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第3話 言い出したら後には引けない


 アークライト城の庭園に柔らかな日差しが降り注ぎ、辺りは陽気に包まれている。庭園に置かれたテーブルの上には紅茶といくつかの焼き菓子が並んでいる。リーザはどれから手を付けようかと悩むがまずは紅茶に手を伸ばした。上品にカップを傾ける。


 テーブルを挟んで向かいに座るアリスティド不服そうな顔だが、さすがに黙って見ているわけにもいかずカップを口元に近付けた。一口飲んで終わるように見えたが、どうやら思いのほか美味だったらしく無言のまま味わっている。リーザはにこりと微笑んだ。


「たまには庭でお茶を飲むの楽しいでしょ? お花を見ていると紅茶も美味しくなるもの」


 アリスティドの表情はいくぶんか和らいだが、無理やり庭に連れ出された恨みは忘れていないらしく不満げにそっぽを向いた。


「これが美味いのはいい茶葉を使っているからだろう。庭だろうが部屋だろうが、味は変わらない」

「……アリスティ、可愛くないこと言わないでよ。美味しいんだから美味しいって言えばいいじゃない!」

「ああ、確かに美味い。が、庭で飲むから美味いというお前のよく分からない理屈に反論しただけだ。それから俺が可愛かったことが一度でもあるか?」

「ない」


 リーザは頬を膨らませるが、彼はお構いなしといったふうに紅茶を味わっている。味を気に入ったことに違いはないらしい。リーザは唇を尖らせるだけに留めた。言いたいことは山ほどあるが口を開いたところで平行線をたどることは予想にたやすい。ひとまずアリスティドは置いておいてリーザは座ったままで庭園を見回した。


 アークライト城が誇る美しい自然はリーザの一番のお気に入りだ。手入れの行き届いた庭は色とりどりの花で満たされている。すぐそばの低木には大ぶりの赤い花が咲いているし、少し向こうには青空と同じ色、ずっと遠くには木々のアーチが見える。


 リーザが四つ目の焼き菓子を食べ終わったところで、ようやくアリスティドも手を伸ばした。一番小さなものを選ぶと紅茶に浸し、充分染みたのを見計らって口に放り込んだ。


「ねえ、そんなにその紅茶美味しい? 今度からその茶葉に変えてもらう?」

「……ああ、そうだな、そうしてもらおうか」


 偶然とはいえアリスティドの好みが分かったリーザは顔をほころばせた。


「じゃあまた今度、ここでお茶を飲んでよ。リーザと一緒に」

「それはお断りだ」

「ケチ」


 そもそも二人が庭園で休憩しているのはリーザの強すぎる希望あってのことだった。もともと図書館で授業が行われるはずだったが、窓を張り替えるという理由で図書館から追い出されてしまった二人はどこかで時間を潰さなければならなかったのだ。


 アリスティドは自室で仮眠を取ると言い張ったが、しかしこのような絶好の機会を逃すリーザではない。自分に付き合ってほしいと頼み込み、それをすげなく断られた後にはほとんど命令に近い形で彼を連行した。彼がどれほど迷惑そうな顔をしていたかは見なくても分かるので確かめはしなかった。


 もし彼の機嫌が直らなかったらどうしよう、と思わなかったわけではない。だが彼の不健康極まりない生活を見ているリーザは、せめて今日くらい外に出てほしかった。たまには日の光に当たらないとかびてしまう――――彼は書物ではないのだから。


 リーザはそれとなくアリスティドを見つめる。顔色は最初よりも良くなったように見えた。白い肌に血の気を感じる。リーザは胸のつかえが取れたようでふっと吐息を漏らした。これでしばらくは安心だろう。


 それからも二人きりの小さな茶会を続けていると、城の方から男が走ってきた。彼女らの元にたどり着くと、芝生の上で膝をつく。


「図書館の修理が完了しました。窓のついでに棚の修繕も行ったとのことです。部屋はいつでもお使いいただけます」

「ご苦労。ここを片してくれるか」

「はっ」


 アリスティドは残っていた紅茶を一気に飲み干し立ち上がった。振り返ることなくずんずん歩いて行ってしまう。リーザもカップをぐっと傾けて紅茶を流し込むと、彼の背中を追った。相変わらずせっかちな男だった。







 図書館に着いてからは息をつく間もなく授業が始まった。薄暗い部屋にはページをめくる音とペンを走らせる音だけが響いている。アリスティドは長い脚を組んだままちらりとリーザを見やった。彼の真正面に腰かける彼女は、真剣な眼差しで一ページを注視している。


 今日はリーザが自分から希望したルーディア語の授業だ。とは言え一文字も読めない状態から始まったのでまずは文字の書き取りからだった。リーザはアリスティドから渡された初歩の教本とにらめっこを続けている。蛇のようにうねる六十種類の文字はまねて書くだけでも難しい。


 リーザはふっと顔をあげ首を回した。


「……どうした、ペンが止まっているぞ」

「だってこの字、何がどうなってるのか分からないもの。こっちの線がこれに繋がるの?」

「いや、それとそれは別の線だ」

「そう見えないけど……」

「書き順がおかしいからだな、それは」


 彼はリーザからペンを引ったくる。軽くインクを付けると、いとも簡単に書き表してみせた。あっと言ったときにはもう遅かった。


「覚えたか」

「待って、待って。逆からじゃ分からないよ」

「ならもう一度書くから、隣に座れ」


 言われた通りアリスティドの隣の椅子に移動する。身を乗り出して覗き込もうとすると彼は立ち上がり、リーザの背後に回った。


「アリスティ?」

「いいからペンを握って腕を伸ばせ」

「こう?」


 文字を書き始めるときのようにペン先を紙の一点に置くと、リーザの右手は彼の手に覆われた。びっくりして後ろを振り返ろうとするが「集中しろ」という言葉で前を向く。彼はリーザの手を握りながらペンを動かす。リーザは引っ張られる形になった。


「こうして、次にこうだ。それから一度ペンを離してこちらから書き始める」


 リーザの手を導きながら丁寧に説明してくれるが、困ったことにまったく集中できない。右手に伝わる体温や肌の柔らかさがリーザの心をかき乱した。気にしてはいけないと言い聞かせてもむしろますます意識してしまう。せめて心の準備ができていればまた違ったかもしれないが今さらの話だ。


 リーザは悲鳴でも上げたい気分だった。そうでもしないと心臓がもちそうにない。胸のあたりがぎゅうぎゅうと締め付けられて息まで苦しい。


 アリスティドは何度か同じ動きを繰り返させると、ひとまずペンを止めた。


「どうだ、分かったか」


 混乱のあまり激しく頷いた。アリスティドに触れてもらえるのは嬉しいがこのままだとどうにかなってしまいそうだ。アリスティドは椅子に座ると新しい紙を滑らせてリーザの前に置いた。


「書いてみろ」


 ペンを握りなおす。今さっきの説明はすべて流れて行ってしまって頭には欠片も残っていない。急かされてとりあえず書いてみるが最初と何も変わっていなかった。


 アリスティドは天井を仰ぎ見ると、自分の髪をがしがしかき乱した。


「分かっていないなら頷くな! それとも何だ、聞いていなかったのか⁉」

「聞いてたもん!」

「ならお前の頭は空っぽか⁉」

「詰まってるもん!」

「とんでもない馬鹿じゃないだろうな!」

「リーザ馬鹿じゃないもん! ア、アリスティが悪いんだから!」

「はあ? 俺は懇切丁寧に教えてやっただけだろうが!」

「そうじゃなくって!」

「なら何だ!」

「ああ、もう……アリスティのばか! ばか! ばか!」

「お前に馬鹿と言われる筋合いはない!」


 しばらく不毛な言い争いを続け、お互いに喉がカラカラになったところでふと口を閉ざした。思いのほか時間を無駄にしてしまったことに気付くと、顔を見合わせたまま大きなため息を吐いた。


「……リーザ、もう一回練習する。さっきみたいにして」

「……ああ、そうだな」


 最初からそうしていれば良かったのに、と思うが口にはしなかった。きっと彼も同じことを思ってるだろう。彼がまたリーザの後ろに立ってその手を握った。今度は深呼吸して心の準備をしているから冷静だ。結局次の一回で完璧にしたリーザはようやく次の字に移った。棒を三本引くだけの単純な形だ。


「今度のは簡単だね」

「長さに注意しろ。真ん中が一番短い。これを間違えると別の字になる」

「……ルーディア文字ってなんでこんなにややこしいの? もっと分かりやすくしたらいいじゃない」

「俺に言うな」


 リーザは神妙に頷いた。それからもリーザが四苦八苦しつつ練習を続けていると、手持無沙汰なアリスティドは山のように積まれた文法書に目を通し始めた。次の教材を選んでいるらしく数冊を見比べる。いつの間にかリーザはペンを置いて彼ばかり見ていた。


「……疲れたなら少し休憩しろ。これでも読んでおけ」


 渡されたのは例の文法書だった。


「休憩したらって言ったの、アリスティなのに」


 しかし読みもせずに突っぱねるのも彼の手前ためらわれる。青色の硬い表紙をめくった。ひとまず最初のページに目を通す。一見難しそうだがリーザでも読みやすい簡素な言葉が並んでいた。


 それでもリーザは疎ましく感じた。いくら分かりやすく書かれていたとしても、休みたいという欲求の前では無意味なのだ。疲れを吐き出すように息をした。


「アリスティにとってはこれが休憩なのかもしれないけど、それって特別なことだと思う」


 リーザなりに上手く言葉を選んだつもりだったが、彼は不思議そうな顔をしている。言いたいことがまったく伝わっていない――――彼の本好きはいよいよ異常だ。


「……うん、いいの、忘れて」


 苦笑いすることしかできなかった。これ以上触れても余計なことにしかならないと本能が訴えている。彼の追究から逃れるように手元の本のページをパラパラとめくった。まるで文字の濁流で、紙とインクのにおいが鼻をかすめた。


「リーザだって楽しい本を読むのは好きだけ――――いっ」


 指先に鋭い痛みが走って反射的に指をひっこめた。人差し指がジンジンと嫌な熱を持っている。何か赤いものが見えた気もする。紙の端で指を切ったのだとすぐに分かった。


 逆の手でぎゅっと握りながらテーブルから離れた。血が出ているのなら本に付けないようにしなければならない、とアリスティドに言いつけられているからだ。そのアリスティドは顔を上げると小さく首を傾げた。


「どうした?」

「指、切っちゃった。メイに包帯巻いてもらってくる」

「……いや、俺に見せてみろ」


 恐る恐る手を開くと、血がぐんと上がる感覚がして痛みが戻ってくる。我慢して人差し指を突き出した。リーザもちらりと見るが痛みの割に傷は浅く、血も滲んでいる程度だ。アリスティドはちょいちょいと手招きした。


「それくらいなら、まあ、魔術で治してやる。ちょうどいい実演になるしな。早く手を出せ」


 リーザはほんの少し目を見開いた。


「包帯でいい」

「治せるなら治した方がいいにきまっている」

「ほ、本当にいいんだってば!」


 アリスティドも良心から申し出ているのだろうがリーザにとってはそうもいかない。リーザがくずぐずしているうちに痺れを切らしたのか彼は腰を上げた。リーザの細腕を掴もうとする。が、その手が届く瞬間リーザは身を引いて逃げ、叫ぶ。


「リーザに触らないで!」


 部屋中に響き渡るほどの大声だった。アリスティドも思わず固まった。緊張の糸が張り詰めて二人は黙ったまま見つめあう。しばらくしてアリスティドは手を引いた。リーザは「ごめんなさい」と小声で謝る。


「き、決まりなの。お父様との約束だから駄目。治してくれなくていい」


 リーザは一歩後ずさった。アリスティドはまじまじと見つめ長くため息を吐いた。


「それくらい知っている。手をかざすだけだ」


 リーザはなおも警戒している。彼女の迷いを敏感に感じ取ったアリスティドはじれったそうに目を吊り上げた。怒っているようにも見えた。結局アリスティドも一度言い出したらきかない人間だ。リーザは観念して自分から彼のもとに歩み寄り、すっと指先を差し出す。血はとっくに止まっていた。


「……すぐ終わる」


 片手をかざして呪文らしき言葉を短く唱えた。ルーディア語だとは分かるが単語の一つも知らないリーザでは何と言っているかは聞き取れない。


 柔らかな光が指先を包むとツンとした刺激が走った。肩が跳ねる。しかし一瞬で消え去り、それから傷がゆっくりと塞がっていく。かさぶたもできず今ではどこに傷があったかも分からない。光が空気に溶けてから彼は手をどけた。


「どうだ」

「うん、大丈夫……。もう痛くないよ」


 手を握ったり開いたりしてみる。少し皮膚の突っ張った感じはあるが、薄れつつある。


「とても上手なのね。びっくりした。アリスティは魔術のお勉強をしたの?」

「いや、我流だ。魔術書を読んだついでに練習したくらいだな。その途中で、俺自身の魔力量は塵ほどしかないと分かったから何の役にも立たない」

「……そんなことないよ、アリスティ」


 彼の袖を軽く引っ張る。


「ちゃんと役に立ったよ。ありがとう。アリスティが治してくれて嬉しかった。本当に本当よ」


 アリスティドは何も言わずにそっぽを向いた。顔だけを見れば至極不愉快そうだが、これが彼の照れ隠しであることはリーザでも分かった。証拠に耳がうっすら赤く色づいている。彼は案外優しくて照れ屋なのだ。


「ありがとう、アリスティ」


 畳み掛けるように続ければ、アリスティドは我慢の限界なのかくるりと背を向けた。足音を豪快に鳴り響かせながら部屋の奥に行ってしまった。戻ってくる気配はない。本当はもう一度くらい言っておきたかったけれど、しつこくして拳が飛んできても困る。それはそれで珍しいものが見られるかもしれないがここで退くのが得策だろう。


 リーザはくすくすと笑った。しばらくしても笑いが止まらなくて、だんだん声が大きくなる。本と本の間で笑い声が反響した。奥から「静かにしろ!」と怒声が飛んできたのでぱっと口元を覆う。


 リーザは何とはなしに窓に目をやった。アリスティドの特等席であるそこはぽっかりと空いている。だから彼の代わりによじ登って、突きだした窓枠に腰を下ろしてみた。とは言え彼になりきることはできなかった。


 張り替えたとあって、窓ガラスは傷一つなく透き通るようで外がくっきりと見える。空は厚い雲に覆われ鉛色だ。今にも雨が降り出しそうな天気にリーザは「残念」と独り言を呟いた。


「リーザは晴れの方が好きなのになあ」


 ぽつり、と一滴落ちてくるのが見える。リーザは瞳を閉じた。


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