第8話 その一瞬で恋をした
編み上げられた絹糸のような金髪を赤いリボンで飾る。淡雪のように白い肌にはほんのり赤みが足され、唇には艶出しの液が塗られる。
「……はい、終わりました。今日もお綺麗です、リーザ様」
「ありがとう」
ゆっくりと鏡に近づきにこりと笑ってみせる。どこか幼さを感じさせる笑みには愛嬌があった。
――――あれから六年の月日が流れ、リーザ・エイリー・アークライトは16歳になった。
金髪をまとめ上げ鮮やかなマリンブルーのドレスに身を包んだリーザは、可憐でありながら誰もが目を奪われるほど気品ある少女に成長していた。
同時に王女としての資質が問われ始めた今、リーザの日々の大半は責務で埋められていた。そのことに不満はないが、自由な時間を持てないのは悩みの一つだ――――彼に会う機会が減ってしまう。10歳のころの初恋を未だ引きずっているリーザは相変わらずだった。生徒ではなくなった今会うことなどめったにないが、一度火のついた心を止めることはできず、隙を見つけてはしつこく図書館に通い詰めていた。
とはいえここしばらくは本当に忙しく、アリスティドの顔を一度も見ていない。今日こそはと小さく拳を握りしめるが、同時に鐘の音が響いた。散らかった鏡台の上片付けていたメイは時計に目をやった。
「リーザ様、そろそろお時間ですね」
「本当。ええっと、今日は……」
「馬術のお稽古です。それからピアノも。後は――――」
「いい、その時に聞く。行きましょう、メイ」
二人そろって部屋を出る。ドレスを翻しながら堂々とした足取りで廊下を進んだ。前から歩いてくる兵士らしき男が立ち止まってリーザを見遣る。その瞳は一瞬呆け、それから慌てて礼をした。リーザが微笑で返すと兵士の頬は赤く染まる。
完全に立ち止まった兵士の横を通り過ぎ、少し経ってから半歩後ろを歩くメイが耳元に唇を寄せた。
「……リーザ様、またしても恋する方を増やしてしまいましたね」
自分のうぬぼれであればよかったのに――――とリーザは困ったように笑う。
こういうことが増えたのはごくごく最近のことだ。今までは「可愛らしい」だの「愛嬌がある」だの、自分の子どもに接するような愛情だったのに、少し大きくなった途端恋慕の対象になってしまった。立場上言い寄られるようなことはないが、向けられる甘い視線は無視しきれない。リーザはふっと息をついた。微妙な違和感を覚えるものの、上手く言葉で表せない。
階段を下りて庭に出る。爽やかな風が吹くなか数人の少年たちが馬で駆けていた。競争をしているらしく、ぐんぐんスピードが上がっていく。そのうちの一人に見覚えがあり両目を凝らしてみるとやはり間違いなかった。リーザの弟・ルイスだ。
ルイスは真ん中のあたりを走っていた。懸命に前に出ようとするが位置取りに失敗したのかいつまでも動けない。膠着状態のままゴールを迎える。ルイスは六人中四位だった。ルイスが馬から降りたのを見計らってゆっくり近づいた。
「ルイス! 久しぶり」
小さく手を振ると、ルイスはぱっと顔を明るくした。灰色がかった青い目が向けられる。
「お姉様! どうしてこちらに?」
「私もこれから馬術のお稽古があるから。先生はまだ来ていないけれどね。ルイスはもう行ってしまうの?」
「はい……。ご一緒できればよかったのですが」
「本当に。私も一緒に走りたかった。きっと一位を取れたのに」
先ほどのレースについて触れると彼は恥ずかしそうに俯いた。どうやら気にしていたらしい。気まずい空気を打ち破るように「大丈夫!」とルイスの両手を掴んだ。
「ルイスは私の弟だもの、きっとすぐに上達するわ! あっという間よ」
「お姉様は僕の姉ですが、ピアノが下手なままです……」
悲壮感漂うルイスの言葉に何も言い返せなかった。リーザとてピアノの練習を始めてから長いが、未だに初心者用の曲しか弾けていなかった。ルイスはたしなみ程度にしか練習していないのにすでにリーザより熟練している。励ましに失敗したリーザはがっくりと肩を落とした。
「姉弟かどうかは関係ないみたいね……」
「そのようです……」
どうしようもなくなって落ち込んでいると、ルイスを乗せてた馬がすりすりと頭をこすりつけてきた。振り向くと舌でベロンと舐められる。慰めるようなそのしぐさに二人はふき出してしまった。
「ありがとう。もういいのよ。……そうだ、次は私を乗せてくれる?」
返事のようにヒヒンと鳴く。リーザはにこりと笑うと軽やかに鞍にまたがった。ドレスが邪魔になって動きづらいものの、一度上に乗ってしまえばマシになる。
「お、お姉様……!」
リーザの大胆すぎる男乗りにルイスは顔を真っ青にしていた。おおよそ淑女からはかけ離れた行為である――――ルイスの感性はごくごく普通だ。
リーザは気にする素振りも見せず手綱を掴むと馬の横腹を軽く圧迫した。合図を受けて馬はゆっくりと歩きだし、いまだ談笑を続けている少年たちのもとへと向かった。
「ねえ、もし時間があるなら私とも勝負をしない? 手加減はいらないわ、私とっても上手なの」
リーザは悪戯っぽい笑みを浮かべた。時間つぶしと鬱憤晴らしにはちょうどいい。
挑発ともとれる言葉に少年たちはむっとした表情で口を開いたが、相手がリーザだと分かった途端に大人しくなった。そうなると今度はリーザがむっとする番だ。「いいのよ、本気で」と付け加えるが誰も手を上げない。リーザがさらなる挑発を放り込もうとしたところで、遠くから一人の少年がやってきた。
「お、何してるんだ?」
服装や髪色を見る限り先ほどのレースで一位を取った少年だ。リーザが事の次第を説明すると、少年はにっと口角を上げた。
「いいぜ、俺とやろう。どこの誰かは知らねえが俺に勝てると思うなよ」
どうやらリーザの正体には気が付いていないらしかった。ルイスが慌てて口を開くがリーザは視線だけで制する。
「言ったわね。……そうだ! お互い自信があるみたいだし何か賭けてみるっていうのはどう? 負けた方が一つ言うことを聞くとか」
「面白い。その話乗った!」
少年もひらりと鞍にまたがる。その無駄のない動きだけで彼の実力が分かる。リーザは興奮を抑えきれなかった。腹の奥から熱が高まってきてぞくぞくする。こんな感覚は久しぶりだ。リーザと少年は横に並んだ。
「コースはさっきと同じの二周でいいか?」
「うん」
「賭けの約束、守れよな」
「そっちこそ。言い訳なしの真剣勝負だからね」
ルイスが少し離れた場所から声掛けをする。話し合いの結果、彼が審判を務めるようだ。リーザと少年が手を振って了承を示すとルイスは旗を持つ手を下げた。
一瞬にして緊張が走る。すでに勝負は始まったようなもので、この場にいる誰もが固唾を呑んだ。リーザは呼吸も忘れ赤い旗を見つめる。隣の少年も同じだ。背筋をピンと伸ばし手綱をゆるく握りながらスタートの合図を待っている。
ついにルイスの腕が動いた。空気を切り裂き、勢いよく上がる――――リーザと少年は同時に飛び出した。
さすがに少年の技術は本物だった。競り合いの末リーザの前に躍り出るとスピードを上げて突き放していく。このまま逃げ切るつもりらしい。そうと分かればリーザはすぐさま後ろについた。一定間隔を保ちながら走る。抜こうと思えばいつでも抜ける距離だがあえて行動を起こさずじわじわと焦燥感を与えていく。
二周目に入っても少年とリーザに動きはなかった。しかしその差が明らかになってくる。少年の馬は少しずつ息を荒げ始めたが、リーザの馬は十分に余力を残していた。前を走る馬が風よけになっているからだ。
少年は焦れた――――ついにスピードを上げる。
まだゴールは遠いのに無理なペースアップ。誰から見ても冷静さにかけた判断だった。遠のいていく黒髪を見てリーザはにやりと笑う。
「……行くよ!」
腹のあたりをトンと蹴って合図を送ると、一気に加速し始めた。リーザは振り落とされないように重心を保った。風を切りながら前へ前へと進む。そのスピード感が心地良い。
少年との距離が少しずつ縮まっていく。少年はまだ逃げ切りを狙っているがこれ以上スピードは上げられない。そうこうしているうちにリーザが横に並んだ。お互いに前に出ようとする。お互いが制しあう。小競り合いが続き、そしてリーザが追い抜いた。
鮮やかなマリンブルーのドレスをたなびかせながら駆ける姿は強烈だった。
ちらりと見える真っ白な肌も、揺れる赤いリボンも、目が眩むほどの美しさだ。繊細な少女性を持ちながら、しかしリーザは勇ましく馬を走らせる。ギラギラと光っていた青い瞳。そこにあるのは身を焦がすほどの闘志だ。少年は息を呑んだ。
「あ――――」
一瞬何もかもを忘れ身体が固まりそうだった。心臓から爪先まで痺れるほどの衝撃を受けた。目の奥がチカチカする。どうしてだか眩しくてしかたがない。
すぐに意識を持ち直して腰を上げた。馬が加速するのに合わせて重心を移動し最後の勝負に出る。再び二人の距離はゼロになる。ルイスの持つ赤い旗が風に揺れた。ゴールはもうすぐそこだった。
「……っ!」
リーザが一歩前に出る。優位は譲らないとばかりにさらなる加速を重ねる。少年との距離は開くばかりでついに勝負あった。リーザは残る余力すべてを注ぎ込み一直線に駆けていく。ゴールは目の前だ。
リーザは勝利を確信して笑みを浮かべ――――その瞬間、右横を何かが通り過ぎて行った。
「え――――嘘、嘘!」
思わず声を上げる。深い闇のような黒髪を見間違えはしない。ゴールの寸前で抜き去られ、リーザは唖然とした。余力など残っていないはずなのにどうして――――思考に走りそうになるのを必死に止めて集中する。まだチャンスはある。再び追い抜きにかかった。かつてない興奮に全身の血が沸騰しそうだ。もう息をする暇すらない。
「もう……ちょっと……なのに!」
リーザは悔しさのあまり唇を噛んだ。
一瞬で二人はゴールを迎える。僅差ではあるが勝者は誰の目にも明らかだった。ルイスは一拍遅れて旗を掲げた。
「勝者はウィリアム・アーロン!」
華々しい勝利だが拍手も歓声も起こらなかった。誰もが呆然としていた。二人の熱戦に気圧され瞬きばかりを繰り返している。遅れてぽつりぽつりと手を叩き始めたが緊張の糸が解けたといった感じで、二人をじっと見つめるばかりだ。リーザは馬のクールダウンを済ませてから、たてがみを優しく撫でた。
「いい子ね。……勝てなくてごめんなさい」
馬の背から降りる。もう一度撫でてやると馬は返事をするように頭をこすりつけてきた。リーザが目を細め余韻に浸っていると、少年――――ウィリアムが近づいてきた。
「……お前、名前は?」
静かな問いにリーザは三秒黙り込んだ。それからいつもの微笑を浮かべ、堂々と名乗る。
「リーザ・エイリー・アークライト」
ウィリアムは心底驚いたというように両目を丸くした。何かを言いかけて唇を閉じ、また開く。リーザは小さく首を傾けた。
「約束は守るわ。私は何をすればいい?」
ウィリアムは迷うことなく言い切った。
「俺をお前の騎士にしてほしい!」
数日後ウィリアムの願いの半分は叶えられた――――彼にとっては非常に不本意な形で。
ウィリアムはエルベルト国に仕える見習い騎士の身であった。騎士としての素質に溢れ、特に剣術には光るものがあるが、十五歳という若さであるため掃除や武器の手入れといった雑用ばかりをこなしていた。しかたがないと割り切りつつも不満はたまる一方だ。
そんな退屈な日々に突然現れたのがリーザであった。リーザは甘い砂糖菓子のように可憐で、吹き荒れる嵐のように勇猛果敢で、その美しさにウィリアムの心は一瞬で攫われてしまった。彼女だけを守る騎士なりたいと願った。
リーザはできる限り彼の望みに寄り添った。父王にもかけあって、どうにかリーザ直属の騎士にできないか苦心した。リーザがこのようなことを言いだしたのは初めてで、周囲の誰もが――――メイですら首を傾げていた。紆余曲折すること数日。結果としてウィリアムはリーザ付伝令役となったのだ。
ついに騎士ですらなくなった、とウィリアムは落ち込んでいたがすぐに切り替える。紋章入りの腕輪をランプにかざしては嬉しそうに笑っていた。その喜びぶりにはリーザも苦笑するしかなかった。
「そんなに私のそばがいいの?」
冗談めかした言葉にウィリアムが振り返った。この国では珍しい黒髪がさらりと揺れる。
「ああ。俺はお前に惚れた。だからお前だけの騎士になりたい」
あまりにも真っ直ぐな告白。その唐突さに赤面もできなかった。ぽかんとしてしまって口だけで繰り返す。ようやく理解したリーザはウィリアムの瞳を見つめる。かすかに灯る熱情には見覚えがあった。
「……そう。好きにすればいいわ」
彼の視線から逃げるようにそっぽを向く。ウィリアムは何も言わずにカラカラと笑った。返事すら求めないその潔さにリーザの胸の奥がチリチリと痛んだ。
誤魔化しにもならないと知っていながら窓の外に目をやる。庭の木々がうっすらと赤紫色に染まっていた。すっと視線を上にずらすと空には一番星が輝いていて、リーザは思わず指差してしまった。




