第11話 それでも日々は淡々と過ぎ去っていく
リーザが歩き出すとメイはすぐ後ろをついてきた。リーザが足を速めれば同じだけ速度を上げる。寄り添うようなその歩みにリーザは礼を言うべきか迷ったが、結局言葉にはしなかった。
「ねえ、メイ」
「何でしょう」
リーザは振り返ることなく声を投げかける。
「私、自分が間違っているなんて思ってない。思ってないの。なのに言い返せなかった」
苦々しい記憶がよみがえってきてますます惨めになってしまう。リーザは無意識に唇を噛んだがチクリとした鋭い痛みが不快ですぐにやめる。恐る恐る指でさするが血はついていなかった。
メイはたっぷり時間をかけてから彼女を慰めるように穏やかな声で答えた。
「リーザ様は少し不器用ですから言い争いが苦手なのでしょう。ですがあなた様が間違っていないと言うのなら、私はあなた様を信じます」
リーザは足を止めると、身体を回転させた。
「本当?」
「ええ、本当ですとも」
「私のこと信じてくれる?」
「いつだって信じています。私きっとはあなた様だけを信じています」
「だったら私の味方でいてくれる?」
リーザは詰め寄りメイの両手を取った。雑事でかさついた指の腹をそっと撫でた。メイはくすぐったそうにはにかみ、それからリーザの手を強く握り返した。
「私はリーザ様が思ってらっしゃる以上に、リーザ様が大好きなのですよ。ですから私のこともどうか信じてください――――私はあなた様の味方です」
欲しかった言葉がそのまま与えられてリーザの目頭はきゅっと熱くなった。けれどこんなところで泣き出したくはなくて堪えるように力んだ。ゆっくりと口角を上げて笑ってみせると、メイも柔く微笑んだ。
それから二人は歩き出した。リーザは聞こえるか聞こえないかの小声でぽつりと呟いた。
「私、結婚したくない」
押し殺していた感情が今になって暴れだす。
「この国のためにならないって思って、だからお父様と話した。これは本当。でもね、たぶん私の個人的な想いもあるの――――私は結婚したくない」
メイは小さく頷くだけだった。それだけでよかった。リーザは深く呼吸する。これ以上はいけない。
「メイ、もうすぐ私の部屋に着くけれど、紅茶をいれてもらえる?」
「ええ。甘いクッキーも用意しましょう」
「……二人分お願いしてもいい?」
リーザは戸惑いがちに目を伏せるが、ゆっくりと顔を上げてメイを見た。
「ねえ、メイ。少しお話ししましょう。たくさん聞いてほしいことがあるの。こんなの、メイにしか話せない」
いつもの毅然とした姿はなく、その弱弱しい声は間違いなく14歳のものであった。
何事もなく日々が過ぎていく。
リーザはあくびを噛み殺すと窓の外に視線をやった。大木の細い枝にしがみつく茶色の葉は風が吹くたびに頼りなく揺れた。ここ数日で朝の底冷えが酷くなり、草木も一斉に枯れてしまっている。まだ秋だというのに冬の気配すら感じさせる寒さだ。
まだ早朝だがリーザの授業はすでに始まっている。今日はカトリア国――――リーザの政略結婚先の言語の勉強だ。カトリア国はそう遠くないからか、言葉もところどころ似ていて難しくはない。習得まで時間はかからないだろうとリーザは思う。
眼鏡をかけた教師は早口にまくしたてるがすべてが右から左へと流れていく。声が途切れるたびに適当に頷いた。中身は何も聞いていない。思い出したかのように教本を見たが、今どこを話しているかも分からなくなってしまってリーザはまたあくびをした。
「殿下」
教師の声は刺々しかったがリーザはぼーっとしているため反応しない。もう一度「殿下」と呼び掛けられるが、今度は明確に怒りが込められていた。リーザはようやく気が付いて肩を揺らす。
「えっ……はい!」
「今問題を出しましたが、聞いてらっしゃいましたか」
「……いいえ、ごめんなさい」
沈黙が流れる。リーザは気まずさのあまりそっぽを向いてしまう。教師は眼鏡をかけなおすと小さくため息をついた。
「殿下、あなた様はとても優秀でいらっしゃいます。このような簡単な言葉、すぐに理解なさるのでしょう――――が、心ここにあらずというのは感心いたしませんね」
一言一言に棘が含まれていてリーザは前も向けなかった。今まで嫌味を言われることは多かったが彼女にだけは慣れることができない。きっと息つく間もない話し方の所為だ。
彼女は小言をたっぷり垂れ流してからすぐに授業を再開した。この切り替えの早さも苦手だ。
何とか授業を乗り越えればあとは休憩だ。夜には新しいドレスのための採寸があるが、それもすぐに終わるはずだ。
リーザは城の中をうろうろと歩き回った。すぐ自室に帰るつもりだったのになぜか足は自然と遠のいていった。ふと気づけば正反対の方向へ進んでいる。リーザは首を傾げた。自分はどこへ行きたいのだろうと考えるが特に思いつかない。強いて言えば身体を動かしたいがダンスの相手をしてくれる人も見つからない。
ならどうしよう――――リーザは何かを探すように、廊下の窓から中庭を見下ろした。
つい先ほどまで兵が鍛錬していたのか、数人の男が剣を片手に談笑している。ふざけるように肩を組み楽しそうに笑いあって詰所の方へと歩いていく。リーザは窓枠に肘をついてじっと眺めた。
「……あれ、いいなあ」
ぽつりとひとり言を漏らせば、「何が?」と返事があった。はっと振り返れば、背後に見慣れた姿があった。
「いたんだ、ウィル。いつから?」
「いや、今さっき」
ウィリアムも鍛錬帰りなのか黒髪がしっとりと濡れていた。汗を水で流してきたらしい。ウィリアムは隣に並びリーザと同じように窓の外を見た。もう誰もいない空っぽの中庭だった。
「で、何がいいんだ?」
ウィリアムが不思議そうな顔で尋ねる。リーザは「何でもない」と言おうとしてやめ、改めてウィリアムを見た。
「ねえ、今時間ある?」
「作ろと思えば作れるけど、どうした?」
リーザはウィリアムの腰のあたりを指さす。そこには護身用の剣があった。ウィルは次の言葉を察したらしく「駄目だ」と言うがリーザはにっこりと笑った。
「王女命令」
ウィリアムは呆れたような顔をするが、その言葉を出されると弱かった。うんうん悩んだあげく諦めたのか盛大なため息をつく。
「……仕方ねえなあ」
リーザは「やった!」と手を叩いた。
「じゃあ中庭でいい?」
「あそこは目立つから駄目だ。屋上にしよう」
「うん!」
リーザはいつになくにこやかだった。元気よく歩き出せば、いまだ渋々といったウィリアムが困り顔のままついてきた。