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第9話 許せないことだってきっとある


 それから七日後の昼。朝は誰もが肌寒さを感じたが、日が高くなるにつれて過ごしやすい気温になる。秋が近づいていることもあって吹く風はいっそう爽やかだ。


 リーザは軽い食事を済ませると軽やかな足取りで廊下を突き進んでいた。動きに合わせてドレスの裾が揺れる。歌でも歌いだしそうなほどの機嫌のよさだった。

目的地は図書館――――リーザはアリスティドに会いに行くのだ。


 たまたま語学の教師の都合が合わないということでぽっかりと空いた時間はリーザにとってはごく貴重なものであった。最近はレッスンのほかに公務も重なり忙しすぎる毎日で、アリスティドの顔を見るのもかれこれ二十日ぶりだ。浮かれずにはいられない。


 階段を上ってまた進む。いよいよスキップでも始めようかというころ、向こうの角から見覚えのない女が歩いてきた。リーザの頭は一瞬で冷静になりしずしずとした上品な歩みに戻す。王女の威厳を守ることに成功した。


 しかし女が気になってさりげなく視線を向ける。まじまじと見つめては無礼だろうと首は動かさない。


 大きな帽子で顔のほとんどが見えないが、それでも初対面だということは分かった。それだけでもう十分なのに、何故だろう、リーザは目を離すことができない。


 艶やかな漆黒のロングドレスは何となく不吉さを感じさせるが、女のすらりと細い身体によく似合っていた。繊細な黒レースで編み上げられた手袋が両腕を彩る。一方で腰のあたりまで伸びた髪は純白だ。アリスティドの銀とは違って光に透けるような白さだ。


 女とすれ違う。その瞬間ふわりと甘い香りが漂ってきてリーザの瞳がとろけた。香水とは違う何かだ。思わず振り返りそうになるが寸前のところで思いとどまって、何事もなかったかのように図書館へ向かう。一体誰だろう――――そんな疑問はすぐに消えてしまった。図書館の扉を三回ノックすれば、アリスティドのことで頭がいっぱいになるのだ。


 何の話をしようかと心躍らせていると扉がギシギシと軋みながら開いた。アリスティドが顔を出し、外の眩しさに目を細める。ノックしたのがリーザであると分かれば無言で引っ込んでいった。相も変わらず不健康極まりない生活をしているようで、目の下にくっきりとくまが刻まれているのを見逃すリーザではない。ようやく会えた相手だというのに、第一声は「もう! どうして寝ていないの!」である。図書館にずかずかと踏み入りつつ小言を続けるが、アリスティドはすでに聞いていない。


 彼は本の山に囲まれていた。どれもこれも破れていたり汚れていたりと保存状態が悪さが目立つ。リーザはドレスの裾をたくし上げて慎重に近づき、彼の隣に座り込んだ。


「……それで、何をしているの?」

「古書の分類だ。ほとんどが壊れかけているから、どう扱うかを整理している」


 好奇心に駆られたリーザは本の山をじっと見つめる。アリスティドは山の上から一冊を手に取り、リーザにも見えるようにしながらページをめくった。ところどころ染みになっているが文字自体はくっきりと残っていた。


「例えばこれなら修復するだけで済む」

「そっか――――でも待って、このページ外れかけてる。どうするの?」

「糊をつければ直る」


 アリスティドはテーブルの上にあるビンを指さした。ガラスでできたそれは透明の液体で満ちていた。


「程度によるが、あれを塗ってから乾燥させればほぼ元に戻せる。……だがこっちの本は駄目だな」


 別の山から取り出した本は見るからに傷んでおり、触れただけでも表紙の一部が欠けた。緊張が走る。アリスティドも顔をしかめた。


「駄目だったらどうするの」

「写本を作る。……と言っても写本づくりには金も労力もかかるから全ての本は写せない。限りがあるなかでどれの写本を作るか選ぶのも俺の仕事だ。ついでに工房への依頼も俺がするし、完成品の管理も当然俺だ」


 自分の仕事を指折り数えているアリスティドからインクのにおいが漂ってきて、リーザは肩をすくめた。


「アリスティってとても忙しいのね」

「当たり前だ。管理人は俺一人だからな」

「言われてみればずっとそうよね。あ、もし人を増やしたいなら、私がかけあおうか?」

「……無理だな。誰にでもできる仕事じゃない。大体人を育てるなんぞ俺にできると思うのか?」

「……無理ね」

「神妙な顔で頷くな」


 アリスティドに軽く睨まれたが、リーザは意にも介さずくすくすと笑った。


 それからゆっくりと立ち上がり、本の山の横を通り過ぎてテーブルに向かった。テーブルの上にはいつものことながら数冊の本が置かれていた。表紙に書かれた文字は古語であるからこれらも古書の一部であるらしい。どれもうっすらと埃をかぶっている。


「ねえ、ここにある本は読んでいいの?」

「ああ、好きにしろ。……ちなみに一番左のそれは魔術書だ。理論は古いが、まあ問題ない。初級者向けだからちょうどいいはずだ」

「ちょっと。私、もう初級者じゃないよ」

「紛うことなき初級者だろう。低級の照明魔術ですらまともに使えないくせに何を言う」


 アリスティドは鼻で笑った。小馬鹿にするようなそれに対し、いつものリーザならここで悪態をつくのだが今日はにんまりと笑った。アリスティドは眉をひそめる。


「……何だ、その顔は。気味が悪い」

「いつか不敬罪で地下牢にぶち込むからね」


 ああそうじゃなくて――――とリーザは続けた。


「見ていて、アリスティ」


 椅子に座ったままリーザは短くルーディア語を発した。よどみなく流暢であった。発音も強弱のつけ方もすべてアリスティドの真似だ。甘さの残る声が空気に溶けるとリーザの指先に小さな光が灯る。


 それを唇に近づけふっと息を吹きかけると、それは雪のように舞い散った。ふわりふわりと空中を漂い二人に降り注ぐ。仄暗い図書館の中できらきらと輝く様は幻想的ですらあった。


 リーザは微笑を浮かべる。花がほころぶかのようでアリスティドは息が止まった。


 背筋をぞくぞくとした何かが走っていく。唇が震えそうになった。次いで屈辱のようなものを感じた。ずっと軽くあしらってきたはずの少女に目を奪われる――――そんな自分が許せなないとでも言いたげにゆるく首を振った。小さな抵抗に耳飾りが音を立てた。


 リーザは彼の動揺に気づくことなく、もう一度詠唱する。また光が生まれる。


「ほら、できたでしょ。この一ヵ月、私頑張ったの。褒めて」

「……ずいぶん時間がかかったが、まあ、お前にしてはよくやったな」

「一言余計だけど許してあげる」


 リーザは満足げに頷くとテーブルに上半身を倒した。視線だけをアリスティドに向ける。居眠りでもするようなだらしなさはたまにしか見せない彼女の甘えであり、彼に心を許している証だった。


 アリスティドは皮肉ろうかと口を開き、一瞬迷ってから黙り込む。妙に浮ついた心を誤魔化すように古書の表紙をなぞった。当然のように埃が指先を汚す。リーザがしてみせたように息を吹いてみるが、灰色の粉が舞い上がるだけで不衛生であった。彼は一人苦笑しリーザは不思議そうに瞬きをした。


「何してるの?」

「いや、何でもない」


 アリスティドは前髪をかきあげた。話題を変えるように「そういえば」と呟く。


「舞踏会の日が決まったらしいな」


 早くもうつらうつらとしていたリーザは、勢いよく身体を起こした。つられて真っ赤なリボンが揺れた。


「そう、そうなの! やっと私の舞踏会デビュー! 招待状はもう届いた?」


 アリスティドは首を横に振る。


「二ヵ月先だぞ。気が早すぎる」

「あ、そっか。……それでアリスティは参加してくれるの?」

「当然だ」


 迷いのない返答にリーザは目を輝かせたが、続く言葉で頬を膨らませる。


「俺は図書館管理人である前に神殿の大賢者だ。そんな立場でお前のパーティーを欠席などできるわけがないだろう。お前が許可するなら別だが?」

「するわけないじゃない!」


 リーザは軽くテーブルを叩き子供のようにむくれた。気品ある王女の姿はどこにもなかった。


 とは言えこの程度の返答はとうに予想済みである。パーティー嫌いのアリスティドが素直に頷くはずがなかったし、あげくの果てはしぶしぶ、心から不服そうな顔で出席するのも目に見えている。リーザはわざとらしいため息をついた。


「……アリスティが人の多いところが苦手なのは知ってるけど、私は来てほしいの。本当に、この一回だけでいいから。それで私、満足なのよ」


 リーザはひとまず言葉を区切った。続けようとして、やはり上手くできない。どれだけ毅然とした態度を取れるようになってもアリスティドの前ではいつも台無しだった。アリスティドが急かすように促してようやく声が出る。


「これは命令じゃなくてお願いなの。だから断ってくれていい」


 不安を覆い隠すように両手を握りしめた。爪が刺さって少しだけ痛かったがそれでもリーザは真っ直ぐ彼の瞳を見つめた。


「……踊って、私と」


 消え入りそうな声に、アリスティドは首を傾げる。届かなかったのかと思って同じ言葉を繰り返す。アリスティドは静かに目を伏せ人差し指をトントンと二回動かした。薄く色づいた爪先が視界の端っこにちらついた。アリスティドは俯き、手元にある本を開いた。


「ダンスの相手なら、俺ではなくあいつに頼めばいいだろう。最近お前の周りをうろついているあの少年――――名前は何だったか」


 リーザの青い瞳が揺れた。


「もしかして、ウィルのこと?」

「ああ、それだ。ウィリアム・アーロン。お前に熱を上げていると、城内でももっぱらの噂だぞ」

「……そんなの知らない」

「お前だけだな、それは」


 アリスティドは息をつく。


「お前の勝手だが、早めに釘は刺しておけよ。何がどう転んだところで、爵位を持たないあれとは一緒になれん。本気にさせる前に引きはがせ」

「……忠告ありがとう。でもそんなの心配いらないわ。ウィルはとっくに分かってるって。それでも私のそばがいんだって」

「あの男も物好きだな。……ああ、いや? その言葉はお前の方がよっぽど似合うのか。お前ほどの物好きはそうそういない」


 アリスティドは口角を上げるが、それはさすがのリーザでも我慢ならなかった。誰に言われてもいいがアリスティドだけは許せない。目元を吊り上げ軽く睨みつけるとアリスティドはすまし顔で「悪かった、馬鹿にしたつもりはない」と言うが、どうせ口だけだ。


 彼が人を皮肉るのはいつものことで、リーザも今さらやめさせようという気にはならない。それでも腹が立つときはあるしすべてを受け流してやるつもりはさらさらない。リーザは苛立ちを隠すことなく、彼に向ける。


「その言い方はよくない」


 温もりのない言葉が響く。アリスティドは今度こそ素直に謝罪した。先ほどと同じ台詞だが反省の色がちらりと見えた。リーザは全身の力を抜いて椅子の背もたれに体重を預けた。ドレスに皺が寄ったがリーザは一瞥するだけだ。顔の横に垂れる髪をいじりながら視線を足元に落とす。


「……私はアリスティと踊りたい。嫌ならそれでいいけど言い方ってものがあるでしょ。私を傷つけたいならもっとマシなことをしてみせてよ」

「確かに俺が悪かったが、何もそういうつもりは――――」


 アリスティドは唐突に言葉を切った。考えるように首を傾け、それから小さく頷いた。


「そうだったかも、しれない」


 噛みしめるようなその言い方にリーザは苦笑いを浮かべる。


「もう酷いことはしないでね」


 アリスティドは頷くこともなければ拒否もしなかった。金の瞳を少し濁らせただけであとはぼうっとリーザを見つめているだけだ。


 リーザはゆっくりと腰を上げて一歩前に出た。その場でくるりと回る。ワルツのターンを思わせる鮮やかな動きに足場の埃が舞い上がる。コンと爪先で床を鳴らし、また回ってみせる。あまりにも脈絡のない行動に面食らった彼はぽかんとした顔のままリーザの言葉を待っていた。リーザは後ろで手を組みにっと笑った。


「私、ダンスは上手なの。絶対に後悔させないわ。アリスティのこと、誰よりも素敵に目立たせてあげるから」


 窓から差し込む光に、浮いた埃がキラキラと反射している。アリスティドは力の抜けた顔のまま笑った。


「俺を踊らせたいなら、余計に嫌になりそうなことを言うな。もっと上手い言い方があるだろう。それと、ダンスを誘うのは男からだという暗黙のルールを知らんのか、お前は」

「……それってもしかして、アリスティから誘ってくれるってこと?」

「さあな」

「肝心なところを誤魔化さないでよ! もういい、やっぱり私から誘って正解だった!」


 リーザはくるっと背を向けた。速足に扉へと向かい、取っ手に手をかけると一気に押した。外は思っているよりも眩しくてアリスティドがそうしたように目を細めた。


「じゃあね。そろそろ時間だから、私は帰る」


 アリスティドからは見送りの言葉もないがいつものことだった。リーザは音をたてないように扉を閉めるとゆっくり歩きだす。


 廊下の角を曲がったところで、誰もないことを確認し、そっと手を口のあたりに当てた。そうでもしないと表情を保てなかった。寝転がって足をバタバタさせたい気持ちだけはぐっと飲み込み、懸命に落ち着かせた。それでも堪えることのできなかった声が漏れ出す。


「言った、言った、言った……!」


 踊って、と一言。たったそれだけでリーザの心臓は破けそうになるのだ。いつものような気高さも、凛々しさも、すべてどこかへ失せてしまう――――今も昔も変わらない。


 顔を真っ赤にしながら彼の返答を思い返した。あの曖昧な言葉は彼らしいが、どういうつもりなのかさっぱり分からなかった。そのまま受け取れば踊ってくれるということだし、けれどアリスティドのことだから常識を常識として伝えただけかもしれないし――――考えれば考えるほど冷静ではいられない。こんな無意味なことがしたいわけではないのに、考えずにはいられないのが恐ろしい。


 とにもかくにもリーザは深く呼吸した。表情を直さないことには人前に出られない。


「……よし」


 リーザは数回瞬きを繰り返した後、いつものように毅然とした態度で歩き出す。人気のない廊下に靴音だけが反響する。


 リーザは自嘲気味に笑みを浮かべた。

 昔ほど、恋に浮かれてはいられない。





 リーザは自室の前にたどり着きドアノブに手をかける。ひねって開けようとしたその瞬間、遠くでリーザの名が呼ばれた。聞き覚えのある声に反射で振り返る。


「メイ?」


 メイはスカートを揺らしながら走ってくる。手には果物の入ったカゴ。リーザに届けに来たのかと思ったが彼女の表情には焦りがにじんでいる。穏やかな彼女にしては珍しい。ようやくリーザのもとまでたどり着いて何かを伝えようとするが息が切れているせいでよく聞こえない。それでも懸命に唇を動かすメイに、リーザは静かに声をかける。


「ほら、ちゃんと息をして」

「は、はい……」

「メイったらずっと走ってきたのね。髪がくしゃくしゃよ」


 いつもはきっちりとまとめられている茶髪だが、結び目が緩み何束も落ちてしまっている。リーザがくすくすと笑っている間にメイは深呼吸を繰り返す。肩を大きく動かしながら息を吐く。落ち着いてきたところで彼女の顔を覗き込んだ。


「それでどうしたの? そんなに焦ってるってことは、もしかして今日の予定を間違えてた? 大丈夫よ、私怒らないからちゃんと言ってみて」


 メイは勢いよく首を振る。リーザの両手をぎゅっと掴み力を込めた。やはり走ってきたからか、手のひらがじっとりと汗ばんでいた。


「陛下が、陛下がお呼びです」


 リーザはこくりと首を傾げる。


「……こんなに突然? なんだか変ね。要件は聞いている?」

「いえ……私は何も。ですが大臣がお話なさっているのを偶然耳にしてしまったのです。どうか驚かないでくださいね――――」


 声を潜めると、リーザの耳元に口を寄せた。


「リーザ様の婚約の話が進められています」


 メイから不安げな眼差しを向けられる。


 リーザはきょとんとした顔で小首をかしげた――――意味が分からなかったのだ。唱えるように、メイの言葉を繰り返した。三回目のそれでやっと飲み込むとリーザは顔を真っ青にした。


 そして駆けださずにいられなかった。


 くるりと背を向けると衝動的に床を蹴る。メイが声をかけるより早く走り出した。メイもリーザの背を追うが追い付けないと分かればよろよろと立ち止まる。肩で息をしながら、次第に小さくなる彼女の背を見守った。



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