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第36話 紙の蝶は導く

  

リーザは重い鉄の扉を押し開けて、辺りに人の気配がないことを確認すると、すぐさま飛び出した。だだっ広い道の残りを突っ切って城壁まで駆け寄った。思わず立ち止まって見上げるが、とても乗り越えられるような高さではなかった。


「木は……」


 近くにも数本生えているが、どれも壁より低い。枝から飛び移ることはできそうにない。諦めて壁沿いに走っていこうとするが、障害物もほとんどなくて隠れられそうな場所が見当たらない。リーザは仕方なく離れて進む。


 それでも足音が聞こえるたびに踵を返し、しゃがんでやりすごし、また立ち上がっては方向転換をし、時には走って追ってを振り切り――――そんなことをしているうちにリーザは自分の居場所を見失っていた。


「……っ、どこ!?」


 立ち止まってあたりを見回すが、さっぱり見当がつかない。何かの建物の裏にいるらしいことはわかったが、リーザも城塞のすべてを理解しているわけではなくて、いつの間にかリーザの知らない場所まで走ってきてしまったようだ。


 うろうろと歩き回ることもできなくて、リーザはとっさに身を隠す。塀は少し向こうに見えているが、方角が分からなければ何の意味もないのだ。リーザが目指すのは南向きの塀だった。リーザはぎゅっと服の裾を掴んで皺を作る。唇を固く結びながら視線を落とす。


 そして遠くで笛の音が鋭く鳴り響いた。これで二度目――――メイとウィリアムの居場所が知られたか、捕まったか、とにかく状況が最悪であることだけはわかった。


「早すぎる……!」


 リーザは思わず振り返り、警笛の鳴った方を見遣った。


 地団駄でも踏みたい気分だ。打てる手が確実に減ってきている。メイやウィルの行方は知れず、リーザもどこにいるか分からない。目的地ならはっきりとしているが無暗に探せない。だが時間には限りがあって、それも残り少ない。


――――どうする、どうする!?


 リーザは息を詰めながらも必死に思考を巡らせた。とにかく逃げなければならない。まずは背後を見て、隠れながらひそかに移動するすべを探した。しかし壁がずっと続いているだけの開けた道で、障害物はほとんどない。


 いっそ今すぐ駆けだして無理やりにでも走れば間に合うか、それよりも捕まってしまう方が早いか。心臓が激しく音をたてる。息もままならない。苦しい。


「…………」


 リーザは深く呼吸を吸った。こういう時に焦るのが一番の愚策であることはよくわかっている。



 まずは落ち着いて、それからそっと顔を出して様子を伺ってみる。人はいなかった。すべて二人の方へ行ったのだろう、とリーザは思った。二人がどうなってしまうのかは分からない。けれどここで逃げ切らなければ何も為せないままだ――――リーザは土を蹴る。


 二度目の警笛は建物の左側から聞こえて来た。あの二人ならリーザと逆方向に走って時間を稼ぐはずで、そうなると警笛が鳴ったのは北側だ。これで方角は把握できた。


 リーザは息を乱しながら駆ける。ふと視界の端にオレンジがちらついた。手提げランプの光だ。リーザはとっさに物陰にしゃがみこんだ。祈るように指を組む。


 足音はしない。いつまでたっても人の気配がなくて、リーザは右目だけであたりをうかがった。やはり柔らかなオレンジが見えた。すぐに顔をひっこめる。見つかったと思った。それなのに物音一つ聞こえてこない。


「……?」


 何かがおかしいように思えて、リーザはもう一度だけ腰を浮かした。やはりオレンジの光がそこにあったが、それは一人でゆらゆらと揺れているだけのものだった。


 リーザは物陰から出て、ゆっくりと光へ近づいた。ランプの火のように見えていたそれは、蝶の形をしていた。生き物ではない。紙で折られた偽物の蝶だ。


「あ――――」


 魔術で折られた紙の蝶。

 それだけですべてがわかった。


「アリスティ――――」


 四年前のあの日の出来事を今だって鮮明に覚えている。


 紙の羽をはばたかせる蝶に恐る恐る指を差し出す。蝶はついばむように軽く触れ、また離れた。ほのかに彼の魔力を感じた。冬の陽だまりのような温かさがそこにあった。


 蝶はリーザの目の高さまで舞い上がると、暗闇のなかへと進んだ。リーザの足は自然と動いていた。


「待って……」


 蝶を追いかける。不安はなかった。すべて彼を信じていた。


「待って!」


 リーザは夢中になって走った。向こうにうっすらと南門が見えてきて、一本の大木が夜空に向かって枝を広げている。リーザは無我夢中で走り続けた。広い道を突っ切れば茂みが見えてくる。蝶は茂みの中へ消えた。それを追うリーザも迷うことなく飛び込んだ。遠くで人の声が聞こえたが顔をあげない。枝と枝をかき分けながら前に進んだ。必死だった。


「もう少し、だから……っ!」


 塀を伝いながら横に歩いていくうちに、右手が空ぶった。あっと声をあげたときには、リーザの身体は真横に倒れていた。とっさに頭をかばいながらゴロゴロと転がる。全身が擦れる。砂だらけになったリーザが顔をあげると、そこは城塞の外だった。


「やった……!」


 リーザは慌てて立ち上がる。左腕にとまっていた蝶がひらひらと舞い上がった。何かに誘われるように暗闇へと消えていく。リーザは顔についた砂を落とすと、また駆けだした。


 一歩足を出すたびに右足首がズキンと痛んだけれど、止まりはしなかった。喉が狭くなったかのように息ができなくて、必死にあえぐとヒュウヒュウ音がした。


 蝶は木々にまぎれた。森だった。リーザも迷わずに踏み入った。行く道も帰り道も見えないほどの真っ暗闇で、かすかに光る蝶だけが道しるべだ。それでも怖くはなかった。 


 リーザはひたすらに走った。


「あっ……」


 蝶はやがて光を失って、ふらふらと地に落ちた。とっさに手を伸ばしたけれど届かなかった。アリスティドの蝶は闇のなかに消えた。拾い上げてやることもできなかったリーザは、膝に手をついて呼吸した。


 はっと顔をあげれば真っ暗闇で、あたりは静かだ。たった一つの光を失ったリーザは、額の汗をぬぐうと何度も深呼吸した。


 かさついた唇がルーディア語を紡ぎはじめる。


 四年ぶりに口にしたその詠唱は、かつてアリスティドから教えられたものだ。


「――――」


 彼の声を、言葉を思い出す。不可能なんてきっとない。穏やかで幸せだったころの記憶がリーザを強くさせる。身体中が熱を帯びて魔力は循環し、紙の蝶は再び舞い上がった。


 かつては失敗ばかりした魔術も、今ではずいぶんと上手になった。


「私にだって才能があったのよ」


 ふふ、と小さく笑う。アリスティは散々なことしか言わなかったけれどね、と小さく呟いた。


 浮かんでいるだけの明かりに目を細めながらリーザは歩いた。どこへ向かっているのかは分からないけれど、彼を探していた。彼の銀髪を、金の瞳を、細い指先を探してたのだ。


 リーザは枝をかき分けながら獣道を行った。小さな崖を転げ落ちながら進んだ。腕も足も擦り傷だらけだ。とっくにほどけてしまった長い髪を振り乱しながら手足を動かした。


 細い木々の間をすり抜ける。目の前は遠くまで開けていて、リーザは二、三歩勢いのままに足を踏み出した。湖の水面はそよ風に揺れてきらきらと光る。美しい湖畔だった。


 そこにその男はいた。


 リーザは息を詰まらせた。夢かもしれないと思って、夢でなければいいと思った。



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