甘くもない、ほろ苦い日々
2限目は憲法の講義だった。厳しい教授ではないが、講義が恐ろしく面白くない。資料をただ読み上げるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。まぁ法を学び始めて3か月も経たない俺が評価するのもおこがましい話だが。それを友人に言ったら「私たちは学生であると同時に授業料を払っているお客様でもある。クオリティの高いものを求めて何が悪い。講義を真面目に受けていないのなら兎も角、真面目に出ている以上、対価を求めるのは当然の権利」とのことで。そこまで求めてはいないが、この退屈さはどうにかしてほしいものだ。空腹を感じ始めるこの時間には少しきついものがある。
で、なんとか退屈な講義を乗り切って帰宅しようとしたところ、俺はいつのまにかその友人である秋月楓にあれよこれよと言いくるめられ、自宅に招いてしまうことになった。昨日の晩、思い付きで掃除をしていてよかったと心の底から思う。見られ困るものなど何もないが、それでもだ。
「んー、思ってたより男の子の部屋してるわね。あ、この人見たことある。有名なサッカー選手でしょ」
「頼むから人の部屋を物色しないでくれ。あとお約束だけどエロ本なんてものはないからな」
「今時紙媒体でそういったものを持ってるほうが凄いわよ」
確かにそれもそうだ。インターネットが普及しているこのご時世、紙媒体で持っている人のほうが珍しい。コンビニは相変わらず無駄ともいうべきラインナップを取り揃えているが、どの層を狙っているのだろうか。しかもここは学生街。時間帯を問わず学生がコンビニを利用しているし、バイトも同じ大学生だ。まともに考えてもリスクが大きすぎる。あ、でも飲み会の罰ゲームには良さそうだ。今度宅飲みしたときにでも提案してみよう。
中身が寂しい冷蔵庫から麦茶を取り出す。そろそろ買い出しにでも行くか。今日は午後に講義はないから少し涼しくなる夕方にでも買い出しに行くのも悪くはない。
まだ初夏とはいえ、冷えた飲み物のほうがいいはず。コーヒーでもいいが準備に時間がかかるのはナンセンスだろう。乾いたグラスに氷を2個、それから静かに注ぐ。からん、と音をたてたそれを見てこれから来るであろう夏を少し億劫に思いつつも、楓のもとに運ぶ。この相手が彼女じゃないのがなんとも。まぁ。彼女なんて生まれてこの方いないけど。
「どうぞ」
「ありがとう」
楓とは不思議な関係だ。学部内で一番の美人と評価が高い彼女は常に人だかりの中心にいる。クールビューティーと評すべきなのが秋月楓という女性であり、そして彼女はそれを上手に利用している。いわゆる接し方に気を付けないと火傷じゃ済まされない類だ。そしてそんな彼女の興味ボタンを俺の何が押したのかは知らないが、事あるごとに俺に話しかけるようになってきた。多分、俺が上級生主催の飲み会で少しばかりはしゃいだのが原因なのだろう。あれは少しばかりはしゃぎすぎた。いや、その前にアレがあったか。
通称パスタ会。
通称だなんて大層なものではないけど、俺と楓、そしてもう一人―――立花徹という男友達と講義の合間に「一人暮らしどう?」という話題になったのだ。俺は隣県から、楓は同じ県だけども少しばかり離れているので引っ越し、徹は関東から来たので全員見事に一人暮らし。
そこで話題になったのが飯をどうしているのかということ。楓はそこそこ自炊しているようで、徹はコンビニ弁当が主食。俺は楓ほどではないが自炊はしているほうだと思う。その1つとしてパスタはよく作ると話したら、楓が「食べたい」と言い始めてその日に俺がパスタを振舞った。というだけ。でも、楓はこれを機に俺に接近するようになった。
「で、何の用だよ」
「少しアンタのこと気になってね。あ、異性としてとかではないよ?」
「お前には立派な彼氏がいるもんな」
「そうよ。私はもう売りに出ていないの。ったくこんな話をしにわざわざ来たってわけじゃないのよ」
「そもそも俺はアンタを呼んでないっての。いい迷惑だって。やるべきこともあるんだから」
特にそんなものはないが、何かこのまま負けた気になるのも癪なので少しばかり反撃しておく。
「ちょっとね、気になってるのよ、あなたの危うさが」
「危うさ?」
「そ、アンタ。自覚してないとは言わせないけど壁造ってるのよ。壁だけならいいわ。壁なんて程度の差はあれ、誰しもが持ってるものよ。そこを他人が乗り越えてきたらどうなるのかも人それぞれ。でもね、アンタは何もわからないのよ」
「人の家に入り込んで説教か」
「説教なんてもんじゃないわ。ただの独り言よ。私はあなたが怖いの。人生だなんて生きてきたもんじゃないけど、それなりに経験してきたって自負はある。あんたは何でもかんでも一人で抱えて、抱えて歩いてきた。誰にも言わずに、誰にも頼らずに。だからこそ、あなたが本当に耐えきれなくなった時どうなるかが想像つかないの。それをどうにかしたいってわけでもないし、どうにかできる方法も私は知らない。だから、忠告しにきたって訳」
からん、とまたグラスが音を立てた。
「・・・そこまで仲の良くもない異性相手に、老婆心がすぎねぇか」
きんと、空気が張り詰める。その原因は間違いなく俺だ。当たり前だ。地雷を踏まれて気にならないやつがいるわけがない。大人げないとわかっていてもこれだけはどうしようもない。
「あら、私はあなたのことを信頼してるつもりよ。あの懇親会、あなたは酔いつぶれた人を片っ端から介抱してたじゃない。それに加えて無理に先輩から注がれて飲めないでいた男子のグラスをさりげなく飲んでたじゃない。あなた知らなそうだけどあの1件で女の子の評価ずいぶん上がったのよ」
「そいつはいいことを聞いた。今度は男の介抱だなんてしていないで、女の子を狙って酔い潰させてお持ち帰りでもするかね」
「見え透いた嘘はやめなさい。そんなことをする勇気もないくせに。勇気?いえ、そうではないと思うけれど・・・。あなたがどうしてこうなるまでになったのか、あなたの過去に何があったのかは興味はあるけども。詳しく話す相手は別に任せるとして、そこまで立ち入る勇気もないし。飛び込むのは苦手なの、私」
楓のその言葉はまさに正論ともいうべきものだ。当たり前だ。誰が進んで他人の心の奥底まで飛び込むというのだ。勇気も体力も何もかもすり減らして、ボロボロになって、窒息しそうになってまで他人に関わらなければならないのか。そういった無謀とも言うべき愚行は、限られた相手にだけすべきものであって、少なくとも俺と楓の曖昧な関係では望むものではないし、望むべきものでもない。俺たちはただの同じ学生の友達でしかない。
それ以上でもないしそれ以下でもない、至極普通な関係だ。そこに差し込まれる特別な思いなどない。あっていいはずがない。あったところで碌なことにしかならない。
「さて、と。もうそろそろ来るはずよね、あの子。少しばかり友達をつかって足止めはしておいたけれども、それも無駄でしょうね。あの子もあなたと同じように、やっかいだから」
「お前ーーーーー!」
「あら、あなたもあの子のことになると変わるのね。取り繕っておべっか使ってるあなたより今のあなたのほうが私は好きよ」
くすりと上品な笑顔を浮かべて、俺を見た彼女はやはり秋月楓であった。この女性の手綱をうまく握っていると思われる名も知らぬ彼氏様にいい方法はないものかと聞きたいものだ。女性経験値がないどころかマイナス方向にメーターが振り切れている俺には難しいのかもしれないが、少しでも立場をよくしたい。そんな俺の考えを、俺の言葉を遮るかのように楓は「麦茶、私はもう少し薄めのほうが好みだわ」と言ってアパートから出ていく。
「お人よしがすぎるっての・・・ったく」
久々に心を踏みにじられたような気がしたが、悪いものでもなかった。楓ほどでもないが、これでも人生を歩いてきたという自信はある。彼女の忠告が悪戯ではないことくらいわかる。だからこそ、うるさいのだが。
まるで嵐が去ったかのような静けさの中、俺は重い腰を上げて後片付けと新たに来るであろう友人を迎える準備をし始めた。そういや今日は何を作ろうか。あいつのことだから何でも喜ぶとはいえ、メニューにバリエーションはあったほうがいい。
「中さん、中さん。あれ?玄関開いてる・・・む?」
「今しがた嵐が去ったところだから開けっ放しだったんだよ。いいよ、入って」
「嵐・・・?中さんって時々難しいこと言うなぁ」
ぶつぶつつぶやきながら入ってきたのは長瀬涼風。彼女がこうして家に上がるようになったのはつい最近のことだ。きっかけは英語の小テストの勉強を二人でやったんだっけか。その後ノートを見せてもらったお礼にご飯を作ってあげたら大層気に入ったようで。こうして餌付けることに成功した。いや、断じてその気はなかったのだが。人伝に聞いた話だがどうやら「ご飯をくれるいい人」というポジションを彼女の中で俺は確立させてしまったようで、こうして時々ご飯を作る関係になっている。
黒くて長い髪。可愛いか綺麗かと聞かれれば悩むところだが、綺麗なほうだと俺は分類する。ただそれは講義を受けているときの印象。あまり交友関係が広いほうではないらしい彼女のことを友人に聞いたところ、ほぼほぼ「怖い」という印象を抱いている。確かに一理ある。根が真面目な長瀬は講義を受けているときはかなり集中している。一度面白がって悪戯したらえらい目にあったもんだ。
まぁ、この子を見かけるのは必然的に講義室に限られてくるわけであって、そこでの彼女は真剣そのもので講義を受けているわけだ。その横顔はとても静かで、その、なんだ。氷のような冷たさも見え隠れしているようで。
だがこうして彼女―――長瀬涼風と関りを持つようになってみるとそんなのは表面的な評価にしかすぎないとわかった。彼女は、よく話し、よく笑い、よく怒る。喜怒哀楽の感情表現がとても豊かなのだ。まるで柴犬を見ているかのような、そんな気持ちにさせてくれる。適切な表現とは言えないと思うが、見ていて飽きない。それが俺の長瀬涼風に対する評価。少しだけ秘密を共有できたような気もするが、気がするだけだろう。
とても重要なことなので繰り返すが、俺の人生で彼女がいたことはない。モテるほうでもなかったし、これといって異性を惹きつけるような魅力もないことを自覚している。女性には免疫はないほうだし、そもそも女性が「嫌い」だ。ただ滅法好意に弱い。弱い、という表現が正しいのかどうか。それはわからないフリをしている。年頃の異性を家に招いているとはいえ、生憎俺にはそういったことが「できない」。無論それを楓や涼風が知ることはない。知る必要もない。
「今日は憲法難しかったなぁ。でも面白い。戦前の憲法の天皇主権はポツダム宣言をもって天皇自身の、天皇から国民への主権移譲への同意・承認があったとすることができ、これをもって国民主権へ日本は移行した、か。今まで終戦直前から現行憲法制定までへの歴史的な出来事の流れは知ってたけど、こうして違った立場から見るとまた違ったことが知ることができるのって楽しいなぁ」
「そうかい」
「むっ、そういった反応は悲しくなるからやめてもらえる?」
「あんなレジュメ読み上げるだけの講義だなんて聞いてらんないから覚えてねぇよ」
「それについては同意。でも女の子が話しかけてるんだからそういった反応は良くないと思う」
「へいへい。メシ準備するからおとなしく漫画でも読んでろ」
「話題を逸らされた。釈然としないけど・・・はーい」
女だって自覚あるなら男のアパートに単身乗り込んでくるのはどうなんだよと心の中で突っ込んでおく。今すべきことは腹をすかせた子犬に餌を与えることだ。自分で言っててひどいにもほどがあるな、これ。まぁいい。とりあえず飯だ。俺も腹が減った。適当にトマトソース系でいいか。楽だし。4月当初より幾分か慣れた手つきで料理を進めていくと居間のほうから俺の携帯が着信を知らせる音楽を鳴らしていた。
「中さーん、電話だよー!あ、これ天体観測だ。おぅいえあ!」
「悪い、長瀬。こっちに」
「もしもし中さんの携帯です!」
「そういうボケ求めてないから!!」
「あはは!やっぱり中さん面白い!!!」
そういって長瀬は俺に笑いながら携帯を渡す。その時、僅かにだが、震えを隠せなかった。また、だ。
「サンキュ。お湯沸かしてるから見といてくれ。外で電話してくるわ」
そういってその場から逃げつつも、画面表示を見る。電話の主は徹だった。そういや徹が俺に話しかけようとしてたが、楓が制していたような気がする。あいつも楓には逆らえないのか。人のことは言えないが、まったく情けない。
『なんだ最近の子犬は喋るのか。勉強になったわ』
「まったくだ。ついでに言えばパスタも食うぞ」
『この会話聞かれたら噛まれそうだが平気か?』
「今アパートの外に出てるからその心配はない。で、何の用だ」
『いや、暇そうにしてるなら遊ばねーかなって』
「夜ならいいぞ。あいつ今日飯食ったら帰るみたいだし」
『・・・ほんとに頭おかしいな、あいつ』
「全くだ。警戒ぐらいしろっての。で、何時からにする?いつものラーメン屋でいいか?」
『あぁ問題ない。18時に店の前集合でいいな?』
「わかった。調整しておくわ」
『おっけー、またな』
通話終了ボタンを押して、一息つく。徹はひょんなことから俺の過去を知ることになってしまった一人だ。高校の同級生が何人か同じ学部に進学しているものの、彼らは進んでその話をしないだろうし、したとしても何ら問題はないけれども。それでも本人がいないところであれやこれやと話されていい気はしない。徹の件は完全なアクシデントであったが、彼は彼なりに大人の対応してくれた。1年留年しているからだろうかと考えたこともあったが、そんな些細なことではないと最近になって気づいたのだが。立花徹という人間は、そういう人間なのだと。
ともあれ、予定がないと楓には言ったものの、予定ができたしまったので長瀬にも早いところ帰ってもらうか。手元のキッチンタイマーを視界に入れ、残り4分となったところでベーコンを投入。あとは電子レンジで温めているアラビアータソースを投入するだけでいい。ちらりと視線を部屋のほうに向けてみる。長瀬は大人しく漫画を読んでいるようだ。毎度思うがこれ男性と女性の立場逆転しているよな。一般的には、おそらく女性が料理を作ってそれを男性が待つ、みたいな。
まぁ、俺らはこれでいいか。