第10話 道具たちは言い争う
メイを引き離したリーザはそれにも気づかず階段に足をかけた。ドレスをたくしあげて靴を覗かせると一気に駆け上がった。3階までたどり着くとまた廊下に躍り出る。
直角に曲がった瞬間人影が見えて、リーザは息を呑んだ。
遅れて、ぶつかると思った。
上げ切ったスピードでは立ち止まることができない。どうにか足を止めようとするが勢いを殺せず、むしろ急に動きを変えたせいでつんのめってしまう。声を出す暇もなかった。思わず両目を固く閉じ、相手が避けてくれることを願う。
「……ん?」
想像していた衝撃が来ない。不思議になって目を開けるとリーザの身体は受け止められていた。
「何してんだよ、リーザ――――じゃなくて王女殿下」
幾分かかしこまった様子のウィリアムは、騎士がするように恭しく礼をした。
「……ウィル。今は二人だからリーザでいい」
目前に迫る彼はへらりと曖昧に笑う。リーザはゆっくりと態勢を立て直した。
「ありがとう。助かった」
「いや、俺はいいけど次から気をつけろよな。王女殿下がすっころんだってのは笑えないぜ。……それで、なんで急いでるんだ? またあいつのところに行くのか?」
「あいつってアリスティのこと?」
ウィリアムは無言だったが、それを肯定だと受け取ってかぶりを振る。
ウィリアムとアリスティドは一応面識がある――――というより、王女付伝令役として紹介するためリーザが引き合わせたのだ。そしてその時のことは今思い出しても頭痛がしそうだった。カラっとした性格のウィリアムと皮肉屋なアリスティドの相性が悪いことはリーザでも容易に想像できたが、初対面で口論にまでなるとはさすがに思わなかったのだ。
それ以来二人は会っていないものの名前を出すたびに不機嫌になるので、リーザとしてはたまったものではない。
「違うの、アリスティに会うんじゃなくて――――ああ、そうだ、私急いでるんだった!」
「え?」
ウィリアムが目を丸くしている間にも、リーザは走り出す。
「それじゃあまたね、ウィル。ぶつかってごめん、ありがとう!」
「お、おい! リーザ!」
リーザは一瞬振り返るとにこりと笑みを投げかけた。それからまた前を向いて走る。ウィルの引き留める声が聞こえたがすっかり無視をしてしまう。たなびくドレスからほっそりとした足が覗く。どれだけはたしなくても気にしていられない。
自分の呼吸音がやけに大きく聞こえた。胸をざわつかせるような嫌な予感――――きっと当たってしまうのだろう、とリーザは瞳を曇らせた。
王の間の扉はもうすぐ近くだ。
リーザはゆっくりと足を止めた。顔を赤くしながら激しく息を吸っては吐いた。苦しげに肩を上下させながらも髪を飾るリボンをきつく結ぶ。覚悟を決めてぐっと顔を上げた。
「通しなさい」
自分にとって最大の“敵”に挑むかのような緊張と恐ろしさを覚えた。
父王の第一声は「ずいぶんと早かったな」であった。王女らしからぬ行動をたしなめているのだとすぐに分かったが、リーザはとぼけたように笑った。
「お父様に早くお会いしたくって」
彼女なりの挑発のつもりであったが、父王は何の反応も示さなかった。あの男はいつ見ても威圧感に満ちていて自分の父親とはとても思えない。
リーザは目だけを動かして部屋を見回した。広々とした空間には様々な装飾が施されまさに豪華絢爛という言葉がふさわしい。机や椅子の足は美しい曲線を描き、繊細な彫刻で彩られている。戸棚の上にはガラス製の花瓶や華美なろうそく立て。壁のいたるところにかけられた絵画は淡い水彩画から深みのある油絵まで勢ぞろいしている。
リーザはどうにも落ち着かなくて足首をもぞもぞと動かした。居心地が悪いのは当然だ。この部屋に来るのは久しぶりで、思い返してみればかれこれ数年ぶりであった。
椅子に座るように言われリーザは静かに腰掛けた。互いに向かいあう形になり、黙って彼の灰色の瞳を見つめた。視線が交わるがそこには親子らしい愛情はなかった。それを寂しいとも思えないくらいにリーザはこの男が嫌いだ――――話は淡々と始まった。
「お前の夫となる男を決めた」
熱のこもらない声に、リーザは冷ややかな微笑を浮かべる。
「私の知らないところで、ずいぶんと話が進んでいるのね」
「お前には関わりのないことだ」
「結婚するのは私なのにおかしなことを言わないで、お父様。私のことなのだから私に断ってくれなくちゃ困るわ」
「……話にならないな」
呆れたとでも言いたげに父王はゆるく首を振った。腕を組んで椅子の背もたれに体重をかける。
「おかしなことなど何もない。私はお前に意見する権利を与えた覚えはない。お前は我らが国をより良く導くための道具に徹しろ――――そう教えたはずだ」
苛立ちを隠すことなくため息をつく彼にリーザも表情を歪ませた。冷静でいようと言い聞かせるのに声には怒りが混じり始めた。
「私が道具なら、お父様は何だって言うのよ」
「……王であり、私もこの国のための道具でしかない。分かり切ったことだろう。愚問に時間を取らせるな」
彼はすでにリーザの方など向いておらずペンを片手に報告書を眺めていた。そのあからさまな態度にはリーザも思わず身を乗り出しかけたが、ぐっとこらえて椅子に座りなおす。
「ああ、まだ聞きたいことが残っているの。……どうやって私を結婚させるつもり?」
「どういう意味だ」
「そのままよ。だって私は大神殿の巫女なんだから――――生涯未婚のはず。結婚だなんて大神殿が納得するわけがない。不可能よ」
リーザは横髪をかき上げて耳にかける。ペンが置かれる音に瞳を細めた。これがリーザにとって最大の疑問であり切り札でもあった。武器を手にしたリーザは表情を変えることなく追撃した。
「大神殿は伝統で守られた不可侵領域よ。私たちだって簡単には手出しはできない。昔からずっとそう。これこそ常識でしょう? 忘れてしまったの?」
「たかだか慣習に、大げさなことを」
吐き捨てるような言い草にリーザはついに立ち上がった。その勢いに椅子が倒れて大きな音を立てるが、リーザは振り返ることもなく父王のもとへずかずかと詰め寄る。両手で机を叩いた。衝撃でインクボトルがかすかに揺れて紙の束がひらひらと舞った。リーザは感情に任せて唇を開く。
「たかだかなんてものじゃない! 大神殿だって国を支える柱よ。これを失うことの恐ろしさは私にだってわかる。ずっと持ちつ持たれつでやってきた、だからこそ宮廷が好き勝手したらもう戻れない! なのにあなたは乱暴をして――――内政をめちゃくちゃにしてまで何が得られるって言うのよ!」
リーザがまくしたてると父王も机を叩く。ついにインクボトルは倒れ、深い黒が筋を描いて伝っていった。絨毯に点々と零れるが見向きもしない。彼は目を吊り上げる。
「そんなもの、決まっているだろう……!」
二人の視線がまた交わる。
「私はくだらない伝統など必要としていない! 私が作るのは新しい時代――――人間の王が支配する国だ。神だの信仰だのに用はない。腐りきった大神殿などいずれ食いつぶしてやる!」
「そんなの……馬鹿げてる!」
「今までが馬鹿げていただけだ! 私は新しい時代のためにあらゆるものと戦う。もう決めた、そのために動いてきた。それが王としての責務だ――――お前も王女としての責務を果たせ!」
「王女としての責務を果たすために私はここで話しているの! そんなの無茶苦茶よ、国が駄目になる!」
右足で床を踏み鳴らすと爪先までじんわりと痺れた。リーザの中に渦巻く怒りは行き場を失い、喉を圧迫していく。
父王は机の上から紙の束を取り出すとリーザの眼前に突き出した。端がインクで汚れたそれは軍からの報告書らしく正式なサインが書かれていた。リーザは目を見開き、息を呑んだ。彼が国政に関するものを見せるのは初めてだ。戸惑いながらもそろそろと腕を伸ばし受け取り上からざっと目を通した。
「……え?」
リーザは呟くように声を漏らし、もう一度読んだ。今度は念入りに、一字も逃さない。すべて理解した彼女ははっと顔を上げて父王を見た。彼は無言のままだった。一瞬にして静まる部屋で、先に口を開いたのはリーザだ。
「お父様、これは本当なの……?」
父王は返事をしなかったが、その目が肯定している。
リーザが未だ握りしめている書類には、敵国であるラシュム帝国が隣国と秘密協定を結んだらしいと報告されていた。にわかに信じられずリーザの瞳はちらちらと揺れた。
「でも、こんなの……。アド王国はラシュム帝国と敵対してるんでしょう? 私たちみたいに三百年前から何度も戦争してたじゃない。なのに今さら同盟を結んで休戦するなんて、そんなの――――協力して私たちを滅ぼそうとしているようにしか見えない」
「事実、そうだろう。ラシュム帝国はあちこちに遠征しては戦争を吹っかけているがそろそろ本腰を入れるつもりらしい。次戦争になればどうなるか――――火を見るよりも明らかだ」
「じゃあ、それで、私を使って……」
「隣国と同盟関係を結ぶ。ただの同盟ではない、婚姻関係でより強固にしラシュム帝国に対抗する。そして神殿からは権力を奪い魔術師たちもすべて宮廷で管理する。それしか生き残る方法はない――――いい加減に現実を見ろ」
父王は目にかかる前髪をかき上げると静かに瞬きする。リーザは驚きのあまり何を言えばいいのか分からなくなって指先にぎゅっと力を込めた。紙がくしゃくしゃになる音が響いたがリーザの耳には届かなかった。彼女は息もできないまま、それでも強がるように眼光鋭く父王を見つめる。
「お父様の言うことは分かりました。このまま戦争になったらこの国は大変なことになる。……だけどお父様のやり方はきっと駄目よ。先に国の方がめちゃくちゃになるもの。もっといい方法を探さなきゃ駄目」
リーザは一息に言い終えると、書類を机の上に置いた。一歩、二歩と後ろに下がって彼を見据える。
「――――ねえ、お父様、そのやり方って本当に国のためだけを思ってる? 自分の功績とか名誉とか、そういうものは微塵もないって言えるの?」
感情を抑えたかのような声に父王の瞳がかすかに揺れた。見逃しはしない。リーザの心臓は痛いほどに縮まった。その言葉は自分にも跳ね返ってくることを知っていた。
「道具でいなさいって言ったのはお父様なんだから――――道具は自分のことなんてちっとも考えないものでしょう。少なくとも私はそう思うけれど」
父王は唇を固く閉じる。答えることはなく、床に落ちている紙を一枚拾うとリーザに差し出した。リーザは一瞥しただけで視線を外し腕をだらんと下げた。父王は真っ直ぐ、リーザの青く澄んだ瞳を指さした。
「ならばお前がこの国を救ってみせろ。その力を使って、戦場で」
二人の間から言葉が消えた。もう話すことはないと言わんばかりに父王はペンに手を伸ばした。話を切り上げるときはいつもそれだ――――リーザは苛立ちを飲み込み、くるりと背を向けて歩き出した。ヒールの音は絨毯に吸い込まれて少しも聞こえなかった。
金箔の施されたドアノブに指を回し、リーザは黙って三秒待った。しかし何の言葉もかけられずむしろ早く出ていけと言わんばかりに空気が刺々しい。リーザは短く息を吐く。悲しかったわけではない、それどころかほっとしたような気持ちだ。唇を歪めるとドアノブをひねって扉を押し開けた。
部屋を出て後ろ手に閉めると両隣に立つ近衛兵たちが礼をした。リーザは力のない愛想笑いを浮かべる。すぐ目の前にいるメイもゆるりと首を垂れた。ずっとここで待っていたらしく髪はくしゃくしゃのままだで、いつもつけている飾り気のない髪留めも見当たらない。リーザは何から言えばいいのか分からず不自然に視線を逸らし、考え込んだ。メイは静かに待っていた。ようやく決めて顔を上げるとリーザは困ったように微笑む。
「また負けちゃった」