第九十二話
「第九十二話」
「どうしたの?その顔。」
夜、部屋へ戻るとエレナが心配そうな声を掛けてきた。
自分では顔の形状は分からなかった。しかし、どれだけ酷い顔をしていたかくらいは想像できた。
痛みは正直だからだ。
「………ちょっとな。」
師匠。レイヴァンは意外にも容赦がなかった。
それはありがたい限りではあるが、正直『白紙』を使わないと手も足も出ないほどの実力差があった。
やはりこれまでの勘やセンスに頼りきりの戦い方は無理があったようだ。
レイヴァンには長年培われた技術があった。ここでの滞在中に覚えられるだけの技術を体に叩き込んでおかなくては。
「へえ~。」
「なんだ。」
「いやいや、自分の父を贔屓するわけではないのだけれど、良い師匠を選んだと思ってね。」
「………」
お見通しか。
というか、この狭い空間の中で隠し事をすることは不可能であった。
「父さん強かったでしょ?」
「ああ。なんだあれ。俺がどれだけ頑張っても勝てる気がしない。それどころか、戦えば戦うほど勝機が無くなっていった。」
「それはそうだよ。父さんは先の時代の英雄様だからね。」
「英雄………?」
「まぁ、英雄と言っても成り行き上仕方なくと言った方が正しいけどね。父さんのことを後世に残す手段として英雄と言う概念を利用したに過ぎない。」
「どういう『結界』だ。」
「ん?」
「あれほどの力と速度だ。並の結界師じゃないだろ。」
「ああ。違うよ。」
「あ?」
「父さんは結界師じゃない。」
「は?」
「父さんは何の力も持たない。言うなれば一般人だよ。主任君と同じさ。」
「………は………はぁ!?」
は!?何言ってんだ!?
あれがなんの力も持たない一般人だと!?
『白紙』ですら追いつけない速度。『白紙』ですら押し負ける力。
どれも規格外だった。それが純粋な、自然な、自身の力だっただと!?
「嘘だろ。」
「いいや?父さんはナチュラルさ。」
いつものおふざけに決まってる。
あれが素の人間の力なわけがない。
でも、エレナの目は一ミリも笑ってなかった。
「傷を治してあげるよ。」
「いい。エレナだって疲れてるだろ。」
「私が?」
「ああ。俺の腕を治して、ずっと気を張って、今日なんて地図を描いてたんだろ。慣れない左手で。」
「気遣ってくれてうれしく思うけど、大丈夫だよ。私は両利きだ。」
左手をぶらぶらとさせながらこちらに見せる。
そういうことが言いたかったわけじゃなかった。言葉とは難しいな。
「いや、そういうことじゃ」
「分かってる。ノアの口が上手ではないことくらいは。安心してよ、私は聞き取る能力も高いから。」
「………」
「ほら、遠慮しないで膝の上においで。」
エレナが膝のを叩いて手招きしてくる。
それに甘えるが如く、膝の上に座った。
「ほら、服脱いで。」
言われるがままに服を脱いだ。
なるほど。これは酷い。
全身隈なく痣だらけである。これなら、顔の形が変形していてもおかしくない。
「『結界・回復』」
少しずつ体の痛みが引いていく。
それと同時に安心感も湧いてくる。
包まれている自分に。エレナの体温に、匂いに、柔らかさに。
しかし、いつもよりも包容力がないことを考えると、申し訳なく思ってしまう。
「なんだい?その目は。」
「………別に。」
「小動物のような目をしていたよ?」
「なんでもない。」
「そうかい?」
ある程度の治療が終わると、そのまま泥のように眠った。
数日間のルーティーンである。
朝から晩までレイヴァンにボコボコにされ、夜はエレナに治療してもらう。
エレナはアリセナとの会話シーンが増えていき、主任の包帯も少なくなってきた。
そして出発の日。
「じゃあ、私たちは行くよ。」
荷物をまとめ、ドアの前に立った。
俺、エレナ、主任の三人は開かれたドアの前に立っている。
それをレイヴァン、アリセナが見送る構図だ。
「気をつけてな。へ……エレナ。」
「うん。レイヴァンもアリセナさんと仲良くね。」
「ああ。ノア君。」
「?」
「すまない。ほぼ、指導になっていなかっただろう。」
「そんなことはない。助かった。」
「それは良かった。主任君もエレナを頼んだぞ。」
「任せろ。店長。」
「店長はよしてくれ。」
「俺の次の就職先だからな。早く店に復帰してくれ。」
「なるはやで頑張らせてもらう。」
「じゃあね。」
俺と主任に続いてエレナが外へ出ようとしたときに
「エレナちゃん。」
「っ」
アリセナが焦ったような声を出した。
エレナが硬直する。
「エレナちゃ……いえ、へレナ。気を付けてね。風邪ひいちゃだめだよ。」
「……っ。………行ってきます。」
エレナが振り返ることはなかった。
振り向けなかったと言った方が適切だったかもしれない。
仮面の下から雫が垂れるのを見てしまったから。
ドアを静かに閉め、俺たちは歩き出した。
ゆっくりと名残惜しそうに。
仮面を濡らし続けるエレナの手を取った。
エレナはこちらを向くことなく歩いた。
前だけをまっすぐに見つめ、空間を後にする。
止まることのない足と涙。それはどちらが本音だっただろうか。
いや、どちらを本音としたかったのだろうか。
こればかりは本人にしか分からないのだろう。
まして、俺や主任なんかが立ち入ることのできる領域ではなかった。




