「寒いから、暖め合お?」とせがむ彼女。今は真夏だけど、可愛いからその嘘を許すとしよう
「ねぇ。寒いから、暖め合お?」
彼女はそう言って、俺の腕に自信の腕を絡み付けてきた。
上半身を俺の体に密着させ、顔をピトーッと俺の二の腕にくっつけて。
誰がどう見てもラブラブで熱々なカップルの姿が、そこにはあった。
「あっかいね!」
そう言う彼女に、俺は「あぁ」と返す。……ミーンミーンという、蝉の鳴き声を聞きながら。
別に蝉がどこにいるのかなんて、探すつもりはない。蝉時雨というべきか、この時期蝉なんてどこにでも鳴いている。
現在の季節を強調しているのは、なにも蝉だけではない。
知的と評判の学ランを着ている男子生徒は一人もおらず、同時に可愛いと人気のブレザーを着ている女子生徒だって一人もいない。
すれ違う色白の女性は、日焼け対策として日傘を差している。
市の防災放送では、一日に何度も熱中症に気を付けるよう注意喚起している。
今は八月。そう――寒さとは無縁の真夏なのだ。
今日の気温だって、36度。寒いわけがない。
だから暖め合う必要もなく、こうしてくっつかれても一層暑くなるだけだ。でも――
俺のすぐ横で幸せそうな顔をしている彼女を見たら、「いや、今夏だから。全然寒くないから」なんて突っぱねることも出来ず。
……仕方ないな。可愛いから、彼女の嘘を許してやるとしよう。
◇
今更言うまでもないことだが、俺・日野坂仁太には彼女がいる。
彼女は卯月弥生といって、女子高生の平均より若干背が低く、その上とても人懐っこい、可愛らしい女の子だ。
男女問わず仲良くなれる性格は長所ではあるけれど、彼氏の身としては少し心配にもなってくる。
その内弥生を好きになってしまう男が出てくるんじゃないのか? 或いは、仲良くしている内に、弥生が別の男のことを好きになってしまうんじゃないか? 不安ややきもちは、今に始まったことじゃなかった。
誰にでも懐く弥生だけど、こうして腕を組んできたり甘えたりするのは俺に対してだけだ。
真夏に「寒いから」なんてすぐにバレる嘘をつくのも、俺が絶対に拒絶しないとわかっているからこその言動で。少なくともこうして甘えてくれている間は、俺は弥生の彼氏でいられるのだ。
教室に着くと、部屋の中は冷房によって快適な温度まで冷やされていた。
弥生と密着して歩いていた結果、暑さゆえ死にかけていた俺は、砂漠でオアシスを見つけたかのように冷房を堪能した。
学校は本来夏休み中であり、本日この教室では期末テスト赤点対象者の為の補習授業が開かれる。
因みに俺は学年6位という優等生であり、勿論補習の対象にはなっていない。
補習を受けるよう学校に言われたのは、弥生の方。俺は付き添いだ。
「仁太はここ! 私の隣に座るの!」
「はいはい、わかってるよ」
弥生に言われて、俺は彼女の隣の席に座る。
弥生は椅子に座ると、自分の机を俺の机にくっつけてきた。
……周囲からの「イチャイチャしてんじゃねーよ」という視線が、めちゃくちゃ痛い。
「おい、弥生。遊びに来ているわけじゃないんだぞ?」
「わかってるよ。別に机をくっつけただけで、エッチなことしてるわけじゃないじゃん」
パキッ。誰かのシャーペンが折れる音がした(シャー芯ではなく、シャーペン本体だ)。弥生さん、ちょっと黙ろうか。
俺が弥生の口を塞ごうとすると、タイミング良く補習担当の先生が教室に入ってきた。良かった。命拾いした。
俺と先生の目が合う。
「日野坂、どうしてここにいるんだ?」
「暇潰しです。気にしないで下さい」
「暇潰しで補習に来るとか……まあ、構わないけど。それじゃあ、補習を始めるぞ!」
補習の内容は、びっくりするくらい簡単なものだった。
どれもこれも基礎的な部分ばかりで、今更こんなこと教わって何の為になるんだと疑問に思ってしまう。
しかしよく考えてみたら、ここにいる生徒たちはその基礎が出来ていないから赤点を取ったのだ。実際5秒で解ける簡単な問いに対しても、弥生は頭を抱えていた。
「それじゃあ、この問題を……卯月! お前にやって貰う!」
そしてわからない問題に限って、先生に解けと指されるものなのだ。
「はい! わかりません!」
「潔いな。でも、そんなに簡単に諦めるな。もうちょっと頑張ってみろ」
どうやら先生は卯月を逃がさないつもりらしい。
いくら考えても、正解はわからない。そんな弥生が導き出した答えはというと――
「ねぇ、仁太」
「ん? 何だ?」
「答え、教えて?」
……この野郎。俺に答えを聞いてきやがった。
「断る」
「ブーッ、ケチ。可愛い彼女の為に、答えくらい教えてくれたって良いじゃん」
「可愛い彼女の為だからこそ、心を鬼にして答えを教えないんだよ」
難問ならともかく、こんな基礎問題の答えまで俺が教えてしまっていたら、いつまで経っても弥生は成長出来ない。
俺は意地でも答えを教える気がなかった。
「……どうしても、ダメ?」
……先生、保健室に行って良いですか? 彼女が可愛すぎて、致死量まで鼻血を出してしまいそうです。
可愛いは正義だ。その絶対正義の前では、どんな信念も誓いも意味をなさなくなってしまう。
彼女の魅力に敗北を喫した俺は、うっかり答えを教えてしまった。
つくづく、俺は弥生に甘い男だ。
◇
翌日も、俺は弥生の補習に同行することになっていた。
まぁ夏休みの予定なんて祖父母の家への帰省と弥生とのデートしかない。
補習もある意味デートの一環だと考えれば、一緒に受けるのもやぶさかではなかった。
この日の東京は今年一番の暑さらしく、気温は40度に達するらしい。昨日より一層暑い朝に、俺はほとほと参っていた。
早く学校に行きたい。学校に行って、冷えた教室で涼みたい。
自然と俺の歩みは、速くなっていった。
そんな俺の腕に、例の如く弥生が引っ付いてくる。
いつもは安心する彼女の温もりも、今日ばかりはマジで要らなかった。
「寒いから、暖め合お?」
「断る」
普段なら、こんな風に弥生を冷たく突っぱねたりしない。拒むにしても、優しい言葉の一つくらいかけていた筈?
正常な思考が出来なくなっているのは、ひとえに猛暑のせいだ。
俺に腕組みを断られた弥生はというと、「そっか」と短く答えるなり俺から離れる。
その表情がどこか寂しそうだったのは、多分俺の見間違えじゃないだろう。
「弥生、どうしたんだ? いつものお前らしくないじゃないか」
「……そう?」
「自覚がないのか? 体調が悪いのなら、今すぐ家に戻ろう。先生には、俺から説明しておくから」
「違うの! 体調が悪いとか、そういうのじゃなくて。……くっついてくれなかったから、もしかして仁太は私のこと嫌いになったのかなーって思って」
あぁ、成る程。
いつもはそんなことしないのに、今日は俺が腕組みを拒んだから、弥生はそれを嫌われたのだと受け取ったのだ。
「弥生を嫌いになるなんて、そんなわけないだろう?」
「……本当?」
「本当だって。神に誓ったって良い」
「良かった」、心底ホッとする弥生。
どうやら俺の心ない行動のせいで、弥生を不安にさせてしまったらしい。彼氏として、反省しなければ。
取り敢えず、お詫びが必要だな。ランチでもご馳走しようか?
いや。ランチなんかより、弥生が望んでいるものは他にある。
「あー、やっぱりなんだか寒くなってきたな」
俺がわざとらしく言うと、弥生はクスッと笑みをこぼす。
「じゃあ、暖め合う?」
「だな」
俺が頷くと、弥生は勢いよく腕にしがみ付いてきたのだった。