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第17話 諦められるほど賢くはない


 少し開けた窓から冷たい風が入り込み、机の上の紙を巻き上げる。


「…………もう一度言って?」


 リーザ・エイリー・アークライトは震え声で要求した。はっきり、それこそ一言一句聞こえていたにも関わらず幻聴を疑うのは、それが未曽有の事態であったからに他ならない。部屋は異様な緊張感に包まれていた。メイは真剣な表情のまま、先ほどと同じ言葉をゆっくり繰り返した。


「ディラック様が結婚をお考えのようです」


 夕刻の鐘の音が高らかに響き渡った。







「嘘、嘘、ありえない……」


 たった一言の事実がすべてを狂わせる。リーザはもはや困惑を通り越しベッドの上でうわ言のように呟き続けていた。力なく真後ろに倒れれば、慌ててメイに引き起こされる。


 根も葉もない噂ではないか――――という一縷の希望はあっけなく砕かれた。メイの情報によれば、正式に婚約したわけではないが明後日にも相手が城を訪れるとのことだ。


 リーザの政略結婚沙汰がようやく落ち着いてきたところにこれだ、背後から強かに殴りつけられた気分である。


「そ、それで? 相手は?」

「エヴァ・クワイエルです。ご存知ですか?」


 エヴァ・クワイエル――――と声に出さないまま唇を動かした。


「名前を聞いたことくらいならあるわ。確か……大神殿とは一切関わりのない魔術師の一人。エヴァってことは現当主よね。通称“森の黒魔女”」

「ええ。私が調べられたのもそのくらいです」

「クワイエル家と言えば、魔術師の家系の中でも一大勢力よ。その当主なんだから相当強い魔術師なんだと思うけれど……。少なくとも厭世家であることは確かね」

「そんな彼女がディラック様に一目惚れしたそうで――――」

「経緯が全然分からないんだけど⁉」


 リーザは枕を放り投げそうになった。それから一応想像してはみるが、本の虫と厭世の魔術師だ、何どうなったのかさっぱりである。というよりもアリスティドが誰かとそういう関係を築こうとしていることすら信じられず、リーザは愕然としていた。


「大体今までだってそういう話はあった。アリスティはあれでも地位だけは立派だし! だけどアリスティは全部断ってたじゃない!」

「どういうわけか今回は乗り気のようです」

「な、なんで……」

「……それはそうと、エヴァ・クワイエルはたいそうな美女だとか」

「いやー! もういやー!」


 美人か、結局美人なのか――――永遠でないものに興味はないとか言っていたくせに!


 リーザは髪を乱暴にかき乱した。指の間に絡まって何本も抜けてしまい、その痛みで一瞬冷静さを取り戻すが、いや落ち着いている場合ではないとまたうなり声をあげる。


「ああ、もう、なんでよう……」


 抱きしめていた枕に顔をうずめる。


 アリスティドは誰にも恋をしないし愛さない。だからこそリーザの心は保たれていたのに、その前提が覆りかけている。


 本当に結婚するのか、森の黒魔女とやらの美貌はそれほどまでなのか、リーザではやはり駄目なのか――――考えれば考えるほどやるせなさが込み上げて胸が痛い。すでに絶望しかけているリーザを励ますようにメイは拳を握りしめた。


「まだ決まったわけではありません! それに何かの間違いという可能性もあります!」

「そ、そうよね……」

「とにかくご本人に聞いてみないことには始まりません!」

「そう……そうよ! その通り!」


 リーザは力強く立ち上がると、青い瞳を燃え上がらせた。


「私、直接聞いてくる!」


 メイもこくこくと頷いた。一度決めてしまえばもう止まれない。後の予定をずらして時間を作ると、すぐさま駆けだした。







 希望を取り戻したリーザだったが、それが打ち砕かれるのもまた早かった。図書館のテーブルで頬杖をつくアリスティドに直球で尋ねればいつもの調子でゆるく頷いた。


「そんな話、どこから漏れたんだか……」


 涼し気な顔に動揺は見られない。リーザは愕然としてしまって次の言葉が出せなかった。口をぱくぱくさせているリーザにため息を零した彼はそっけなく視線を外す。


「用はそれだけか? ならさっさと帰れ。俺は仕事中だ」

「あ、ちが、そう、ええっと――――仕事中って趣味の読書してるだけじゃない!」


 つい指摘してしまったがそんなことを言いにきたわけではない。リーザは地団駄を踏みかけた。ままならない理性にやきもきしていれば、アリスティドが向かいの椅子に座るよう指示した。リーザは大人しく従った。


「それで? 何が聞きたい?」


 彼のすらりと長い指先がテーブルを二度叩く。珍しく丁寧な対応だった。違和感を覚えればアリスティドがため息を吐いた。


「どうせあの侍女――――メイ・ベルツを使って嗅ぎまわるつもりだろう。だったら今答えた方が早い」

「……何でも答えてくれるの?」

「それは保証しない」


 相当煙たがられていることだけはわかったのでリーザは肩をすくめたが、絶好の機会に違いはない。椅子に腰かけ両足をしっかり床につけ、アリスティドの瞳を見つめる。アリスティドは促すように少しだけ首を傾げた。


「それじゃあ聞くけど……エヴァとはどうやって知り合ったの? クワイエル家とは何の関わりもないはずでしょ?」

「宮廷を通したやり取りだ。昔は関係すら断絶状態だったが、今はそうも言っていられないんだよ。まあ、直接会ったのは一度か二度だがな」

「本当に結婚するの?」

「どうだろうな」

「はぐらかさないでよ。明後日エヴァが来ることは知ってるの。婚約の話をするんでしょ」

「それは確かだな」

「……どうして今になって、誰かと一緒になろうと思ったの」

「気まぐれだ」


 アリスティドが口元を吊り上げ、リーザは眉をひそめる。最後の言葉が嘘だというのははっきりと分かった。彼は気分で動くような人間ではない。こういった話ならなおさらだ。


 質問に答えると言っておきながら彼が煙に巻こうとしていることには気づいていた。遠回りしていてはいつまでたっても核心にたどり着けない。リーザは思い切って切り出すことにした。


「……ねえ、もしかして私のせい?」


 袖をぎゅっと握りしめる。


「私の結婚を白紙にしたから、代わりにアリスティが結婚するの?」


 一息に言い切れば、アリスティドはようやく本を手放しリーザの方を真っ直ぐに見た。鋭い金の瞳に射抜かれたリーザは思わず固まった。いつだってその視線がたまらなく好きで、恋しくて、息ができなくなる。アリスティドは伸びすぎた前髪をうっとうしそうにかき上げた。


「それはない」


 リーザは胸をなでおろした。しかし後に続く言葉が胸をえぐる。


「これは俺だけの問題で、俺が自分で決めたことだ。俺だって気くらい変わるし、先のことも考える。誰に口出しされるいわれもない」


 物音のない部屋では彼の声がやけに響く。何の感情も浮かんでいない表情には深入りを拒絶するような冷たさがあった。指先にきゅっと力が入った。見つめているのが怖くなってリーザは目を伏せた。


「……だったら理由くらい教えてくれたっていいじゃない」


 やっと絞りだした言葉にアリスティドは返事をしない。勝手に傷つくのも悔しくて、リーザはもう考えることをやめた。無理やり笑ってみせればアリスティドは少し驚いたように瞬きを速めた。


「アリスティが自分で決めたことならいい。……私の所為だったらどうしようって、すごく心配だった。本当に無関係なのね?」

「ああ」

「嘘だったら怒るから」

「嘘じゃない」

「幸せになれそう?」

「……さあな」


 曖昧な言葉にリーザは呆れたように笑った。アリスティドは仏頂面のまま腕を組んでいた。口が回るくせに肝心なところで誤魔化しきれない男だった。


 リーザは立ち上がって部屋の奥までぐるりと見回した。言葉もなしにふらっと歩き出すと本棚に向かう。並ぶ背表紙に指を這わせ、そのうち一冊を抜き出した。


「ねえ、アリスティ」


 いつも彼がするのと同じようにぺらぺらとめくって適当なページを開く。紙はひんやりと冷たい。視線を落とすが一文も入ってこないので目を通しているふりをして呟いた。


「私、諦めたわけじゃないから」


 白い指先が、黒々としたインクをなぞる。


「そっちがどういうつもりかなんて知らないけれど、今さら諦められるわけないじゃない」


 アリスティドが喉を鳴らして笑った。


「それを当人に向かって言えるあたり、お前は大物だよ」

「……アリスティ、馬鹿にしてるでしょ」

「しているな」

「私、馬鹿じゃないもん」

「その台詞ならもう聞き飽きた」


 リーザは頬を膨らませる。だがちらりと横目で伺えば、アリスティドがかすかに笑っているのが分かって思わずドキリとした。彼が時たま見せる微笑は心臓に悪かった。


 リーザはドレスの裾に縫い付けられたフリルを見つめながら、彼がページをめくる音に耳を澄ませる。もう彼は本の中の世界に夢中でリーザが声をかけたところで無駄だった。


 窓から差し込む夕日が不意に途絶える。リーザは窓を見遣った――――冬が近づくと日が暮れるのが早い。明かりを失った部屋で二人は黙ったまま、視線も交えずにいた。


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