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第4話 どこにも行けないことは知っていた

 

 エルベルト国第一王女の位を持つリーザの一日は忙しい。マナーやダンス、語学といったレディとして必要不可欠な教養はもちろんとして、音楽や美術や馬術などもたしなみ自国や他国の歴史も学ぶ。


 しかしリーザの責務はこれで終わりというわけではない。彼女は生まれたときから大神殿の人間でもあり、受けなければならない儀式が大から小まで山ほどある。


 今日は十日に一回の清めの日だ。


 大神殿に招かれたリーザは神殿女官たちに連れられて沐浴の間に入った。どこまでも広がる水場はエルベルト国で最も水を贅沢に使っている場所だとも言われている。天井から差し込む光に照らされて、水面は宝石のようにきらめいていた。


 リーザは両手を広げた。数人の女官たちがリーザのドレスに手をかけ丁寧に脱がせていく。ほとんど裸体に近くなり、代わりに着せられたのは純白のローブだ。上質な糸で編まれているから肌触りがいい。着替えが済んだところで入口から一人の女性が歩いてきた。豊かな髪をなびかせる彼女は大神殿の女官長マレイだ。リーザの前で一礼してから手にしている木の杖を差し出した。


「王女、お時間です」

「うん」


 杖を受け取り、胸に抱く。それから真っ直ぐ水場に向かって進んでいく。


 透き通る水は見るからに冷たそうで一瞬躊躇してしまうが、駄々をこねることは許されていない。覚悟を決めてえいっと一歩を踏みだす。案の定足のつま先からキンと凍り付いていくようで鳥肌が立った。二歩目を尻込みしてしまう。しかし後戻りはできない。背中に刺さる視線が痛くてリーザは顔をひきつらせた。そのあとは気合いだけで進み中央までやって来ると無言で佇んだ。


「さ、寒い……」


 小刻みに震えるリーザはいつも思う。水に浸かって凍えているだけで何が清まるのか、と。しかしそれを聞く勇気はないし大神殿に喧嘩を売るだけの権力もない。


 この大神殿はエルベルト国の神々に仕え、また神々の祝福である魔術を支配する組織である。魔術師たちはすべてこの大神殿の一員であり、リーザも王女でありながらその特殊な“役目”から大神殿の保護を受けている。名目上、大神殿は一組織に過ぎないが実際は宮廷に匹敵するほどの権力を握っていた。リーザですら余計なことは言えない――――この儀式に何の意味もないと知っていながら。


 リーザはうんざりした顔で吹き抜けの天井を見上げた――――アリスティならくだらないって笑うんだろうな。


 あの男は一切の無駄を嫌う合理主義者だ。無意味なものを一蹴し、無価値なものを切り捨てる。このような形だけの儀式も彼なら真正面から嘲るに違いない。毒々しく皮肉るアリスティドが思い浮かんできて思わず吹き出しそうになったが、ぎりぎりのところで堪え、誤魔化すように長く息を吐いた。


「駄目、駄目……」


 集中するように言い聞かせ、祈るように指を組んだ。形だけの儀式とはいえこれはリーザに与えられた使命のようなものだ。こなせないようでは名が廃ると息巻いた。


 それにリーザはアリスティドのことが大好きだが、彼とは違って無意味でも無価値でもその存在を否定するつもりはない。リーザが冷たい水の中で震えていることも誰かにとっては大切なことなのではないかと思う。


 しかし一回の儀式が長すぎることだけは不満だ。棒立ちになっているのもいい加減に飽きてきてそっと両目を閉じた。頭にはルーディア文字の一覧が描かれている。正しい書き順を意識しながら順番になぞっていった。次の授業までに完璧に覚えることを言いつけられているのでリーザも必死だった。


 ――――どれくらいそうしていただろう。リーザが隠れてあくびをしたとき、事態は急変した。


「伝令! 伝令――――!」


 水場に響き渡る声。思わず振り返ると下級兵士が書状を片手に転がり込んでくるのが見えた。入り口でひかえていた女官たちがわっと群がり、兵士の身体を拘束した。


「何事ですか! ここは神聖なる儀式の場、神殿外の者の立ち入りは禁止されています。知らぬはずないでしょう!」


 女官長は凛とした口調で「連れ出しなさい」と命じるが兵士は書状をバッと広げて突きつけた。女官長は思わず目を通し、読み終わるともう一度端から端まで入念に読みこみ、徐々に顔を青くした。


「これ、は……まさか偽書状ではありませんね?」

「以下に大臣の署名もございます!」

「国王陛下の一筆は……」

「この書状は正式なものではありません。火急の事態ゆえ、急ぎ知らせるものです」


 会話の内容は聞こえるが難しくてよく分からない。書状に何が書いてあるかも見えない。それでも緊迫した空気に身を固くした。女官長は書状を受け取り、伝令を終えた兵士は深く礼をした。


「明日にも神官長に正式なお達しが届く予定です。どうか早急にご準備を」

「ええ、分かりました。陛下や大臣には良いようにお伝えなさい」

「承りました」


 兵士が立ち去ると女官たちは慌ただしく動き始めた。リーザは一人放置されるが、しばらくすると女官長がやって来た。リーザの目の前で恭しく膝をつく。水で足を濡らしたが構うことなく首を垂れる。そして重々しく告げた。


「国王陛下の命により――――リーザ王女殿下のご出陣が決定いたしました」

「え?」

「近年続いていた隣国との国境争いが激化し、宣戦布告を受けました。ああ、ですから、つまり……戦争です。あなた様はこれから戦場に赴くのです」


 噛み砕かれた言葉によってようやく事態の深刻さを理解し、リーザは頭の中が真っ白になった。女官長はいくつか言葉を付け足したが何も入っては来ない。ただ恐怖だけが膨らんでリーザを朦朧とさせた。


「せん、そう」


 知っている。国と国、人と人が戦うことだ。騎士や兵士たちが武器を手にし、その身と誇り、そして命をかけるのだ。たった十歳の少女には似つかわしくない争いの場である。リーザは想像するだけでも指先が震え頭がくらくらとした。


「リーザ、そんなのできない……」


 消え入るほどの声で拒否した。


 一年前、自身の“役目”について聞かされたときいつかこのような日が来るのだろうとぼんやり思った。けれどそれが今日だなんて、誰も教えてはくれなかった。

リーザは抵抗するように後ずさる。


「だってリーザ何もできないもん。できないよ、リーザまだ10歳だもん。戦争なんかできない、やだ!」

「王女」

「いや、いやだ!」


 興奮するリーザを落ちつけようと女官長が腕を伸ばすが、それも勢いよくはねのけた。パチンと音がして手首にじんわりと痺れるような痛みが走る。その刺激で一瞬我に返ったリーザは女官長の表情を目にした。


 唇をぎゅっと噛みしめているのは、きっとはらわれた手首の痛みのせいではないとリーザでも分かった。


「ごめん、なさい……」

「良いのです、王女」

「ごめんなさい、マレイ。でもリーザ、本当に何もできないの……」


 女官長は柔らかな笑みを浮かべてリーザの手を優しく覆った。


「さあ、王女。こちらを向いて」


 いつもの凛々しい声ではなく、まるで母親が子供に接するかのようにリーザに語りかけた。


「あなた様は何か思い違いをなさっているようです」

「思い違い……?」

「ええ。あなた様のお役目は兵士たちの後ろで傷付いた者たちの手当てをすることです。王女が剣を取ることなどありえません。そして王女のそばには神殿の大賢者や騎士たちが付き添います。傷一つつけさせないとこのマレイが誓いましょう」


 女官長はリーザの手を引いて水場を後にした。濡れてしまったリーザの身体を優しく拭いて乾いた服に着替えさせた。なおも不安げな表情をしているリーザの手を握り、頷いてみせる。冷え切ったリーザの指先は徐々に熱を取り戻した。


「あなた様はすぐに準備を整え、ここを発たねばなりません。……良いですね?」

「……うん」

「ではもう一度お着替えを。今度は司祭服に。それから御髪も改めましょう。さあ、お急ぎください」


 たくさんのことが目まぐるしく過ぎていく。気が動転しているからか何をしていたかはほとんど覚えていない。ただいつの間にか見た目を整えられ、兵士たちに囲まれ、父王からも威厳ある命を受けていた。


 リーザは真っ直ぐ前を向きこくりと頷いた。それだけを何度も繰り返した。本当はリーザの同意など必要ないと知っているけれど、せめて役目を立派に果たす王女であると示したかった。リーザなりの誇りかもしれないしただの意地かもしれない。どちらでも良かった。


 王命の儀が終わる。


 リーザはすぐにでも兵士とともに出立するはずだったが、すでに日が暮れかけているのと、戦況が混乱に陥っていることから半日先延ばしにされた。リーザは救われたような気持ちだった。ゆっくりと胸のあたりを撫でると苦しさが和ぐ。覚悟を決めたとはいえ戦場に向かう恐ろしさが消えたわけではない。嫌なことは少しでも後回しにしたい。


「……メイはどこかな」


 ぐるりと回る。赤茶色をしたメイの髪は、遠くからでもすぐに分かるのだ。


 城を少し歩き回ってみる。司祭服はドレスとはまた違った動きにくさでたまにつまづきそうになった。裾が足にまとわりつくのだ。いろいろと試行錯誤した結果、裾を前に蹴りながら歩くのが良いと分かった。上手く歩くコツを掴んだリーザは近くの部屋を片っ端から覗いてみた。しかしメイはどこにも見当たらない。仕方なく手持無沙汰にしている侍女に尋ねてみると、彼女は今リーザの荷物をまとめたり部屋を整理しているらしい。


「じゃあ、メイには会えないのね」

「恐らく。もしご用などありましたら、私からメイに伝言いたしますが」

「うーん……リーザが帰ってきたら砂糖いっぱいの紅茶を入れてって言っておいて。あとケーキも」

「承りました。必ずお伝えします。……私も王女のご無事をお祈りしておりますゆえ」


 リーザは小さな笑みを浮かべ侍女と別れる。メイに会えないことは悲しいがそれなら次の場所に行かなければならない。急がなければ半日などあっという間に過ぎてしまうのだ。


 少しでも近道をするために庭園を通り抜けることにした。深緑のアーチをくぐり抜ける。空は濃紺に塗りつぶされ小さな光がきらめいていた。すぐそばにある城にもオレンジ色の明かりが灯っていた。


 すーっと上に視線を移すと図書館の扉が見える。あれがリーザの目的地だ。リーザはアリスティドに会いに行くのだ。


 彼がリーザを歓迎しないことは分かっている。いつものように臣下とは思えぬ暴言を吐き、鼻で笑い、挙句「邪魔だ」と追い払われるのだろう――――それでいい。何も変わらず本を愛でる彼を一目見たかった。それだけできっと救われる。


 庭園から図書館を見上げていると、明るい色をした髪がちらりと映った。


「……メイだ!」


 顔もよく見える。あれは間違いなくメイだ。何冊もの本を抱えているようだった。見覚えのある色味で、目を凝らすとアリスティドから借りたままになっているものだった。しばらく留守にするからリーザの代わりに返しに行ったのだろう。


 メイは扉をノックした。アリスティドが顔を出すかと思ってリーザも固唾をのんで見守る。自分はずっと遠くにいるのに不思議と胸が高鳴った。


しかしアリスティドは一向に出てくる様子がなく、メイは諦めたのか扉に背を向けた。廊下の窓を開けて外を眺める。


「み、見付かっちゃう」


 リーザは思わず茂みの後ろに回って身体を小さくした。何も隠れる必要はないと分かっているけれど、覗き見をしていたという罪悪感が許さなかった。外はもうすっかり暗い。メイがリーザを見つけることは難しいだろう。茂みからそろそろと顔を出して様子を伺うとメイはまだそこにいた。


 何かを憂いているような表情だった。

 それはリーザにも覚えがあるものだった。


 ランプの光に染まる彼女の純朴な美しさに思わず目を奪われる。リーザには決して見せることのない一人の少女としての顔だ。


 リーザの全身が強くうずいた。どうしようもないくらいに切なくて苦しかった。けれど同時にメイが愛おしかった――――完璧な人だと思っていたけれど、あなたにも叶わないことってあるのね。


 メイが去ってから、リーザも図書館の前に立った。軽い諦めを覚えながらもノックする。返事がない。鍵がかかっていた。


 誰にも会えないままで夜が更ける。眠れるはずもなくシーツをきつく握りしめながら身体を丸めた。目が覚めて、すべて夢だったらいいのにとただただ願っていた。



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