婚約破棄で娘の席と名を奪われた父ですが、堰の割符を引き上げただけで、婚家は詫びを寄越すことになりました
娘の椅子が、床を擦った。
祝い膳の皿がかすかに鳴った。花嫁の父として、私はその音をよく覚えている。
「家の名がなければ何もできぬ娘」
ガストン・ローデルは、卓の向こうからリディアへ言った。声はよく通り、列席者へ聞かせるための言葉であることだけは、聞き違えようがなかった。
リディアは婚礼衣装の袖を膝に重ねていた。銀糸で縫った小花の一つを、右の人差し指が半分だけ隠した。
「お父上、その言い方は」
ヘンリクはそこで言葉を切った。父親が杯を置くのを待ち、小さく顎を引いた。
「そのとおりです。これからローデルの者になるなら、セランの名に頼るべきではありません」
ガストンの指が、リディアの前に置かれた皿を指した。次に、その指先が椅子へ下がった。
「まず、その席を外しなさい。家の名を取り去ったあとに何が残るか、見せてもらいましょう」
リディアが顔を上げた。唇がわずかに開いたが、ヘンリクは返事を待たず、背後の従僕へ手を振った。
従僕の手が椅子の背へ伸びるより早く、ヘンリク自身がそれをつかんだ。椅子を卓から引き離し、父親の横へ寄せる。木の脚がもう一度床を擦った。
「父の言うとおりにしてくれ。しばらく席を外せば済む」
リディアは椅子の動きに合わせて立った。花嫁のために整えられた席には、皿と杯と、折られた白い布だけが残った。
祝い膳の端に、縁組の覚書が二通置かれていた。娘の署名を待つ紙の角へ、ヘンリクが外した椅子の脚が触れた。
「婚礼の日に、このような試しが必要でしょうか」
リディアはガストンに尋ねた。声は杯を揺らさず、袖の小花を隠した指だけが動かなかった。
「必要かどうかを決めるのは当家です。実家の名で口答えを許されてきたのでしょうが、ここでは通りません」
ガストンは娘の返事へ言葉を重ねた。ヘンリクと目を合わせると、二人の口元が同じほど上がった。
ヘンリクは外した椅子の背を二度たたいた。リディアには座る場所を戻さず、父親には杯を満たした。
「水のことも同じですな、エドガー殿」
ガストンは今度は私に向き直った。娘へ向けていた顎をわずかに引き、私の名に敬称を添えた。
「水は天から降るもの。婚姻によるご厚意がなくとも、ローデルはローデルとして立てます。娘御にも、そのくらいの覚悟を持っていただかねば」
私は膝の上で親指を曲げた。朝ごと割符を帳場の釘へ掛ける前に、その縁をひとなでする指だった。
今朝もリディアは帳場へ来て、水順を書いた板を見ていた。いちばん下の欄を指し、下流の田はずいぶん待つのですね、と言った。
「水の順は、割符を預けた者が決めます」
そう答えてから、私は割符の縁を親指でなで、いつもの釘へ掛けた。リディアは釘の下で揺れる木札を見たあと、婚礼衣装へ着替えるため帳場を出ていった。
祝いの席にある覚書には、読み合わせをした一条だけ、細い墨線が引かれていた。セラン家との縁が続くあいだ、家名に付随する水配りをローデル家の直営田にも認める。その一条である。
卓の末席から椅子の鳴る音がした。レオン・ファルドが立ち、両手で自分の椅子を持ち上げた。
「では私が席を譲ります」
レオンは椅子をリディアの背後へ運んだ。ヘンリクが下げた椅子の代わりに置こうとしたが、リディアは座らなかった。
「お気遣いを、ありがとうございます」
リディアはレオンへ頭を下げた。それから外された自分の椅子を見ず、私を見た。
レオンも椅子を押しつけなかった。背から手を離し、娘より一歩後ろへ下がって立った。
「ガストン殿」
私は祝い膳から手を引いた。杯の水面が静まるまで、ガストンは私を見返していた。
「娘をこの家へ迎える意思はない、ということでよろしいか」
尋ねるのは一度で足りた。娘の働きを並べることも、家名を除いた値打ちを量り直してもらうことも、先方が不要とした席には要らない。
ガストンはすぐには答えず、覚書へ目を落とした。細い墨線の上を爪でたどり、水配りの文言のところで指を止めた。
「娘御に、当家へ入る者の分をわきまえていただきたいだけです。セラン殿とのお付き合いまで損なうつもりはありません」
「迎えるか、迎えないかを確認しています」
仲介人のマティアスが筆を置いた。飾りのない声が、祝い膳の上をまっすぐ渡った。
「リディア・セランをローデル家へ迎えない。それが当主の意思で相違ありませんか」
ガストンの爪が覚書から離れた。リディアへ顔を向けたとき、背もたれに深く身を預けた。
「相違ありません。実家の名なしに立てぬ者を、当家へ迎えるつもりはない」
ヘンリクは父親の言葉が終わるまで椅子の背に手を置いていた。やがて、短く答えた。
「父の決定に従います」
私は立ち上がった。婚礼衣装の裾が卓の脚に触れぬよう、リディアへ腕を差し出した。
「承知しました。帰ろう、リディア」
娘の指が、私の腕へ載った。袖飾りの銀糸が曲がり、隠れていた小花が一つ、掌の脇へ現れた。
リディアはレオンへもう一度頭を下げた。自分のために置かれた椅子にも、ヘンリクが下げた椅子にも座らず、私と同じ扉へ足を向けた。
「エドガー殿、お待ちを」
背後でガストンの椅子が鳴った。娘へ退席を命じたときとは違い、私たちの前へ回り込む足はなかった。
「これは娘御への教えです。両家の話まで終わらせる必要はないでしょう」
私は足を止めなかった。私の腕を取る娘の指も、離れなかった。
* * *
廊下の半ばで、紙をそろえる音が追いついた。マティアスが二通の覚書を抱え、私たちの前へ回った。
「縁組の終了を記します。確認するのは一条だけです」
マティアスは窓台に覚書を置き、墨線のある箇所を開いた。婚礼衣装、持参する調度、祝い膳の費用には触れず、縁と水配りが同じ文の中にあることだけを指で示した。
「縁組が成立しない場合、これに付随するローデル家直営田への水配りも終了する。双方、読み合わせたとおりで相違ありませんね」
「ありません」
私は答えた。ガストンは部屋から出てきたが、マティアスの横にある覚書へ手を伸ばすだけで、こちらの前には立たなかった。
「待ちなさい。水利の条項は残してもよいはずだ」
娘へ向けていた声より低かった。覚書を取ろうとした指をマティアスが紙の端で止めると、ガストンは私へ向き直った。
「セラン殿、別室でお話しできませんか。祝いの席で言葉が行き違っただけです。娘御の教育と、両家の水配りは分けて考えるべきでしょう」
「同じ一条に記されています」
マティアスは覚書を動かさなかった。ガストンの指が置かれているのは、娘の名でも婚礼の日付でもなく、水配りの行だった。
「では、その箇所だけ書き直せばよい。ローデルはセランの名に頼るわけではないが、これまでの水順は維持する。それで双方の体面が立つでしょう」
「書き直しません」
私の返事に、ガストンの指が紙から浮いた。敬称を付け直すまでに、呼吸が一つ入った。
「エドガー殿。婚礼支度まで整えたのです。娘御にとっても、今日のことを取り消すほうがよろしいのではありませんか」
リディアは私の腕から手を外した。窓台の覚書へ向き、署名するはずだった空欄を見た。
「父が尋ねたとき、当主様はお答えになりました」
それだけ言い、娘は廊下の先へ向き直った。ガストンはリディアへ返事をせず、もう一度、水配りの行へ指を置いた。
マティアスは二通の覚書を重ねた。折り目を合わせ、一度、二度と畳んで私へ返した。
「縁組は成立しません。したがって、この一条も効力を持ちません」
ガストンの手は空いたまま残った。ヘンリクは外した椅子を部屋の隅へ寄せ、廊下へ出てこなかった。
* * *
婚礼支度を積んだ車は、そのままセラン家へ戻った。仕立ての済んだ衣装、贈答用の織物、ローデル家の食器棚へ納めるはずだった銀器が、揺れるたび箱の中で触れ合った。
取り消せない費用は私の帳面に残った。先方が不要としたものを引き取るには、空欄より数字があったほうが始末しやすい。
リディアは向かいの席で、婚礼衣装の袖口をほどいていた。銀糸の小花を留めていた糸を一本ずつ抜き、外した飾りを掌へ載せた。
「お父さま」
「何です」
「私の支度で失った分は、私が働いてお返しします」
車輪が石を踏み、掌の小花が一つ跳ねた。リディアは落とさず、もう片方の手で覆った。
「私の帳面へ記した。おまえの欄ではない」
娘は次の糸へ指を掛けたが、引かなかった。窓の外へ顔を向け、家に着くまで小花を掌に置いていた。
翌朝、帳場の釘には割符が掛かったままだった。前日の朝、私が掛けた木札である。
リディアは婚礼衣装ではなく、いつもの薄青い服で戸口に立った。長持の鍵を持ち、空いた手で袖口を押さえていた。
私は釘から割符を外した。毎朝してきたように、その縁を親指でひとなでした。
木札の角には、長く掛けてきたぶんだけ丸みがあった。親指が一度、そこに留まった。
私は割符を釘へ戻さなかった。紐を巻き、懐の内側へ納めた。
木札が衣越しに脇腹へ当たった。帳場を歩くたび、乾いた音が一つずつついてきた。
「今日は、掛けないのですね」
「掛けません」
リディアは釘の穴を見た。長持の鍵を机へ置き、婚礼支度の目録を自分のほうへ引いた。
「この織物は、普段着へ仕立て直せます。銀器は、家のものとして使ってもよろしいでしょうか」
「おまえが決めなさい」
娘は目録の端を折り、仕立て直す品へ印を付けた。ローデル家へ運ぶ欄には、一本も線を足さなかった。
* * *
次の水期、雨は屋根を濡らしただけで去った。水路の底は日ごとに白くなり、泥の割れ目へ草の種が溜まった。
上流の田から順に水門が開いた。流れは石へ当たり、細い泡を立て、定められた割符の田へ一日ずつ渡った。
下流のファルド家は三日待った。四日目の朝には水が届き、畦の際まで黒い筋が伸びた。
その隣にあるローデル家の枝水路だけは、砂を残したままだった。水口の板は閉じ、板の下には蜘蛛が巣を張っていた。
ガストンは水路の底へ降りた。靴の先で砂を掻き、湿りのない土を掌ですくった。
「雨が少ないだけだ。次に降れば、ここにも来る」
ヘンリクは土手から他家の田を見ていた。ファルド家の水口を越えた流れが、畦の向こうへ消えていく。
「ですが、あちらには来ています」
「下流ほど遅れる。順番の違いだ」
ガストンは砂を捨て、裾へ付いた土を払った。待っても来ない日を順番と呼べば、もう一日だけ帳面を閉じずに済んだ。
五日目にも、十日目にも、ローデル家の水口は乾いていた。苗の葉先は細く巻き、根元の土へ指を入れても、爪の間に粉が残るだけだった。
ガストンは保管庫から前年の水順板を持ち出した。ローデル家の名の横には日付があり、その脇へ小さく「セラン家縁組分」と記されていた。
今年の板に同じ欄はなかった。直営田の名を探した指が、板の端を二度往復した。
ガストンとヘンリクはマティアスを呼び、畦道の上で覚書を開かせた。折り畳まれていた紙は婚礼の日と同じ箇所で開き、墨線の一条を見せた。
「縁組が成立しない場合、付随する水配りも終了する。読み合わせた文言です」
マティアスが読むあいだ、ガストンは直営田へ背を向けていた。ヘンリクは父親の肩越しに紙をのぞき込み、水配りの行へ爪を当てた。
「これは、婚姻後に便宜を増す条項ではなかったのか」
「婚姻によって生じる割り当てです。婚姻がなければ生じません」
「だが、昨年までは流れていた」
「婚礼の準備期間に限り、セラン家が先に割符を掛けていました」
マティアスは前年の板と覚書を重ねた。日付と墨線の位置が、紙越しに揃った。
ガストンは私への面会を求めた。私は割符を持たずに水路へ行き、土手の上から閉じた水口を見た。
「エドガー殿。これは言葉の行き違いから生じた不都合です」
ガストンは水路の底から上がった。私の前で裾の土を払い、両手を空けてから頭を下げた。
「娘御への言葉が過ぎた点は認めましょう。しかし、水配りまで止めるのは別の話です。以前の順へ戻していただけませんか」
「戻す順はありません」
「割符を掛けてくだされば済むことでしょう。これまで毎朝なさっていたように」
声は抑えられていたが、覚書の水利条項へ置いた指だけが強く紙を押した。指の脇で、紙が浅くへこんだ。
「ローデル家は家名に頼らず立てると、当主御自身がおっしゃった」
「それとこれとは——」
ガストンは言い差し、マティアスを見た。仲介人が覚書を畳み始めると、声をさらに落とした。
「別室で、条件を整え直せませんか。娘御との件を撤回し、婚礼を予定どおり進める用意があります」
ヘンリクが半歩前へ出た。リディアの椅子を引いた手を、今度は自分の胸へ当てた。
「リディアが戻れば済む話です。父も言葉を改めると言っています」
「本人に尋ねたのですか」
私が見ると、ヘンリクの手が胸から下りた。答えは乾いた水路の底へ落ちたまま、拾われなかった。
マティアスは覚書を畳み、ガストンへ返した。閉じた紙の上から、水配りの一条を指で押さえた。
「この覚書は終わっています。縁だけを結び、水だけを戻すことも、水だけを残すこともできません」
ガストンの背後で、直営田の苗が風に押された。葉と葉が擦れても、水音にはならなかった。
秋、ローデル家の収穫帳は三枚目まで空欄が続いた。ガストンは不足分の穀物を他家から買い入れ、働く者へ渡す分と翌年の種籾を、自家の蔵から出す銀で賄うことになった。
売り手が差し出した注文書には、量と支払日が並んでいた。ガストンは一行ごとに目を動かし、最後の欄で印章を止めた。
「この量をすべて、当家が負うのか」
「直営田の不足分です」
マティアスの返事を聞き、ガストンは朱肉へ印章を押した。一度目は朱が薄く、二度目の印が少しずれて重なった。
その紙に、セラン家の欄はなかった。リディアの持参金を当てる欄も、割符を借りる欄もない。
ガストンは注文書を売り手へ渡した。受領の印が押され、銀貨を入れた箱が卓の向こうへ引かれた。
ヘンリクは箱の消えた場所を見ていた。やがて父親へ顔を寄せたが、ガストンは手を上げて言葉を止めた。
「マティアス殿。セラン家に、正式な面会を願いたい」
娘へ返答を許さなかった口が、仲介人の返事を待った。マティアスは日時だけを書き留め、覚書を鞄へ戻した。
* * *
面会の日、私は客間の中央へ椅子を一つ置かせた。リディアが座る椅子である。
私の席は右に離し、マティアスの席は扉の近くにした。向かいにはガストンとヘンリクの椅子を並べたが、どちらにも肘掛けはなかった。
二人は入室すると、リディアの前で足を止めた。ガストンが先に腰を折り、ヘンリクは半拍遅れて同じ角度まで頭を下げた。
「婚礼の席での言葉を撤回いたします。娘御に、改めてローデル家へお越しいただきたい」
ガストンの声は卓を越えなかった。頭を下げたまま、指先だけが膝の上で動いた。
「もちろん、セラン家との縁も以前どおり大切にいたします。水配りにつきましても、元の覚書へ戻していただければ」
リディアは椅子へ深く腰掛けていた。外された席へ戻ろうとした日の袖飾りはなく、薄青い袖から出た両手が、肘掛けではなく膝の上に置かれていた。
マティアスが鞄から覚書を出した。開かず、畳んだまま卓の中央へ置いた。
「お迎えになりたいのは、先の席で何と評した方ですか」
ガストンの頭がわずかに上がった。マティアスは同じ調子で、婚礼の日の言葉を返した。
「家の名がなければ何もできぬ娘」
客間の時計が一つ鳴った。ガストンの指が膝から落ち、椅子の端をつかんだ。
「言葉が過ぎたと申し上げています。娘御を得れば、両家にとって元の形が——」
「水は天から降ります。ただ、どこへ流すかは人が決めるのです」
ガストンの口が閉じた。ヘンリクは父親より先に顔を上げ、リディアへ身を乗り出した。
「戻れば済む。今度は席を外させたりしない」
リディアはヘンリクを見た。膝の上の指をほどき、椅子の背へまっすぐ戻した。
「私の席を外したのは、あなたです」
「父の命令だった」
「あなたの手でした」
ヘンリクは背もたれへ戻った。ガストンが横から見ても、もう同じ言葉を繰り返さなかった。
「お詫びは受け取ります。ですが、私は戻りません」
リディアがガストンへ告げた。私はガストンへ向き直り、懐の割符を取り出さなかった。
「縁は結び直しません。水配りも戻しません。ローデル家の田については、ローデル家の当主が始末なさることです」
「領内の者まで困るのですぞ」
「その者たちの扶養を記した注文書へ、あなたが印を押したと聞いています」
ガストンの肩が下がった。二重になった印影の注文書は、すでに売り手の帳場へ納められている。
マティアスは卓上の覚書を取り、私へ返した。私は受け取らず、閉じたまま処分するよう告げた。
ガストンはもう一度頭を下げた。最初より深かったが、私は角度を数えなかった。
ヘンリクは立ち上がると、リディアの椅子を一度見た。手を伸ばさず、父親の後ろから客間を出た。
二人が去っても、割符は私の懐にあった。リディアは追わず、自分の椅子から立ち上がった。
「お父さま、ありがとうございました」
私は返事の代わりに扉を開けた。娘は私の腕を取らず、自分の足で敷居を越えた。
* * *
冬を一つ越えたころ、レオン・ファルドが訪ねてきた。持ってきたのは水順の板でも、家同士の覚書でもなく、小さな木箱だった。
箱の中には銀糸を通した針が入っていた。婚礼の日、リディアの袖から外した小花を、普段着へ縫い直すための細い針だった。
「リディア殿に、お話があります」
レオンは私ではなく、娘へ言った。私の返事を待たずに進めるのではなく、リディアが椅子へ座るまで立って待った。
客間には三脚の椅子があった。婚礼の日のように誰かの席を動かさず、レオンは娘の向かいへ腰掛けた。
私は窓際の椅子に座った。二人の間にある卓へ、割符も帳面も置かなかった。
「私は、あの日、あなたへ椅子を差し出しました」
レオンは膝の上で両手を組んだ。リディアは木箱の蓋に指を置き、続きを待った。
「ですが、あなたは座らなかった。外された席へ戻るよう求めず、エドガー殿の腕を取って、ご自分で扉を出ていかれました」
「はい」
「その後も、ローデル家へ戻るためではなく、ご自分の暮らしへ婚礼支度を縫い直したと伺いました」
レオンはそこで私を見なかった。家名も、水も、私の後ろ盾も、問いの中へ持ち込まなかった。
「私は、あなたを妻に迎えたい。セラン家の娘としてではなく、あの日、どの椅子へ座るかをご自分で決めたリディア殿に、私の隣へ来ていただきたいのです」
窓の外で、帳場の戸が風に鳴った。私は立って閉めに行くこともできたが、膝の上の手を動かさなかった。
「すぐにとは申しません。お断りになっても、ファルド家の水順が変わることはありません。次の水期も、私どもは定められた日まで待ちます」
リディアの指が木箱の蓋を開いた。中の針を一本取り、光へかざした。
「お父さま」
呼ばれて、私は娘を見た。家同士の釣り合いも、次男の暮らし向きも、確かめる言葉ならいくつも浮かんだ。
私は椅子の肘から手を下ろした。口は挟まなかった。
リディアはレオンへ向き直った。膝の上に針を置き、今度は自分の両手を重ねた。
「私がお返事いたします」
レオンは背筋を伸ばした。急かす言葉も、父親へ許しを求める視線もなかった。
「私は、あなたのお申し出をお受けします」
リディアは「父が」でも「セラン家が」でもなく、もう一度「私」と言った。
「婚礼の日に譲ってくださった椅子ではなく、これから二人で置く席へ参ります。私が、そう決めました」
レオンは立ち上がった。娘の手を取る前に掌を上へ向け、そこへ置かれるのを待った。
リディアは針を木箱へ戻した。それから自分の手を、レオンの掌へ重ねた。
私は二人より先に立たなかった。割符を渡すことも、新しい覚書を広げることもなく、娘の指が自分で選んだ手に収まるまで座っていた。
やがてリディアが立ち、レオンも同じ側へ並んだ。二人の間には、誰かに外された椅子はなかった。
私は窓際の椅子から腰を上げた。娘へ差し出してきた腕を背へ回し、客間の扉だけを開けた。
リディアは私の腕を取らなかった。もう、その腕を要らない場所まで、自分の足で歩いていた。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




