第7話 言葉でしか伝わらないこともある
二人が戦地を離れ、城に帰還したのはそれから十日後のことであった。美しいドレスを着せられ馬の背に乗せられ、凱旋パレードの主役となった。その後いくつかの儀式が行われリーザが日常を取り戻したのはさらに一五日後だ。
リーザは窓から身を乗り出し城下町を眺めた。そこは花と歌で満ち溢れ、広場では人々が楽しそうに踊っていた。この光景を守り切れたことが何よりの幸せだ。
ベッドに倒れこんだのと同時に、扉がノックされた。メイが顔を覗かせる。
「ダンスのお時間ですよ、リーザ様」
「うん」
「ああ、でもその前に髪を整えてもよろしいですか?」
「いいけど……どうしたの? なんだか嬉しそう」
「ふふ、見てください。ここに来る途中で殿方にお花をいただいたんです。リーザ様にお似合いかと思って!」
鏡の前に座るように促された。メイは背後に回るとリーザの髪に触れてそのまま丁寧に梳かしていく。リーザは言うか言うまいか悩んだが声をひそめるようにして囁く。
「ねえ、メイ。リーザ思ったんだけど、そのお花はメイに受け取ってもらいたかったんじゃ……」
メイは小首をかしげたあと「まさか!」と笑い飛ばした。
「私はただの侍女ですよ? とても釣り合いません。それにその方だってたまたま通りがかったからだとおっしゃっていましたし」
「それ絶対嘘だよ!」
リーザは思わず振り向きそうになったがメイに姿勢を正される。支度はまだ終わっていないらしい。
「けれど、そうですねえ。もしそんな意味でお花をいただけるのなら、私は――――」
ひとりごとのような言葉は途切れ、メイは何事もなかったかのように手を動かす。
「メイ?」
「いえ、何でもありません。そんなことよりもほら、終わりましたよ」
鏡の中のメイは満足げにうなずいた。いつのまにか髪飾りもシンプルなものに変えられていて、そのおかげでリーザの明るい金髪に白い花がよく映えていた。鏡に近づいたり角度を変えたりして何度も確認する。
「可愛い!」
顔をほころばせる。しばらくファッションからは程遠い生活をしていたから最初はピンとこなかったが、よくよく見るとその可憐さが分かる。うっすらピンクに色づいた花弁はリーザの少女らしさを引き立てていた。
「ありがとう! さすがメイね」
メイはドレスの裾をつまみ優雅に一礼した。
「お褒めいただき光栄です。そろそろお稽古に参りましょうか」
「うん!」
満面の笑みで頷く。リーザの足取りは軽かった。
リーザは相変わらずダンスが好きだ。音楽に合わせてステップを踏むのは何にも代えがたい楽しみがあった。
しばらくは基本のステップが続いていたがエドガーが重心をすっと後ろにずらす。それに従ってリーザは前に踏み出す。二人の動きは絶妙にかみ合い上手く次のステップへ移行できた。
「お上手です」
リーザはにこりと微笑み、また彼の重心に集中する。ダンスを踊ること自体も楽しいが、こうしている間は頭の中が冴えて冷静になれるから好きだ。リードに合わせながらいろいろと考え事をしたりする。
ここ最近の悩みと言えばやはりアリスティドのことだ。あれ以来ぎくしゃくとしてしまってろくに会話をしていない。城に帰ってきてからはさらにひどく顔すら合わせていないのだ。このまま会わずに済むならそれでもいいがアリスティドは教師でもある。もうじき、というよりもこのダンスが終わったら彼の授業があるのだ。
重い気持ちとは裏腹に美しい軌道を描きながら回転する。ドレスの裾がふわりと浮かぶ。
どんな顔をすれば――――ということならメイもそうだ。
あのことを――――アリスティドのことをどう思っているのか聞いてみたかった。問題はタイミングで、そのうえどう切り出せばいいのかも分からない。今でさえアリスティドとぎくしゃくしているのにメイとの関係にまで亀裂が入ったらたまらない。想像しただけで腹の奥ががキリキリ痛む。
「……んん」
カツン、とヒールの音が響く。
どうしたものか。せめてアリスティドとの緊張を和らげるきっかけが欲しい。何かプレゼントでもというところまでは考えた。ごくごく自然な発想だが、しかし相手はあのアリスティド。いくら頭をひねったところで本以外の選択肢が見当たらないし、本を渡したが最後そのまま読みふけったあげく振り出しに戻ることは目に見えている。リーザはため息をつきそうになった。
そこでふと、今朝のやり取りを思い出した。
「……っ!」
花だ。花をもらって喜ばない人はそういない。メイを狙っている男の真似は癪だが花というのはいい考えかもしれない――――いやきっといい考えだ。
リーザが限りなく正解に近づいたところで一曲を踊り終わった。すぐさま次の曲が流れる。春の訪れを感じさせる爽やかでのびやかなメロディだ。リーザはドレスをちょんとつまみみ礼をした。エドガーの手に自分の手を乗せ一歩踏み出す。滑らかに横へスライド。三歩目でターン。
早くこの曲が終わればいいのにと思った。もどかしさを抱えたままくるくる回る。今すぐにだって駆けだしたい――――アリスティドに会いたい!
「……王女。そろそろ私の小指がつぶれてしまいます」
「え?」
足元に視線を落とす。床だと思っていたそこにはエドガーの足があった。先ほどから感触がおかしいような気はしていたが、そうなると一体何度踏みつけていたのだろう。数えるほどに背筋が冷たくなってきてリーザは慌てて右足を引いた。
「ご、ごめんなさい! わざとじゃないの!」
さすがに擁護しきれなかったのか、エドガーは困ったように口元を引きつらせていた。リーザは叫び声をあげたいのを必死で堪える。こんなことをしたかったわけではない。完全なる失態であった。
「あ、あはは、そんな、ふふ……」
「笑ってないで慰めてよ、メイ!」
「そ、そうでしたね……。ええっと、私も失敗することはありますよ。この前なんて花瓶をひっくり返して割ってしまいました。だからリーザ様も……ふふ」
「いい、もういい! 忘れて!」
リーザは頬を膨らませる。メイなら上手く慰めてくれるのではないかと期待したがずっと笑ったままだった。リーザがむくれたのに気づきメイは何度も謝るが、笑い声を隠しきれていない。頬はうっすら赤く色づいているし目には涙の幕が張っている。楽しそうで何よりだが、その原因が自分の失態だということに耐えられない。メイは深く息を吸い、呼吸を落ち着かせた。
「話は変わりますが、そのお花――――」
こちらもこちらであまり触れられたくない話題である。リーザは視線を外すがメイの追究は止まらなかった。
「急に花が欲しいだなんておっしゃるものですから、不思議に思っていました。誰か渡したい方がいらっしゃるのですね?」
「……うん」
「ディラック様ですか?」
「……うん」
耳のあたりがやけに熱い。花を持つ手に力が入ってしまう。メイは目元を和らげた。
「ディラック様は素敵なお方ですよね」
ちらりとメイを見遣る。ひどく穏やかで、けれどにじみ出る切なさや諦めが彼女の美しさを際立てている。
どう返事をするべきか悩んで結局頷くだけにとどめた。メイが彼に恋慕を抱いていることなどとっくに知っているし彼女が一生花を手渡せないことも知っている。複雑だ。恋敵がいないことは喜ばしいはずなのにメイのこととなると自分のことのように胸が痛む。リーザの想いなど露知らず、メイはにこりと笑った。
「さあ、着きましたよ」
木の扉を軽くノックする。
「渡せるといいですね」
きっと本心からの言葉だ――――メイは嘘偽りを知らない純粋な少女だった。それがまたにリーザの心に棘を刺した。どうして微笑んでいられるのかが分からない。メイもアリスティドのように「たかが子供の恋愛ごっこ」だと思っているのだろうか。そうだとすればとても悲しいことだった。
図書館はいつも仄暗く、木とインクの香りで満ちている。
久しぶりに会うアリスティドは少しやつれたように感じた。最初は気のせいかとも思ったがやはり顔色が悪く、少なくとも毎食しっかりと食べているわけではなさそうだ。そのうえ城に帰ってからはごく普通の生活を送れているはずなのに目の下にはくまができている。
まだやることが残っているのか――――心配になって部屋の奥を覗くと。本が積み上がって山のようになっていた。ここ数日で何が起こっていたかは概ね想像がつく。
「アリスティド、食べて。そのあとで寝て」
「出会い頭にそれか」
アリスティドは面倒くさそうにかぶりを振った。相変わらず自分の健康については適当な男だった。花など贈っている場合ではない――――リーザはそっとテーブルに置いておく。
「とにかく食事をしなくちゃ駄目。ねえ、最後に食べたのはいつ?」
「……さあ」
「誤魔化そうとしたって無駄なんだから」
ぐっと詰め寄るがアリスティドはだんまりを決め込んでいる。顔を逸らしていることから察するに今日は何も口にしていないのだろう。リーザはわざとらしくため息をついた。
「とにかく、リーザに授業がしたいなら何か食べてから! 分かった?」
言われるがままというのは気に入らないのか、アリスティドは不機嫌そうに足を組む。
「だったら今日の授業はなしだ。解散」
「ちょっと待ってよ。それって職務放棄ってやつじゃない?」
「……ああ、まあ」
「駄目じゃない」
「……そうだな」
彼の無茶苦茶な提案は論破された。二人そろって頷いたところでリーザは図書館を出る。たまたま廊下を歩いていた侍女を捕まえて軽食の準備を頼み、ついでに眠気を誘うようなハーブティーも用意してもらう。
しばらく時間がかかるとの返事にひとまず図書館の中に戻る。大きな扉を押し開けて、最初に目に飛び込んできたのはアリスティドの姿だ。さっきまでは椅子に座っていたのにいつの間にか窓枠の定位置に移動していた。何をしているのかと思えばリーザがテーブルに置いていた花をつまんでいる。夜空のような深い青の花弁がくるくる回った。美しい男が美しい花を愛でている、そんな状況にリーザはぽかんとしてしまった。それから自分の目的を思い出し、ゆっくりと指差す。
「ア、アリスティ、それ……」
「テーブルに落ちていた。それがどうした」
アリスティドは静かに首を傾げる。ゆるくまとめられた銀の髪が肩から落ちた。ちょっとしたしぐさでさえ絵になる男で、黙ってリーザの言葉を待っている。
「えっと、その……」
リーザはもごもごと口ごもる。たった一言口にすれば伝わるのに肝心のそれが出てこない。唇がぷるぷる震えて鼓動が速い。アリスティドを前にするといつもこうだ。本当に言いたいことだけが言えなくなってしまう。
アリスティドはリーザの髪に視線を移した。そこには白い花があった。
「お前の髪に差していたのが落ちたのか? ……仕方ないな、こっちに来い。直してやる」
「違うの――――そうじゃなくって」
深く息を吸って覚悟を決めた。ここまで来て後戻りはできない。アリスティドの金瞳を真っ直ぐに見つめる。
「それはアリスティに渡したいの。リーザが、アリスティに」
ついに言った――――リーザの心臓は張り裂けそうだった。アリスティドは不意をつかれたかのようにきょとんとしていたがすぐに理解したのか、濃紺の花を二度見した。リーザは緊張を飲み込んだ。
「この前のこと、ごめんなさい」
ゆっくり、ゆっくり、言葉を紡ぐ。
「アリスティがリーザのこと、すごく心配してくれてるって分かってた。分かってたの。本当に。それでもリーザはああしたかった。あの人にも大切な人がいるって知ってしまったから――――だからごめんなさい」
リーザは俯く。何の話をしているかすぐに見当がついたらしいアリスティドは小さく頷いた。長い指先で花弁にちょんと触れる。それから考え込むように視線を揺らした。
「正直、お前は馬鹿だと思う」
言葉に反して表情はひどく落ち着いていた。
「優しさとか慈しみとか、そういうものをはき違えている。あんなものは美徳ですらない、ただの自己満足だ。お前はあの時ああするべきじゃなかった」
リーザもまた頷く。彼の言いたいことは痛いほど分かっていた。
「……最後に決めるのはいつだってお前自身だ。俺の考えなんぞどうでもいい。それでも耳を傾けるつもりがあるなら理解だけはしておいてくれ。優しさは誰にでも振りまいていいものじゃない。敵味方の区別はつけろ。そうでなければいつか身を滅ぼす」
「うん」
「それから」
アリスティドは小声で呟く。
「俺も悪かった」
返事の代わりにリーザはアリスティドの隣に腰かけた。それから恐る恐る彼に寄りかかってみる。甘えるようなそのしぐさにアリスティドは何も言わなかったから、それを同意だと見なしてぴったりと寄り添った。呼吸をするたびに身体が揺れるのが分かる。布越しでもその体温が伝わってくる。
薄暗い図書館の中でしばらくそのままでいた。十歳のリーザにとってはこれが精いっぱいの愛情表現だったのだ。