人魚、空を飛ぶ
飛空船は政府が一隻のみ所有する、文字通り空を飛ぶ金属の船である。南方大陸にある閉鎖国家が、統一政府の傘下に下ることを拒んだ代償として、献上してきたものである。操船と整備の方法は伝授されたが、建造法および飛行の仕組みは明らかにされていない。
飛空船を使えば、中枢と大陸とを海路の半分以下の時間で行き来できる。だが、貴重さゆえ、政府人でもおいそれと使用することはできない。空を飛ぶことは、人類にとって、まだまだ異端なことだ。
今回は、東方総裁がバダ・クライカによる暴動を治めるため、急ぎ現地に入る必要がある、との名目で飛行船の使用許可が下りている。
そこに対異能の専任である総監局員が同乗しても、あまり不自然ではない。ミリアの意向の下、別口で亜人たちへ仕掛けるという建前を出せば、総裁側にはむしろ歓迎された。
そんな風に、離陸までは難なく進んだ。
ナターシャも状況も忘れ、飛空船を堪能していた。外観は帆船から帆を取って、代わりに巨大な風車をいくつも突き刺したような厳ついもの。また船体からは左右に無機質な翼が伸びていて、まるで飛魚のような姿になっている。
船員に頼み込んで、機関部も少し見学させてもらった。船底にある複雑なからくりや巨大な歯車、合間合間にはアビラストーンと思しき輝きが見える。どうやら魔力が重要な動力になっているようだが、それ以上理解はできなかった。
ただひたすら、すごいすごいとはしゃいで、船内を巡っていたのだった。
――まさか、空を飛べるなんて。
甲板に出て風をあびながら、眼下に青い海と点描のような島々を臨んで、ナターシャは感慨にひたっていた。見上げるだけだった綿雲も、太陽も、近い。自分の中にあった、世界への認識が変わっていくようだ。
海に暮らす人魚が地上に出ることだけでも大事なのに、空を飛ぶなんて。こんなこと、史上初なのではないだろうか。そんな風に得意になってみたりもした。
とても気持ちのよい始まりだった。最初だけは。
半日たった今。状況が一変していた。
あてがわれた船室のベッドの上で、ナターシャは伸びていた。横向きで四肢を投げ出し、顔は青白く、口は半開きで、目は伏せて。見る限り、死体とそう変わらないが、まだ生きてはいる。
頭が痛い、吐き気がする、体がだるい、息も苦しい。突然にそんな症状が襲って来て、今やまったく身動きできない。隣についているセレンが背をさすってくれているが、改善する気配はなかった。
と、部屋にヴェルムがやってきた。
「おい、薬もらってきたぞ」
「……ありがと」
どうにか声を絞り出す。そして、セレンに抱えられるようにして、上体を起こした。それだけの動きでも、脳がぐわんと揺れ不快感が襲った。
ヴェルムに開いてもらった薬包紙を受け取り、中の黒々とした粉末を舌の上へ。苦い。苦さでうすぼんやりしていた意識が引き締まるほどだ。水で押し流しても、舌が縮んだような感覚が残る。
だが、薬はすぐに効きはしない。頭痛に耐えかね、ナターシャはまたベッドに倒れ込んだ。狭くて簡素な船室だが、寝具は上等なものを使っているらしく、弱った体を柔らかく抱き留めてくれた。
ヴェルムいわく、海端の平地で暮らす者が山に登る、空を飛ぶなどして高地に昇ると、頭痛や倦怠感といった体調の悪化を起こすとのこと。ナターシャのようなものは、そのとびきり重症の例らしい。
「人魚の体質かもな。海底からこの高さじゃ、俺たちが雲のずっと上まで行くようなものだろう」
「……体が空気に慣れてない?」
「あァ、そういうことだ。嬢ちゃんの方は平気か?」
「はい。異常はありません」
セレンは静かに答えた。顔色ひとつ変わらないし、背筋も伸びている。先日の怪我も、今やなかったことのようだ。
もともと頑丈なのだろうし、忍耐強い面も影響しているだろうが、とりあえずセレンに関しては心配無用らしい。
ヴェルムの嘆息はナターシャに向いた。
「そんなざまじゃ、この先まずいぜナターシャ。レデナ=ノアは山だぞ。しかも、とびきり高い」
「うそでしょ」
「んなくだらない嘘いうか。あそこはヘルデオムを囲う山脈の中で最高峰だ。頂は軽く雲の上だぞ」
ただでさえ重い頭へ、さらに重圧がのしかかってきた。このざまで山登りをしろと言われても、困る。歩くことすら難しいのに。
ヴェルムがナターシャの顔が見える位置に椅子を引き、深刻な顔で尋ねてきた。
「なあ、ナターシャ。おまえ、本気でレデナ=ノアに登るつもりか」
「ええ。きついのは我慢する、慣れればなんとかなると思うから」
「わかってねえな、それだけが問題じゃないんだ」
ヴェルムはもとより迫力のある顔を、さらに厳つくしかめた。
「あそこはな、俺らヘルデオムの民でも、安易に入っていいところじゃないんだ。まして政府の手先だなんてよ。ブロケードはああいったが、無理だ。話すら聞いてもらねえだろう」
「だったら……こっそり忍び込めばいい」
「できるか、馬鹿。一帯の地形は険しい、道は限られているし、有翼人たちが主軸になって常に侵入者を監視している。殺されるぞ」
「要は、それを利用して、隠れているってことなんでしょ。だったら、行くわよ、なにがなんでも。行って、真相を確かめないと」
少しだけ体が楽になってきた分、日ごろの剛情さも戻ってきた。
ヴェルムはナターシャの目をとらえたまま、口を結んでいた。こわばった表情からして、論争そのものをやめたわけではなく、次の言葉を探っているようだ。
なんとか理由をつけて、任務を降りたい。明言しなくとも、そんな心中がだだ漏れになっている。鈍った頭のナターシャでも気づいていた。
気持ちはわからないでもない。ヴェルム自身にとっても、聖地は禁足の場所なのだろう。此度踏み入れることで傷つくのは、現地の亜人たちだけでなく、己の心もなのだ。しかも聖地探索を命じたのが、よりによって東方亜人の怨敵たるブロケードとくれば、なおさら。
しかし、それらの負を差し引いても、任務を果たす利はあるはずだ。
――ああ、そっか。知らせてないんだった。
ナターシャは腕に力を入れ、ゆっくりと体を起こした。動くと頭痛の波も発生するが、薬が効いてきたのだろう、先ほどよりずっとましだ。
ぼさぼさの髪もそのままに、セレンの方へ向く。
「ねえ、セレン。外をちょっと見てきてくれない。誰かが、盗み聞きしていたりすると、嫌だから」
「かしこまりました」
セレンは足音を立てずに扉へ向かった。そっと取っ手を掴むと、今度は一思いに勢いよく引き開ける。間髪入れずに前に踏み出して、廊下の左右を見渡した。
「近くには誰もおりません」
さっと扉を閉めながら、そんな報告があった。
第一段階はよし。ナターシャは頷いて、次の質問をセレンに浴びせた。
「一応聞くけど、この部屋に怪しいアビラの気配があったりしない? 透明人間が居るとか、変な虫がついて来ているとか」
「ありません。ここに居るのは私たち三人のみです。強めの魔力の流れが床下および壁内にありますが、これは船の動力かと思われます」
「わかった。ありがとう」
セレンは軽く顎を引いて答えた。
ようやく場が整った。こちらを怪訝に見ているヴェルムに向いて、ナターシャは静かに口を割った。
「ライゾットは死んでいなかった。あいつもバダ・クライカ・イオニアンの一味。生きかえって、神を名乗るつもり。おそらくは、レデナ=ノアで」
「それ……おまえ……」
「黙っててごめんなさい。あたしの憶測が大きいし、下手なこと言って誰かに聞かれているとまずいって思ったの。話す機会が今までうまくつくれなかった」
ヴェルムは言葉を失った。首を折り、顔を伏せ、合わせた両手で額を支えるように。あるいは、祈りを捧げている風でもある。
「もしもそうだったら、放っておくわけにいかないでしょ」
「……あァ、まったくだ」
静かな答えは、確かな怒りに震えている。表に出さぬ激憤はいかなる程か。ナターシャが持つ義憤以上であるのは違いない。
「だから、あたしは、行くわよ。空だろうが山だろうが、そんなの――」
そんなの、気にするものか。言いかけたところで船が大きく揺れて、ナターシャの視界もぐわんと歪んだ。
たまらずベッドに倒れ込んだ。目を伏せ、深く呼吸を繰り返し、こみ上げてくるえずきをやり過ごす。
まるでしまらない。自分で思うだけでなく、相方も同じ感想らしい。ヴェルムの呆れた吐息が耳をついた。
「おまえが大陸でまずやるべきことは、体を慣らすことだ。他の意気込みは忘れろ。まあ、その前に船の上で落ち着くかもしれんが」
「船、あと何日?」
「俺も初めて乗るからなんとも。そうだな、有翼人のカーゴよか遅いから……少なくとも二日はかかるんじゃねえか」
絶望感がナターシャを覆った。この瀕死の状態で二日、しかも空だから逃げ場もない。最悪の旅路だ。
空が飛べたら幸せだろう、天空には楽園があるのかもしれない。ナターシャも人並みに、無条件の羨望を空へもったことはある。だが、やはり、そんな都合のよい夢物語などこの世にないのだ。どんなことにも、高望みをすれば苦難がつきまとう、それが現実。
――帰りは普通の船がいい。
自分は地に足つく人魚だ、空を飛ぶなど分をわきまえないことをするものじゃない。ナターシャは鈍痛に苛まされる頭で、そんなことを思ったのだった。




