蜘蛛の糸
ある男が奈落の底から上へ上へと糸を手繰っている。見えないほどに細い糸であるので、自分がどこを掴んでいるのかも分からず、とにかく天を仰ぐように見上げ、鬼の形相でよじ登っている。その遥か先から白い光が導きのように照らし出し、男に一種の希望と幻想を抱かせる。自由や幸福、男に待つのは仏からの想像を絶する贈り物かもしれない。
下からは、野卑な怒号が聞こえた。
「落ちろ」それは、奈落の底の住民だいたいの願いであるようだった。
「落ちろ」願うのは、自分の快楽でなくこの目先の人間の不幸である。
「落ちろ」血の池から姿を現した人間は最早、人の形をしていない。
男は糸を手のひらでかき集めながら登っていた。だから、他の誰にも登られることはない。辛くとも自分一人の力量で幸福か不幸かが決まるのである。落ちる。下をつい見た。赤黒くどろどろした液体が四方を這いまわり、その場所自体が地獄の釜茹でのように、ぐつぐつ煮えているようだった。一体、自分が何をしたというのか、どうしてこんな目に遭うのか男は恨めしくてしょうがなかった。その瞬間、小刻みに上下糸が揺れ始めた。揺れると、さらに大きく揺れ身体を支えきれなくなった。落ちる。
男は真っ逆さまに落ちた。そして、鐘の音のように、ごーんと響き渡った。これで一つ煩悩が消えた。仏はその様子を見て微笑んだ。