皇太女は愛しの属国公子を手にいれる
よくあるテンプレ婚約破棄騒動の物語。
「セレウス・ブルーミング! この場をもって、お前との婚約を破棄することを宣言するわ!」
高らかに響いた可憐な声を、私は冷めた目で見つめていた。手にした扇子を静かに開き、口元を隠す。その奥には、堪えきれない笑みが浮かんでいる。
今日はローザリア帝国の属国の一つ、リリウム王国の建国記念日だ。式典の後に開かれた夜会の最中、よりにもよって今、最近流行りの“婚約破棄騒動”が始まっていた。
舞台劇で婚約破棄を題材にした物語が流行して以来、浅はかな令嬢や令息がそれに影響され、この手の騒ぎを起こすことが増えていた。だが、まさかこの国の王女が、しかもこの正式な夜会の場でやらかすとは思いもしなかった。
婚約破棄を宣言したのは、リリウム王国の王女カプリシア・リリウム。
彼女の正面で顔色を悪くしている青年が、ブルーミング公爵家嫡男セレウス・ブルーミングだ。
突然の騒動に、壇上の席にいた国王と王妃、そしてカプリシアの母である第三側妃が青ざめた顔でこちらを見上げていた。彼らより一段高く設けられた席に座る私に、怯えを孕んだ視線が集まる。
私はその視線を受けながらも、ただ冷ややかな眼差しをカプリシアへ向け続けていた。
階下では、カプリシアの傍らにブルーミング家次男のアンドリューが寄り添っている。恋人のように自然な仕草で彼女の腰へ手を回し、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
一方、婚約者であるはずのセレウスは、その二人の前でぽつんと立ち尽くしている。血の気を失った顔のまま、ただ事態を受け止めきれずにいるようだった。
そこへ、焦った様子で王太子エルモンド・リリウムが駆け寄ってくる。
「カプリシア! お前、なんてことを……! よりにもよってエリザベス様がいらっしゃる時に!」
妹を叱りつけながら、彼はこちらへとちらりと視線を向けた。その顔色は国王たちと同じように青ざめている。
まるで叱られることを恐れる子犬のような様子に、思わず少し頬が緩んだ。
(エルはいつも私を怯えたように見てくるのだから、困った子だこと)
そう思いながらも、私は扇子を広げたまま、ただ黙って彼らを見つめ続けていた。
「お兄様、セレウスはあたくしとアンドリューの仲に嫉妬して、可哀想なアンドリューをいじめたのですわ。そんな男と私は結婚などしたくありませんの。別に同じ公爵家なのですから、アンドリューでもよろしいではありませんか!」
胸を張って言い放つ妹に、エルモンドは顔色を変えた。
「何を言っているんだお前! セレウスが嫡男だからこそ、お前はその妻として公爵家へ嫁ぐための婚約なのだぞ! そもそもこの婚約は、我が王家が公爵家になんとか取りつけたものだというのに……」
そこまで言って、エルモンドは再びこちらへ視線を向けた。
青ざめた顔のままこちらを見つめてくる様子に、私はつい堪えきれず苦笑を漏らした。
そんな兄の焦りも怯えも知らぬ顔で、愚かな妹は婚約破棄を撤回しようともしない。それどころかセレウスの弟アンドリューに身を寄せ、
「あと少しで、私たちの真実の愛が実りますわ」
などと、うっとりした声で囁いている。
当のセレウスはというと、ただ俯いたまま動かない。顔を上げることすらできず、床を見つめ続けている。
(そろそろ、本当に可哀想になってきた)
そう思い、私は動くことを決めた。
ゆっくりと腰を上げる。
それだけで、会場の空気が凍りついた。
誰一人として声を発しないまま、居並ぶ貴族たちが固唾を飲んで私を見守っている。
セレウスですらはっと顔を上げ、こちらを見た。
その瞳には、はっきりと不安が揺れている。
(あら、セレウスったら……何をそんなに不安がっているのかしら)
そう思いながら、私は優雅な足取りで階段を下りる。
そして何も言わぬまま、件の者たちの前へと歩み寄っていった。
「エ、エリザベス様……あの、その……」
何か言おうとしているらしいエルモンドは、すでに言葉になっていなかった。完全に怯えた子犬のような様子でこちらを見上げている。
私はあえて冷ややかな視線を向ける。
「ひぇ……リズお姉様……」
すると彼は、幼い頃の呼び方に戻ってしまった。
この国の男たちはどうにもか弱い。見ていると少し不安になってしまう。もっとも、私が目をかけている国なのだから、大事に至ることはないのだけれど。
そんなエルモンドの様子など目に入っていないのか、カプリシアは平然と口を開いた。
「エリザベス様……何かご用ですか」
まるで状況が分かっていない口ぶりだった。
どうやらこの王女は、私の立場と己の立場を理解していないらしい。
私はちらりと国王へ視線を向ける。
すると国王はわずかに顔をこわばらせ、視線を逸らした。
どうやら私が忙しくしていた間に、末娘を甘やかしすぎたようだ。
カプリシアは、私が帝位継承権を巡って兄弟たちと争い、忙しくしていた時期に成長した子だ。正直なところ、あまり関わりがないのも事実だった。
私はゆっくりと歩み寄り、不安げにこちらを見つめ続けていたセレウスの隣へ立つ。
そのまま彼の顎へ閉じた扇子の先を当て、顔を上げさせる。
美しい金色の瞳と目が合った。
その瞳には不安とともに――私に失望されたのではないかという恐怖が、はっきりと揺れている。
(別に、こんな些細なことでセレウスに失望するはずがないのだけれど)
そう思いながら、私は彼の瞳を覗き込むように少しだけ顔を近づけた。
「セレウス、お前。なんて顔をしているのだ? それにその貧相な身なりは何だ。目元には隈が濃いし、食事もきちんと取っていないのだろう? だめだぞ、そんなことでは」
するとセレウスは小さく肩を震わせ、
「も、申し訳……ありません。リズお姉様……」
と、かすれた声で謝ってきた。
(エルも子犬みたいだけれど、一番心を揺さぶられる子犬はこっちね)
こんな場違いな状況だというのに、少しだけ頬が緩んでしまう。
私はどうやら、この国の子犬のような男たちに弱いらしい。
そんな私たち二人の様子を、周囲は息を詰めて見守っていた。
その張り詰めた空気とは対照的に、カプリシアはなおも口を開く。
「エリザベス様、なぜその者を気にかけるのです? セレウスはアンドリューを――」
言い終える前に、私は遮った。
そして今日一番の冷たい視線を向け、静かに命じる。
「お前に発言を許した覚えはないぞ」
その一言で、会場の空気がさらに一段階冷えた。
「ひぇ……」
カプリシアは兄エルモンドと同じ声を上げ、その場にしゃがみ込む。隣にいたアンドリューもまた威圧に呑まれ、二人並んでまるで生まれたての子鹿のように震えていた。
私はそれを一瞥してから、再び目の前のセレウスへ視線を戻す。
不安に揺れる金の瞳を見つめながら、私はそっと彼の頬へ手を当てた。
彼の頬は冷えきっている。
私の温もりが伝わるように優しく撫でながら、微笑む。
セレウスの頬がわずかに赤く染まり、同時に会場の空気も揺らいだ。私の微笑みに、何人もの貴族が思わず息を呑んだ気配がする。
「セレウス。婚約を――破棄するのか?」
簡潔に問いかける。
彼は一瞬迷うように視線を逸らした。
――もう少しで落ちるか。
そう思いながら、私は静かに言葉を重ねた。
「セレウス。私のものになるのならば、私はお前を守り、慈しみ、幸せにすると――我が名において誓おう」
その宣言は、重い意味を持っていた。
ローザリア帝国の皇族には魔法を操る者が多く、その中でも帝位継承権を持つ者は特に強い力を宿す。帝国の魔法使いである皇族が自らの名において誓うということは――すなわち命を賭けた誓約を結ぶということだった。
私が「誓おう」と口にした瞬間、空気が揺らぎ、薔薇の花弁が舞うように淡い光が広がった。
魔法が契約の準備を整える。
もし彼が頷けば――その瞬間から彼が死ぬまで、私は彼を守り、慈しみ、幸せにし続けなければならない。
もしそれを破れば。
潰えるのは、私の命だ。
その意味を正確に理解しているセレウスは、驚いたように目を見開いて私を見つめた。
そしてやがて――何かを決意したように、瞳に光が宿る。
彼は静かに跪いた。
恭しく私の手を取り、自らの額へと導く。
そのまま手の甲に額を触れさせ、誓うように言った。
「我が命運はすべて、あなたに委ねます。
私、セレウス・ブルーミングは、カプリシア王女との婚姻を破棄し――
我が身のすべてを、エリザベス様に捧げます」
まるで騎士の誓いのような言葉だった。
そして彼は、そっと私の手に口づけた。
(やっと――私のものになった)
そう思った瞬間、自然と口元が綻ぶ。
それは帝国の皇太女としての微笑みではない。
エリザベスという一人の人間としての、心からの微笑みだった。
その後の展開は早かった。
国王自ら転げ落ちるように私のもとへ駆け寄り、何度も頭を下げながら謝罪した。そしてカプリシアとアンドリューは衛兵に捕らえられ、そのままどこかへ連行されていった。
カプリシアとセレウスの婚約は正式な破棄ではなく、双方合意のもとでの解消という形で処理されることになり――セレウスの身の振り方については、すべて私の裁量に委ねられることとなった。
ブルーミング公爵は夜会の隅で一連の顛末を静かに見守っていたが、やがて私のもとへ歩み寄ると穏やかに微笑んだ。
「セレウスを、どうかよろしくお願いいたします」
そう言って深く頭を下げる。
その言葉を聞いたセレウスは、どんな表情をすればいいのか分からないといった顔をしていたが、公爵はそれ以上何も言わずに去っていった。
その後、私はセレウスとエルモンドを伴い、夜会の会場を後にした。
私に与えられた豪奢な客室に入ると、セレウスにエスコートされて椅子へ腰掛ける。彼もまた私の指示でその隣へ座った。
そしてなぜか、私たちの前にはエルモンドが床に正座している。
「エル、なぜそんなところに座っているのだ」
問いかけると、怯えきった子犬のような顔でこちらを見上げながら、
「だ、だって……」
と小さく呟いた。
セレウスはその様子を少し困ったように眺めている。
「エル、私は別に怒っていない。立ち上がって、椅子に座りなさい」
そう言うと、
「リズお姉様……」
と呟き、彼は涙を浮かべ始めた。
私は仕方なくその頭を撫でてやる。
するとぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「おい、成人した男が泣くんじゃない」
そう言いながらも、その様子があまりにも可愛らしくて思わず苦笑してしまう。
「お前の愚かな妹のおかげで、私はセレウスを手に入れたのだから良いではないか。もっとも、それを阻止しようとしていたお前には悪いがな」
そう言うと、
「ごめんなさいぃ……」
エルモンドはついに声を上げて泣き出した。
もともと私はセレウスを手に入れたいと思っていた。
それを知っていたエルモンドは、セレウスを王家と婚姻させることで王国に縛り付けようとしたのだ。そうすれば、私の庇護下に王国を置きやすくなると考えたのだろう。
確かに、セレウスのいる国を私は滅ぼそうとは思わない。
私が多くの兄弟たちと帝位を争っていた間に、そのような策を巡らせていたのだから――すべてが崩れ去った今の彼は、少し気の毒なくらいだった。
(もっとも、私がこの国を気にかける理由はセレウスだけではないのだが)
そう思いながら、私は苦笑する。
「私は別に、セレウスしか気にかけていないわけではないぞ。お前のことだって気にかけている」
エルモンドは涙に濡れた顔でこちらを見上げた。
「エル。たとえセレウスを王国に縛り付けなくても――私は、お前がやがて国王となるこの国を守ることはあっても、滅ぼしたりはしないよ」
そう言うと、なぜかエルモンドの泣き方はさらに激しくなった。
「あらあら」
思わず昔の口調が戻ってしまう。
私は少し身を乗り出し、正座したまま泣いているエルモンドの涙を指先で拭った。
「お姉様ぁぁ……」
泣きながら縋る様子がやはり可愛くて、私は思わず笑ってしまう。
あはは、と声を上げて笑う私。
そしてセレウスが少し呆れたようにエルモンドを見ていた。
――けれどその瞳は、どこか安心したように穏やかだった。
件の夜会から一夜明けた朝、私は王城の一角にある庭園でセレウスと向かい合い、お茶を楽しんでいた。
彼が自ら淹れた茶は、今日も驚くほど香りがよい。
「セレウス、お前。また腕を上げたのではないか?」
そう問うと、彼は嬉しそうにはにかみながら答えた。
「リズお姉様に飲んでいただけるよう、頑張りましたので」
控えめな声音だったが、その表情には誇らしさが滲んでいる。
彼は消極的な性格ではあるが、何事もそつなくこなし、頭も良い。ただ周囲に気を配りすぎるあまり、いつでも自分を後回しにしてしまうのが欠点だった。
どうせアンドリューがカプリシアに懸想していることを察し、あの脳内がお花畑の恋人たちを好きにさせていたのだろう。
カプリシアが公務をセレウスに押し付け、自分はアンドリューと気ままに逢瀬を重ねていたことは、すでに調べさせてある。
公爵家嫡男としての責務を果たしながら王女の公務まで肩代わりしていれば、過労で痩せ細り、睡眠不足になるのも当然だ。
それでも、まだ少し隈の残る顔には、昨夜とは違う生気が戻っている。
(まあ、私が強引に寝所へ連れ込み、たっぷり甘やかして眠らせたのだから当然のこと)
そう思いながら、私は席を立った。
いつの間にか私の傍らに控え、ティーポットを手にしたままこちらを見ていた彼へ手を伸ばす。
察したセレウスが、嬉しそうに顔を寄せてきた。
その頬に触れ――
私は静かに彼へ口づけた。
柔らかな温もりを確かめながら、これから訪れる日々を思う。
胸の奥に満ちていく幸福を噛みしめながら、私はそっと目を閉じた。
※登場人物※
□エリザベス・ローズモンド:ローザリア帝国皇太女
┗セレウスとエルモンドには幼少期からリズお姉様と呼ばれていた
□セレウス・ブルーミング:リリウム王国ブルーミング公爵家嫡男
□エルモンド・リリウム:リリウム王国皇太子
□カプリシア・リリウム:リリウム王国王女エルモンドの異母妹
┗セレウスの婚約者
□アンドリュー・ブルーミング:セレウスの弟
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