亜人が居た町(1)
東方大陸にての第一歩目が乾いた大地の上に出された。頬を撫でる風は埃っぽい。息をすれば、喉がひりひりするような。
「歩けそうか」
「平気よ。上にいるより、ずっと楽になった」
ナターシャは疲れた顔で笑った。空気の薄い上空に体が慣れたのもあるだろうが、それ以上に、やっと地上へ解放されたという安心感が強い。
ここで降りるのは三人だけだ。総裁一行はすでに別の都市で下船している。船に残っているのは運転に携わる者たちのみ。
貴重な飛空船を大陸に長期間置いておくことはしない。特にここ東方大陸では、反政府勢力に格好の餌食とされてしまう。総監局一行が船から離れたと見るや飛空船は再び天へと舞い上がり、中央諸島への往路に旅立った。
風圧に押し流されそうになりながら、ナターシャたちは西へ消えゆく船影を見送った。
「あたしたちは、北東へ行けばよかったんだっけ」
「そうだ。少し進めば街道に出る。道なりに進んだところに、治安局の屯所があるそうだ。そこで足を借りて、ダンザムの中心部まで向かう。半日もかからんはずだ、日没には十分間に合う」
「了解」
目的地とする交易都市ダンザムの周辺は丘陵地帯となっており、飛空船が着陸できる場所がない。だからこうして少し離れたところから、歩いて行かなければならないのだ。
ナターシャは歩きながら、初めて触れる大陸の情景を味わっていた。ずっと島暮らしをしてきたから、地平の果てまで起伏のある大地が続いているだけでも不思議な感じだ。
特に東の遠景にかすむ山々の影には圧倒される。山そのものは中央諸島にもあるから知っているが、あんな巨大なものがそり立つ壁のごとく連なっている光景など初めてだ。
ヴェルムいわく、かの山脈がヘルデオムと他地域との境界線らしい。なるほど、あの峻険とした岩肌の山ならば、天然の要害として十分機能する。
その山々の中で、一際天高くそびえ立つ頂がある。天辺は薄くかかる雲に隠されておぼろげな影しか見えない。あれが目指す場所、亜人の聖地レデナ=ノアだ。
あの頂点まで踏破することを思うと、少し怯んでしまう。麓は別だが、山肌は森におおわれているという風でもなく、上に行けば行くほどに岩肌が露出しているのが目立つ。山自体が生命の寄り付くを拒んでいるような、そんな雰囲気がある。
レデナ=ノアは神の降り立つ地、精霊の住処、死者の魂が集う場所。生者の入る余地はない。東方亜人の感性をナターシャもなんとなく理解した。
やがて、前情報通りに街道沿いにある東方治安局の屯所へたどり着いた。中枢総監局の者が来たら、馬車一台に警護をつけ、ダンザムまで送り届けよ。事前にそう指令が届いていたようで、名乗るなり馬車に案内され、即出発の次第となった。
馬車と言うが、引いている動物は厳密には馬でなかった。馬よりも胴と首が短く、しかし筋肉量はより多く頑強だ。普通の馬より気性が荒いがが、持久力と速力共に秀でており、状態の悪い地面でも平然と駆けていくことから、ここ大陸東部で馬の代わりとして使われる。名前はダンマという。
二頭引きの箱馬車には、同じくダンマにまたがった二人の軽騎が随行する。灰色の軍服を纏ったこちらの治安当局は、諸島のそれよりも常に臨戦的なのだとうかがえる。帯剣しているのはもちろん、重ねてトンファーバトンも所持している。上着の下には腰丈のチェインメイルを着用し、見るからに硬そうな革脚絆で脛から足首を覆うなど、機動性を保ちつつ防護力を上げる装備を纏っていた。
物々しい格好は、その必要性がある状況だということだ。緊迫感に侵されて、ナターシャは窓の外をみやりながら、押し黙ったまま箱馬車に揺られていた。
なだらかな丘陵をしばらく行くと、石造りの人家や畑、人工的なため池など、人の生活を感じさせるものが風景の中に混じり始めた。そして丘を下りはじめると、建物の密度が増し、町の様相を呈してきた。馬車と騎兵に道を譲る市民の姿も、時折窓の向こうに流れる。
「ナターシャ、窓から覗いてみろ。そろそろ前にダンザムの中心部が見えるはずだ」
ヴェルムは相方にそう促す一方で、自分の側にある窓の暗幕を引いた。
ナターシャは落ちない最大限まで身を乗り出した。風に遊ばれ顔にかかった髪を片手で払いのけ、もう片手は窓のふちを掴んでいる。
ダンマが駆け下りていく曲がりくねった下り坂の果て、三つの丘に囲まれた浅い盆地に、建物が密集する都市があった。きちんと区画整備されて発展したのか、縦横に走る道が見てとれる。外縁は見張り台を有する高い壁に囲まれて、さらにその外側には、広くて深そうな水堀がある。外から出入りするには、跳ね橋を渡って門をくぐるようだ。
「なんだか城塞みたい」
顔を引っ込めながらナターシャは呟いた。すると、ヴェルムが一言、
「俺が大陸を離れたころには、壁も掘も無く、交易都市の名にふさわしい活気ある町だった」
そう漏らした。静かに、そして淡泊に。御者役の男が反応して、こわばった顔を向けた。一瞬のことだったが、確かに視線の間に火花が散った。
誰が何のために築いた城塞か。察したナターシャだが、返答はため息をこぼすのみ。東方政府とヘルデオム、どちらかを立てどちらかを下ろすのは、今は避けるべきことである。
ヴェルムも理解しているはずだ。でなければ、わざわざ暗幕を引く配慮などしまい。事情を知らない市井の目に、政府が亜人を客として送迎している姿が目に入れば、東方政治の根底をゆるがしかねないから。
現に、彼はそれ以上なにも言わなかった。各々の複雑な心を乗せ、馬車はダンザム中心地へとひた走る。
一切の障害なく城郭の内に入り、「ここだ」と馬車が止まったのは、都市内で最も立派な建物の前。交易都市ダンザムの政所だ。
門をくぐった先からは、案内役が事務官に変わり、その者に現在ダンザム統治の長を務める人物が待つ応接室へと真っ直ぐに導かれた。
「お待ちしておりました。ダンザム統治元首代行、ハイズ=テッセルと申します」
「代行?」
「書面上では、ダンザムの元首はライゾット様の兼務となっており、自分が不在がちの元首に代わり政所を運営するという立場でありましたため。ライゾット様がお亡くなりになりまして後も、正式に辞令がくだされておりませんので、ひとまずは代行を名乗っております」
東方統治府の揃いである赤い服を着た男は、至極丁寧にそう説いてくれた。
ハイズは軍人に比べるとずいぶん温和な印象だ。しかし、齢五十に迫る風貌の彼が、ブロケードらと同じく幾多の死線をくぐってここに居るのは、どっしりとした体格より醸される雰囲気が物語っている。
ハイズが促すままに、ナターシャたちはヴェルムを中央にして、並べられた布張りの椅子に腰を下ろした。相手も傷だらけの机を挟んだ対面に座る。
と、秘書らしき女が茶を持って入ってきた。はじめはにこやかにしていたものの、ヴェルムの顔を見るなり、一気に表情を凍りつかせる。
彼女は冷や汗を流しながら、目線を下に固定してティーカップを配ると、早足で退出していった。
「ご無礼を。後ほどきつく言っておきます」
「いい、慣れている。ここに毒が盛られている可能性も考慮済みだ」
「さようですか。自分の方からは、なにも言いますまい。お気が向きましたら飲んでください」
ハイズはまったく動じずに言った。そして、まず自分が茶を口に含んだ。
静かにカップを置いてから、ハイズは「本題を」と切り出した。
「ブロケード様からすべて仰せつかっております。表向きは中枢異能省ミリア統括の要請として、貴殿らを全面的に補佐をせよと。……大陸に呼ばれた理由は、出発前にお聞きおよびでしょうか」
「ええ。レデナ=ノアを調査して、バダ・クライカ・イオニアンの根源を絶てと」
「そこまできちんとご存じであれば、自分から説明することはありません。そういうことです。協力は最大限させていただきますゆえ、よろしくお頼み申します」
ハイズは膝に手を置き、ぐっと頭を垂れた。




