第2章: 私が目指した人生
パート1
「み、みんな、待ってよ! 」
「おいおい、急げよ、のろま! 俺はもう上まで登ったぜ!」
「そうだよ、急いで。じゃないと置いていくよ!」
勇子は出来る限り、早く進もうと足を動かしていた。彼の小さな足には、上り坂の地形は不向きだった。踵を前に出すたび、柔らかい土が靴を形どり、小さな穴があいた様にみえた。さらに悪いことには、周りには草木など掴める物もなかった。樹木は生い茂っていて、花々は摘み取られていた。
母親は花が好きだったのだが、彼女の目の色と同じ、金色の花を摘むのは特に気が引けた。家族でピクニックに行ったときには、勇子は両親の為に花を摘んだ。母親はとても喜んでくれた。
そうだ、今日はお母さんに花を摘んであげよう!父親はきっと、良い考えだと言うに違いない-
*パキッ*
「えっ?」
*パキッ、パキッ、*
「うそ!」
*パキッ*
「ちょ、ちょっと、待って!」
遅かった。勇子は両手で頭を覆いながら、丘を後ろ向きに転がり落ちていった。花に気を取られ、茎が根元で折れたのに気付かなかった。
勇子はパニックになった。後向きへ転がりながら、大地の色、青、茶色、緑が混ざり合い、勇子は気持ちの悪さに包まれた。眩暈と柔らかい土を感じながら、自分がどの方向に行くのかすらわからなかった。ただ、すごい勢いで転がっているのはわかった。勇子は転がりながら自分が怪我をしているのに気付いたのだが、もう一人の自分が心の中で、この状況をどうにかしなければ、と叫んでいた。
勇子は何でもいいから、何かを掴もうと腕を前に伸ばした。何かを掴めれば、きっと止まる。勇子の指は温かく、ドロドロの何かに触れた。土の匂いがツンと鼻についた。
そうだ、手は?-勇子の手は泥だらけだった。
速度が落ちてきたように思えた。勇子は、次に足を精一杯伸ばした。伸ばした足のスニーカーの底には、土が大量についた。転がり落ちていたのが、ゆっくり滑り落ちるのに変わり、勇子はやっと止まった。
すべてが…..回っている…….
濃淡の違った、茶色と緑がまだ混じり合っている。それ以上に、止まった後も、勇子は胃が気持ち悪かった。
吐きたい訳ではなかった。勇子は近くにあった木の下に崩れる落ちるように座った。
時間はかかったものの、濃淡の違う茶色と緑は、はっきりと地面と樹木に別れた。元の世界に戻ったのだ。勇子は目を閉じ、胃に意識を集中させた。気持ち悪さも落ち着いたのだった。
*はぁぁぁぁぁ*
勇子は長いため息をつき、木を支えにしながら立ち上がった。まだ眩暈がしたが、そこまで酷くなかった。
緊張が体から抜けるのを感じた時、勇子は体中に痒みを感じた。腕を見ると、出血はしていなかったが、赤くなっていた。靴の中にも何かが入っていて、チクチクと刺さっているようで気持ち悪かった。頭を搔くと、土がパラパラと落ちてきた。あと、まだ確認していないところは-
「あたたたたたた……….」
勇子の服は染みだらけになっていた。母親に何と言われるか、怖かった。
「おーい、大丈夫?」眼鏡をかけた少年は声をかけた。
勇子はちっとも大丈夫ではなかった。彼は家まで逃げ帰りたかった。何も見えず、自分が何か大きな物にでもぶつかっていたら、と思うと恐怖で泣きたくなった。でも、今は泣けなった。新しいクラスメートの前では尚更だ。彼らに自分が勇敢であると証明できる、唯一のチャンスだったからだ。勇子は勇敢でなくてはならなかった。そう、ヒーローは強いのだ!
勇子は涙をこらえながら、「うん…」と静かにつぶやいた。
「凄かったよ!俺もやってみたい!」と野球帽を被った少年は言った。
「だ、ダメだよ。痛いよ-」
無言でいた3人目の少年は、勇子を遮った。「だめだ!時間がない!」
「急ごう、探検だ!」とその少年は続けた。
眼鏡の少年と、野球帽の少年が、試してみようかどうかと揉めている時、3人目の少年が、
「もういい!いくぞ!」と、
言葉もなく、歩きだした。
残りの二人もしぶしぶと後を追った。
「まって、みんな! だめだよ。帰ろうよ―みんな?」と勇子が声をかけた。
「怖がるなよ!行こう!」
「そうだよ、勇子。楽しいから、来いよ!」
彼の懇願は、虚しくも新しいクラスメートには届かなかった。クラスメートの姿が夕日の中へと溶けていった時、勇子はふと、父親は何と言うのだろうと考えた。勇気を出せと言うのだろう。父親の為にも、嫌でも勇敢でいなければならなかった。勇子は一度、逃げ出している。今度こそ、証明したかった。
選択の余地はなく、勇子は我慢しながら丘を登り続けた。
その時、勇子は二つの事しか頭になかった。何故、自分がこのような状況にいるのか、そして事実………
……..そうか
……….結構カッコイイ。
パート2
その3人家族は、3階建ての建物の門の前に立っていた。何組かの家族が建物に出たり入ったりしていた為、その3人家族は目立つことはなかった。その中で、母親が息子に話しかけているのが聞こえてきた。
「忘れ物ない? お弁当は? 教科書と筆箱は? 悠人、私がお弁当を用意している間、確認してくれたよね?」
「そんなに心配しないで欲しいな、光。」とするどい目をした男が言った。「ストレスは良くないよ。お肌の大敵だ。」
そうなのだった。3人は勇子の学校初日には遅刻しないよう、いつもよりも早起きをした。というよりも、結局、母親の光が二人を起こした。父親はいつも起きるのに時間がかかるのが普通で、勇子といえば、昨日の夜は不安で眠れなかった。
心配で仕方なかった。
これから会う人は………どんな人達なのだろう?
仲良くなれるかな?
勇子は皆と仲良くなれる事を期待していたが、初めて会う人たちだ。クラスメートの事を抜きにしても、新しい学校はどんな感じだろう? 学校は見学したが、教師には会っていなかった。
優しい人かな?
そうだといいな。
でも、もし僕がうっかり何か仕出かしてしまったら?
もし-もしも、僕が階段を降りていて、すれ違いざまに先生にぶつかってしまったら?しかも、先生が怪我をしてしまったら?? 大変な事になる!
ヒーローはトラブルに巻き込まれる事はない!
勇子は父親に、自分の心配事を話した。父親はただ笑い、勇子にこう言った。「そんなことは起きっこないし、悪いことをしなければみんなに好かれるさ。みんなヒーローが好きだよ。」
みんなはヒーローが好き―でも、勇子はまだヒーローではない。もし、嫌われたら?
母親はきっと友達もつくれるから大丈夫だと、勇子を励ましてくれた。でも、どうやって作れるのだろう?
勇子には分らなかった。
どうやったら、問題を起こさずに済むのかな?
どうやって、みんな初めて会う人と話せるんだろう?
どうやって友達を作れるのかな?
疲れてはいなかったが、勇子は目を閉じた。彼が次に目を開けた時にはもう朝を迎えていた。母親の勇子を呼ぶ声が聞こえてきたのだった。
…………夜じゃなかったっけ?
何が起きたんだ?
とりとめのない可能性が勇子の頭をよぎった。一つの答えが浮かんだ。
タイムトラベルをしたんだ、きっと。
もし、それが答えだとすると驚きではあるが、勇子は気にも留めなかった。ただ眠りたかった。
勇子は理由は分らなかったのだが、、疲れを感じてはいなかった。それでも、勇子はベッドから出たくはなかった。再び、母親の声が聞こえ、彼は*う~ん、もう~*と呻きながら、歯を磨きに行った。
「お早う、お父さん…….お母さん……」母親が声をかけた。
「あら、勇子、大丈夫?」
「ううん…..」勇子はだらけた姿勢で答えた。
「眠れなかったのか?」父親が尋ねた。
ボーっとした様子で、勇子は頷いた。
「ふうん、お母さんが問題解決してあげれそうよ。ラッキーね!」母親はそう言いながら、コップに液体を注いだ。
「飲んでごらん。」
………………………………………….
「おい……..光…….これは、俺がやりそうなことだな。何でお前が6歳の息子にコーヒーを飲ませようとしてるんだ?」
「今日は大事な日でしょ!今日は特別。」母親は、気まぐれでいて、ふざけたような、そして、怖いぐらい真剣にいった。悠人は光がどういう心境でいるのか図りきれなかった。
「美味しいの?」
「お父さんも飲むわよ。飲んでみる?」
「へぇ!お父さん、美味しいの?」
「うん…..そうだな……」
「飲んでみてごらん、でも、急いで。もうすぐ行く時間よ。」
勇子は、少量の液体が入ったカップを取り、飲んだ。その液体が勇子の舌に触れた時-
「うわっ!」勇子はコーヒーをカップに吐き出した。「お父さん!….お母さん!….何、これ?死んじゃう!….」
父親はナフキンを勇子に手渡しながら、半分怒ったように言った。
「苦いだろ?」
「ジュ、ジュース頂戴!」
母親がジュースをコップに注いでいる間、勇子が気にかけている事を話し始めた。
「お父さん、お母さん、どうやったら友達を作れるのかな?」
この質問に、二人は不意打ちを食らったようだった。父親は椅子の背もたれに寄りかかり、母親は一度目を閉じてから、確信に満ちた笑顔を勇子に見せた。
「昨日も言ったと思うけど、友達を作るのは簡単よ。」
「簡単?」
「えーっと、光、それはお前から、言えることじゃないだろ?」
「あら、それ、どういう意味?」
光は本気で驚いたようだった。
「まだ俺たちが学生だった頃、お前の事を知らない奴らは、お前が生徒会に向いてると思ってたんだよな。あの頃を思い出すと……お前をよく知ってる奴らは…….」
光は悠人を暫く見つめてから、突然激しく笑い出した。
「まあね。選択肢はなかったのは、分かってたでしょ。」光は涙を拭きながら言った。「とりあえず、笑顔で手を差し伸べなさい。」
「握手みたいに?」
「うふふふ、違うわよ。あのね-」
「笑顔だ!」父親は突然立ち上がり、言った。
「男はいつも笑顔でいなくちゃいけないんだ、勇子!勇敢でいるのと同じさ。笑顔でいるんだ!」
「なんで?」
「ううん、」父親は腕を組んで、「そうだな…….それはだな……..」と続けようとした。
「だって、勇子は優しいんだって、みんなに伝えられるでしょ。」と続いた。「友達は優しいし、みんな優しい人は好きよ。」
「なるほど、笑顔でいればいいんだね!」
「それから、手を差し伸べるの。時として、人はそれだけで充分なのよ。」と母親は付け足した。
母親が言った、最後の部分はよく理解できなかったが、勇子はそれ以上、その話をしたくなかった。勇子の不安が解消された。朝食も、後片付けも終わり、両親は出かける支度を終わらせようとしていたのだが-
「まだ……まだ残ってる….」勇子は、またコーヒーカップを手に取った。中にはほんの数滴しか残っていなかった。コーヒーが再び勇子の舌にたどり着き、勇子は唇を舐めながら味を確かめていた。
「これ……なんか美味しい……」
その後、特に問題もなく一家は学校へ到着した。幅広い、うっすらと光る鉄の門が一家を迎え入れた。淡いピンクの桜の花びらが、まるで前進して行く人々を歓迎しているかのように、宙を舞っていた。
母親が帰り支度をしている途中、何か思い出したかのように手を合わせた。
「そうだ!忘れちゃう前に、三人で写真を撮ろう!」
「うん、そうだな。いい思い出になる!」と父親は大きい声で言った。「でも、仕事遅れないか?」
「大丈夫よ。一度だけなら。」と、母親はカメラをカバンから取り出した。「大事な事でしょ。」
母親は近くにいた家族に駆け寄り、写真撮影を頼ながら、カメラを手渡した。
勇子は胸の奥に、何かが広がってゆく感覚を覚えた。家族で写真を撮ることは初めてではなかったが、勇子が主役なのは今回が初めてだった。
「お父さん!」
「うん?」
「僕……僕が真ん中でもいい?」
父親は一瞬驚いたようだったが、楽しそうな表情に変わった。
「あはは、そう考えてたよ。」
「悠人、勇子の右後ろに立って。私は左ね。」母親は二人のところへ戻ってきており、知らない人達が3人の写真を撮ろうと、前に立っていた。
えっ、もう? ポーズ-ポーズしなきゃ。父さん、母さんは何やってるんだ?
勇子がそんなことを考えているうちに、母親の手が彼の肩にかかるのを感じた。そして、母親は頭を父親の胸に寄せていた。父親はそれと同時に、腕を彼女に回し、もう一方の手は勇子の肩にかけていた。
そして二人とも……
「オーケー!笑って!もっと笑って!」カメラを構えている見知らぬ人は声をかけた。
素早く、大きく息を吸い、勇子は手をグイっと前に出し、親指を立てた。
そして、両親と同じように大きい笑顔を作った。
「いいね、いくよ!1…..2……3!」
*パシャ*
その見知らぬ人は、母親にカメラを手渡す前に暫く、‘素敵なご一家ですね’なんて、お世辞を言っていた。光は嬉しいのと同時に照れてもいた。やっと、見知らぬ人から解放された後、興奮している勇子の元へ戻ってきた。
「ママ、見たい!見せてよ!」
「あら?勇子、ママってだあれ?」
勇子はハッとして、とっさに両手で口をふさいだ。
「ご、ごめんなさい、お母さん。お母さんって呼ぶつもりだったんだ。」
母親は勇子の言葉を聞いて、小さく、クスクスと笑った。
「そうだよね。つい、出ちゃうよね。きっと私のせいね。勇子、あなたはいい子よ。でも、お願いする時は落ち着こうね。」
「う-うん!気を付けるね。」
母親は、微笑みながらしゃがみこみ、勇子にカメラを渡した。
「ほら、見て。どう?」
「うん!よく撮れてるね。お父さん、見て”と勇子は口調に気を付けながら言った。
「凄く鮮明に撮れてるな!勇子の髪が一本ずつ、はっきり見えるよ。ほら、ここ。」とカメラを手に取った。
「………….どこ?」
一瞬、悠人の目に光が宿った。その光はチャンスを目の前にしてより輝いていた。この目の輝きには、悠人の妻は気付かない訳はなかった。彼女はそれに気付き、すぐに悠人を止めようとした。
しかし、母親は一足遅かった。
「それだ!」父親は叫んだ。「母さんの肌だ!」
「お母さんの……..肌?」
「そうだ、勇子!俺は正しいようだ……」父親は立ち上がりながら、言った。
「悠人、これは-」
「ふむ、そうそう、この肌質。」父親は母親の周りグルグルと歩いた。
「な、なによ?」
何度かカメラの画像から目線を母親に移し、じっと彼女を見つめ、また画像に視線を戻した。父親は、ぶつぶつと何か言いながら光に近づき、そして彼の結論を述べ始めた。
「妻よ、ストレスで美しい君の肌がガサガサになってしまうのは、もったいないだろ?」父親は母親の腕を持ち上げ、「この肌質!-光、お願いだ。仕事前に、どうか俺にストレス軽減のマッサージをさせて欲しい。」
光はこの言葉を聞き、彼女の全身に電撃が走ったように、衝撃が走り震えた。しかし、それと同時にではあるが、落ち着きも取り戻していた。知らない人からは、光がショックを隠せないでいるように見えたのだが、しかし、それは違った。彼女には、ショックを受けたふりをするのに慣れたものだったのだ。
「あ、あら、悠人。時と場所をよく考えてね。しかも、公共の場に居るのよ。周りがどんな風に思うか…….」
「おぅ?」と悠人は顔の一部に神経を集中させながら、「光はそう言うけど、君のこの部分は赤くなってるよ。かわいい!体は正直だね、光~。」
父親の言った通りだった。母親は耳から顔へと徐々に赤くなっていった。
「あらあら。」と光は手を頬にあてた。「また、お玉を買わなきゃいけない?」
「そうだね。そうしよう。」と母親の顔を覗き込みながら言った。
「でももし、何かを作ってくれるつもりなら、エプロンをした方がいいよ。汚したくないだろう?」
悠人は間をおいてから、
「そうだ、汚しすぎないように。」
母親はピクリとも動いていなかったが、首までますます赤くなっていった。
勇子は混乱しながら見ていた。そして思いついたように、手のひらをグーでポンッと叩いた。
「あ、そうか!お父さん、お母さんは料理とデザート作りが上手なんだよね!」
「あああはははははは―勇子!何にも分かって-いたっ!」
突如、強い力が、悠人の胸を叩きつけた。
「あなた、息子に変な事を教えないでって言ったでしょ!」と笑みが浮かぶ顔に手をあて、光は言った。
「うぅぅぅぅん…….お………覚えとく」と言いながら、かがんだ。
光は息子の傍にしゃがみこんだ。
「お母さんはもう行くね。勇子、大丈夫?」
勇子は興奮していたのか、今日が登校初日だという事を忘れていた。写真を三人で撮った喜びと、両親のやり取りを見ていて、不安は感じていなかった。
緊張感ではない。と、いうよりも-
「うん…ちょっと怖い。人がたくさんいるし…..」
「でも、話したでしょ?緊張するのも、怖いと思うのも当たり前よ。」といいながら、勇子の顎を持ち上げ、続けた。「何はともあれ、勇子を信じてるよ。大丈夫。勇子なら、大丈夫。」
母親のさっきまでの緊張感は消え去り、嬉しさと力がこもったこぶしと、太陽に光輝いた瞳がそこにはあった。
母親の表情と支えの言葉で、勇子は励まされた。母親は彼を信じてくれている。
もちろん、僕はできる!
「うん! お母さん、僕がんばるよ!」
「良かった。いつもの勇子ね。」
「ううう……..勇子……..痛みをこらえている父さんを放っておかないでくれよ……..」
父親は母親の顎を持ち上げ、頬にキスをした。彼女が仕事に遅れたら、一大事だ。
「じゃあ、また夕飯の時にね!」
「行ってらっしゃい、お母さん!」そう言って、勇子は門を出ていく母親に手を振った。
「うん….行ってらっしゃい!」と言いながらも、父親はまだ腹を押さえていた。
「うん?お父さん、大丈夫?」
「うん、全然大丈夫だよ。」
勇子が思った通り、父親は大丈夫ではなくても、大丈夫な振りをするのだった。もう一つ、勇子は父親のかっこいいところを見つけたのだった。
「あ!パパ、みんな来たよ。こっちに来るね!」
しかめっ面をして、父親は見上げた。「おぅ、本当だ。急ごう。入学式が終わったから、俺は帰らないと。」
「う、うん!」
こうして、二人は式場を出ようと向きを変えたとたん-
「うわっ!」
「おっと! 勇子、大丈夫か?-あ、本当にすみません。」
「こちらこそ、すみません。大丈夫ですか?」とぶつかった相手も聞いてきた。
二人は真後ろにいた、もう一組の家族とぶつかってしまった。
実際には、子供同士がぶつかり合い、勇子が相手の少年を勢いで倒してしまったのだった。
相手の家族は、写真をとっていた最中だったらしく、その場に立っていた相手の少年が倒れてしまった。
「大丈夫ですよ。」と相手の父親は答えた。「もっと広いところで、写真を撮れば良かったな。はじむ、大丈夫か?」
「おい、勇子、突っ立ってるな。助けてやれ。」
勇子は気まずさを感じたが、床の上の少年に手を差し伸べた。
その時、その少年は勇子の手を振り払った。
えっ?何で?
相手の少年、はじむは差し伸べられた手から顔をそむけた。勇子はその少年の食いしばった歯と細めた目を見た。
何も言わずに、その少年は人の少ない、校庭へと歩いて行ってしまった。
「おい!はじむ、戻ってこい!」
その少年は声の届かないところまで行ってしまった為、その声掛けは無駄だった。
「本当にすみません。周りをちゃんと見ていなくて。」
「大丈夫ですよ」と、はじむの母親が言った。「この子、今朝は準備が大変で、機嫌が悪くて。」
そして、二組の家族はお辞儀をして別れた。
まるで、何も起こらなかったかのように、元に戻ったようだった。
後から人が増えるにつれ、自分の子供を目で追っているはじむの両親を、二人は黙って見つめていた。
「お父さん?」
「いや、勇子。」
勇子は困惑した面持ちで父親を見上げた。
「お前は悪くない。自分のせいじゃないかって、聞こうとしたんだろう?」
勇子は頷いた。
「事故は起こるものだよ。お前はあの少年が見えなかっただろ。向こうも俺たちがいるのに気が付いていなかった。誰のせいでもないさ。」
「わからないんだ。………….あの子は怒ってるの?」
父親は後頭部をゆっくりと搔いた。
「いいか、こうすればいい。次にあの子を見かけた時、ごめんって謝ればいいんだよ。」
「それでいいの?」
悠人は対応に悩んだ。ちょっと前の、楽しそうな息子の笑顔が顔から消え、今は罪悪感にかられた表情が見える。これは間違いなく、誤解であった。勇子のさっきの笑顔を取り戻さねば。
ふと、悠人にあるアイデアがうかんだ。彼は笑わずにはいられなかった。
「もちろん。大丈夫だよ、勇子!」と大げさにポーズをとって見せた。「これは、チャンスだ!」
勇子にとって、父親の説明のない行動には少しイライラした。悠人はすぐに続けた。
「勇子、ヒーローの共通点はなんだ?」
「わからない…….カッコイイところ?」
「それと、友達がたくさんいる事だ!でも、どのヒーローも最初は違うよな。そうだろ、勇子?」
悠人は父親の言葉を理解しようと、勇子は心の中にある歯車を、ゆっくりと動かし始めようとしているのを感じ取れた。
その歯車がかみ合えば、勇子は行動に移すことが出来るかもしれない。
「だから…..あの子と友達になるの?」
「そう! 怒らせた誰かと友達になること、これはお前が勇敢になれる最初のチャンスだ!」
悠人はかがみ込んで、続けた。「あの子は怒ってたみたいなんだろ?」
勇子はその言葉を理解し、飲み込むまでその場に立っていた。ゆっくりと、少しあんぐりと口を開けていたが、目には再び鮮やかな光が輝いていた。
「これが-これが、ヒーローになる最初のチャンス?」
「そうだよ、勇子。ヒーローはいつも良い友達が傍にいる―」と言いかけて、口をつぐんだ。
「でも、最初、ヒーローは一人の事が多いんだ。それでも、ヒーローはいつも一番強いんだよ。」
「でも-でも、僕もヒーローになれるんだよね!」
父親は優しく笑った。「友達を作った後でな。」
父親はそう言い終えた後、携帯を取り出し、勇子に向かってかがみ込んだ。
「お父さん、何やってるの? みんなで写真をもう撮ったよね。」
「でもこれは、俺たち二人の写真だ。ヒーローになった記念日だ。」
父親の言葉は、目的通りの効果があるように見えた。
「覚えておくんだ、勇子。みんなに見てもらえるように、明るく笑っていろよ!」
父親は、携帯を構えながら考えていた。息子の、この瞬間の笑顔はかけがえのないものであると。
とても価値のあるものだと。
二人は携帯のスクリーンに納まり、父親はボタンをおした。カシャッとスクリーンが一瞬またたいた。
「大切な思い出だ、」と、父親は主張した。
「お父さん?」
「しーっ。」父親は人差し指を唇にあてて、勇子に静かにするように合図を送った。
「何も言わなくていいよ。お母さんの言葉と、今、俺が勇子に言ったこと、ちゃんと覚えてて。」
「え….笑顔….?」
「そうだよ。勇子はやる時はやる。わかってるよ。」
「僕……..よく分からないかも。」
父親は再び笑った。
「たぶん、今はわからないだろうな。でも、すぐにわかるさ。で、勇子-」
勇子は父親を見上げた。
「えーっと....そうだな….もういいよ。もう充分だ。さ、行こう。遅刻する!」
「うん!」
勇子は振り返った。彼の目は、空に昇っている太陽のように、輝いていた。
「僕、頑張るよ!」
勇子は握りこぶしを作っていた。
「大丈夫、出来る!」
* * * * *
「…..皆さん!入学おめでとうございます。新しい教室へ移動しましょう!」と、活き活きとした教師がそう言った。
「なつめさん、そろそろ自己紹介を始めましょうか!?」と無作為に名前を呼んだ。
「そろそろ自己紹介の時間ですね。あなたから、自己紹介をしましょうか?」
家に帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい。
帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい。
帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい。
帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい。
この思いだけが、1時間ほど、勇子の頭の中を駆け巡っていた。勇子は壁の時計をちらっとみたが、15分しか経っていなかった。落ち着く為に、今朝両親が話してくれた事を思い出そうとした。-
なんて言っていたか、思い出せない!全く覚えていない!
勇子はやっと、自分の教室へと辿り着いた。新学年スタートの記念式典の後、勇子は自分の席が用意されている教室へと案内され、担任の教師が紹介された。全てが楽しみであるはずっだ―勇子は教室に入るまでは、楽しみにしていたはずだった。が、しかし自己紹介と聞いて、集中出来なくなってしまったのだった。
勇子は視線を教室の左側へと移した。すると、一番前の列に、今朝ぶつかった少年が座っていた。
これは、幸運に違いない? その少年に謝まることが出来るし、友達にもなれると勇子は考えた。
そうだ、友達だ!勇子は思い出した。友達を作ることは難しくない、と母親は言っていた。
もしくは…..お父さんが…….
どちらにしても、勇子は友人の作り方を知らなかった。あの子はまだ怒っているのだろうか?悲しいのだろうか?
さらに悪いことには、勇子には沢山の友人を持つことは予想外だった。考えたことはあったが、この教室にいる全員とは……..
誰かが、勇子の肩を叩いた。
「うわっ-はい!」
笑い声が、教室のあちらこちらから聞こえてきそうだった。
「あなたの番よ。名前の後に、あなたの事を教えてくださいね。」
「はい、先生!」と彼は立ちながら言った。
勇子は教室を見渡した―みんなが見ている。そして、あの少年もいる。勇子は、あの少年とクラスの子供達と、友達になれるよう、何かパフォーマンスをしなければならなかった。
何か、カッコイイことを。
「頑張ってね。」母親はそう言っていた。
「……………………………」と、父親は言った様だった。
お父さんは何て言ったっけ?
勇子は考えることが出来なかった。
「ぼ、僕はあ、朝日乃勇子です!ぼ、ぼ、僕は……」
何かカッコイイ事。
何か友達に見せれる凄い事。
友達?
お父さん、お母さん……
笑顔。写真。二人は笑っていた。
笑顔を忘れないで。
母親の言葉だった。
勇子も笑う必要があった。
父親との写真。勇子は笑っていた。
父親の言葉…….
男は笑顔だ!
……….男………..
………………….!
半笑いのような、ひきつった笑顔だった。勇子は震えを足まで感じていた。でも、何を言うかはもう心に決めていた。深く息を吸ってから天井を見上げ、心の底からこう言った。
「僕はヒーローになりたいんです!」
時間が止まったようだった。全てが凍り付いた。クラスメートからの無言のまなざしは容赦なく勇子を焼き付けた。
その時、声がした。
その声は笑い声に混じって聞こえてきた。周りを見回すと、何人かはじっと静かに見つめていた。また、何人かは実際に…….拍手を始めた。
「そうね!……凄いわね。ありがとう、朝日乃君。このクラスの一員で嬉しいわ。ねぇ、みんな?」
他の生徒達も拍手をし始め、勇子は席に着いた。
彼は……やった。
勇子はかがむと同時に、足は興奮で力が入り、床を踏みつけた。拳を握りしめていた。
勇子はやった!
勇子はあの少年の顔を見ることが出来なかったが、友達に向けて素晴らしい自己紹介が出来たのだった。
「お母さん、ありがとう!お父さん、ありがとう!」と心の中でつぶやいた。
二人は最高だよ!
パート3
「お前は駄目だな。」
彼の上司は、単刀直入にはっきりと言った。
彼はいつもそんな感じだった。
しかし、それは上司のせいではなかった。そんな言い方をする理由が明確にあるからだ。
「君は仕事に1時間半も遅れてきて、図々しいと思わないのか? 同僚や会社の人間の事を考えたことはあるのか?」
悠人は、頭を深く下げたままだった。「大変、申し訳ありません。今日はどうしても、抜けれない、大事な用があったんです。」
「あー、そうだよな。お前がいなかったが、提携会社との評価は20分前に終わったよ。」
悠人は黙ったままだった。上司はため息をついた。
「仕事に戻れ。処分は後で考える。」
悠人は再度頭を下げ、無言で部屋を出た。
今日という日は、大切な日だった。あえて言わないが、悠人の机の上の書類の山は、仕事より重要な予定を優先させている証拠だった。普通の会社員ならば、自分の評価がどうなのかを心配するのだろう。しかし、悠人は心配すらしていなかった。上司、仕事、キャリアや同僚さえもだ。悠人の頭の中には、二つの事しかなかった。
悠人は仕事に取り掛かった。
そう。いつもこの二つが悠人の頭にあった。光は気に留めている様子はなかったのだが、悠人は重要な仕事があったにも関わらず、嘘をつき、勇子の入学式に出席したのだった。そうしなければ、光が入学式に出席したに違いなかった。悠人にしてみれば、現時点では光の仕事のほうが、生産性があるように思えた。悠人は入学式の写真も、自分の携帯と妻から手渡されたカメラの両方に、しっかりと納めた。
彼女はエプロン1枚だけだった。
悠人は光が隣に寝ている時の、彼女の細い体と温かさを思い出していた。光の声は……..繊細で、甘く、でもしっかりした声だった。まるで花のようだった。言うまでもないのだが、光の驚くべき知的能力は、母親だけがもつ賢明さなのであろう。彼女は鋼の花だった。
もちろん、彼女の全てが素晴らしかった。特に、彼女の容姿はとびぬけて………….
光のスリーサイズを覚えていても、不思議はない。俺は彼女の夫だ。妻のスリーサイズを言ってみようか-
-駄目だ、今は! 会社では…….集中しなくては……..
想像の中に入り込み、悠人は気をそらすものを探し始めた。その 対象の人物はいつも彼の意識の傍にいた。
勇子は何かが違った。
父親が自分の息子に何か問題があるなどと、言っても良いのだろうか?
……….正直なところ、勇子の性格に関して悠人自身、責任を感じていた。悠人の影響があったとしても、勇子の年齢を考えても、彼の考え方は不自然なところがあった。悠人は心理学の専門家ではなかったが、勇子は罪悪感を抱えている様に見えた。
何故、子供が罪悪感など感じなくてはならないのだろう? 父親になってからも、小さな子供が自分に非がないことに罪悪感を感じるなんて聞いたことがなかった。中には、責任の言葉すらない子供もいるのに。
何故だろう?
もちろん、悠人には答えがわかっていた。息子の勇子は、悠人が持っていない、何か特別な物を持っていた。
悠人は、椅子の背もたれにもたれかかった。
光は勇子が理想というものを理解するのには、まだ幼すぎると言っていた。しかし、そうなんだろうか? もしそうなら、勇子は理想を追いかけられないのだろうか?
悠人を最も驚かせたのは、勇子は知識や情報をスポンジのように吸収することだった。勉強も良くできているのだが、必ずしも学問という事ではなく、彼の周りの世界に対する知識に関して吸収が早かった。大雑把にいうと、勇子は自分が適切に行動する為に、何が正しくて、何が間違っているのかを知りたがった。
勇子はヒーローの話を熱く語ったが、いつも話題はヒーローのパワーや特殊能力ではなかった。いつも彼らの行動についての話だった。
彼はヒーローは行動で、評価されると知っているかのようだった。
………..まるで、本気でヒロイズムを信じている様にも見えた。
本当に、勇子にとって目指しても良い目標なのか? 疑問がわいた。
理想?
ヒーローは一人でいる事が多い。
悠人は勇子にそう言ってしまった。どの父親でも息子にそんな酷いことをいうと、自己嫌悪に陥るのだろうが、悠人は違っていた。それは―いや、―そう、自分勝手な言い分なのだろう。悠人は、勇子にヒーローになる為の試練に向けて準備をさせたかった。ちょっと変わった自分の子供には、それが必要だった。悠人には、なんとなく、その為のアイデアは頭の中にあった。自分の時と違うところは………
悠人は*ふーっ*と息を吐いた。
「俺は自分の子供に何をやってるんだ?」
悠人が時計を見てみると、ちょうどお昼前だった。昼食に出れたのだが、外出することで集中力を切らせたくなかった。何かへ気をそらすことで、悠人は仕事を自動操縦でこなせたのだった。そのお蔭で、一日が短く感じることが出来たのだった。
もうひとつ、同僚も悠人の仕事を遮ることもなかった。仕事を中断させるものがなければ、早く帰れる。悠人にとって大切な人に早く会えるのだ。
悠人は長い間、家庭の築き方を考えてきた。彼自身の幸せの為に。
なので、彼は元の場所へは戻らないつもりだ。
今は帰れる家庭がある。
「俺は大丈夫。」悠人は無言でつぶやいた。彼はそう信じていた。
しかし、過去を振り返り、今までに起きたことの数を数えなおしてみると、悠人の胸の奥に痺れのような感覚が起こるのだった。
大丈夫でいる事なんて、保証は出来なかった。
パート4
「君がヒーローがどうとか、言ってた子だよね。」
新入生も登校初日も終わりに近づいてきて、勇子は背伸びをした。他の生徒も背伸びしていた。両親は、勇子一人での登下校には不安だった為、勇子を学童保育へ登録した。学童保育がある学校は稀で、登録することを決めたのだった。両親は案内のチラシまで事前に勇子に見せていた。
「学童保育は、共働きの家庭の児童に向けたプログラムです。お迎えの時間まで、児童は様々な活動に参加できます。小学校では正式なクラブ活動に参加出来ない為、学童保育では、簡易なかたちで、ミニクラブ活動を提供しています。このミニクラブでは、スポーツや書道、料理から勉強まで興味のあることを選べます。お子様が楽しいことに出会える場所です。学童保育での活動は広範囲まで目が届き、活動中は子供達に指導員が付き添います。子供達の豊かな経験の為に、私たちも一緒にお手伝いが出来る事を楽しみにしています。」
勇子は全てが理解出来なかったものの、下校後、親が迎えに来るまで行くところだとは理解出来た。勇子は両親に、一人で下校出来ると主張したが、両親の返事はいつも同じだった。
「大きくなったらね。」
もしくは、
「もう少し学校に通ってから。」と言われたのだった。
ヒーローは自分で家に帰れる!…..でもヒーローも親の言う事をちゃんと聞いたのだろう。少なくとも、ヒーローの親はそう言った。
時間があった時、勇子は両親からのアドバイスを忘れないように書いておいた。
僕は笑顔でいなくては。それから….握手?お母さんは何か手の事を話していたな。お父さんは、ヒーローになれ、だっけ? 父さんみたいな男になれ? それとも両方? そうだ、みんなに優しく、とお母さんは言っていたはずだ。
勇子は自分が運がいいと思った。教室には生徒一人しかいなかった。担任もおらず、学童保育がまだ始まる時間ではなかった。時間になれば、先生から学童保育へ行くように指示があるのだろう。
その間、勇子はうつむいて座っている少年が気になっていた。今朝の少年だった。
勇子はその少年に近づいた。勇子はメモに書いた事を思い出し、手を差し出した。その少年はつまらなさそうな表情で見上げた。
「君だろ?ヒーローの話をしてた奴。」
「僕、朝日乃勇子。同じクラスで、僕の席はあっちなんだけど―」
勇子は壁に近い机を指さした。
「同じクラスなのは、わかってるよ。目の前にいるだろ、見えてるし。」
「あ!そうだよね。うーん…..握手しよう。」と勇子は腕を大げさに振ってみせた。
少年は両肘をついていた。そして、少し興味をもったのか、勇子の手を見た。
少年は聞いた。「なんでそんな話し方するんだよ?」
「え?そんなってどういう意味?」
「君は‵そうだよね′って言ったし。なんでそんな話し方なんだ?」
「僕….えーっと、おかしい?」
「そこの二人、一緒にいらっしゃい。学童保育が始まるよ。」
少年に返事をする前に、二人は教室に入ってきた教師に、声をかけられた。
「行かなくちゃいけないですか?」
「そうだよ。君達のお父さん、お母さんの事を考えると、一人では家に帰せないわよ。でも、元気出して!」突然、先生は強調するように、口調を変えた。「ゲームでも遊べるし、お互いを知ることができるわよ。楽しいことでいっぱいよ-約束する!」
選択の余地はなく、二人は教師について校庭にでた。
その日の午後は、予想よりも暖かくはなかった。平年よりも少し湿度があり、午前中から過ごしやすい気温を保っていた。
勇子とはじむの二人は少人数の1年生グループのところへ移動した。勇子はストレートの黒髪の少年の肩を軽く叩いた。
「何?」
「握手しようよ。」
「君と握手したくないんだけど。」
「でも…..何で?」
勇子は出した手を、笑顔で体の脇に戻した。
その少年は答えようとはしなかった。勇子はポケットのメモを取り出し、笑顔で握手をしようとしたのだが。もしかしたら、この子は意地悪なのか?
「あ!」
勇子が大きな声で叫んだので、何人かが彼の方を見た。グループの後方だったので助かった。
「ごめん!―ご、ごめん。」
勇子は大事な事を忘れていたことに気付いた。何故、最初にこれを伝えなかったのだろう?一番大切な事じゃないか!
勇子はもう一度、その少年の肩を軽く叩いた。
「何?」その少年は鬱陶しそうに言った。
「今朝はぶつかってごめんね。そんなつもりじゃなかったんだ。大丈夫だった?」
勇子がそう言った瞬間に、その少年の顔は赤くなり、腕が震え始めた。少年は病気なのだろうか?勇子が風邪をひいた時にもそうなった。風邪?病気?
「大丈夫じゃない。知りたいか?」
勇子が答える前に、その少年は話し始めた-
「今日は最悪だ!朝ごはんは食べたいものを作ってもらえなかったし、車で学校に来れると思ったのに、歩きで来なきゃいけなかったんだ!長いこと歩いたんだぞ!歩くのは嫌いだ!靴も汚れたし!」
「…..でも……僕 歩くのは好き―」
「まだ終わってない!」少年は唸るように言った。「途中でバカな犬に吠えられて、学校に着いたと思ったら、うちのお手伝いさんが来てなかった! 一緒に写真を撮る予定だったのに、忙しくて来れなかったんだ!お手伝いさんが大好きなのに、会わせてもくれない!お手伝いさん抜きで写真は撮りたくなかったのに、写真を撮らされたんだ!」
勇子は時間が止まった様に感じた。少年と自分の共通点を探しはじめた。
「犬? 今、犬ってい言っ-」
「さらに悪いことは、」と、その少年は勇子に近づきながら続けた。「俺を放っておかない、変な奴と一緒にいなきゃいけないんだ!」
大きな力が、勇子の胸を押した。何が起きたか理解する前に、勇子は埃っぽい校庭に突っ伏していた。
その少年が勇子を何故押し倒したのか、わからなかった。自分が何をしたのかもわからなかった。何故その少年は勇子に優しくなかったのか。
勇子はちっとも理解できなかった。
一つだけ理解できたのは―目に見えるものすべてが、涙で潤んでいた。
「おーい、はじむ、何やってるんだ?」
「もぅ、前みたいに問題をおこすなよ。」
勇子の思考のつながりは、二人の少年が近づいてきたことで途切れた。一人は野球帽を被り、もう一人は、顔が隠れてしまうくらい大きな眼鏡をかけていた。
「空、大輔!ここでなにやってんだ?」
少年たちはハイタッチを交わし、グループに合流しながら声をかけていた。
野球帽を被った空という少年は、地面に伏せている勇子をまたぎ、ぶつぶつと呟きながら調べるかのように勇子の周りを歩いた。勇子は空に気付かれる前に、溢れてくる涙を拭きとった。
「何ではじむがお前を押したんだ?」
「こいつに話しかけるな、変な奴だから。」とはじむは二人の少年に念をおした。
「変な奴には見えないけど。」
「お前、変な奴なのか?」と大輔は勇子に聞いた。
僕は.......変なのか?
「ち、違うよ。変じゃないよ……..」
「変だよ。こいつ、握手とか、ヒーローとかの話をするんだ。」
「ヒーローはカッコイイんだ….」勇子は弱々しく呟いた。
「一番かっこいいヒーローはナイトだよ。」大輔は空を見ながら、眼鏡を押し上げた。
彼の考えは大きな声で発せられた。
「お前は間違ってるよ。」「デイのヒーローがベストだよ。ナイトのヒーローは変だし、ダサいし。」と後からきた少年たちの会話を聞きながら、勇子は土を払いながら立ち上がった。
「ナイトのヒーローは戦いに勝つんだよ。ほんとだよ。」
「うそだよ、ただの言い訳だよ!」
「お前ら、いつもこの話をしてるのか?」はじむはため息をついた。
勇子は、ヒーローの話をしている二人の少年をぼんやりと見ていた。ナイト&デイ?ヒーローの話をしているということは……
「ぼ、僕、ヒーローは最高だと思う!」と勇子は半分叫び、半分つぶやくように言った。
二人は議論を止めて、素早く振り向いた。空は目を細めながら聞いた―
「ナイト&デイ、観てる?」
「僕のお気に入りのアニメではないけど、好きだよ。」と勇子は答えた。
それは本当だった。そのアニメとは全く関連はないが、勇子は両親と一緒にナイト&デイを見るのが好きだった。時々、勇子の両親はコンピュータ―でも新しいエピソードを観たりする。
大輔が先に我に返った。
「何でヒロなんだ?ヒロにはスーパーパワーがないよね?」
勇子は話しながら、ゆっくりと地面から立ち上がった。「父さんがヒロはスーパーパワーがないから最高なんだ、って言ってた。スーパーパワーがあると、ヒーローになるのは簡単だけど、スーパーパワーなしにヒーローになるのは難しいんだって。ヒーローは難しい道を選ぶんだ。」
「でも、何かしらパワーがないとヒーローにはなれないよ。」と大輔は言い返した。
「うん、それとスーパーパワーがあるのは凄いよね!デイが、あの巨大ロボットを太陽で溶かして、悪い奴らをこてんぱんにやっつけたよ。ヒロは何にもしないな。」
「ナイトはいつも怖い悪夢を見せるし。ヒロに見せたら、ヒロは負けるな。」
「でも、ヒロは他のヒーローを冒険へ連れていくよ。ヒーロー達のパワーが切れた時、ヒロが助けるじゃない。それを考えると、もしヒロがスーパーパワーを持つと、ヒロはパワー切れのヒーロー達を叩きのめせる。」
「おい!それは違う!―ヒロには無理だ!」
二人の少年が同時に叫んだ。
「静かにしろよ!違う事話せよ!」と三人目の声の主が言った。
彼がそう言ったとたん、教師が児童に話を注意深く聞くよう、皆の注目を集めようとしていた。勇子は一瞬何処にいるのか、忘れかけていた―学童保育が始まろうとしていたのだった。
「俺、行きたくないな!」はじむは友達に文句を言った。少年たちも彼に同意した時、はじむは急に黙った。
「ついてこい!」とはじむは言い、学校と周りの森の境界線にあるフェンスへと向かった。
「待って、どこ行くの?」野球帽を被った少年が聞いた。
「冒険へ行くぞ!本当の男だけが規則を破れるんだ。」
はじむは勇子を振り返り、「もしお前が弱虫で、ヒーローごっこで遊んでたかったら、ここにいろよ。」
「おー!韻を踏んでる!」眼鏡をかけた少年が楽しそうに叫んだ。
二人の少年たちもはじむを追って、森の奥へと入っていくのが見えた。勇子は胸の奥が重くなったのを感じていた。
勇子は弱虫でも、変でもない……でも、僕も男だ!しかしながら、勇子は行動を起こす前に、その場に立ちすくんでいた。
…….ヒーローはルールを破らないはずなのに…….
…..これは別だ。そうだ!勇子は三人の少年に、自分が格好いいところを見せなくては!
勇子の心の重さがまた少し増したのだが、歯を食いしばり、前にいる三人について行ったのだった。
パート5
丘を転がり落ちて、服が汚れてしまった悲しみしか、勇子は感じなかった。しかし、勇子は目の前にいるクラスメート達に、凄い動きを見せれたのが嬉しかった。間違いなく、彼らが勇子の友達になるのは、時間の問題だろう。三人と一緒に色んな事をするんだ。ランチを一緒に食べたり、アニメの話をしたり、宿題を一緒にしたり! そう、勇子はアニメを観る前に、宿題を終わらせなければならない。じゃないと、お母さんに怒られる。ある日、母親は算数の宿題を勇子に渡し、彼女の外出中に終わらす様に言ったことがある。勇子は宿題を終わらす前に、テレビを観始めてしまった。母親が帰宅して、それを知った時……..
勇子はそれを思い出して震えた。
それより…….友達も冒険へ行くん。みんなで町の不思議な場所や神社を探検できる。たぶん、今頃、神社を見つけたんじゃないかな?
この思考は勇子の足を止めた。
「おーい、みんな!どこ行くの?」
空と大輔も同じ疑問を持ったらしく、止まった。
「わかんない。おい、はじむ、どこ行くの?」
はじむは立ち止まり、得意げに振り返った。
「狩りに行くぞ!」
三人の少年は、はじむの言葉を理解するのに少し時間がかかった。
「何で?」空は尋ねた。
「楽しいから!」
「でも、ここには何にもいないよ。」と大輔が続いた。
「いや、いるよ-見て!」はじむは数メートル先にいるリスを指さした。その小さな生き物は、少年たちに背を向け、何かを探しているようだった。
間髪を入れず、はじむは近くに落ちていた石を拾い、小動物に向けて力いっぱい投げた。
偶然か、単なる運なのか、その石はその小動物の背中にに当たり、小動物は逆方向に素早く逃げて行った。リスは木の枝に登り、姿が見えなくなった。
「あはは。狩りは楽しいだろ!」
友人たちは恐れる様に、はじむを見つめた。
「はじむ、凄いな!」
「難しいことは、はじむに任せよう。」大輔は眼鏡を押し上げながら、そう言った。その直後、「見て!」と上を指さした。
深く生い茂った木々の枝に、小さな黄色の鳥がとまっていた。少年たちは、その鳥が巣を作る為に枝を運び、巣を作る姿を眺めていた。数分後、青いくちばしで運んできた枝を上手に絡ませ、その鳥は綺麗な巣を作り上げた。その鳥は巣を整え、完成した巣に座り込み、目を閉じた。
「新しい獲物だ!捕まえたら、勝ちだ!」とはじむは叫んだ。
「でも….傷つけない方がいいよ。」と勇子は口をはさんだ。
「はぁぁ? 何言ってるんだよ、殺すつもりはないよ。変な奴。」
「でも、頑張って作ってた…..」と勇子は静かに言った。
「そうだな、勇子に賛成。俺、やりたくないし。しかも高すぎる。」
意外にも空が勇子の意見に賛同した。
「そ、そうだよ。僕もそう思う。もう戻ろう―」
「ただ、届かないからなんだろ?」と大輔が遮った。
空の眉毛がピクリと動いた。
「何て言った?」
「お前、届かないからそう言ったんだろう?」
「おぅ、俺もそう思った」とはじむも加わった。
「お前らにやらせてたまるか!」と空は叫んだ。
近くに落ちている石を拾い、空は思いっきり投げたのだが、大きく外れた。
「ハハハハハ。下手くそ。」はじむは空を指さして笑った。しかし、すぐに大輔に向かって、「もし俺がかったら、今度お前ん家に泊まって、お前の母さんと一緒に遊ぶからな。」
「駄目だ!」と大輔は怒りながら、眼鏡を外し、綺麗に拭いた。「でも、俺が勝てば、お前1か月の小遣い貰うからな!」
「もし俺が勝ったら、俺をバカにした二人に、石をぶつけてやる!」と空が割り込んだ。
「みんな―もうやめようよ。石をぶつけるのは。」
「おい、黙ってろよ、勇子。そこが肝心なんだよ。」と今まで穏やかだった空が叫んだ。
「外すと思ってるから、ビクついてるんだろ。」と大輔は笑った。
「帰るか石を拾うしか出来ないんだろ。」とはじむは振り向き、こう言った。「本当の男しか参加出来ないんだ。バカで変な奴には無理だ。」
その言葉が、勇子の頭の中を巡った。
バカ、変な奴、のろま、男じゃない。
重い気持ちを感じていた胸の内に、泡が立つように怒りがふつふつと湧いてきた。
「僕は….」
勇子はかっこよく振舞えたと思っていた。三人にも好意的に接していたと自分の中で思っていた。
勇子は頑張っていたはず。
「僕は…..」
彼は手を差し伸べなくてはならない……….だろ?
「僕は….!」
そしてその怒りの泡が弾けた。
「僕も男だ!」勇子は大声を出した。
勇子も近くに落ちていた石を拾い、鳥にめがけて投げつけた。そして、その黄色の鳥の巣は、一瞬にして消えた。
正確な投石は、鳥の巣だけではなく、鳥の右の羽にもぶつかった。これは勇子が意図していなかったことだった。鳥が巣から垂直落下しながら、飛ぼうと体制を整えようとしていたのは 一目瞭然だった。そして、地面にぶつかるその直前で、体制を整えたのだった。
4人の少年たちは、暫くショックでその場を見つめていた。その黄色い鳥は地面に横たわり、体と羽を不規則に動かしていた。その時の鳥の優しく、美しい鳴き声は少年たちを不思議で奇妙な気持ちにさせた。
少年たちは立ちすくみ、この鳥を自分たちの記憶に刻もうと見つめていた。大輔がようやく口を開いた。
「という事は….勇子は賭けに勝ったってこと?」
「お前らどっちかが勝ってないないなら、勇子の勝ちだな!」空は勇子の肩に手を置いた。「勇子、ありがとな。あいつらには勝ってほしくなかったんだ。」
“How’d you do that anyway?” Hajimu uttered in disbelief.
「でも、どうやって当てたんだ?」はじむは、信じられない表情で勇子に聞いた。
“I…. did not mean to.”
「僕…..そんなつもりはなかった。」
「お前は賭けに勝ったんだ。何が欲しい?」眼鏡をかけた少年が聞いた。
「わからない…..君たち、僕の友達だよね?」と勇子は尋ねた。
誰かがその質問に答える前に、学校のチャイムが鳴り始めた。
「早く戻らなきゃ! おい、行くぞ!」
はじむ、空、大輔の三人が学校に向かって走り出しても、勇子はその場に立っていた。彼は動きたくなかった。
いや―動きたくない、というよりは、動きたくても動けなかった。
勇子の胸は締め付けられていた。
三人のクラスメートは勇子の視界から消えるところだった。彼を一人残して。
「僕も戻らなきゃ……」
ゆっくり、勇子は片足をもう一方の足の前にだした。そしてまた片足を前にだし、歩きだした。
もう一歩。
勇子はゆっくりであるが、しっかりとした足取りで学校の傍まで来ていた。
ここを去る前に、後ろを向いた。そして、彼の金色の目の中に何かが映し出されていた。
それは、あの黄色の鳥だった。地面を跳ね歩き、さっき巣を作るのに集めた枝を集めていた。鳥が動くのを見て、勇子は何かが違うと思った。しかし、その鳥が枝へと飛ぼうとしたその姿を見て、鳥が飛びにくそうにしているのに気付いた。翼が折れているのかもしれない。
それでも、飛んだ。
勇子がその姿を眺めていると、その黄色のとりは、同じ事を何度も何度も繰り返した。枝を一、二本ずつ小さなくちばしで、集め続けていた。
その鳥は、また巣を作るのであろう。




