Interval 深更(1)
狂想家。異能に対して寛容な政治家たちが、ブロケードとライゾットを裏で蔑むときに使っていた呼称である。異能者の淘汰、亜人の民族浄化、叶えることなど不可能かつ益がない。そんな狂気に満ちた思想をよく吹聴するものだと。
だがその言葉は。三年前よりは別人を指すものとなった。狂想家、狂人、政府の人間が暗に言うとき、それはディニアスのこと。親異能派も反異能派も同じである。
『あの者は危険すぎます。暴虐を尽くし始める前に、一刻も早く、中枢より追放すべきです。どうして静観しておられるのですか、大将』
ギベルがことあるごとに提言してきたのが思い起こされる。自分が知る限り、ディニアスに対して最も強くて露骨な反発を見せていたのは彼だった。おそらくは性格上の摩擦と、アビラ持ちにしか感じられない気質のようなものが、そうさせていたのだろう。
ギベルのことは重用していたし、信用していた。しかし、その要望だけはのらりくらりと流してきた。なぜか。危険以上に、利用価値が高いと思っていたからだ。
ディニアスは言動こそ問題ありだが、総監局の運営手腕は完璧と評すに足りた。それまで政府内の「流刑地」として散々な扱いをされてきた立ち位置を抜本から改善し、局内の仕事の割り振りも見直し、情報収集は怠らず、時には自ら大陸へ出向く。他部署からの要請には的確に応え、政府屈指の知識を惜しみなく披露する。そんな人物を手放すのは、政府として重大な損失に思えた。
仮にディニアスが災厄の芽だったとしても、総監局局長という枠にはめこんでおけば制御できると考えていた。いざ何か起こった時に擁護するものはほぼ居ない、立場としても中央軍大将の権威の方がよっぽど強いから、容易に叩き潰せると。それに常識的に考えて、ディニアスもせっかく得た長官位を放棄する真似はしないだろう、と判断していた。
が、そこは狂想家。常人にはあるためらいという感情が、はじめから心になかったということか。規格外とは恐ろしいものである。
「すまなかった、ギベル君。きみが正しかったようだ。こんなかたちで死なせることになるとは……わしを許してくれるかね」
鍵を閉ざした深夜の応接室に、ワイテの懺悔が密やかに響いた。卓の上には南方大陸より取り寄せた葡萄酒が。しかし、振る舞おうと思っていた相手は失われた。空の向かい席を眺めつつ、節くれだった手が寂しげにグラスを傾けた。
この落とし前はつけさせねばなるまい。それだけでなく、もはや単なる邪魔者に成り下がったのだ。
「総監局の局長は、病むなり事故に遭うなり、捜査対象の異能に殺されるなり、何にせよよく死ぬものなのだよねえ。ディニアス君、きみは長くやれている方だ。だが、もう十分だろう」
グラスの曲面に反射した笑みは、我ながら悪辣なものだと思った。すぐに苦笑いに転じる。
そのまま、ワイテはとある人物の名を呼んだ。ファイス、と。
部屋の隅にあるソファーより、黒いメイドドレスに身を包んだ女性が立ち上がる。歳は二十そこそこで、見ようによっては少女に思える顔立ちだ。彼女は当家の使用人。天涯孤独となった唖の娘を知人より引き取って、身の回りの世話をさせている、と周りには触れこんである。
真の正体は東方の少数民族キロハの呪術師。バダ・クライカ・イオニアンが柱、通称エスドアの使い。
ファイスは床をすべるようにワイテのもとへやってきた。もとより儚さを覚えさせる面が、今宵は一層くたびれ弱々しくなっている。先日とても大がかりな術を複数行使した疲労が抜けきっていないせいだ。本来ならばすべての術を解き、心身の回復に努めるべき状態なのだが。
「ファイス、やつの動きは」
「先ほど家に入って以来、特に変わった行動は起こしていませんわ。虫はお嫌いとみえてつまみ出されてしまいましたが、窓の外から見張っていればいいですものねえ」
ころころとファイスが笑った。彼女のまなざしは今ここに無い、とある虫の眼を通して別の場所を見ている。ディニアスの自宅だ。
これを明らかにするにも骨が折れた。生来強い警戒心からか、複雑な経路を日ごと変えてたどる真似をして、尾行を難航させてくれた。どうにか集合住宅の一室だと突きとめるも、それはまさかの偽装。一旦入室した後、窓から、あるいは隠し扉から抜け出して、本物の拠点へ向かう。それもまた最短距離を避けて、だ。
幸いだったのは人違いや見間違えの心配がいらなかったことか。衣装も派手だし、着替えたとしても、髪の色や目の色までは容易にごまかせない。かつ、ディニアス自身もごまかそうとしていなかった。
結果つきとめた居場所は、島南の灯台近くにある小さなぼろ家だった。周りは閑散としていて他に何も無い場所、隠者の住処たる趣すらある。ただ、四方はあけっぴろげで、隠れ家としてはあまり機能していない。遠目からでも窓越しに影が見えるし、死角を生むような障害物も特段存在しない。
「殺しましょうか? 今なら簡単、家ごと燃やしてしまえばいいだけですもの。人が駆け付けるにも時間がかかる場所、失火だと思わせる工作の時間は十分ありますわ」
「逃げられると思うがね」
「慌てて飛び出してきたところを仕留めればいいだけ、とっても簡単ですわ。油断も隙も無い輩を油断させるには、これくらい大胆なことをしませんと」
「……やめておきなさい。あからさまな殺しでは、真っ先にわしが疑われる」
ワイテは深い溜息をついた。
信望が揺らいでいる。どこかの馬鹿な亜人女が人を貶める空想――真と裏付けられないなら、中身が正しくとも空想に過ぎない――を披露してくれたせいだ。ナターシャの言うことを鵜呑みにした者は極小だろうが、ゼロではあるまい。また自分の弁明に関しても、同じくすべてが信じたわけではあるまい。
世間が自分をどう見ているか、推し測るには白に近い灰色、というところだろう。なにかきっかけがあれば簡単に黒に移り、今まで培ってきた人望を瓦解せしめるだろう。その種を自分でまくわけにはいかない。
人を集め人を操る、それがワイテの力だ。決して異能的なものではなく、純然たる人間の手先舌先のみで成すものだ。しからばなにより重要なのは、他者からの信頼である。
そしてそれこそ、これから世界の支配者となるために欠かせない能力だ。
ワイテはふっと隣接する書斎へ思いをはせた。今あの部屋は、足の踏み場もないほど散らかっている。ナターシャが全部ひっくり返していったのを、日が落ちるまでに片づけきれなかったのだ。なにせ盗賊団が押し入ってきたよりひどい荒されよう。ヴェルムがたしなめたからよかったものを、下手すればこの応接間と書斎が一つの部屋になっていた。女の執念は怖いものだ、ハンマー握りしめ壁を睨んでいる姿を見て、しみじみと感じた。
ただ、あいにく彼女が求めているものは存在しない。こうなる可能性は想定済み、直接的な証拠を身の周りに残さないように細心の注意を払って来たのだ。バダ・クライカ・イオニアンの信徒に指令を出さなければいけない時は、すべてファイスを使いに立てた。エスドアからの神託と名目して。
それにしても、だ。ナターシャはどこまで真実を悟っているのか。ワイテ=シルキネイトはバダ・クライカ・イオニアンの黒幕だ、エスドアの名を騙り横暴をはたらいている。おそらくは、そこで止まっているに違いない。
――甘い甘い。ワイテはほくそ笑んだ。神になろうとしている証拠、そんなものを探しているようではてんで話にならない。
なぜならば、ワイテは自ら神になろうなどと、考えたことがないからだ。
「救世の英雄、万民の王。歴史に語り継がれる人間になるなら、善き人として記憶されたいじゃあないか」
誰にともなく告げてから、ワイテは葡萄酒を舌に転がした。強い酒気と共に心地よい渋みが鼻腔をくすぐる。
この酒が醸されるのも、神の見えざる力によるものだと言われることがある。良い仕上がりになれば神のおかげ、悪い出来なのも神のせい、と。
かようなことは酒のみの話ではないだろう。神と名乗ってそんな責任まで全部押し付けられる、七面倒であるし、何もしていないのに名声に傷がつくなどたまったものではない。
だからワイテが終着点に定めたものは神ではなかった。
強いて言うなら、エスドアと同等なもの。すなわち前人未踏の所業、神殺しをなした人間として、世界に君臨することを望むのである。
ただし。エスドアと同じ轍を踏んで大罪人とならないためには、世間から憎まれる邪神を討たなければならない。あいにくそんな都合の良いものは存在しなかった。
己が踏み台にするため、異端者たちの宗教を創り上げた。不当に政府から貶められる者たちは、救済という言葉に弱かった。特に亜人たちは。そこにつけいった。
神への反逆者エスドアを主神に据えたのも、今ある世界を転覆させるという心を煽るため。異端たちは同調するし、まっとうな人間たちは嫌悪する。その対立構造が重要なのだ。
信徒たちを増やし、力と財を蓄えて、じきに血気盛んな者たちが先走って破壊行為を始めだす。バダ・クライカが危険視され、討滅の機運が高まった。そこで満を持して神を顕し、信仰を盤石なものにする。そして、聖戦へ。
本格的な戦いが勃発したとき、政府側の指揮を握るのは大将たる自分。政府の全武力を一手に、反逆者たちを屠る。最後に自分が立てた神を殺せば、バダ・クライカの滅びと共に、己は神殺しの英雄として永遠に讃えられるだろう。自作自演の戦で敗退する可能性はありえない。
問題は誰に白羽の矢を立てて神とするかだった。指導者として相応のカリスマ性があり、与えられた役には忠実で、亜人を仕切る意欲と実力があるもの。ただし人間でなくてはならない。アビラを使われたらワイテには太刀打ちできず、神殺しを達成できなくなる。その意味では、遠慮なく殺せる輩であるのも条件だった。
そんな都合のいい人物、幻想の中にしかいないだろう。ワイテは自分の考えを一笑に付した。
ところが、現実に、身近に、居たのである。――狂想家、ライゾット=ソラー。




