第1話 王女殿下は恋だけを知っている
彼を目にした瞬間、身体中に電撃が走った。
頭から指の先まで甘く鈍く痺れていった。
それはきっと一目惚れと呼ぶに相応しい衝撃だった――――たとえリーザが十歳の少女だったとしても。ただただ胸の奥がぎゅっと苦しくて、彼しか見えなくて、何も考えられなくなって、魂を抜かれたかのようにふらふらと男のもとへ歩み寄る。
足の赴く先には一人の男がいた。男は窓枠に腰かけ古びた本のページをめくっていた。仄暗い図書館のなかで彼だけが輝いているようだった。リーザは男を見上げ臆することなく言い放つ。
「リーザはあなたを愛しています」
男は顔を上げゆっくりとリーザに視線を移した。ゆるくまとめられた銀の髪が肩からこぼれ落ち、その一本一本が光を反射してきらめく。
男は美しかった。今まで見てきた誰よりも美しく、華やかで、それでいて憂いを帯びていた。
男はリーザの瞳をとらえた。リーザはどきりとして瞬きを繰り返す。男はふっと笑った。
「恋と愛の違いもわからん小娘が何をぬかす。戯れ言に付き合うつもりはない、さっさと出ていけ。仕事の邪魔だ」
――――長い沈黙が流れた。
一瞬意味が理解できなくてリーザは頭のなかで何度もくり返す。ようやく罵倒されたのだと気づいてリーザの身体はガタガタと震えた。ほとんど怒りだった。
そんなリーザの様子を見て男は鼻で笑った。小馬鹿にしたような態度はリーザの心をさらに燃え上がらせた。侍女がなだめるのも聞かずリーザは男を真正面から指さす。
「なに、なに、この人!」
リーザは拳を握りしめたまま叫ぶが男は涼しい顔だ。再び手元の本に目を落とし、指で文字をなぞる。何も響いてないとわかるとリーザは地団駄を踏んだ。しかし穏やかではないこの出会いが、リーザ・エイリー・アークライト王女の初恋であることに間違いはない。
そしてこの日からリーザの痛みと苦しみに満ちた、それでも甘やかで鮮烈な十年間が始まったのだ。
リーザはアークライト王家の血を継ぐ少女だ。ひときわ澄んだ青い目がその証だった。
城の中で大切に育てられたリーザはついに十歳の誕生日を迎え、宮廷図書館の管理人であるアリスティドから学問の手ほどきを受けることになった。父王に命じられたとおりにここ宮廷図書館に赴き、そこで出会ったのがあの美しい男で、リーザはたった一目で恋に落ちてしまった。
とはいえリーザ自身も不満である。あの無礼な男に心を奪われてしまったのは不覚としか言いようがない。
「それでは失礼いたします」
なんとかリーザの怒りを鎮めた侍女たちは深々と頭を下げ、立ち去った。この部屋にはリーザと男の二人だけになった。男は小さなため息をついて本を閉じる。リーザは思わず身構えたが男はたいして気にもとめていない。
「俺は宮廷図書館の管理人アリスティド・ディラックだ。ここは俺の城で俺が絶対だ、ふざけた真似をするなら叩き出す。以上」
あまりにも端的な説明に困惑するが本当にそれだけしかないようで、アリスティドはすたすたと歩いて奥へ消えていった。
「あ、あの」
どこで何をしていればいいのかもわからず扉の前で立ち尽くす。しばらくするとアリスティドが戻ってきて視線で机と椅子を示した。
「リーザはあそこに座ればいいの?」
「ああ。ただし本には触るな」
背筋を伸ばして行儀よく座る。言いつけ通り机の上に積み上げられた本には手を伸ばさない。どれくらい時間が経ったかはわからないが、ようやくアリスティドが腰を下ろした。リーザの正面だ。
「これから三年間、俺がおまえの教師だ」
「先生って呼べばいいの?」
「どうでもいい、好きにしろ」
「じゃあアリスティ」
「……なぜ一音だけ略した?」
「その方が可愛いから?」
好きにしろと言ったのはアリスティドの方だったから、それ以上は何も言わなかった。リーザは「やっぱり可愛い」と満足げに頷く。
「アリスティは何を教えてくれる先生なの?」
「地理学、歴史学、哲学だ」
「語学は? リーザ、ルーディア文字が読めるようになりたいの!」
アリスティドは眉をひそめる。
「ルーディア文字? 魔術書でも読む気か?」
リーザは二度頷いた。
「……お前の“役目”は承知している。だがお前自身が魔術を修める必要はないだろう」
「それでも知りたいんだもの」
リーザは身を乗りだした。ルーディア文字はすでに滅んだ言語で、学ばなければ読むことができない。侍女たちに聞いても「わからない」と両手をあげたから、ずっと興味だけを持て余していたのだ。アリスティドは少し考えるように腕を組み、静かに尋ねた。
「……どうしても読みたいのか?」
「うん!」
「どうしてもか?」
「どうしても!」
リーザは真剣な顔で情熱を訴える。アリスティドはやれやれと首を振った。
「なら合間に教えてやる。だがやるからには生半可な態度は許さん」
「いいの?」
「お前が言い出したんだろう。……それに興味というのは学問の基本だ」
「やった! あのね、アリスティ、もうひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「……なんだ」
リーザは瞳を輝かせた。
「恋ってなあに?」
対照的にアリスティドはひどく面倒くさそうな顔をした。どうやら彼の気にめす質問ではなかったらしい。このまま無視をされてしまうのかと思ったが、アリスティドは渋々といったふうに口を開いた。
「……気になるのか」
「だってアリスティが言ったのよ、リーザは恋と愛の違いもわかってないって。それとリーザは小娘じゃない!」
渾身の反論は聞き入れられなかったが、アリスティドは「仕方ないな」と呟いた。彼は再び立ち上がり本棚の前で背を向けた。目に映るだけでも何百冊と収まっているが、そのうち一冊を選び取ってペラペラとめくる。
「恋とは呪いだ」
アリスティドの言葉はたったそれだけだった。あまりにも抽象的でリーザは無言で首を傾げることしかできない。彼もさすがに乱暴すぎたかと思ったのか、いくらか付け加える。
「恋とは呪いのようなもので、あまりにも身勝手で独りよがりな感情だ。それは良くも悪くも人に力を与える。どうなるのかはその人間次第だ」
アリスティドの横顔は端正で、伏せられた目などまるで芸術品だ。リーザは思わずため息をつきそうになる。彼は今手にしていた本を棚に戻し、また別のものを引っ張り出した。同じように数ページに視線を走らせる。
「うまくいけば人生を輝かせるものになりうるが、所詮呪いに違いはない、一歩間違えれば惨事だ。それは自分を壊し、それでも足りなければ相手も、他も、すべて巻き込む」
アリスティドはくるりとふりかえる。長く伸ばされた銀の髪がたなびき、昼の日差しを受けてきらめいた。
「一度かかった呪いを解くことはむずかしいがたいてい時間が薬になる。安心しろ、おまえもいずれその恋を忘れるぞ」
リーザはぽかんと口を開けた。馬鹿にされたのだ、と気づいたのはきっかり三秒後だ。顔がカッと熱くなって唇が震えた。
悔しい――――こんなに腹が立つのにそれでもこの男に心惹かれてしまうのがひどく悔しくて、けれどやっぱり恋しかった。
リーザは拗ねたように顔を背けたが、つい横目でアリスティドを見つめてしまう。
「……ならアリスティ、愛は何? 恋とどう違うの?」
アリスティドは視線をやることなくすらすらと答える。
「愛は恋とよく似ているようで違う。あれはほとんど慈しみだ。自分より相手の幸せばかり追い求めるような――――そう、祈りだ」
「祈り」
それはまだ知らない感情だった。
「恋は奪うもので、愛は差しだすもの。また恋は燃え上がるものだが、愛はいたって穏やかだ」
リーザにはよくわからなかったが、物わかりが悪いと思われるのは恥ずかしかったから黙って頷いた。そんなリーザの思惑も見透かしているのか、アリスティドは何も言わないまま目を伏せた。
「おまえのそれは恋であって愛ではない。手に入れることに必死で、手放すことを知らん」
「……それって悪いこと?」
「いつか破滅を呼ぶなら悪だ」
リーザはまだ恋を知ったばかりだが、ふわふわと宙に浮くようなこの感情が悪だとはどうしても思えなかった。けれど反論はしない。あえてしない。リーザの言葉は拙くて、アリスティドの気を変えさせる方法がわからなかった。
代わりに頬杖をついてアリスティドに視線を送った。恋を切実に訴えた。しかしアリスティドは受け取るつもりもないらしく、うっうおしそうに目をそむけるだけだった。
「アリスティは恋をしたことがある?」
「さあな」
「ねえってば」
もしできることならリーザに恋をしてほしいのに、と心のなかで呟いた。リーザは恋をしているのだから、あなたもリーザに恋をしてほしい。苦しいような嬉しいようなこの感情を自分にも向けてほしい。 そう願うことが彼の言う悪だったとしても。
アリスティドは一冊の本を抱えて戻ってきた。豪奢な装飾がなされたそれはいくぶんか薄い。リーザの目の前に差しだされた。
「おまえが望むなら貸してやる」
受け取って表紙の文字を追うと、どうやら神話のようだった。
「愛の女神メリアスの逸話だ。どうする?」
「読みたい、貸して」
本当はあまり興味がなかったけれど、アリスティドが選んでくれたという事実だけでよかった。表紙をなでる。ひとしきり喜びを味わったところで、本を机の片隅によけた。再び腰かけたアリスティドをまっすぐ見つめた。
「お勉強も教えてね、アリスティ」
「ようやく本題か。おまえのせいでずいぶん時間を食ってしまった」
アリスティドは授業の準備をしながら、リーザの透き通るような青い瞳をちらりと見た。それはアークライト王家の血がいっそう濃く流れている証だ。
「……難儀だな」
「なにが?」
「なにでもない」
アリスティドは一冊の本を広げ、朗々と読み上げ始め、リーザは静かに耳を傾ける。
――――リーザは幼く、この国に立ち込める暗雲にも、自らの運命にも気がついていない。初めての恋に浮かれているただの一人の少女だった。