第三百三話
「第三百四話」
外気に絆されて、高揚してしまったノアは持てる力すべてをつかって軽快に暴れてやろうと決め込んだところだった。
故に気が付かなかった。目の前に停車した車にも、ありえない話だが車の明かりすら見えていなかったのだ。
当然、車から降りた見知った女にも気が付かない。今の彼にはすべてが壊す対象にしか映らなかったのだから。
「ノア様。」
湿った声。しかし、確かなる愛情を含んだ声は、雪が降っていると再認識させられる。
マリエッタだった。かつて、ノアと共に敵を葬った彼女が車に乗せられ、自信では運転できないにしても、ここ【フロストホロウ】まで来てくれたらしいのだ。
「どけ。殺すぞ。」
ノアは冷たく突き放す。
認識できていないのだろうか。それとも、知人であれ、どうでもよくなってしまったんだろうか。
松葉づえをついて、ノアに近づこうとするマリエッタだがゆったりとしか動けず、どうにも時間のかかる距離だった。
「いつか言いましたね。年下の説教は堪えると。」
「あ?」
「知っているか分かりませんが。私はあなたよりもお姉さんなのでね。お姉さんらしく、堂々と、活き活きと話しますよ。」
「ありがとう。」
「………」
「あなたが今欲しい言葉が励ましや習わしのような苦言ではないでしょう。しかし、私は言いましょう。ありがとうと。」
・マリエッタ視点
風が吹いた。
それは自然に発生したものじゃなく、私の目の前に停止したノアが動いた拍子に連れてきた風だった。
爪の先が私の頬を傷つける。一本の線が顔にでき、血が垂れていく。
「殺さないんですか?」
煽った文章。しかし、効果的だと確信していた。
「……なんなんだよ……なんで……殺せないッ!!どうしてだ!!」
「それはね。」
ふっとノアの背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめる。
「優しいあなただから。」
「っ……!!うるせぇよ……何が分かんだよ……」
「うん。うん。何が怖いの?」
頭を撫でながら、空だけを見つめて。
「仲間が……俺の仲間はどこだ……?」
「死んだの。」
「……死んだってなに……死ぬってなんだよ……」
「居なくなったの。この世界から。もう、戻っては来ないあの星空が地面に激突しないみたいに、もう落ちては来ないの。」
「なんでだ……なんで……」
ボロボロと泣くノアを自分の肩に押し付ける。
「うん。うん。」
「なんで……」
「辛かったね。頑張ったね。大変だったね。」
「仲間がいないのに……俺はどうすればいい……」
「それはあなたが決めることだよ。」
ぎゅーっとノアの手が私の背中に触れ、冷たさが伝わって来る。
「分からない……自分がどうするべきなのか……分からないんだ……だって、だって……ヴェイロンに言われた……父に言われた……母に言われた……隣のおばさんを殺したんだ……おれが……この手で……殺したんだ……」
「うん。うん。」
「なんで……おれは……産まれてきたんだ……」
「今から言う言葉は今のあなたには届かないでしょう。聞きたくないでしょう。でも、あなたに救われ、導かれた私だからこそ言わせてもらうわね。」
「………なにを」
「存分に甘えなさい。両足が地面に付けられなくなっても、どうしようもない境地に陥っても、どう頑張っても這い上がれなくても。誰かがあなたに救われてる。そんな彼、彼女らに存分に甘えなさい。あなたにはその権利があるわ。」
「………」
「あなたが息を吹き返すまで、あなたが認めるまで、あなたが居場所を見つけるまで。今日は私があなたを励まそう。
あなたが汚あいを恥じ、我儘を押し通し、見境が無くなったのなら。明日は私があなたを怒ろう。
あなたが意気揚々になり、元気を取り戻し、希望を光に見たのなら。明後日はわたしがあなたより喜ぼう。」
「おれは……どうすればいい。」
「私はあなたの新しい飼い主じゃない。あなたの依存先じゃない。あなたの脳みそじゃない。どうやるか自分で決めなさい。どうしたいか口に出しなさい。あなたは人間でしょう。自分のしたいことがはっきりとあるはずよ。それを他人に任せ、言う通りにするのは恥ずべき行為よ。」
「おれは」
「良いの。思い付きは身を亡ぼす。顔を洗い、良く寝て、よく食べて、歯を磨き、寝癖を整えたあなたの声を聞きましょう。それまでは存分に甘えなさい。」
「……分かった」
「うん。良い子ね。」
伸びた爪が引っ込み、目の色も変わり、おっとりとした表情に戻った。
それでも、しがみついた手だけは離さなかった。
涙と鼻水でびちょびちょになった肩に顔をこすりつけ、離れようとしなかった。
『スペア』
「助かったよ。」
目の前の謎の男が寄って来る。
彼が電話をくれた謎の男の正体なのだろう。
「あなたを救ったわけじゃありません。ノアさ……いえ。ノアに感謝と報酬を返しに来たんです。」
「そっか。わたしにはそれが足りなかったんだな。」
「え?」
「対等と敬愛か。両方を兼ねそろえた君ら人間は強いんだね。」
「は?」
何言ってんだコイツ。
あれ?血がべったりついてる。よく見れば地面だって血の池だ。
それなのに、負傷者は誰も居ない。
「……?」
不思議な空間で私はノアだけを見ていた。




