表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
朝日乃 勇子の約束  作者: オーシャンズ・イン・ザー・スカイ
4/4

第3章: 収差

パート1


「ドアが閉まります。お気を付けください。」

自動ドアが静かな音を立てて閉まり、加速を感じるにつれ、自分が出社しなければならない事に気付かされた。

悠人は真後ろにある金属製の壁に寄りかかり、深くため息をついた。勇子の学校での事があった日から、彼の思考は止まることはなかったのだった。事実、悠人は2週間ろくに寝ておらず、たとえ短い間でも、通勤時間で休息をとれるのは有難いことではあった。

仕事はお世辞にも楽しいと思えるものではなかったのだが、ひとつの救いは、他の会社員とは違い、都心方向への通勤ではなかったことである。悠人は横浜方面への電車へ、駅員が乗客を全員乗せようと悪戦苦闘しているのを見たことがあった。乗客からの「すみません」や「ごめんなさい」の声の大きさから、かなり混みあっているのだろうと予想できた。

こんな電車にのる通勤客は、まさに忍耐強い。

悠人は目を閉じ、電車の揺れと車内の小さな囁きに集中した。彼は平穏すぎるのが怖かった―自分は今を満喫するべきなのだ。その平穏は、会社のビルに入った瞬間から激変するのであろう。

会社の同僚の多くは、混み合う電車に乗って通勤していた。彼を嫌う同僚達も、こんな通勤の朝だったのだろうか?

悠人は目を開け、周りにいる乗客を見回した。電車にはサラリーマン、キャリアウーマン、学生があちこちにいた。殆どの乗客が何かをして時間をつぶしているのだった。多くの乗客は本を読んでいたり、日記を書いたり、中には宿題を終わらせようとしているのだろうか?

そんなことを考えていると、うっすらと笑みが浮かんだ。悠人は学生時代、定期テスト直前に詰め込み勉強したことや、提出日の朝に超特急で宿題を終わらせた事を思い出した。中学校まではそんな感じだったのだが、高校に入ってからは、誰かのお蔭で勤勉になった。

勤勉になったお蔭で、悠人は今の仕事に就く事が出来たのだった。彼の会社は、近隣企業と交渉していて、その近隣企業がこの提案に同意すれば、彼らのビジネスもうまくいけば拡大できるかもしれなかった。条件の交渉を幾度と重ね、既存方針の確認、その他の作業に時間が費やされた。

悠人は、相手会社側から提示された変更条件の見直しを任されていた。会社の不利となる条件を洗い出し、適正な訂正案を打ち出すのが彼の仕事だった。

考えてみると、彼がこの仕事を任された理由は、規約と条件の修正を提案したことだった。悠人にとっては、注意事項や間違い等を見つけるのが得意で、読めば読むほど修正箇所を見つけていた。他の同僚達にはこの仕事が遂行できず、解雇されてしまったのだったが、悠人に関しては、数人の同僚達とこの仕事に取り組むことができている。

仕事は決して楽しいものではなかった。

但し書きを読み込む事は、悠人にとっては簡単なことではあった。大抵の人はいつもやっていることではある。悠人は解雇されるつもりは毛頭なかった。

悠人は口に出さなかった言葉を、考えずにはいられなかった。

「同僚や会社の人間の事を考えたことはあるのか?」

彼の上司はこう聞いた。同僚との関係や悠人の態度は噂になるのだろう。

そしてまた、彼の遅刻が会社にどんな結果をもたらしたのか、知ることが出来ない場合、悠人はどうすべきなのだろうか? 会社にとって不利になった場合、会社の人間全てに影響が出る。今、考えられることは、合弁企業からの収益を増やす事だけが、彼の会社にとって利益になるのであろう。悠人はその収益を家族に投資ができる。休みにどこかに連れて行こうか? それはいい―

―待て…….収益…….?いつからだ…….

悠人は姿勢を正した。

…………俺は何をやっているんだ?

何を考えているんだ?

家族の為になのか? それが理由なのか。悠人は他の同僚を解雇に追い込むつもりはなかったのだが、彼らに何の感情を抱かなかったのだろうか?

浅はかな何かのために。

悠人は、車内の反対側にいる、鞄やブリーフケースを抱えたサラリーマンの方へ向きを変えた。サラリーマンたちは目的地につくまで、各々に時間をつぶしていた。ある人は口を大きく開けたまま居眠りをし、年配のサラリーマンはただじっと、腕時計を見つめていた。残りの乗客は携帯をいじっているか、本を読んでいるのだった。

電車のサラリーマン達は、悠人の同僚を思い起こさせたのだった。同僚たちは熱心に仕事をこなしていたが、何か大切なものが抜けているようにも悠人には見えた。

悠人には皆、薄っぺらく見えたのだった。

..................そこだ。

そこなんだ。

俺も...…......彼らと同じようなものか?

ただそれだけのものなのか? サラリーマンはこき使われて、捨てられるのか?

便利のいい男だけが、利益を生み出すのか?

偽善者なのか?

いや、違う。

いや、違う。悠人は愛する夫であり、優しい父親であった。

彼らもそうなのか?

悠人は彼らとは違った。彼は一生働くことは考えられなかった。結局、人生の中で働くことに意味は見出せなかったのだ。悠人は、誰かの為、自分以外の何か大きなものを信じていた。彼は何かを教えようと―

人と違うことはいい事なのか? お前は何かを成し遂げようとしているのか?

悠人の内なる自身への問いかけが終わらないうちに、彼のもう一つの意識が邪魔をするなんて、なんと無礼なのだろう。

無礼かどうかは別として、もっともな問いに対しての答えを出したかった。つい最近の、心に引っかかっている問題でも眠れていないのに。

俺はベストではないかもしれないーいや、自分がベストではないのは分かっている。そうだとしても、出来る限り自分の力で最善を尽くし、自分を高めなくてはならない。男とはそういうものなのだ。

納得のいく答えに、かすかな笑みが浮かんだその時ー

自分の力?男でいること? もし自分の力が十分でなければ、どうするんだ? 自分も周りの人間と同じような考えになるのか?

笑みが消えた。

世界中の人々は自分の意思に反して、目に見えるものや、触れられるものを通して型にはめられてしまう。人とはそんなもので、大半の人々にとっては、周りと同じように型にはまる事が大切なのだ。皆と違っていたとしても、それは大したことなのだろうか? 周りを見てみろ。現代の世の中には、理想なんていうものは存在しないのだ。

俺がその証拠だ。

悠人はそんな周りの人々を見てきた。 目にしないことの方が不思議なぐらいだ。人々の表情は一日一日をこなすだけで精一杯のようだった。彼らは無防備で生活に疲れた顔をしていて、疲れた目には輝きすらなかった。彼らの目には何も映っていなかった。

そうだ.........彼らの生活ではない。彼らの中身だ。

この場合、それも違うのかもしれない。

ありふれた、平穏な生活が悪いわけじゃない。しかし、信念なしに一日を過ごし、楽しみや励み等、生きがいなしには人間前には進めないのではないか。生き甲斐を見つけようとする者には分かるのだ。

しかし、多くの人達には生き甲斐がない。

もしくは、多くの人達は信念が持てないと言ったほうが適切なのだろうか。孤独を知っている者のみが人間らしいのだが、そのことに気付いた時には遅すぎるのだろう。大抵はそうなのだ。

悠人の周辺の人々だけではなく、今までの彼の人生の中で、彼に関わった人々もそうだった。

特に、あいつは。

ヒーローは孤独なことが多い。

勇子は知るべきなのだ。学ぶべきなのだ。

「人との違いは重要なことなのか?」

重要であるべきなのだ.......悠人は自分の言葉で自身を説得する事が出来なかった.......重要であるべきなのだ。

現実世界での理想主義?理想は重要なのだろうか?

この世界には見たり、触れたり出来るものだけではない。疲れた人間の心には、この世界の他の物にも目を向けるべきなのだろう。

「勇子には俺のようになって欲しくない。俺と同じ道を歩ませる訳にはいかないんだ。」

あいつに教えるのか? 俺は、この世界に理想は存在しないと信じているのに。もう一度、信じたいのか? 驚いた、俺はなんて人間くさいのだろう。

なんて偽善者なんだ。

その時だった。向かい側の金属細工に反射した迷光が、悠人の目に差し込んだ。悠人は我に返った。

悠人は気を落ち着かせた時には、電車は東へと向かっていて、朝日の眩しい金色の光が外を照らしていた。

目に手をかざしながら、悠人は外を見た。外の自然さえも、皮肉っぽく見えたのだった。

その日は素晴らしい朝だった。明るく真っ青な空が、遠くにある町の周りにある深く、緑豊かな森をくっきりと目立たせていた。人々は町中に点在していて、買い物や自転車にのったり、日常を楽しんでいた。

あの行事から、もう数週間経ったのか? 天気ははっきりと時間の経過を見せていた。事実、季節外れの、稀に咲いている花を見ると、6月中旬と思える程だった。

その明快な思考は、彼にあの日を思い起こさせた。それはごく普通の日だった。

「安全の為、完全に停止してからお降り下さい。」

悠人は、何か不安にさせるようなアナウンスを聞き、注視するのをやめた。

もう着いたのか?

悠人は立ち上がり、外の風景が人で混みあって来ているのを見た。そうだ、ここで降りるのだ。 ここが降車駅。

悠人がすでに会社の最寄り駅に到着していたのなら、彼は途中の乗り換えにすら気付いていないことになる。

疑問が浮かんでくる。

過去何か月の間、悠人は何をしたのか思い出そうとした。

指を数えながら、思い出せるのは妻と息子、家族と過ごした事だけだった。

そう、それは大事な問いだ。

俺はどのくらいの間、こんな状態なのだろう?

悠人が会社のビルに入ると同時に、一瞬映った影に気を取られた。

向かい側にある、平たい鉄の棒に映った自分の影だった。その影は悠人をじっと見つめており、その表情は無防備だった。



Part 2

パート2


勇子は何を言われたのか分からず、戸惑った。

「.......何で.......これをしなきゃいけないの?」

「これは俺のだからだよ。返してくれよ。」とはじむは叫んだ。「あいつに渡すように言ったのに、まだ持ってるし。お前ら一緒に来るのか?」

はじむの最初の言葉は、勇子に向けて発せられたが、すぐに向きを変えて他の二人の子供に話始めた。

「うーん。一緒に行くけど、すぐに帰らなくちゃ。今日はお姉ちゃんと遊ぶんだ。」と活発そうに見える少年、空は答えた。

「ごめん、行けない。父さんが迎えに来るから。勇子を連れて行けば?」と、顔が隠れてしまうほど大きな眼鏡をかけた少年、大輔が言った。

「女みたいな名前の奴なんか、連れて行きたくないし。本当の男だけが、返せって言えるんだ。」

「女の名前じゃない、」と勇子はふくれて言った。

「しかも」と、はじむは再び向きを勇子の方へ変え、「真の男は強い。相手が返さなかったら、奪い取るんだ!弱虫には出来ないぞ!」

「ヒロは戦いたくないし......返すように、うまく頼めない?」

これには空が笑った。

「そうだ、そうだ。はじむ、まだ頼んでないのか?」「奴に頼みたくもないし! あれは俺のゲームだ。奴にはすぐに返すって言ったんだ。話を

聞かない奴が悪い。」

「多分、勇子が正しいよ。聞けば返してくれるかもよ?」

「お前ら、取引の事が分かってないな。父さんを見てるから、俺は知ってるし。しかも、お前ら、女みたいな名前の変な奴の話を聞くのかよ、大輔。」

「ち、違うよ。いつもナイトはやりたいことをやり通す.......」

「じゃあ、一緒に来いよ!」

大輔はしぶしぶ従った。

「デイの方が断然いいのに。」と空はつぶやいた。

「そうじゃない!.......素晴らしい、韻をふんでる。」

「は、はじむ。わからないんだけど、俺たち、怒られる?」

「じゃあ、来るなよ。」と、はじむは勇子をみてふくれた。「変な奴は助けにはならないしな。」

勇子はこんなコメントには慣れたが、やはり、聞くたびに傷ついていた。でも.......はじむは勇子の友達で、友達同士、言い合うこともあるだろう。

勇子が読んだ本の中では、そうだった。

しかし、一日中、勇子に向けたそんな言葉は止まらなかった。事実、ゲームを貸した相手の少年と話すべきだと勇子が主張すると、はじむの言葉はきつくなっていったのだった。はじむはいつも、「だまれ!」や「ダサい女の名前の奴」と勇子に言い放ち、そのあと大輔はきまって、「韻をふんでる!」と続くのだった。勇子は傷ついた。

勇子は理解が出来ず、疲れを感じていた。学校が終わる頃には、彼らは皆、階段の一番上に立っていたのだが、勇子はただ帰りたかった。

しかし、勇子の友達たちは.......勇子に期待していた!今回ははじむを助けられる。そしたら、はじむのキツイ言葉も止まるかもしれないし、勇子のすごいところを見せれるかもしれない!

これはヒーローになるチャンスだ!


「で、どこ?」

「なんの話?」

勇子は少年が上がってくる階段の下に目を向けた。背が高く、明るい茶色の目と髪の少年は二人の友人を連れていて、はじむと話していた。

「お前はプレゼントだから、って言ったぞ。」

「いや、言ってない!嘘つくな!今返せ!」

その背の高い少年は、勇子の判断がつかない表情を見せていた。彼は.......怒っている?いや、イライラしている? でも、何でイライラしてるんだ? そのゲームは勇子の友達の物で、その少年のゲームではない。はじむのゲームだ。

「お前、わがままだな!プレゼントだってくれたじゃないか!」

「あげてない!取引だっただろ!返してくれって言ったし。返せよ!」

「あー、残念。俺も兄ちゃんにプレゼントとしてあげたんだ!」

「お前のバカな兄ちゃんなんか、どうでもいい。明日、ゲームを返せよ!じゃないと、俺の父さんに言って、お前の父さんをくびにするぞ!」

勇子は数歩あとずさりした。はじむが状況を悪化させていて、言ってはいけない事を口にした事に不安に感じた。

はじむが怒りをぶつけた少年が泣きだした時、少年らは皆、黙っていた。

「ほらみろ、赤ん坊は泣くんだ。あいつが返さないから悪いんだ。そうだろ?」はじむは後ろにいる少年たちにそう言った。

「お.......」ーー「う.......うん。」

少年達はどもった。

「はじむ、謝ったほうがいいよ。」

「だまれ、勇子。あいつのせいだ。俺は謝らない。」

「父さんはいつも言ってる。男は……男は……でなくちゃ...」

勇子が何か適切なことを言おうと考えていると、下のほうから微かな鳴き声で、

「................返せ。」

「はぁ?はっきり言えよ。聞こえない!」

「取り返せって言ったんだよ!」

その背の高い少年は見上げた。勇子は、少年の目に涙が溢れていたのを見たのだが、イライラしたり、悲しそうには見えなかった。彼は怒っていた。

彼のこの表情が不幸せの表情なのか?

「取り返してやるよ!お前が俺のゲームを持ってきたらな。おい、行くぞ。」

「はじむ、待って!」勇子は、急いでその背の高い少年へ向きを変え、こう言った。「はじむは本気じゃないよ。今、謝るんだよね?そうだよね、はじむ!」

驚いたことに、はじむは無言だった。その代わり、彼はその少年を見下ろし、微笑んだ。冷たい笑みだった。

その冷たい微笑みを、勇子は言葉で表現することが出来なかった。

突然その少年は、今までのことを撤回しはじむに謝ろうと、階段をかけあがって来たのだった。勇子は大輔と空の二人が、階段をかけあがって行くのも見た。はじむも二人と行こうとしたのだが、滑ってしまったのだった。勇子は、大輔と空の二人が廊下の奥にいる教師へと走って行くのを見た。そして、その少年がはじむへと向かって走って行くのも。

僕は.......友達を守らなきゃ!


Part 3

パート3


「階段から落ちた?」光の表情が不安で曇った。「大丈夫なの?骨なんか折ってない?」

「幸運なことに、無事。相手のご両親は訴えることはしないって。でも、勇子はこのプログラムに無期限で参加出来ない事になったよ。」

悠人が話を始めると、光の顔がくもった。。

無期限。

もちろん、事の大きさから処分は軽くできないのだが、まだ学校が始まって1か月半である。


「おい、光。ショックなのは分かるが、事故だったかもしれないだろ?勇子は故意にした訳ではないと思うよ。」

光は会話中、手に取ったお茶を静かに見つめていた。数年前、悠人は光のこの態度を、危険や不吉の前兆だと勘違いしたことがある。だが、それは違った。光の顔に浮かんでいる表情はただ、我が子を心配している母親の顔だった。

悠人は後頭部を掻いた。

「ごめん、仕事から帰ってきてすぐ、こんな話をしなくちゃいけなくて。君にはアンフェアだな。ほんと、ごめん。」

「うんー?大丈夫よ、あなた。言ってくれて有難う。」光は立ち上がり、悠人にお茶を注いだ。

「もしアンフェアだったとしても、私が謝らなきゃいけないわ。勇子を迎えに行かせてごめんね。」

「勇子の学校は帰り道だし、君が家に着いてすぐ帰宅したから、そんな問題じゃないよ。」

「うふふ、いつも謙遜するわね。」

確かに、光が夕食の準備をしようとエプロンをつけたその時に、悠人と勇子の二人は帰宅したのだった。光は手早くメイクを落とし、着替えを済ませたのだが、時間は殆どなかった。事実、勇子が帰って来ていなければ、二人は同じ時間に帰宅していたのであろう。

その日の早くに、学校からの連絡で、悠人は光に電話して勇子を迎えに行くことを伝えた。当時は大きな問題だとは思っていなかった。書類を提出しわすれたり、提出が遅れたりのような、小さい事だと思っており、特に新入生の親であることを考えれば、不思議なことはなかった。悠人は妻の光にそんな些細なことで心配をかけたくなかったのだ。

学校を出て、家に着きやっと何が起きたのか、事の大きさを知ったのだった。光に元気よく迎えられたのだが、光の笑顔は勇子の顔をみた瞬間、消えてしまった。腕を広げ、勇子を迎え入れるのを、彼女は躊躇してしまった。

光が通り過ぎた時、勇子は花の匂いがするのに気付いた。

彼女は拳を緩め、真面目な顔を悠人に向けた。

「何が起きたのか、全部話してちょうだい。」

悠人は話し始めた。少なくとも、学校へ報告した事を全て話した。勇子が他の生徒を階段から突き落としたのを先生が目撃した事、その生徒が頭と胸を怪我した事、そして、「何かを取り返す」という理由で突き落としたという事を光に話した。

悠人は迎えに行った時から、勇子が一言も話していないのが気になっていた。意図的に黙っているようには見えず、ショックで無言でいるように見えたのだった。いや、正確には、罪悪感からと言えるのかもしれない。勇子の表情は凍り付いたようで、それでいて、泣き出しそうだったが、勇子は泣くことはなかった。

この表情が悠人を更に心配させたのだった。

勇子は感情を抑えるような子供ではなかった。言うまでもなく、涙をこらえることはなかったのだった。もしそうだったら、歴史は繰り返されているのだ。光に起きたことが、勇子にも起きている...息子も同じ運命を辿るのか。悠人はただ彼の過剰反応である事を祈った。

夕飯はシンプルだったのだが、二人が勇子の話を聞き出そうとするにつれ、勇子は口を閉ざし、居心地が悪いぐらい静かになってしまったのだった。だが、勇子は床を見つめながら、椅子に座っていた。勇子は再び深く俯いてしまったのだった。

両親から勇子は部屋へ行くように言われ、勇子は「お母さん、ごちそうさまでした。」と、心ここにあらずのような口調で言ってから、自分の部屋へと行った。

光はお茶を入れながら、悠人に何が起きたのかもう一度尋ねた。

「どうしたらいいのかしら?」光は夫の隣に座り、彼の手を取って言った。

悠人は光が淹れたお茶を見つめていた。お茶に映る二つの瞳が彼を見つめ返していた。

「まずは謝ることから始めることだと思う。こんな事にはならなかったんだと思う。もし、俺が―」

手が強く握りしめられるのを感じて、喋るのをやめた。

「悠人、それはやめて。お願いだから。あなたのせいじゃないわ。」

悠人は顔をあげ、妻の目を見た。

「あなたは高校時代からずっと、抱えすぎてるわ。これが何であれ、乗り越えるのに出来ることが何であれ、私たちは一緒よー」

そして、彼女が次の言葉を発した時、彼女の顔に優しく、温かい笑顔が浮かんでいた。

「私たちはチームじゃない。」

彼女は正しかった。悠人は分かっていたのだが、潜在意識的にだけ認知したようだった。

そのかわり、彼は光の蜂蜜のような、どことなく疲れたような目の眼差しを見つめ返した。彼女の目は何かに満ちているようで、悠人はまだ彼女の一部しか見ていないような気がしていた。

何を見ているのだろう?


しかし、もう一人の悠人は気にも留めていなかった。彼女の目の奥にある、何かが分からなくても、彼女の期待に答えなくてはいけないのだった。勇子に何が起ころうとも、この問題を解決する為には何でもしなければならなかった。妻にだけではなく、息子にも道を示す責任を感じていた。男は失敗は許されない。

悠人は、妻の子育てに対する期待に精一杯応えることと、息子が理想に向かうという仕事が終われば、休むことが出来るのだ。

光は正しい。悠人は一人ではない。いつも一緒だ。チームなのだ。

「悠人.......」

妻の、絹のような艶やかな声に悠人は我に返った。

「あなた...ずっと私を見つめてる.......」

悠人は妻の言葉に考え込んでいるように見えた。彼女には悠人を魅了させる、何かがあったのだが、この問い落ち着いて答える前に、自分の思うままに答えたのだった。

「お前のせいだ。」

光は困惑したように瞬きした。

「お前のせいだ。勇子の学校初日から、お前のエプロン姿の事を考えてた。今は体の線がでる服を着ているせいか、エプロン姿が浮かんでくるんだ。見つめない訳がないじゃないか!」

「あら、悠人、」光は慌てた。「あら、光栄に思うわ。でも今お世辞を言う時じゃないわよね。」

「まだ終わってないよ。」と悠人は続けた。「俺がこうなるのは、お前のせいだ。いつも俺の心の中に入り込んできて、お前の話し方や、目の輝きが俺の心を乱すんだ。俺が弱く感じるのはお前のせいだ。」

「でも......あなた......」

悠人は喋り続けた。「お前は俺の事をよく知っている上で、一緒になることを選んでくれたんだろ。何回失敗しても、一緒に居てくれるんだろ? 俺にその資格がなくても、俺の弱い所も助けてくれるんだろ? お前は俺の妻だけじゃない。俺の親友だ。親友で、恋人で、妻だ。もし、俺の思考を途切れさせたいと思うなら、こうするのが一番だ。」

光は口に手を当て、わざとらしく赤面しているのを隠そうとしていた。悠人は、そんな光に近づき過ぎているのに気付き、椅子に座りなおした。

悠人は後ずさりした。「俺は学生時代、お前がそんな態度を取れるとは想像できなかったぞ。」

「あら?それはあなたの方でしょ。突然、あなた壁を向いて話してたわよ。」

悠人は気付いていなかった。気づかないうちに、赤くなった顔を反らそうとしていたようだった。

「親友か......」光は両手を頬にあてながら、囁いた。「でも、女としての今の私がいるのは、あなたのお陰よ。」

悠人は溜息をつき、今でも、頭の上から蒸気が立っている妻のほうへ顔を向けた。

「お前、愚かな俺を信じるなんて、うぶだったんだな。」

光は夫に答えるように、小さくクスクスと笑った。

「自分の息子は未熟だとでも思ってるの?」

悠人は自身の中で、ノックアウトを受けたような、強い抽象的な衝撃を腹部に受けたような感覚になった。悠人の口は味もなく意味もなく、あんぐりと開いていた。悠人は無言で、思考も止まっていたのだった。光は悠人を追い詰めた。

悠人は答える代わりに、ぎこちなくお茶をすすった。

「誰かのことを本当に未熟だと信じてるの?」

悠人はお茶をテーブルに置き、困った様に頭を掻いた。

「……多分。少なくても、自分に関してはね。」

「ふうん? じゃあ、勇子は未熟だって言ってるのね?」

「いや、光。違うんだ、ただ……勇子は子供だ。もちろん、勇子の年齢でも未熟だとは思ってないよ。でも俺が心配してるのはそういうことじゃあないんだ。」


「勇子が誰かを信じてるから?」

「うん、でもそれ以上の事なんだ。勇子は周りの世界を知りたがってる。でも間違ったものについて行ってしまうと、何が正しくて、何が間違っているのかがわからなくなる。間違ったものが正しいと信じてしまうかもしれない。」

「子供っていうのは、ある程度影響は受けやすいわよ。」

「他の子どもは、勇子ほど影響は受けないけどな。」

「だから、私たちが勇子に見せてやらなきゃいけないんでしょう?私たちが、勇子のために何がただしいのか、間違いを教えてあげなきゃ。もし、あなたが望むなら、正しい事がどういう意味なのか、見せてあげようと思ってるわ。未熟さを前向きに変えてあげたいの。」

妻が協力的に言うのを聞いて、悠人は言葉を失った。それは彼にとっては何か不自然に聞こえたのだった。

「ちょ、ちょっと待て。俺たちが犬を見つけた日、お前は理想を追うにはまだ幼すぎるっていったじゃないか。今は勧めているように聞こえるんだが。」

光は悠人を見て、とても単純な事を言っているかのように笑った。「だって、あなた、勇子を迷子の犬に近づけてないでしょ?」

「それは......えーっと、そうだな、あまりいいアイデアではなかったと思うよ。でも、たとえそうでも、それだけじゃあないだろう。」

「じゃあ、私が勧めているとは言えないわね。でも理由はあるわ。」

光は椅子を悠人の傍へ寄せた。

「勇子が、理想を理解するには幼すぎると思うのは本当だけど、でも彼に理解する努力をして欲しくないわけじゃないの。善悪を知ることは、今後の彼の道を決めるのに、理想を追うのは大切だと思ってる。そのためには私も全力で協力するつもり。今のあなたと同じようにね。」

「分かったよ。でも。俺はお前が最初から協力はしないと思ってた。」

「だって、あなたは勇子に教えたというより、怖がらせたじゃない。」

彼女の言葉はきつかったが、正直で優しく聞こえた。

「今のこんな状況じゃなくて。犬は危険だったでしょ。心配したのよ。怒ってはいなかったわよ。今日の学校の事だと、あなたはどんな理由があったって、勇子がしたことは間違ってるって伝える事が出来るわ。故意だろうが、事故であろうがね。あなただったら、ちゃんと伝えられる。それと、最後に......個人的な事なんだけど.....誰かを信じる事はどんな気持ちか、理解できるような気がするの。人を信じる事はいい事に繋がるのよ。こういう気持ちは勇子にとってプラスだわ。」

光の言葉が彼の心に打ち寄せると同時に、彼女の言葉が少し理解でき、受け入れられた。しかし、彼女の微妙な口調に、彼女の言葉が心にひっかかった。

「あなたは純真以外の何ものでもないわ。違いもわからないし。だから、なんで私なのか、理解できないの。」

悠人が座ると同時に光はクスっとわらい、光は悠人の胸に寄りかかった。

「全ての人がヒーローを信じているわけじゃないしね。」と光は話し始めた。「でも人は何かを信じることで、何かを変えることができるわ。」

彼女は頭をもち上げ、目線を悠人に合わせた。

「純真でいることと、前向きでいることはちがうわ。今までに会ったことがなくても、信じていれば、ヒーローは存在するの。結局―」

光は再び頭を悠人の肩に乗せた。

「ー私のヒーローはここにいるのよ。」

温もりのある、重さを悠人は胸の上に感じた。その温かみと重さは彼の体中を駆け巡り、頭まだたどり着いたとき、彼は眩暈を感じた。部屋の中が歪んで見えた。でも、この感覚は、彼女が彼に与えたこの感情は.......

「お前は俺を評価しすぎだ......」

「ううん、あなたは自分に対して厳しいのよ。勇子はただの子供、とても良い子よ。勇子と話をして、何があったのか聞かなくちゃ。で、もし、勇子何か間違った事をしたのなら、どうしたら良かったのか、正しい行動を教えてあげないと。大丈夫。勇子ならきっと大丈夫よ。あなたはもう少し自分を認めてあげて。」

「パパ.......ママ......」

光が話し終えるのと同時に、背後から声が聞こえた。悠人は一瞬、驚いたのだが、妻の光は落ち着いていた。彼女はまるで勇子に気付いていたかのようだった。

「あら、勇子。どうしたの? もう遅い時間よ。眠れない?」

勇子は母親の問いに答えず、寝間着の裾をつかんでいた。寝間着を引っ張る様子は勇子の目つきを象徴していた。

「勇子?」

勇子は何を言おうか、何を話すべきか、迷っている様子だった。勇子が口を開いた瞬間、言葉ではなく、微かな泣き声が聞こえてきた。寝間着の裾を強く握りしめ、涙が頬を流れ落ちた。勇子の涙が床に落ちた時、光は勇子を温かく抱きしめた。

しかし、勇子は腕を母親にまわさなかった。

「マ、ママ…ご、ご、ごめ…ごめんなさい.......」

「シーっ。いいのよ。大丈夫。」

「でもー僕、問題を起こしちゃった。」勇子は母親の胸の中でそう言った。「マ、ママを怒らせた。ごめんなさい。」

「かわいい勇子。怒ってなんかないわよ。何があったのか知りたいだけ。」

光は勇子の頭を、涙と悲しみを拭うように優しく撫でた。その一方で、こんな状況でも、悠人は光の対応に感嘆を隠せなかった。彼女は、いつ何をするべきなのか、いつも分かっているように見えたのだった。彼女の思いやりのある対応で、勇子は泣き止み、話ができる様だった。勇子が泣き始めた時、悠人はただ、光の横に立っていただけだった。

「勇子、お父さんとお母さんに何があったのか、話してごらん。」

「僕...僕は、はじむに意地悪を言った子を階段から突き落としたんだ。」

「なんでそんなをしたんだ?」勇子の目線の高さで、父親が尋ねた。しかし、勇子は目線を合わせなかった。

「その子は、は、はじむに意地悪な事を言って、しかも叩こうとしたんだよ。はじむは僕の友達だし。ヒーローは友達の為にならなきゃいけない...でもヒーローは人を傷つけちゃいけないんだけど……その子を怪我させちゃった。」

勇子の目は、再び、涙で濡れていた。「ヒーローは問題を起こしちゃいけないんだ。人を押しちゃいけないんだ。」

勇子はやっと父親と目を合わせた。

「僕はヒーローにはなれない!」

悠人は拳を握った。

悠人の気持ちは正しかった。真偽と罪悪感、そうだったとしても、この状況を変えなければならない。

「いや、勇子。そいいう事じゃないぞ。」

「えっ?で、でも、そうでしょ?ヒーローはー」

「また、挑戦できるだろ?」

「............」

「勇子、秘密をおしえてやるよ。時々、ヒーローも問題を起こすこともあるんだよ。」

「そ.......そうなの?」

「時々、ヒーローも下手な選択をすることがあるさ。ヒーローも何かが起きるまで、何が善で何が悪か分からない時がある。でも、そんな時ヒーローはどうするか、分かるか?」

「ヒーローは……謝る?」

悠人は笑顔になった。「もちろんさ。そして、次に同じ選択をしないようにするんだよ。

勇子もこの事から何かを学んで、怪我をさせた子に謝まれば、きっと大丈夫だよ。」

それでも、勇子の涙は乾いていなかったが、さっきよりも、気が晴れたようだった。彼はまだ罪悪感を感じていて、先ほどよりも、罪悪感を抑え込んでいるのを勇子自身が認知はしているようだった。

「はじむはどうなるの?」

その問いに悠人が答えようとしたのだが、光が時計を見た後、勇子の部屋で答えるように静かに悠人に促した。悠人は、学校での騒ぎがあった後では、就寝時間をとっくに過ぎいるのに、すんなり眠るのは難しいと分かっていた。しかし、光の時間の管理には感服していた。悠人は勇子の部屋へ行き、勇子がベッドへ横になったのを見た後、勇子の傍へしゃがみ込んで勇子の質問に答えた。

「勇子、勇子にとって、ヒーローとは何だ?」

この質問に、勇子は驚いたようだった。悠人は息子に毛布をかけながら、勇子が答えるのを待った。

ヒーローは............正しいことをする人?」

「でも、誰でも正しい事はするさ。ヒーローはそれだけじゃないぞ。」

「父さん.....ヒーローって何?」

「うーん。俺が思うヒーローは助けを必要としていない状況でも、助けに入る人かな。全てが暗くても、自分のなかにいつも光を持っている人。そして、正義のために戦う人。殆どの人達はヒーローとは呼べないと思うよ。」

息子は困惑して、イライラしているようだった。ふくれっ面は母親に似ていた。

「わからない。」

「そうだな。ヒーローは失敗から学ぶんだ。そして、自分と人の為に正しい事をするんだ。」

「じゃあ.......はじむは?」

「もし、お前の友達が悪い事をしていたなら、友達として、その子を良い方向へいく様、助けるべきだろう?」

「あー!」勇子の金色の目の中に、自然の光が輝いた。「パパー分かった気がするよ!」

「お父さん。」と勇子は髪をくしゃくしゃにしながら、言い直した。悠人は光が定着させようと懸命に教えてきた、ルールを勇子に破らせる訳にはいかなかった。

「あぁ、そうだ。ごめんなさい、お父さん。」 と言いながら、勇子は毛布を顎まで引っ張った。「でも............ヒーローに友達がいなかったら?」

悠人は後頭部を掻きながら、何を言おうか考えていた。

「勇子、前にも言ったと思うが、良い行動をしていれば大丈夫だよ。人はヒーローが好きだ。でも本当のことを言うと、みんながみんなヒーローが好きではないんだよ。時として、人はヒーローを疎ましく思うこともあるんだ。だから、ヒーローは一人でいる時もある。でも、ヒーローはどんなにつらくても、正しい行動をとるんだ。」

「そうなんだ。」と勇子は俯いた。「それって、ヒーローは友達がいないってこと?」

「覚えておけ。最初は、だ。でも、時間が過ぎるにつれてー」

「お父さん!」勇子は叫んだ。「友達がいないヒーローは、より良いヒーローなんでしょ?」

「そうだな。時にはな。」悠人はそういって、勇子の瞼を優しく手で閉じた。「―でも、友達にもよるな。ヒーローはいじめっ子の友達と一緒に居られるとは思わないしな。」

「そしたら、お父さん............もし、はじむが理由もなく意地悪だったら.......はじむはいじめっ子っていうこと?友達をやめないといけないの?」

「そう……そうかもしれないな。俺には判断はできないさ。勇子はどう思うんだ?」

「僕も分からない.......でも、ヒーローはいじめを止めなきゃいけないでしょ?」

「そうだな、ヒーローは正しいことをしなきゃいけない。だから、ヒーローは時として一人になるんだ。でも、いつ自分が成長できるか学べるんだ。」と勇子の瞼を閉じさせた。

「ふんん。」

笑いながら勇子に眠るように言って、悠人はドアを閉めた。悠人はその時、心のどこかで、息子への言葉の殆どがエコーの様に何も意味を含まない、音のように聞こえた。

ほとんどの言葉が。


Part 4

パート4


終業時間の間近に、悠人はまわりで飛び交う会話の量に気付き、驚いた。通常、夕方のこの時間帯には、多くの同僚は退屈している様で活気がなかった。しかし、この課の多くの同僚は、プロジェクトを終わらせようと、やる気に満ちていてお互いにやり取りをしていた。

同僚一人ひとりが帰り支度をし、コンピューターを落とし、仕事を終えた同僚達がドア付近で会話をしていたのである。最終的には、10人から11人の仕事を終えた者達が、終わっていない同僚達をドア付近で待っていたのであった。

もちろん、悠人はこの状況を把握出来ていなかった。

「おい、悠人。何でまだ席にいるんだ? まだ終わってないのか?」

悠人は椅子の向きを変え、横に立っている陽気な男を見た。 悠人は上司が傍にいたのに気付きもしなかった。昨晩は息子でさえ、悠人を驚かせた。悠人は集中出来ずにいたのである。


「いや、違います。ちょうど今、終わるところです。」

「緊急案件か?」

「ちょっと、そうですね。もうすぐで終わらせられー」

「良かった。じゃあ、支度しろ。みんな俺たちを待ってる。」と言いながら、悠人の肩を軽く叩いた。

待ってる? 何の為に? 上司を待っているのは分かるが、俺もなのか?

「何で待ってるんですか?」

「いやぁ、楽しみだな。さあ行くぞ。急げよ。」

「すみません、何があるんですか? 何かイベントでも?」

悠人の言葉を聞き、彼の上司は楽しそうな表情から、困惑した表情へと変わった。

「君は聞いてないのか? あ、いや、君が聞いてないのも無理はないな。」

「何をですか?」

「飲み会だよ!何で飲み会があるのか、知りたければ一緒に来い。」

飲み会。同僚達と何かを祝うのか?

その瞬間、悠人はパズルピースをはめるように、頭の中で考え始めた。

「すみません。残念ながら、今日はお断りしなくてはいけないのですが。今日は大事な用がありまして。」

彼の上司はドアの近くまで近づいていた足を止めた。そして、再び悠人の机の方へ歩いてきたのだが、遠くからでも上司が残念そうに肩を落としたのが分かった。

「おい、悠人。本当に抜けられない、大事な用であれば強制はしないよ。だがな、君はもう薄い氷の上を歩いているのを覚えておけよ。」

悠人は上司の口調が脅しなのか、懐疑的なのか、哀れみなのか判断がつかなかった。

「君は同僚と交わろうとしないし、まだ会社のイベントにも参加していないだろ、これがファブルと合併する前の、うちの会社としての最後のイベントだ。君のお陰でもあるけどな。君のこのプロジェクトの功績で、この間の遅刻のお咎めはなしになったんだ。」

俺も同じ考えだった。

「同僚との交流も優先度は高い。新しく入った人と一緒に働く時は特にな。君の短気さを考えると、コミュニケーションスキルを身につける必要があるな。きつく聞こえたら申し訳ないんだが、本当の事だと思うから言っているんだ。」

ある最悪な記憶が、悠人の頭によぎった。それ以上に、それ以外のなに物でもなかった。なぜ、会社での交流会に行かなくちゃいけないんだ? 同僚も、今までこの話を悠人に話さなかった事を見ると、彼らは悠人の事なんか気にかけてはいない。

悠人も同僚の事を、さほど気にかけてはいないのだった。

「今のは飲み会の理由だったんですよね?」

悠人は上司の笑顔が不自然にひきつったのに気が付いた。悠人の目つきが、上司をますます皮肉にさせたのだった。

「悠人、もう一度チャンスがあるんだ。どうするか決めてくれ。」

もちろん、やりたい事とやらなければならない事は違う。悠人は溜息をつき、上司に続いてビルの前に集まっている、同僚達の方へと歩いて行ったのだった。


* * * * *


同僚達との飲み会は、良くも悪くもあった。同僚との交流の利点は、砕けた雰囲気で、職場ではなかなか話せない事も、思うままに話し、本当の自分を見せられる事だった。

逆に、マイナス面としては、砕けた雰囲気で自制がゆるみ、思うままに話してしまう事でもあった。悠人はこれを想像したのである。

「おー、悠人、こっち来て飲めよ。」

「ごめん、家まで遠いし、迷いたくないんで。」

「お前、いっつも *ヒック* かしこまってるよな。」

「そう育てられたんで。」

悠人はこんな状況を想像したのである。

パブはビジネス街の近くの路地にあった。そのパブはライト、デコレーションや広告が光であふれ、ひときわ目立っていた。杖をついた盲目の人でも、悠人の方向音痴と比べると、そのエリアは目的地を探しやすいような場所だった。

しかし、そんな場所にいると時折、周りにある建物に目がいってしまうだった。多くのバーやラブホテル、小さな店が、閉店する気配もなく立ち並んでいた。悠人は驚きはしなかったが、立ち止まって眺めることはなくチラリと見るだけで、このエリアのど真ん中にいないことにほっとするのだった。

こういった事に、どうしても考えがいってしまうのだ。

少なくとも、悠人は同僚と話をしなかった為、自分の考えを話すことはなかった。両手をポケットにつっこみ、同僚達の一番後ろについて歩いた。同僚達の姿が見えなくなった時、電車で家に帰ろうかと思ったのだが、ここまで来きてしまったのだった。男は最後までやり通さなくてはならない!


というよりも、自分自身にそう言い聞かせ続けていたのだった。

思っていたよりも時間がかかったが、悠人は同僚たちを見つけた。悠人がお酒臭い角を曲がれば、同僚達は目的のバーについているであろうことは予想していた。

ああ、思った通りの街だ。

思春期時代が悠人に教えてくれたのが、お酒の事だった。お酒の臭いから、悠人はその場所が高級なパブだと分かった。入店しても一目で分かった。

部屋も数部屋に分かれていて、個々の部屋は遮音されており、花や盆栽が飾られ、カラオケまでついていた。しかし、同僚達全員が一室に入りきらないような広さではあった。

メニューといえば全て高額で、サービスは素早く、丁寧で従業員はよく訓練されていた。同僚達が席に着き飲み物を注文したのだが、悠人はテーブルの一番遠い端の席、中年女性の隣に座り、水だけを頼んだ。その瞬間定かではないのだが、女性が *チッ* と舌打ちをした様に聞

その中年女性が二杯目のドリンクを終わらせた時、彼女は席を移動し、他の同僚と話を始めたのだった。


悠人は気にもしなかった。彼は、妻の事を想像したり、息子をどのように支援していくか思案にふけっているが幸せだった。家族三人で何かをするのは久しぶりだった。他の企業との合併で、その時間は増えるかもしれない。結局のところ、父親は家族との時間を大切にしたほうが良いのだ。

そうだ。父親というものは家族を愛し、子供をまっすぐに育てなければならない。父親は家族に関わった方がいいのだ。そして、子供たちに何かを教え、彼らに影響を与え、尊敬されるように自分を高めなくてはならない。でも、一番大切なことは、家族を捨ててはならない。

水の入ったコップを持つ悠人の手に力が入った。

悠人は家族を利用してはならなかった。

同僚達から、カラオケをする為に席を移動するよう声をかけられ、我に返った。間髪入れず、謝り、悠人は、皆の邪魔にならないよう部屋の前の方へと移動したのだった。

悠人は壁にもたれかかり、鼻筋を親指と人差し指でつまんだ。悠人の現実逃避は問題になりかけていた。しかし、悠人はこんな環境にいることで、止めることができなかった。

いつもこんな記憶がよみがえる。

「よー、おい、ゆうごぉ。冴えないな。飲むんだろう?」

ろれつがまわらない声が右側から聞こえた。20代後半から30代前半ぐらいの、男の同僚だった。悠人は2、3歳しか変わらないその男の言葉に驚きを隠せなかった。

「ああ、すみません。お酒は大丈夫です。水があるから。」

「えーっ、そう言うなよ、ゆうごぉ。一杯飲め。」

悠人は後頭部を掻きながら、小さく笑った。

「すみません。家まで遠いし、迷うと困るんで。」

「お前はいつも、*ヒック*かしこまってるよな。」

「いや.......そう育てられたんで。」

音痴の同僚の歌声が部屋中に響きはじめたのだが、その歌声は、目の前の見覚えのある男の記憶を探る邪魔さえにもならなかった。彼の髪と服は酷く乱れていたが、顔立ちには見覚えがあった。

その男は悠人の隣に豪快に座った。

「合併の案件、おめでとうございます!こぎ着けるまで大変だったでしょう。」

「ありがとうございます。幸運だったと思います。」

「はぁぁ、運?いやいやいや、悠人、運じゃないと思うぜ。お前の功績だ!」その男は悠人に近づきながら言った。「お前の功績だろ?」

悠人はこうなる事を予想していた。今晩は皆が悠人を避けていたので、絡まれることがない事を期待していたのだった。

「で、本当なのかよ?」

悠人はその男が何を言いたいのか、理解できた。

「もし君が、俺がサボって他の奴らに働かせたっていう噂の話をしているなら、答えはノーだ。でも事実とは違う、」

その男は嫌な笑い方をした。

「おい、謙遜するなよ。俺たちも順調にプロジェクトを進めるには何でもするさ。しかも、みんなそれが事実だってしてるし、目撃してるし。そうだろ,ひな?」

その男は、最初に悠人の隣に座った中年女性に聞いた。彼女は返事の代わりに、その男が再び話し始めるまで睨み続けていた。

「で、何でやったんだよ?」

「聞いてくれ、誤解なんだよ。誰かを仕組んだり、妨害はしていないし、俺はー」

悠人は目の前の顔をみているうちに、頭の中で何かが繋がったように、言葉を止めた。

「君は、あのチームにいただろ?ファブルとの合併チームに。」

その男は曇った眼鏡の奥から、ただ見つめていた。

「いや、俺はそのチームにはいなかったよ。ただ、手伝いが必要な時に一緒に働いたけどな。」と、その男は言った。

「そうか、それは失礼。でも。俺は何もしていないし、事実しか言っていない。ここで働いている同僚のことも、ちゃんと考えてる。」

「嘘をつけ、よく言うよ。」

中年の女性はやっと、静かに視線をそらした。

「いや。お前は一緒に働いている奴らに何が起きるかなんて、気にもしてないだろ。何か価値があることをしたのか?お前はチャンスがまわって来た時に、重要なものを奪い取ったんだ!」

「解雇されたのは、俺の友人だよ!」

会話が進むにつれて、何人かが二人を見つめていた。いつの間にか、二人の会話は歌より大きくなっていた。

「そこに座ってないで、何か言ったらどうだ!」

悠人はただ溜息をついた。「どうやら、飲み会に来たのは間違いだったらしいな。」

悠人は立ち上がり、自分の支払いを置き,帰ろうとすると、肩をつかまれた。

「どこ行くんだよ、質問に答えろ!」

「俺は誰の仕事も奪い取ってないし、解雇されるなんて思っていなかった。」悠人はその男の顔を見ずに、そう言った。「間違いを見つけたから、訂正しただけだ。おせっかいは余計だったんだな。ただ、皆と自分の為にしただけだ。自分勝手で悪かったな。」

カラオケからの音楽だけが、ぎこちない沈黙を埋めていた。数分過ぎ、誰もが静かになったところで悠人は帰ろうとした。

だが、相手の男はそう簡単には悠人を帰らせなかった。

「おい!まだ終わってないぞ!」

相手の男は悠人の腕を掴み、ねじり上げた。その瞬間、相手の男は逆の立場に立たされている事に気付いたのだった。その男の腕はねじられ、締め付けられる痛みを感じた。

痛みを感じた瞬間、その男は悠人を見上げた。腕は痺れていた。悠人の目つきは元から鋭いものだったのだが、今までにない、恐ろしい目をしているのに気付いたのだった。悠人の黒い目は、この瞬間では、今までと違う悠人の一面が残っていたのである。

こんな目つきをするなんて、どんな過去があるのだろう?

いやーなんていう目なんだ?まるで藪をつついて蛇を出すようだった。

「何だ?」悠人はそう言いながら、近づいた。「もう終わりだ。」

悠人は強い力で、相手の腕を胸へと押し戻した。悠人はさほど、強い力を入れたつもりはなかったのだが、相手の腕を離した瞬間、その男は痛そうにその場に崩れてしまった。数秒もしないうちに、同僚たちが相手の男の周りに集まり、男の安全を確認していた。続く混乱の中、悠人はドアをすり抜けた。思い返すと、悠人は相手の男と目を合わせた時、一瞬、恐ろしく、不気味な微笑みを浮かべていたのである。その微笑みは、会社の歴史的な利益を刈り取る訳はないだろう、と述べていたのだった。


Part 5

パート5


後から考えると、悠人は自分を完全に落ち着かせてから、電車で帰れば良かったと思った。アドレナリンに反応してしまうのは人間の習性で、起きた事を何度も考える度に、悠人の体は自然と、オートパイロットのように動いてしまうのだった。

悠人が外に立っていると、夜の涼しい風が吹き始め、感覚が通常に戻ってきた。

「大丈夫だ。何の問題もない。」悠人は携帯を取り出しながら、そう呟いた。

携帯が鳴り、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「もしもし、光。ごめん。思っていたより今夜は遅くなりそうで……」

「............?」

「あ、いや、俺は.......早く退社出来たんだ。」

「………....……」

「えっと、違う駅に降りちゃったみたいだ。」

「............?」

「そう、また起きたんだ...........」

「..........」

「あははは。大丈夫だよ。俺のことは心配しないでくれ。次の電車で帰るから。ちょっと遅くなるだけだよ。」

「............」

「うん。勇子を寝かしつけてくれないか?」

「................」

「あはは、そうだよな。この時間だととっくに布団に入ってるよな。早く家に着くようにするよ。」

「...............」

「うん、愛してるよ。」

「...............」

「じゃあ、あとでな、光。」

携帯のスクリーンが明るいことに、通話が終わった後に気が付いた。事実、携帯のスクリーン光が、待合室の、悠人の座席周辺を明るく照らしていた。それは当たり前だった。今夜は曇り空で、人工的な光がここぞとばかりに目立っていた。

悠人は後ろの壁にもたれかかり、小さな溜息をついた。

なんてことだ............これからどうしたらいいんだ.......

悠人は妻の光に、帰宅が遅くなると伝えたものの、終電を逃してしまっていた。彼女に伝えた方が良かったのだが、彼女の性格を考えると、彼女は何が何でも無事に帰宅する方法を考え出すと思われた。彼女のそんなところが、可愛らしくもあったのだが、彼女が考え出す解決策は必要と思わない事のほうが多かった。

また夜の風を顔に感じ、感覚を研ぎ澄ませると、平穏を感じることが出来たのだった。

「そうか。夜の散歩なら、誰も心配しないか。」

この考えは悠人の思い違いであったのだが、彼には失うものは何もなかった。


駅の周辺は全く見知らぬ場所ではなかったにもかかわらず、馴染みのない場所のように感じられた。ちょうど、都市部と山の麓の町の間に位置するこのエリアは、都市と自然の混じりあい、不思議な雰囲気をかもし出していた。鉄とガラスの建物が風景に溶け込み、数キロ先に建っている。だが、 町には人が少なく、 時折、街灯のしたを歩く姿が見え隠れするのだった。

確かに、その夜は平穏な夜だった。飲み会での出来事は1時間前に起きたばかりだというのに。

悠人は夢を見ているような気がした。

飲み会での出来事が再び脳裏をよぎったのだが、一晩中、そのことを考えたくはなかった。

悠人は小さな公園に辿り着き、これからどうするかを考えた。現実的には、タクシーで帰るのがてっとり早かった。タクシーだと高額な料金がかかるが、まだタクシーは走っていると思われた。

携帯をもう一度取り出し、ダイヤルしようとした時、何か強い香りを吸い込んだ。

これは…?

もう一度、空気を吸い込んでみると、激しく咳き込んだ。

たばこ?しかし、夜中の公園のど真ん中である。

この匂いはどこから来るのだろう?

好奇心が悠人を動かしたのだった。悠人は鼻で匂いを追っていき、とうとう、匂いの場所を特定したのだった。角を曲がると、一人の老人が池の前のベンチに座っていたのである。

実際には、老人と呼べる年齢ではなさそうだった。その男性の髪や顔の毛には、ところどころ白髪が混じっていたが、殆どはまだ黒かった。それに加え、その男性は驚くほど、体を鍛えているようで、肩はがっちりとしていて、顔はいかつかった。その物思いにふける顔とはどうも似つかなかった。

「同類だな。」とその老人はタバコを勧めながら言った。「一本どうだ?まぁ、あまり気晴らしにはならんだろうが、何もないよりはましか。」

「ああ、有難うございます。でも、結構です。」

悠人が言い終わらないうちに、その老人は低く、喉の奥から笑った。その笑いは切れたような、詰まるような笑いで、笑い始めたと思いきや、止まった。

「最近の子供は、何か新しいことに挑戦することを怖がるな。皮肉だと思わないか?たばこの1本ぐらい何ともないさ。」

悠人はその意見には賛同できなかった。

「あんたの顔つきを見ると、たばこは吸ったことはないな。」


悠人は後頭部を掻いた。

「それが事実でも、試してみるのが怖いという訳ではないんです。」

「うぅん。じゃあ、私に教えてくれ。」

「あ。ええと、私は偽善者だと言えるかもしれません。他の人がたばこを吸っていても気にならないのですが、息子には自分が正しいことをして、お手本になるように生きていきたいので、たばこは吸いません。」

悠人は男の反応を見る前に、彼自身の言葉が影響を与えたように感じたのだった。相手の男が悠人と目を合わせた時、眉をひそめ、物思いにふけていた表情は小さくはあったが、満足そうな笑顔になったのだった。

「家族はいるのか?」

「妻と息子がいます。」

その男は、隣の空いているところへ来るように手招きした。

「まぁ、座れ。」

悠人はこの見知らぬ男の招きを断るべきかどうか、迷った。本来なら、彼は帰宅するべきなのだが、この状況が彼を引き留めた。恐らく、悠人自身が、平穏で静か静かな夜の中に居たかったのと、この何処か行くところもなさそうな老人と話したかったのかもしれない。

多分これはチャンスなのだろう。

その男の隣に座ると、はっきりと彼の顔が見えたのだった。いかつい、しっかりとした肩もはっきりと見え、最初の印象より白髪が多いのに気付いたのだった。その老人は見た目、悠人より少し年上の様に見えた。悠人より25歳、30歳年上ぐらいだろうか。歳だけではない、何かをその男は持っているようだった。

隣に座っている男は、支配的な雰囲気を放っていた。決して敵意のあるものではなく、支配者のような、生まれながらにしてリーダーのような雰囲気だった。その男の雰囲気に、言葉で表せない変化がみえた。まるで答えを示してくれるようで、尊敬すらできる雰囲気が漂ってきた。その男は人の悩みや苦しみを全て請け負っているように見え、自分の事を顧みず、代わりに人々の重責を肩にのせ歩いているようにも見えたのだった。

しかし、その重責はずいぶん前から警鐘を鳴らしていたようだった。

毎日の様に喫煙している者なのだが、目を見張るような体格だった。

「すみません、ひとつお尋ねしたいのですが、」

「うん?」

「あなたが先ほど言った、’顔つきを見ると’ とはどういった意味なんですか?」

その男は最後の一口を吸ってから、隣に置いてあった、携帯灰皿でたばこをもみ消し、コートポケットへしまった。彼は何処にでも持ち歩いているんだろうか?

「君は大抵の人が思う、’男’という言葉に当てはまらないんだな。ダンベルなんかも持ち上げたことはなさそうに見える。」

悠人は侮辱だと捉えないように自分を抑えた。

「なんでそれが関係あるのかわからないののですが、持ち上げたことはありますよ。でも必要があってのことじゃない。」

「信じるよ。」とその男は頷きながら言った。「普通は口にしようとは思わんので、伝えたことは一度もないのだが、君のことを見誤ったようだ。」

「何をですか?」

「君の目だよ。それに、お前さんの態度もそうだ。目も態度も君の自信が表れている。」

自信か........

「有難うございます。お褒め頂き、感謝します。あなたが何を言いたいかは分かりましたが、まだ少ししか話をしていないですし……それに、さっきの質問にまだ答えてもらえていません。」

その白髪まじりの男はベンチに寄りかかった。

「お前さんに最初に言っただろう。同類だって。意味は分かってるとは思うが。」

「もちろんですが。」

「お前さんは悲観的で、陰気で、悲しそうに見えたが、よく見てみると、私のただの投影にすぎなかったのだろう。お前さんを良く見れていなかったんだな。」

「えっ?」

悠人は急に立ち上がり、池に映った自分の姿をじっと眺めた。彼の表情は........

警戒していた。

俺はこの表情しかしていなかった........いつ変わったのだろう?

「たばこを勧めた時、お前さんは自分の息子の話をしたよな。お前さんの顔を見て、自分が間違っていると分かったんだ。」

悠人は後頭部を掻きながら、苦笑した。

「あはは、そうですね。いや、全く間違いだとは思いませんよ。多分、少し落ち込んでいましたしね。もう少しで会社をくびになるところだったですし。」

その男は無精ひげを触り始めた。

「お前さんは、無能で会社をくびになるタイプだとは見えんがな。お前さんのせいか?」

「恐らく、そうでしょうね...いや、俺だけのせいじゃない。ただ、ある出来事については責任があるかもしれない。」


その男は質問するのを止めた。そして、出会った時のように二人は無言になった。雲がとぎれ、その隙間から月の光がさし、公園をうっすらと照らしだした。人工的なオレンジの町の光は月の光よりも薄暗く見えたのだが、不思議なことに二つの光はハーモニーをかもしだしていた。光輝く銀色と穏やかなオレンジ。男が小さなうなり声をあげ、悠人は彼のほうへ向きを変えたのだった。

「私も仕事でトラブルがあってね。どうするべきか、決めなくてはいけない。でも正直なところ、重圧を感じているよ。いい従業員もいる。皆の仕事は私にかかっているんだ。」

「驚きはしないのですが、重要なポストにいらっしゃるのですね。」

「仕事に関しては、近づきにくいと人に思われると、一緒に仕事をしにくくなるんだがな。」

「そうですよね。分かります。無神経だったり、無責任に聞こえたら、すみません。でも、個人的に、あなたの事は何も知りませんが、きっとあなたの事を支えてくれる誰かがいたのではないですか?その人達とだったら、乗り越えられるのでは?」

再び、その男は悠人の言葉に黙り込んだのだった。月の光でその男は老けて見えた。

「今晩、お前さんは何故この場所に来たんだい?奥さんと喧嘩でもしたのか?それとも同僚ともめたのか?」

「いえ、違います。帰宅途中、降りる駅を間違えてタクシーを呼ぼうと思って、ここに来たんです。」

「今までに、奥さんと喧嘩したことはあるか?」

この言葉を聞いて、悠人の頭の中に数年前の事が思い出された。

悠人は以前、光が市場で買い物中、観光客の若い女性達に道を教えた事があった。何も知らない光は、悠人が若い女性たちと話しているのを見た時、いつも持ち歩いている小型のナイフで野菜を切るようなジェスチャーをして、悠人を脅したのだった。悠人に怒った後、光は家に着くまで、ふてくされていた。その日、悠人は観光客には色目を使っていなかった事、外出時には光にナイフを持ち歩くのをやめる様に説得した。代わりに、光はお玉を持ち歩くようになった。

この日まで、悠人は光が外出時に、お玉を持ち歩いているかどうか確認してはいなかった。

「喧嘩と言えるかどうかはわかりませんが。」と悠人は苦笑いした。「もちろん、私たちの課題はありますが、いつも解決をしてきました。」

男が喋らないのを見て、悠人も黙った。

「あなたはどうなんですか?」

その男がたばこを深く吸ったのを、悠人は気付かなかった。

「長い間、独りだよ。」悠人は黙っていたのだが、その男は続けた。


「妻が長い間、私の支えだった。事業を立ち上げた時にも、長い勤務時間や仕事で家をあけた時も助けてくれた。大変だったよ。時には度を超えていた。それでも、その価値はあったと思うがね。最終的には馴染みのある会社になって、全国的にも知られるようになったんだがな。会社の成長に充実感と幸せをかんじたんだ。でも、満足出来なかった。」

「走り続けたんですね。」

その男はゆっくりと頷いた。

「ある時から、職場に泊まる日が続いてね。何日も何週間も家に戻らない日があったんだ。正直なところだな、」と男は苦い顔をした。「時々、妻の存在を忘れてさえいた。」

悠人は背筋に寒気を感じた。自分が光に同じ様な扱いをする事自体、想像が出来なかった。しかし、悲しいかな、以前にも同じ事を見たことがある。家族の事を忘れ、家族と呼ぶことさえも忘れてしまう人々だ。

「離婚されたんですか?」

「まぁ、そんなもんだな。私は仕事から離れて、少し考えたさ。妻の事や自分が遺せるもの、私みたいな年寄りが何を提供できるかをな。その時から、ここに来てるのさ。隣に座るのは、お前さんが最初ではないが、私の話を聞いてくれるのはお前さんが最初だよ。」

「有難うございます。ご苦労されているのですね。」

その男は大声で笑った。

「まぁ、人生の一部分だな。確かにあまり得意ではない分野かな。」

そう、チャンスなのだ。」

再び静けさが訪れ、悠人は静かに言った。

「孤独であることが、どのような事なのか分かる者が人間であり、しかし、それが分かる頃は遅すぎることが殆どです。」

悠人の哲学的な言葉に、その男は困惑した目つきで悠人を見たが、悠人は無言だった。

「どういう意味なんだ?」

「人と過ごした時間のなかで、自分が得た事です。人間の本性ですね。」

「質問に答えてはいないが。」

「ある哲学者は、孤独の中でのみ本当の自分を見つけることができると言っています。この言葉は本当です。でも同時に、大抵の人は真の孤独がどれだけのダメージを与えるか、甘く見ています。時間をかけて、少しずつ人を壊すんですよ。」

その男は興味深そうに、後ろへ寄りかかった。

「人間だけが、孤独な時に答えを見つけることが出来るんだな。だから、お前さんがやっていることは必ずしも間違っているとは思わんよ。お前さんは、仕事と結婚の中に答えをみつけだそうとしている。遅すぎるとは思えんな。」

「お前さんは見かけより、現実的なんだな。」

“I want to believe in an ideal, sir.”

「理想を信じたいだけです。」

男は雲一つない夜空を眺めている間、顎に手を当てていた。男の考えを読み取るのは難しく、少し間をおいて、彼は話し始めた。

「そうだな、結婚生活を壊した男へ何かアドバイスはあるかな?」

私が言えるのは、もう一度立ち上がれるという事です。もう一回やり直すことができる。」

苦い顔から優しい微笑みへと男の顔が変わった。その笑みは不自然で、男はどう見ても慣れてはいないようだった。

「それが、男であるという事だと思っています。」

「お前さんは現実主義者なんだな。」と頭を横に振った。「でも教えてくれ。」

「えぇっと……何をですか?」

「お前さんは私にアドバイスをくれた。だから教えてくれ。どんな風に奥さんと出会ったんだ?」

「あはは!」と悠人は後ろによろめきながら言った。「興味がおありなのは恐縮ですが、その話には何の価値もないかと思いますよ。話は長くなりますしー」

「そこを頼むよ。」と男は小さくお辞儀をした。「年寄りの頼みだと思って。何か見識が得られるかと思うんだが。」

男の口調が変わり、悠人は不意をつかれた。男の声は誠実だった。

「そうですね。」と悠人は落ち着きをはらって答えた。「もし、俺の話が役に立つなら、もちろん、お話ししますよ。」

そして、悠人にとって、初めて誰かに光との出会いを話すことになったのだった。

「どこからお話しましょうかー」

「ちょっと待ってくれ。」とその男は遮った。たばこの煙が新しいたばこの火を付けたように、静かに吐き出され、その男は悠人の方へ向きを変えた。

「では、」と言って、悠人は地面を見つめた。「長くなりますよ。」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ