第2話 管理人は永遠だけを愛している
空がどこまでも青く、差し込む日差しは熱を増し始めた。夏の気配が迫り始めたとある日、リーザは大広間に向かっていた。今からダンスのレッスンだ。
勉強はあまり楽しいものではないが、ダンスは得意だ。もともと身体を動かすこと全般に長けているリーザは、よく庭園の木に登って侍女たちを困らせたものだった。今はもうしない。王女としての品位を汚すな、と父王にきつく叱られてしまったのだ。
「……あんなに怒ることないのに」
「リーザ様、どうかなさいました?」
「あれ、声に出てた?」
「ええ」
「さっきのは独り言なの、聞かなかったことにしてね」
侍女――――メイはくすくす笑って頷いた。
メイはどの侍女よりもリーザの近くにひかえ、彼女の身の回りの世話を焼いている。まだ十七歳で、侍女たちの中では一番若いことからリーザの話し相手にもなっている。そのこともあって二人は姉妹のように仲がいい。
「さ、リーザ様。こちらへ」
メイは大広間の扉を開けた。部屋の中はガラス張りになっており、天井からは豪奢なシャンデリアがぶら下がっている。隅に用意された椅子にダンスの指導者として雇われている男――――エドガーが腰かけていた。
「お待たせしてしまってごめんなさい」
リーザが精一杯丁寧な言葉で謝罪すると、エドガーは柔らかく微笑んだ。
「いいえ。さあ王女、お手を」
伸ばされた手に自分の手を重ねる。リーザの白くて小さな手はすっぽりと覆われる。そのまま優しくエスコートされ部屋の中央へと連れられた。その紳士的な態度は同じ男でもアリスティドとは真逆だ。彼は時間にうるさくて少しでも遅れると小言を口にするし、エスコートしてくれたことなど一度もない。そもそも恭しく膝まづくことすらなかった。
ますますあの男に恋をしている理由がわからない。彼の言うとおり馬鹿になってしまったのだろうかと思うとぞっとした。
「王女? 何か悩み事でも?」
男はぼんやりとしていたリーザの顔を覗き込む。リーザは慌てて笑顔を作った。
「先生が素敵だから見惚れてしまったの」
エドガーは胸に手を当て、美しく一礼した。
「光栄です、リーザ王女殿下」
――――やっぱり素敵な人はたくさんいるのよ。なのにアリスティだけが特別だなんて、おかしいの!
音楽が流れ始めた。舞踏会で最も好まれるワルツだ。リズムに乗ってリーザは足を踏み出した。エドガーのリードに上手く合わせくるんとターンする。ドレスの裾がふわりと浮かんで赤い靴が顔を出した。
「そうそう、その調子ですよ」
リーザとエドガーの体格差は大きく、本来なら一緒に踊るだけでも至難の業だが、彼は苦にもしない。むしろステップを踏むだけで心地よくなるほど華麗なリードだ。
それから何曲か踊り、息が上がり始めたところで今日のレッスンは終わりを迎えた。リーザがドレスをちょんとつまんで礼をすると彼もそれに応えた。
「王女、今日もお上手でしたよ」
「ありがとう! リーザ、ダンスは大好きなの。楽器はとても苦手だけど」
「そのうち上達なさいますよ、きっと」
「……本当?」
「私が嘘を吐いたことがありましたか?」
「一度もないわ」
二人は楽しげに笑う。穏やかな時間だった。
それからメイが迎えに来るまで談笑して、エドガーと別れた。彼はやはり優雅に一礼してリーザを見送る。まさに理想的な紳士だ。
「伯爵は本当に素敵な方ですね」
「メイもそう思う?」
「もちろん。それに私だけではありません、城中の女性から慕われていますもの。この前なんて、伯爵とディラック様のどちらが素敵な殿方か、なんて話で盛り上がりましたよ」
メイの何気ない話にぽかんとしてしまって、間抜けな顔を晒した。
「アリスティって、人気なの?」
とても信じられない、というような声色で尋ねるとメイは何度も頷いた。リーザは言葉を失ってしまった。彼の言動を見ている限り女性に慕われるとは到底思えないからだ。だがメイは瞳を輝かせてアリスティドの華やかさについて熱弁した。
「あの絵画からそのまま出てきたように美しい姿、人を寄せ付けない眼差し。博識でいらっしゃるし、ヴァイオリンの演奏もお上手で、王からの信頼も厚く、神殿では――――」
「もういい、もういいよ!」
それ以上聞いていられなくてメイの言葉を遮った。メイは首を傾げたが、どうやら無駄話をするなというふうに受け取ったらしく足を速めた。
「ええと、次は歴史学の授業です。……ディラック様に教わっているのですよね?」
「……うん」
リーザはため息を吐いた。アリスティドに早く会いたい気持ちに変わりはないが、彼が大変人気であると知った今、どういう顔をすればいいか分からない。そんなリーザの気持ちを知ってか知らずかメイは声を潜めてリーザに囁いた。
「ディラック様とはどういったお話をなさるのですか?」
リーザは身体を固まらせた。アリスティドはほとんど毎日図書館に引きこもっているから、彼と直接会話することができるのはごく一部だ。アリスティドについてよく知りたいと思っているのはメイだけではないだろう。ずいぶん期待しているようだが、しかし彼女の喜びそうな返事はできそうになかった。少なくともリーザに対しては不敬な発言を繰り返し、それ以外は本にかぶりつきなのだ。
「……アリスティはあんまりお話してくれないの」
できるだけ柔らかな表現に変えて伝えると、メイは「やっぱり」と嬉しそうな顔をした。
「ディラック様はいつもお静かでいらっしゃいますものね。パーティーもテラスでお過ごしになりますし」
メイは目を細め、髪を耳にかけた。
アリスティドがパーティーに出席しているところなど想像できないが、地位ある者としては当然だ、彼も嫌々顔を出しているに違いない。しばらく考えてみて、かろうじて、テラスで一人夜風に当たっているアリスティドなら思い描けた
――――さぞ絵になるのだろう。銀の髪がさらさらと流れる様など誰もが息を呑むし、蜂蜜色の瞳は鋭く、視線が交わるだけでうっとりしてしまう。貴婦人はこぞって彼にダンスの相手を求めるに違いない。あっさり断られると知りながら。
リーザは唇を尖らせた。
「リーザも早く舞踏会に出たい」
「あと数年ですよ。きっと豪勢な会になるのでしょうね」
「アリスティも来るかな?」
「王女のデビューですよ、ディラック様でなくてもいらっしゃいます」
そうだといいけれどと呟く。いつの間にか図書館にたどり着いていた。この扉の向こうにアリスティドがいるのだと思うと自然と鼓動が高鳴った。相変わらず彼を想う理由は分からなかった。
「じゃあね、メイ。また後で迎えに来てね」
「はい」
メイは丁寧にお辞儀をすると廊下の角へ消えた。彼女がいなくなるのを見届けてから、木の扉をコンコンとノックした。返事が返って来ない。手持無沙汰でしばらく扉のレリーフをなぞっていると、扉がゆっくり開いた。
「あっ」
思わず前によろけると何者かに受け止められる。見上げればアリスティドだった。
「何をしているんだ」
「……何をしていたのかな?」
「出会いがしらに馬鹿げたことを言うな。先が思いやられる」
「リーザ馬鹿じゃないもん」
さっそくこれだ、と頬を膨らませた。アリスティドが大人気などやはり何かの冗談だろう。しかしリーザがみっともない姿であったことに違いはないので深く息をしてから姿勢を正し、膝を曲げて挨拶をした。アリスティドは小さく頷くと部屋の奥に戻った。これがついて来いという意味であると分かったのは七日前だ。彼はいつものテーブルに本を並べ準備をしている。リーザは表紙に目を走らせた。
「今日はエゾドラ公国のお話?」
「そうだ。どこにあるか分かっているな?」
「この国から東にいったところ。アド王国のお隣。……この前習ったもん、覚えてる」
「お前にしては上出来だな」
「素直に褒めてよ、もう」
リーザが席に着こうとすると、アリスティドが「……しまった」と独り言を零した。
「二冊足りんな」
取り忘れた、と本棚を見遣る。
「じゃあリーザが片方取ってくるよ。どこ?」
アリスティドは考えるように少し黙った後、紙の端にペンを走らせた。その部分だけを破ってリーザに渡す。書かれた文字を読み上げるが暗号のようでさっぱり分からなかった。
「……なあに、これ」
「本の分類番号だ。最初の文字がどの本棚かを表し、次の文字がその棚の何段目にあるのかを示している。記号を見ればその本のジャンルが分かる。これは我が国共通だ、いい機会だから覚えておけ」
説明を終えるとアリスティドは部屋の奥にふらっと消えた。何も言わなかったが、後は自分で探せという意味だ。まず本棚がどこにあるかを探すために最初の文字に注目する。
「……ええと、これ?」
少し奥に入るとすぐに見つかった。それから何段目にあるのかも分かる。
が、ここからが問題だった。棚が高くて、まだ小さいリーザでは背伸びをしても手が届かないのだ。アリスティドがいないことを確認してから何度か跳ねてみるものの、結果は同じだった。
「どうしよう」と呟いてみるが今すぐリーザの背が伸びるわけでもなくて、仕方なくアリスティドを探すことにした。
しばらく図書館を歩き回ってみるがどこにも見当たらない。彼はすでにテーブルに戻っていた。足を組んで優雅に読書をしている。
「アリスティ!」
彼は本にしおりを挟むとゆっくり振り返った。何気ない動作ですら美しい。
「何だ?」
「本に手が届かないの。アリスティが取って」
「……お前は諦めが早いな」
「だって届かないんだもん」
「ならもう少し周りを見ろ。解決策を探せ」
それきりアリスティドは口を閉ざしてしまった。呼びかけても返事がないのはきっと聞こえていないからではない。彼が一度無視を決め込んだら何をしても反応しないのはすでに知っている。「何よ! アリスティのばーか! ばーか!」と怒りをぶつけてから、また例の本棚の下に戻った。もう一度だけ跳ねて、それでも指さえかすらないことを確かめてため息を吐いた。
「もっと背が高くなくちゃ無理よ……」
リーザは自分の周囲を見回した。自分の背を伸ばしてくれるものといえばはしごくらいだが重すぎてリーザでは動かせない。今度は歩き回ってみる。棚の後ろに回り込み、そしてようやくアリスティドに言わんとしていることを理解した。
「はしごだ……」
それも小さくて、リーザでも軽々と動かせるものだ。どう見てもアリスティドが自分で使うために置いているものではない。リーザのために用意されたのだ。
そのはしごを持って棚に戻る。棚に引っかけて、恐る恐る踏みしめるがびくともしない。半分くらい登ったところで簡単に本が取れてしまった。
「アリスティ、取れた!」
部屋中に響き渡るくらいの大声で報告すると「早く戻ってこい」と返ってきた。嬉しくなって小走りになる。はしごは戻し忘れた。
アリスティドは読書を中断していてすぐにでも授業が始められそうだ。取ってきた本を突きつけて自慢すると、アリスティドは少しだけ笑った。蕾が花開くような笑みだった。
「いいか。何か困ったことがあったらまずは周りを見ろ。それでも駄目なら他を考えろ」
アリスティドの説教がくどくどと続くが、すべて右から左へと流れていく。リーザは呆然としてしまった。アリスティドに「聞いているのか」と言われてようやく我に返った。
「……アリスティって笑えるの?」
「はあ?」
「だって今、笑ったじゃない。初めて見た」
アリスティドは自分でも分からないのか小さく首を傾げた。耳飾りが揺れた。
リーザはよくよく思い出してみるが、あれはいつもの嘲笑ではなく自然に零れた穏やかな笑みだった。彼が今まで一度も見せたことのない表情である。何故だか胸の奥がぎゅっと縮まって苦しかった。リーザはドレスの裾を皺が寄るまで握った。
「ねえ、もう一回」
リーザはアリスティドとの距離を詰める。
「もう一回笑ってみて」
アリスティドはうっとうしそうに手を振って顔を背けてしまった。正面に回り込むとまた逆を向く。しばらく繰り返した。少し耳が赤かったのは見間違いではないだろうと思ったが、指摘すれば拳が飛んできそうなので、胸にしまっておくことにした。
授業を終えた後はメイが迎えに来てくれるのを待つ。アリスティドはいつも勝手に読書を始めてしまうので、暇を持て余したリーザも本を読んでみたり、たまにアリスティドにちょっかいを出したりする。
今日はどうも本を読もうという気分になれなくて、窓枠に腰かけるアリスティドをじっと見つめていた。ゆるくまとめられた髪が綺麗だ、とかページをめくる長い指先が上品だ、とか思うことはたくさんある。熱烈な視線を感じてさすがに彼も居心地が悪いのか「何だ」と短く声をかけてきた。とても珍しいことだった。
「何でもないの。……それにしてもアリスティって本当に読書が好きね」
「そうだな――――書物とは永遠だからな」
「永遠?」
「ああ。書物は死なない。たとえそれ自体が汚れたり焼けたりしても、書かれたことは永遠に消えない」
「それがいいの?」
「分かるか?」
リーザは「うーん」と悩んでみせた。言いたいことは何となく飲み込めたが、彼と同じ気持ちにはなれそうにない。素直にそう言うとアリスティドは目を閉じた。
「構わん。……これは俺だけの愛だからな」
「愛?」
リーザはその言葉に敏感に反応した。彼女にとって恋や愛はアリスティドに一歩近付くために大切なものだった。アリスティドは面倒なことを言ってしまったと若干悔やんでいる様子だがリーザには関係がない。無言で彼の袖を引っ張って続きを促す。彼はしばらく口をつぐんでいたが、リーザの視線に根負けしたのか肩をすくめてみせる。リーザはにっこりと笑った。
「さ、アリスティ、教えて」
「お前も物好きだな」
アリスティドは本をぱたんと閉じるとリーザを真正面から見つめた。無言のまま黄金色の視線に貫かれてリーザは思わずたじたじとしてしまった。いたたまれなくなって「な、なあに?」と尋ねてみるが、アリスティドはリーザの青い瞳をじっと見たまま黙り込んでいた。
「ねえ、アリスティってば。聞いてる? リーザ、どこか変?」
「いいや、別に」
「ならどうして黙ったままなの?」
「まあ、強いて言うなら――――」
アリスティドは長く息を吐き、ふいと視線を外した。
「お前は永遠にほど遠い、と思っただけだ」
彼の言葉は時々あまりにも端的で、リーザを困らせる。彼の足元に座り込んで彼を見上げた。
「リーザは永遠じゃないの?」
「ああ。だがそれはお前だけじゃない。俺だって永遠のはずがない。いつかは死ぬからな。もしかすると明日かもしれないし、明後日でもおかしくはない」
「……死ぬから永遠じゃないの?」
「そうだ」
「じゃあみんな永遠じゃないのね」
「ああ」
アリスティドは窓枠にもたれかかった。
「けれどお前は誰よりも永遠から遠い」
結局同じところに戻ってきてしまった。どうやら分かるように説明するつもりはないらしい。聞くだけ無駄だと分かったリーザはそれ以上追究することはなかった。
「永遠が、どうしてアリスティの愛なの?」
リーザは手遊びをしながら問いかけた。彼は渋るが、さすがにはぐらかすことはできないと気づいているから仕方なくといった調子で答える。
「いつか消えてなくなるものを愛するなど、俺はごめんだ」
アリスティドは何気なく窓の外に目をやった。ちょうど太陽が沈むところで、空は果てまで赤く染まっていた。庭園の木も花も光を反射して輝いている。眩しいのか彼は目を細めた。彼に手招きをされてリーザも立ち上がる。彼のように窓の向こうを見つめた。今日の夕焼けは一際美しく、はっと息を呑んだ。
「消えちゃうのってそんなに駄目かな?」
沈みゆく夕日を眺めながらリーザはぽつりと呟いた。彼ははゆるく首を縦に振った。
「消えちゃうのは、嫌い?」
「嫌いだな」
「すごく?」
「ああ」
「そっか。でもリーザはあんまり分からない」
綺麗な花が枯れてしまったときは悲しいし好きだった人がいなくなってしまうのは寂しいけれど、それでも好きでいたい。ずっとずっと心の中にとどめておきたい。けれど今のアリスティドには言えなかった。
二人はしばらく夕日に心奪われていた。太陽はゆっくりと地平線の下に潜り込んで、空は群青色に移り変わっていく。
「あのね、リーザはアリスティのこと好きよ」
「俺はもう知らん、勝手にしろ」
「アリスティはリーザのこと嫌いなの?」
「子供は好きじゃない」
「じゃあ子供じゃなくなったら、リーザのことを好きになってくれる?」
アリスティドは鼻で笑った。
「お前が永遠になったら愛してやるさ」
リーザは瞬きする。彼からの愛を掴みとるためには死んでも生き返らなければならないらしい。それはとても難しいことだった。