中の巻・角牙城
上中下同時投稿です
2人は流鏑馬訓練場までやって来た。そこにいた者達が姫の為に場所を空ける。
糸姫は、真っ黒な駿馬に跨がって、過たず的の中心を次々射抜き馬場を駆け抜ける。男と同じように結った黒髪が靡くことはないが、5月の陽を受けて艶かしく光っていた。
(糸姫)
六四郎は、姫の勇姿に心を乱す。
(この六四郎、必ずやお側に参りまする)
六四郎は大胆にも、出来れば近く開かれそうな戦場へ馬をお曳きしたいと考えた。そして、その願いは程無く叶うこととなったのである。
輿入れとはやはり名ばかりで、糸姫は噂通り戦の手筈を話しに来たのだった。六四郎達の瀬川と糸姫の崖端が手を組み、隣国深山の大城角牙城を落としてしまおうと言うのだ。
いざ出陣を控えた前夜、六四郎はお久米を振り切り糸姫のお召しに応じた。
穏やかな顔を不満そうに曲げて立ち塞がる久米を、六四郎は無言で押しやり姫の元へ向かう。優しげに下がる柳眉の下で、冷たい瞳が映すのは最早幼馴染みの久米ではない。
朧に烟る三日月の下、言葉もかけずに立ち去る背中を、お久米はただ呆然と見送るしかなかった。
「六よ、わが城へ来い」
ニタリと笑う糸姫は、夜明け前の別れしなに書付を握らせる。
「今開けるなよ」
残忍な笑みに魅せられて、六四郎は是非もなく頷く。
厩に帰った六四郎は、書付を開くと息を呑んだ。
そこには何一つ艶っぽい事は書かれていない。夜半の熱など一息に冷めた。
(ワシは捨て駒かよ。上等じゃ。捨てはさせぬぞ)
眼に凶暴な光を溜めて、六四郎は天下を狙う意思を固めた。その傍らには、深山の虎と名高い猛将・糸姫が在らねばならぬ。六四郎は、糸姫の身も心も生涯かけて勝ち取るのだと心に決めた。
六四郎は、望み通りに糸姫の馬を曳いて陣屋に侍る。陣屋は、合戦場の後方にある簡易な宿営である。大の男が立ち上がれば全身隠れない程度の幕が四方に張り巡らされただけの、簡単な拠点だ。
岩滝城主瀬川源之丞は、いとも簡単に六四郎を虎姫に預けた。それだけ姫の戦上手を信じているのだ。源之丞は、姫から六四郎が鍛練する様子や、厩仕事での歩の運び方体捌きに至るまでを聞かされた。
誉めて連れて行きたがるのは、まあ解る。だが、誉めすぎても実力を隠して連れ去ろうとしても、すぐに明るみに出る。六四郎の事は、3人組以外にも次第に噂されるようになっていたのだ。
源之丞は、姫が借りたいと言う言葉を半分だけ信じて六四郎を送り出す。抜け目無く良い眼を持つ六四郎に、合戦場で生き延びる勘所を糸姫から盗ませようとの魂胆であった。
一方の六四郎は、源之丞の城へ戻る気は更々無かった。姫の書付を見た瞬間、心は決まったのである。
(角牙城を糸姫、瀬川の殿、崖端の若殿で囲んだら落とす)
その絵図が先ずあった。口取りとして参戦するのだから、ある程度必要な情報だ。しかし、たかが馬を曳く者に詳しい絵図が与えられるのは稀有であった。
(角牙城が落ちると見れば、俺と糸姫は源之丞を打つ)
絵図には、朱で不自然な矢印が加えられていたのだ。六四郎が合戦の絵地図を眼にするのは初めてだった。しかし、呑み込みの良い男であったので、その矢印が何を意味するのか直ぐに理解した。
(源之丞の首を手土産に、崖端の鷹羽城主黒岩渓水に目通りだ)
次の矢印も不審だった。首を差し出すために糸姫に同行し、隙をみて渓水を打つ。即座に姫が城主を名乗り、時をおかず凱旋する渓水が長男黒岩観山の首級も挙げる。
(そう旨くは行くまい)
話が上手すぎる。恐らくは、猛馬鋼食を制して源之丞を打つ捨て駒とされるのだ。
(見くびられたものよ)
六四郎は、夜明けに焼き捨てた絵地図を想い独り傲然と笑む。
(初学の者とてそのくらい気付かいでかよぅ)
戦知識は、六四郎に殆ど無い。だが、馬が合戦の時に求められる動きは父厳蔵から耳にタコが出来るほど聞かされてきた。厳蔵の経験した戦の様子も、拙い語り口ながら子守唄替わりに聞かされて育ったのだ。
加えて六四郎は、近頃馬を得た3人組が熱心に学ぶ兵法や文字を、暇をみては又聞きで吸収していた。まだ仮名の半分も書けはしないが、兵法はすんなりと染み込む。
元来眼が良い。形を覚えるのは得意だ。すぐに知識は追い付くだろう。
(なに、時間はあるのだ。俺はまだ若い。この戦を生き抜けば機会は幾らでもある)
六四郎が姫の書付を焼き捨てたのは、何も証拠を遺さぬ為だけではない。操られはせぬとの心意気なのである。
姫が源之丞を打つ。問題はその後だ。
(姫を捕らえて鋼食に乗せ、武坂国の大城、岩殿『白鷹城』へ献上だ)
勿論、姫を唯では手離さない。道中説得してみせる。六四郎は夢想した。
(後は、虎姫が内から食い破り俺は外から駆け登る)
そこまで妄想して、自らを冷笑する。
(まさかな)
糸姫の愛馬墨染に飼葉を与えながら、六四郎は姫大将にチラリと流し目を送る。
(殺されなければ姫の覚えもめでたくなろうぞ)
先ずは、源之丞の首を取る時だ。そこを生き延びれば目はある。書付の甘い餌を現実に喰らってやるのだ。
(鋼食を棹にしても良いが、巻添えは御免じゃ)
棹にするとは、刺激を能えて棹立ち尻跳ね等暴れさせる謀略を意味する武坂国の方言だった。
(はて、どうしたものか。日はもう三日と無いが)
心は決まったものの具体的な妙案が出ない。このままでは犬死だ。色を含んだ姫の目付きを受けて、六四郎の頭は忙しなく回転する。
2日程の行程でいよいよ角牙城の裏手に出る。六四郎達は奇襲部隊だ。角牙城は、馬の通りにくい入り組んだ地形の山にある城である。
だが、墨染は鋼食程ではないがやはり主人に似て気性が荒い。急斜面を駆け登り、崖を下るのも厭わない跳ね駒だ。六四郎の巧みな導きに従って、難なく城の裏手に入り込むことに成功した。
本来なら、六四郎はここで待機だ。見張りの1人と馬に付き添い勝鬨を待つ。
「六よ、壁は越えられるな?」
天然要塞を過信してか、城壁の高さはたいしてない。
「はい」
六四郎は山城の育ちである。登る手段は幾つも知っていた。
「よし、先に行け」
糸姫は嬉しそうにニンマリして、鉤付の縄を投げて寄越す。周囲の武士は慣れているのか、いきなり余所者が先導しても平然と受け入れていた。
(恐ろしいな)
取巻きではない。暴君に取り入る奸臣とも違う。狂信者でもないようだ。彼等は忠臣であった。
糸姫は今、父と兄を廃して城を手にしようとしている。道端で見初めた若者を手なずけ、同盟城主も裏切るつもりだ。
(浅ましい女だ)
六四郎は、腹の底から愉快になった。糸姫は、この忠臣どもの事はどうするつもりなのだろう。
(言えた義理では無いが、臣を疎かにしては天下は遠いぞ)
孤立してしまえば、容易く首を落とされる。味方は重要だ。心を許し過ぎてもいけないが。
(お前を忠臣もろとも手に入れてくれようぞ)
六四郎は、糸姫の残忍で身勝手な振る舞いにますます魅了されていった。一方の姫も、六四郎へ向ける目付きに貪欲さがまして行く。姫の己への扱いに疑問を抱きながらも顔色1つ変えない肝の太さに惹かれてしまう。2人の心は近づいていた。
鉤を巧みに放り上げ、壁の向こうを覗けば人気はない。六四郎はこともなく着地した。その後へ、見張り1人を残した糸姫隊徒歩組14名と、馬を残した騎馬組2名が軽々と壁を越えてくる。
降りた場所には、廃材や欠け茶碗、折れた弓や槍の柄等が乱雑に積まれていた。徒歩の1人が火口を取り出す。姫は懐に手を入れ、畳んだ紙を六四郎に渡した。騎馬組の1人がぎょっとする。もう1人は無表情だが、恐らくは動揺している。
広げれば、角牙城の見取図であった。糸姫の黒岩家にとって、角牙城の扇谷氏は主家である。幾度も城に上がり、内通者も得やすかったのだろう。見取図を渡されたということは、その手の内を明かされただけではない。逃げ道や隠れ場所を知らされたと言うことだ。
姫は、六四郎を生かすことにしたのである。
六四郎はもう、生き延びる限りは使い潰す手駒ではない。気紛れに謀叛へと抱き込み、危険な橋を二度三度渡らせてみた。糸姫には遊びに過ぎなかったのだ。
道でからかい、厩でからかい、終には夜に呼びつける。表向き輿入れしてきた隣国の姫からの呼び出しに、幼馴染みの恋人を振りきってまでやって来た。
見張りを減らした訳ではない。六四郎は抜け目無く捕まらずにやって来て、するりと帰って行ったのだ。
食えない瀬川源之丞から借り受けて連れ出してみたら、不満もなく昨夜の餌に食いつくでもない。主君の首を手土産に家臣としよう等とは明言しなかった。だが、戦の絵図を渡せば、地図の意味が読めずとも寝返れとの意図は伝わるはず。
(期待以上だったな)
間者に見張らせていたら、六四郎は地図を焼き傲然と嗤ったという。絵図の意味も、撒かれた餌も解った上で乗ってきた。
陣屋で寄越した挑戦的な流し目に、糸姫の敵愾心は煽られた。初めは六四郎を陣屋に残すつもりだった。しかし、予定に無かった所まで馬を曳かせる気になったのだ。
壁越えの先陣を押し付けたのも気紛れからだ。しかし、六四郎は見事に応えて見せた。それどころか、益々飢えたように糸姫を見据えているのだ。初めはチラリ程度だったが、既に隠す気も無いようだ。
六四郎が軽々と危機を切り抜けるのを見る内に、姫の心は次第に変化した。
(こやつを連れて天下を観るのも面白かろう)
他の家臣や、姫が小突き回した小者どもとはどうやら違う人間に見えた。
(貪欲な男じゃの。満たしてやるのは妾じゃぞ)
2人は凄惨な笑みを交わす。見取図は写しであろうと踏んだ六四郎は、迷い無く火に焚べてしまう。
(覚えたか。やはり期待以上よの)
舌なめずりをせんばかりの表情で頷くと、姫は手を1つ振る。
一行は火元を離れて人気の無い通路を行く。途中で二手に別れる。一組は門を開けに向かう。あとの一組は退路を確保しつつ見張りを減らして天守閣を目指すのだ。
姫は首をチョイと動かし、六四郎に着いてくるよう促した。
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