地下世界にて(2)
ナターシャは暗闇より意識を取り戻し、閉じていた瞼を押し開けた。だが、そこもそのまま暗闇の世界だった。
呼吸は普通にできる。心臓も規則正しく脈打っている。死者の世界に来てしまったわけではなさそうだ。
ただし体はほとんど動かせなかった。後ろに回された両手と、揃えて伸ばされた両足をそれぞれ紐で縛られて、ひんやりとした土の床に転がされているのだ。芋虫のように這いずり回ることならどうにか可能だが、これで真っ暗闇の中をさまよう気にはなれない。
膝を曲げて靴で土を擦り音を立てる。近くに誰かが居るなら反応してくると思ってだ。しかし、些細な動きすらなかった。念のために小声でヴェルムとセレンを呼んでみるが、やはり返事はない。完全に一人らしい。
どうしたものか。ナターシャは途方にくれた。
何が起きたのかは読めている。亜人たちに睡眠薬を盛られたのだ。換杯の儀とやらも、こちらを安心させるための罠だった。落ち着いて考えればやり様は思い浮かぶ。杯を交換するところで混入させたか、下に沈殿する毒物をつかったか、他にも色々。
ただ、意図はよくわからない。腰に下げていた持ち物こそ無くなっているが、五体満足、眠らせる以上の危害を加えられたわけでない。単に拘束することに意味があったのだろうか。
もっとも、彼らの目的など今はどうでもいい。とにかくバダ・クライカの掌中から逃れでること、それが先決だ。他の二人が無事でいるかも気にかかる。
ナターシャは力を込めて手首の束縛を解こうとした。しかし紐――しっとりとした感触からして、植物の蔓かもしれないが、とにかく頑丈で、手を引き抜く隙間も生まれない。
詰まっていた息を吐き出すと共に脱力する。ヴェルムなら簡単に引きちぎっただろう。あるいはセレンのような能力があれば、火の弾を出して燃やし、たやすく脱出したに違いない。どちらも自分には無理だ。
無理不可能だと言って、そのまま諦めるつもりはないが。どんな小さく狭い活路でもいい、なにかないかと思考する。
――そうだ。
ナターシャは身をよじってうつぶせになった。体を地面に押し付けて、探るのは左胸の触感。上着に留めた胸章がある。それより大きな硬い小石のような物も。人魚の夢のかけらだ。
よし、盗られていなかった。それを確認すると、ナターシャは激しくもがき始めた。四肢を拘束された状態でポケットの中身を取り出すには、それしかない。
胸を地面にこすりつけてずらしたり、腰を高く上げて角度をつけてみたり、勢いつけて身を横に倒し遠心力をかけてみたり。ひたすら、一心不乱に、暴れ狂った。
途方もないように思えた。だが体力が尽きるより先に、幸運に恵まれた。体をねじったはずみに人魚の夢がポケットからこぼれ、ぽとりと床に落ちた。
大きな結晶から割れた破片だ、縁はそれなりに尖っている。これでどうにか紐が切れないか。ナターシャは仰向けになって、手首を夢のかけらに乗せ、こすりつけるように上下させた。
十回、百回、果ては見えない。先に皮膚が擦り切れ、ひりひりとした痛みが走り始めた。しかし着実に繊維がほつれてきているのも確かだ。
腕力はない、特殊能力もない。だが誰にも負けないと誇るものはある。根性だ。逆境にも屈しない心だ。
それでナターシャは賭けを勝ち越した。地道に大きくしたえぐれに、一際尖った角が当たった。すると音を立てて紐が切れた。少し外側へ力をかけてやると、簡単に束縛が緩む。両手が解放された。
すかさず身を起こし、人魚の夢を拾って、今度は足の紐を切りにかかる。両手を使えることで的確に狙いを定められ、かつ最小限の運動で済む。手が使えるようになるまでの半分にも満たない時間で、足の自由も取り返した。
どうだ見たか、亜人たちめ。ついつい思いのたけを叫びたくなったが、さすがに危険かと判断し自重する。代わりに、拳を天に突き上げた。
さて、このまま座り込んでいたら意味がない。急いでヴェルムとセレンの消息を探し、地下より脱出しなければ。ナターシャはさっと立ち上がった。
その時、鐘の音が反響した。拘束を抜け出したのがもうばれたのかと一瞬焦った、が、違う。音はもっと遠くから届いたものだ。妙に小刻みのリズムで、なにかに焦っているように聞こえる。それが、断続的に。
今ちょうど鳴り始めたのか、それともずっと鳴らされていたものを、自分のことに必死過ぎて気づいていなかっただけなのか。果たしてわからないが、このタイミングで音が聞こえたのはナターシャに幸運だった。この漆黒の闇を抜け出せる方向が見えたから。
前方を手で探りながら、音が流れ込んでくる方向へ進む。すると案の定、土壁に横穴が開いていた。辛うじて頭が天井に擦れない高さ、十分進むことができる。
すぐ目の前には人の気配を感じない。それを再確認すると、ナターシャはためらいなく通路へ踏み出した。
壁に手を添えて、しかし足早に進む。行くべき先の手がかりはないから、とりあえず闇雲に歩き回るより他ない。
しばらく進むと、壁土にはびこる光蔓が現れ始めた。真っ暗に慣れていたせいか、蛍のようなそれすらも異様に明るく感じられる。
あたりの様相も見えてきた。土を掘り固めた通路の真っただ中に居る。ところどころで道が分岐していたり、横穴の先に部屋が作ってあったりする構造で、気を失う前と基本は変わっていない。
ただ、あちらよりずっと狭苦しい。ただでさえ頭を擦りそうな天井は、ところどころ狭窄している。幅は他人とすれ違うのもやっとというもので、うっかり敵に挟まれでもすれば逃れるのは困難だと認識させられた。
そういえば、捕まる前に歩いていた時、ヴェルムが言っていた。地溝の民の集落であればもっと窮屈だ、と。
もしかしたら今いる場所がそれなのかもしれない。眠っている間に脱出困難な領域へ連れ込んだ、可能性は十分にあるだろう。監視もされずに放置されていたのも頷ける。縄を解いたところで地下からは逃げられない、あてもなく彷徨っているところをもう一度捕えれば問題ない、そう高をくくっているのだ。
地溝の民の総人口は知らないが、洞窟の規模を見るやに決して少なくはないはず。すでにいくつか脇道の前も通り過ぎた。ここまで誰にも邂逅しないまま来られているのは単に運がいいだけだろうか。
いや、違う。通路に響く鐘の音は、もうずっと鳴りやまないでいる。それどころか、先ほどよりもけたたましくなっていた。おまけに大勢が走り回る振動や、がなり立てる声もかすかに届く。なにやら異常なことが起こっていて、地溝の民がそちらに気を取られているのはほぼ間違いないだろう。それもヴェルムかセレンが元凶、状況的に十分あり得る。
ならば騒ぎの中心に向かえば、仲間と合流できるのでは。一瞬浮かんだその考えは、しかしすぐに浅はかだと棄却した。武器もなく身を守る術もない状態で行くのは、裸で火中に飛び込むようなもの。逆に仲間たちに気を使わせて足を引っ張りかねない。
ナターシャは分岐をあえて静かな方向へ進んだ。丸腰の状態を解消するまでは、亜人に遭遇することを避けて慎重に行動するべきだ。
人の気配がないことを探りながら、行く手にある部屋を一つ一つ覗いていく。なんでもいい、なにかしら使える道具を見つけたい。
だが、出てくるのは巨大な岩や金属の塊といった資材ばかり。唯一つるはしは使えるかと思ったが、尋常でない重さで持ち上げることができなかった。
成果がないまま五つの横穴を通り過ぎた。その次は通路のつきあたりがそのまま部屋になっている。ことによっては行きどまりだが、念のためという気持ちで空間を覗いた。
そして思わず驚きの声を漏らした。通路より明るい室内には、黒い岩で作った分厚い鎧や、棘だらけの棍棒や、大型の砲など、武器防具の類が色々並べてある。武器庫だったか。いや、巨石の作業台や工具が置いてあるあたり、鍛冶室と言ったほうが適当かもしれない。近くの部屋に資材が置いてあったのも納得がいく。
しめたものだ、これだけあればなにかしら振るえるものはある。最低でも砲が拝借できるのは大きい。基本的な撃ち方は自分が使っていた異能研究局製のものと同じはずだし、振り回すだけでも鈍器の代わりにはなるだろう。
暗がりの中を物色する。その中でふっと部屋の角に目を向けて、気づいた。
そこにある作業台の上に、うすぼんやりと緑色に光る物がある。光蔓とはまったく違う、鉱物質なものから放たれている。なおかつその明かりが映し出すシルエットには、ひどく見覚えがあった。
「あたしの……!」
無意識のうちに声を出していた。とりもなおさず駆け寄る。
間違いない、自分の使っていた魔砲だ。詰めておいた弾は抜かれているものの、すぐ脇に予備を入れた袋や腰にくくりつけるベルトと一緒に並べてある。
手に取ってまじまじと眺める。壊れているところはない。ただ、台上に色々と工具が放置されているあたり、分解される一歩手前だったのかもしれない。
まあよい、こうして戻って来たのだから。ナターシャは深く考えずに、元通り弾を一発装填して腰に着用した。
できればもう一つ、ナイフのような気軽に使える武器が欲しいところ。そう考えて物色を再開した。
しかし、すぐに手が止まった。……音が聞こえる。自分のものではない足音が。
来た通路の方からだ。こちらへ走ってくる。一人いや二人、違うもっとたくさん。やかましく言葉を交わしあっている。
ナターシャは背中に冷たいものを走らせながら部屋をぐるりと見渡した。残念ながら出入り口は一か所のみ、逃げることはできない。観念して白旗を振るのは論外だ。言葉が確実に通じるのならともかく、そうでない以上こちらの意図が正確に伝わらない確率が高い。
では真っ向から戦うか。否、魔砲ひとつで一対多の戦闘をするなど不利極まりない。
ナターシャは鎧と箱がつくる物陰に身を潜めた。このまま隠れてやり過ごすか、隙をついて通路に走るか。あるいは部屋にある物を利用して狡猾に立ち回るか。どれが最善策かは相手の動き次第。息を飲んで地溝の民らの到来を注視していた。




