音にはならなかった。


 秋、ローデル家の収穫帳は三枚目まで空欄が続いた。ガストンは不足分の穀物を他家から買い入れ、働く者へ渡す分と翌年の種籾を、自家の蔵から出す銀で賄うことになった。


 売り手が差し出した注文書には、量と支払日が並んでいた。ガストンは一行ごとに目を動かし、最後の欄で印章を止めた。


「この量をすべて、当家が負うのか」


「直営田の不足分です」


 マティアスの返事を聞き、ガストンは朱肉へ印章を押した。一度目は朱が薄く、二度目の印が少しずれて重なった。


 その紙に、セラン家の欄はなかった。リディアの持参金を当てる欄も、割符を借りる欄もない。


 ガストンは注文書を売り手へ渡した。受領の印が押され、銀貨を入れた箱が卓の向こうへ引かれた。


 ヘンリクは箱の消えた場所を見ていた。やがて父親へ顔を寄せたが、ガストンは手を上げて言葉を止めた。


「マティアス殿。セラン家に、正式な面会を願いたい」


 娘へ返答を許さなかった口が、仲介人の返事を待った。マティアスは日時だけを書き留め、覚書を鞄へ戻した。


    *    *    *


 面会の日、私は客間の中央へ椅子を一つ置かせた。リディアが座る椅子である。


 私の席は右に離し、マティアスの席は扉の近くにした。向かいにはガストンとヘンリクの椅子を並べたが、どちらにも肘掛けはなかった。


 二人は入室すると、リディアの前で足を止めた。ガストンが先に腰を折り、ヘンリクは半拍遅れて同じ角度まで頭を下げた。


「婚礼の席での言葉を撤回いたします。娘御に、改めてローデル家へお越しいただきたい」


 ガストンの声は卓を越えなかった。頭を下げたまま、指先だけが膝の上で動いた。


「もちろん、セラン家との縁も以前どおり大切にいたします。水配りにつきましても、元の覚書へ戻していただければ」


 リディアは椅子へ深く腰掛けていた。外された席へ戻ろうとした日の袖飾りはなく、薄青い袖から出た両手が、肘掛けではなく膝の上に置かれていた。


 マティアスが鞄から覚書を出した。開かず、畳んだまま卓の中央へ置いた。


「お迎えになりたいのは、先の席で何と評した方ですか」


 ガストンの頭がわずかに上がった。マティアスは同じ調子で、婚礼の日の言葉を返した。


「家の名がなければ何もできぬ娘」


 客間の時計が一つ鳴った。ガストンの指が膝から落ち、椅子の端をつかんだ。


「言葉が過ぎたと申し上げています。娘御を得れば、両家にとって元の形が——」


「水は天から降ります。ただ、どこへ流すかは人が決めるのです」


 ガストンの口が閉じた。ヘンリクは父親より先に顔を上げ、リディアへ身を乗り出した。


「戻れば済む。今度は席を外させたりしない」


 リディアはヘンリクを見た。膝の上の指をほどき、椅子の背へまっすぐ戻した。


「私の席を外したのは、あなたです」


「父の命令だった」


「あなたの手でした」


 ヘンリクは背もたれへ戻った。ガストンが横から見ても、もう同じ言葉を繰り返さなかった。


「お詫びは受け取ります。ですが、私は戻りません」


 リディアがガストンへ告げた。私はガストンへ向き直り、懐の割符を取り出さなかった。


「縁は結び直しません。水配りも戻しません。ローデル家の田については、ローデル家の当主が始末なさることです」


「領内の者まで困るのですぞ」


「その者たちの扶養を記した注文書へ、あなたが印を押したと聞いています」


 ガストンの肩が下がった。二重になった印影の注文書は、すでに売り手の帳場へ納められている。


 マティアスは卓上の覚書を取り、私へ返した。私は受け取らず、閉じたまま処分するよう告げた。


 ガストンはもう一度頭を下げた。最初より深かったが、私は角度を数えなかった。


 ヘンリクは立ち上がると、リディアの椅子を一度見た。手を伸ばさず、父親の後ろから客間を出た。


 二人が去っても、割符は私の懐にあった。リディアは追わず、自分の椅子から立ち上がった。


「お父さま、ありがとうございました」


 私は返事の代わりに扉を開けた。娘は私の腕を取らず、自分の足で敷居を越えた。


    *    *    *


 冬を一つ越えたころ、レオン・ファルドが訪ねてきた。持ってきたのは水順の板でも、家同士の覚書でもなく、小さな木箱だった。


 箱の中には銀糸を通した針が入っていた。婚礼の日、リディアの袖から外した小花を、普段着へ縫い直すための細い針だった。


「リディア殿に、お話があります」


 レオンは私ではなく、娘へ言った。私の返事を待たずに進めるのではなく、リディアが椅子へ座るまで立って待った。


 客間には三脚の椅子があった。婚礼の日のように誰かの席を動かさず、レオンは娘の向かいへ腰掛けた。


 私は窓際の椅子に座った。二人の間にある卓へ、割符も帳面も置かなかった。


「私は、あの日、あなたへ椅子を差し出しました」


 レオンは膝の上で両手を組んだ。リディアは木箱の蓋に指を置き、続きを待った。


「ですが、あなたは座らなかった。外された席へ戻るよう求めず、エドガー殿の腕を取って、ご自分で扉を出ていかれました」


「はい」


「その後も、ローデル家へ戻るためではなく、ご自分の暮らしへ婚礼支度を縫い直したと伺いました」


 レオンはそこで私を見なかった。家名も、水も、私の後ろ盾も、問いの中へ持ち込まなかった。


「私は、あなたを妻に迎えたい。セラン家の娘としてではなく、あの日、どの椅子へ座るかをご自分で決めたリディア殿に、私の隣へ来ていただきたいのです」


 窓の外で、帳場の戸が風に鳴った。私は立って閉めに行くこともできたが、膝の上の手を動かさなかった。


「すぐにとは申しません。お断りになっても、ファルド家の水順が変わることはありません。次の水期も、私どもは定められた日まで待ちます」


 リディアの指が木箱の蓋を開いた。中の針を一本取り、光へかざした。


「お父さま」


 呼ばれて、私は娘を見た。家同士の釣り合いも、次男の暮らし向きも、確かめる言葉ならいくつも浮かんだ。


 私は椅子の肘から手を下ろした。口は挟まなかった。


 リディアはレオンへ向き直った。膝の上に針を置き、今度は自分の両手を重ねた。


「私がお返事いたします」


 レオンは背筋を伸ばした。急かす言葉も、父親へ許しを求める視線もなかった。


「私は、あなたのお申し出をお受けします」


 リディアは「父が」でも「セラン家が」でもなく、もう一度「私」と言った。


「婚礼の日に譲ってくださった椅子ではなく、これから二人で置く席へ参ります。私が、そう決めました」


 レオンは立ち上がった。娘の手を取る前に掌を上へ向け、そこへ置かれるのを待った。


 リディアは針を木箱へ戻した。それから自分の手を、レオンの掌へ重ねた。


 私は二人より先に立たなかった。割符を渡すことも、新しい覚書を広げることもなく、娘の指が自分で選んだ手に収まるまで座っていた。


 やがてリディアが立ち、レオンも同じ側へ並んだ。二人の間には、誰かに外された椅子はなかった。


 私は窓際の椅子から腰を上げた。娘へ差し出してきた腕を背へ回し、客間の扉だけを開けた。


 リディアは私の腕を取らなかった。もう、その腕を要らない場所まで、自分の足で歩いていた。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

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