第5話 運命に触れた日(1)
アークライト王家が治めるエルベルト国は大陸の端に位置する緑の豊かな国だ。特に南方の国境付近は肥沃な土壌に恵まれ、さらに一年を通して温暖な気候がエルベルト国の農業を支えている。
そしてこの土地は時に争いの種にもなった。
山脈を挟んだ向こうの国――――ラシュム帝国は古来より強大な兵力を持つものの痩せた土地が多く、国土拡大のために隣国への侵略を繰り返している。エルベルト国も例外ではない。南方の支配権をめぐって百年に一度は戦争をしている。とは言え近年は日照りも嵐もなく、そのおかげで国境付近での小競り合いに留まっていたから今回のことは不測の事態であった。
ラシュム軍は山脈を越えエルベルト国の街を攻略した。その後もラシュム軍は侵攻を続け街の付近にある大平原に布陣した。エルベルト国も大平原を本拠地とし、それからは互いに動きを見せずにらみ合いを続けている。
リーザが後方に到着したのは二日後だった。大平原の端にある無人の神殿に入り、その最奥の小部屋に連れられた。リーザの安全を最大限に考えた結果だ。
「……ここは祈る場所なのね」
この神殿は長らく放置されすでに廃墟同然だった。忘れ去られた女神の石像には苔が生え、ベールの一部が欠けて崩れ落ちている。しかし割れた窓から差し込む光に照らされてなお一層神秘的である。
リーザは指を組むと短く祈りの言葉を唱えた。願ったのは兵士たちの安全だ。ここで自分だけの無事を望むほどリーザは子供ではない。
リーザは石像前の椅子に座り、大きく息を吸った。青い瞳には少女のものとは思えない覚悟の色がちらつく。ここまで来てしまったのだからもう後戻りはできない。逃げ道がない以上リーザもリーザなりに戦うつもりだ。
「みんなで帰るの。絶対に」
言い聞かせるように呟いた瞬間、一つしかない扉が軋みながら開いた。冷たい床に膝をついて頭を垂れるのは鎧を着こんだ騎士たちが三人と司祭服をまとった人間が一人。彼らが護衛役のようだ。
「ありがとう。さあ、こちらへ」
緊張の取れないリーザの言葉を受けて四人はゆっくりと顔を上げた。同時にリーザも立ち上がった。それは流れでも何でもなく、ただ驚きのあまり思わず腰を上げてしまっただけのことだ。むしろ叫ばなかっただけ自分を褒めてほしいとすら思った。
どうしても信じられなくて両目をゴシゴシと強くこすった。目の前の光景は変わらなくて、どうやら夢ではないらしい。緊張など一瞬でどこかへ飛んで行ってしまい、リーザはぽかんとしたままで独り言のように呟いた。
「――――アリスティが見えるんだけど幻覚かな」
司祭服に身を包んだ男は小馬鹿にするような顔で笑った。
「その若さで難儀だな」
「間違いなく本物ね。あと失礼よ、謝って!」
リーザは頬を膨らませる。
けれど本当は嬉しくてしかたがなかった。
彼がどうしてここにいるのかなどまったく分からないがそんなことはどうでもいい、会えただけでよかった。本当はずっと会いたかったのだ。会って話したかった。それを口にできるような場所でないことが口惜しい。ここは戦場だ。
アリスティドは前に進み出て、リーザがいつも欲しがるような礼儀正しさで、彼女の手の甲に軽いキスを落とした。
「私は大神殿の魔術師が一人、大賢者の位を継ぐ者。あなた様の魔力に触れることをどうかお許しください」
「……望むがまま受け取りなさい」
決まりきった言葉を述べる。これ自体に意味はない。アリスティドが素直に従ったことがまた驚きだった。短い儀式が終わるとアリスティドはリーザの隣に立った。騎士たちは部屋の隅に散らばってリーザたちを見守っている。それほど緊迫した状況ではないらしく辺りには静寂が広がっていた。
聞くなら今しかない。リーザは声を潜めてアリスティドの名を呼んだ。
「……それで、どうしてここにいるの? アリスティはお城にお仕えする人でしょう? 宮廷図書館の管理人だって言ってたじゃない」
アリスティドはつまらなさそうに腕を組む。
「普段はな」
「じゃあ今日は何?」
「神殿の大賢者」
「……リーザ全然聞いてないんだけど」
「いい機会だ、自分の勉強不足を恥じるんだな。神殿の人間の名くらい覚えておけ」
「だってまだお城の大臣を覚えてるところなんだもん」
リーザはちらりとアリスティドに視線をやった。いつも身に付けている埃よけのマントはなく、代わりに神殿の紋章が描かれたローブをまとっている。リーザと同じものだ。銀の髪も高く結い上げられているからか凛々しく見える。同じアリスティドのはずなのに受ける印象はまるで違った。今日の彼は神々しいと思えるほど麗しい。リーザは混乱したまま首を傾げた。
「ええっと、つまり、アリスティが図書館の管理人っていうのは嘘?」
「そんなわけがないだろう。それならとっくに捕まって牢屋にぶち込まれている」
「じゃあ大賢者の方が嘘?」
「だったら何故俺はここにいるんだ」
「……さあ?」
わけが分からなくなってきて、投げやりな返事をすると、彼はため息を吐いた。
「いいか、俺はもともと神殿の人間だ。しかし城にある貴重な資料を管理できる人間がいないからそちらも俺が継いだ。陛下に恩義があるし、ここ数十年は平和だったからな。俺が少しくらい神殿を離れても困らないだろう」
「少しくらいって、アリスティは毎日図書館にいたじゃない」
冷静な指摘に返事はなかった。アリスティドは何事もなかったかのように話を続けた。
「恐らく宮廷が権力を取り戻すための布石だ。俺という人間が行ったり来たりすることで両者は密接に関わりあう。今まで独立状態だった神殿も宮廷に従わざるを得なくなる」
「だから行ったり来たりなんてしてなかったじゃない。ずっと図書館の奥の小部屋で寝泊まりしていたの、知ってるんだから」
アリスティドは何も聞こえていないような顔で「これが俺の立場だ」と話をまとめた。
「……何となくわかったけど、じゃあアリスティってすごく偉い人なの?」
「そうなるな」
「リーザ以外、みんな知ってたの?」
「だろうな。城に帰ったらお前の侍女にでも聞いてみろ。笑われるはずだ」
「メイはそんなことしないもん!」
彼女の名前を口にしたとき、はっと昨夜の出来事を思い出した。窓から顔を見せたメイ。風にあおられる赤茶色の髪が目の奥に焼き付いて離れない。急に黙り込んだリーザが不思議だったのかアリスティドはのぞき込むような動作をした。
「腹でも痛むか」
「そんなのじゃない」
「ならうつむくな、ややこしい」
一瞬心配してくれたのかと感動したのが馬鹿らしい。釈然としなくてリーザは思わず頬を膨らませた。
「アリスティって本当に変わらない! どんな格好をしててもアリスティはアリスティのままね。面白くない」
「俺が格好ごときで変わるわけがないだろう」
「でもさっきはちゃんとキスしてくれたじゃない!」
「俺でも仕事くらいはこなす。その上で自由にしているだけだ。悪いか」
「敬意が足りないの! リーザへの!」
思わず声を荒げたところで一瞬冷静になり、腰を下ろす。こんなところで体力を使いきるわけにはいかない。先は長いのだ。アリスティドも馬鹿馬鹿しくなったのか小さなため息をつきそれっきり言葉を発しなかった。
無言が続く。何を話そうかと考えていたその時、大砲を撃つ音が響き渡った。すぐ近くだ。身体の奥をズンと貫くような振動にリーザは目を見開く。天井から小石がパラパラと降ってきた。
「……とうとう始まったか」
アリスティドはフードをかぶり頭を隠した。リーザにもそうするように言った。しかし指が小さく震えて思い通りにならない。彼は黙ってリーザのフードに手を伸ばした。
リーザは深呼吸を繰り返す。ふーっと息を吐いてアリスティドを振り返った。
「リーザたちが撃ったの?」
「だろうな。今ので両軍動きだすからお前も準備をしておけ。どうせすぐに出番だ」
「……うん」
緊張が走る。リーザは泣き出しそうになるのを必死に堪えて前を見据える。司祭服が皺になるほど強く握った。
アリスティドは立てかけてあった大杖を取ってくるりと回した。いくつもの宝石が埋め込まれたそれは光を反射してきらめく。それが合図だったかのように大砲の音が連続した。雄叫びやら悲鳴やらが混ざって渦のように押し寄せる。窓の外には土煙。エルベルト国にとっては四十五年ぶりの戦争であった。




