葬られる真実(1)
ナターシャたち二人は総合監視局の執務室に戻ってきていた。駆けつけた警備隊や漁夫の利狙いの元調査団らによって、半ば追い出されたかたちだ。知らぬ間に白目をむいて気絶していたエセリ青年と、有翼人の死体とは、機密漏洩事件の犯人だと言って調査団に後始末を押しつけて来た。
では楽に引き上げられた事になるだろうか? いや、すんなりとは終わるまい。ヴィジラになりすましてバダ・クライカの亜人が中枢に侵入していた事実。加えて、戦闘で伝書部を壊滅させた挙げ句に犯人を死なせてしまう大惨事。どちらも総監局の不祥事、槍玉にあげられるような話だ。
厄介な幕引きになってしまった。二人して口をつくのはため息ばかり。
「どうなるかねえ……」
「どうもこうも、あたしらにはどうしようもないじゃない。上のご機嫌次第よ。……あーあ、『流刑地』っていうか、『処刑台』って感じよね」
「つまらない冗談言いやがって。余裕じゃねえか」
「逆。冗談でもなきゃやってらんないわ」
どんな処分が下るかは読めないが、ろくな話にならないのは容易に予想できる。
ナターシャはヴェルムの左腕に目を止めた。長袖の服の上から、傷を圧迫するようにきつく包帯が巻かれている。本人は「かすり傷だ」と言ったが、白い布に浮きだすどす黒い染みを見る限り、とてもそうは思えない。こうも身を切って悪に立ち向かったのに、不当な処分が下されたら、たまったものではないだろう。
どうなることやら。今は判決の時を待つしかない。
入口の扉が叩かれた。……来たのだろうか。ナターシャもヴェルムも背筋を伸ばした。
静かな所作で登場したのは、異能対策省の統括だった。気品のある佇まいの四十の女性で、名をミリア=ロクシアと言う。組織上は総監局のトップに当たる人ではあるものの、普段は滅多に局へやって来ることはない。だから用件など一目瞭然だ。
ミリアは椅子から立ち上がるナターシャたちの傍らまでやってくる。上級の官僚が着る上着は金紐の垂れ下がる肩飾りがあしらわれて、着丈も膝上までと長い。それらが凛とした足取りと共にゆらめく様は、見る方の不安を煽り息を呑ませる。
「聞いたわよ。あなたたち、やってくれたわね」
落ち着いた声音が逆に怖い。ナターシャとヴェルムが同時にばつの悪い顔を見せる。はい、やってしまいました。それでは片付かないのが組織と言うものだ。一体どんな判決が下るのか、委縮しながら固唾を飲んで待つ。
ところが。ミリアは次の瞬間には満面の笑みを浮かべた。
「大功績よ。ヴィジラの仮面をはぎ取るなんて、きっとあなたたちじゃあなきゃできなかったわ」
咎めるどころか誉めそやす、軽い拍手まで見せる始末だ。信じられない、嘘じゃないか。ナターシャは椅子から腰を浮かせたまま、思わず聞き返していた。
「あの、犯人死んでるのに? あたしたち、伝書部ぐっちゃぐちゃにして、それでも?」
「何を言ってるの。相手は亜人でアビリスタ、おまけに法を犯した悪人で、実際にあの場所で暴力行為を見せた。どう考えても正当防衛でしょう。あなたたちを裁く謂れは無いわ」
確かにミリアの言う通り、法規上は問題ないのだ。アビリスタおよび亜人の命は軽んじられる、平たく言うなら「殺されても文句言うな」との旨が、この政府が定めた法律にははっきりと記されているのだ。よって今回の件も、仮に過剰防衛と判断されても、殺人の罪としては数えられない。
規律上で問題ないから、処分を下す必要もない。その理屈は理解できた。しかし、ナターシャは素直に喜べなかった。ミリアの言葉の節々に嫌な感じがあったから。
ミリアの夫は東方総裁次・ブロケード=ロクシアといい、今朝方より騒がれるライゾット=ソラーと共に、反亜人反異能を喧伝する男なのだ。「人ならざる力を持つものは人にあらず。人の世にて守られるべきにあらず」、それがブロケードが発言した基本理念だ。その方針を貫き通し、東方総裁府のナンバーツーにまで昇りつめた。そして細君たるミリア統括も当然のごとく、同じ理念のもと異能対策省を束ねている。
染みついた思想は何気ない振る舞いからもにじみ出す。亜人側の目線で面白いわけがない。きっと自分たちが間違いをすれば、同じようにあっさり切り捨てるのだろう。ナターシャはそうぼんやりと思い、自然と眉間にしわが寄った。
しかしミリアは気づいていないようで、目の前の亜人たちの表情には触れずに話を続ける。上品な笑みに、少し困ったような色が混ざった。
「まあ、でも、こんな風に派手にやらなくても良かったんじゃないかしら?」
「えっ?」
「ほら、ヴィジラの失態だなんて、局長の権限で内々に片づけてしまえば公にならずに済んだのに。その方が、後始末の心配をする羽目にはならなかったんじゃないかしら。むしろ彼相手に、よく隠したままで許可証が出してもらえたわね」
ナターシャの息が詰まった。むせかえりそうになるのを耐えて、なんとか曖昧な笑みを返した。ちらとヴェルムの様子を伺えば、彼もまた似たような神妙な雰囲気を醸していた。許可証の事、上からつつかれると非常に痛い。まさに規則違反だ、ばれたらどうなるか。
それと統括は勘違いしているが、今日の捕物の話は局長も事前にすべて知っている。ミリアに指摘されるまでもなく、ナターシャたちにも同じ発想があった。ヴィジラのなりすましが公になれば管理責任問題が降りかかるのは局長だ、だから先にお伺いを立てた。そして、派手にやってよし、と言われたのである。
そして結果がこの通り。ミリアはほんのりと苦笑いをしている。
「とりあえず、あなたたちはお咎めなしでいいんだけど、ディニアスに関しては、悪いけど、何も無しってわけにはいかないわ」
「やっぱりそうなりますか」
「当り前よ。あれでも長官なんだから、管理責任は問われるわ。……ああ、辞めさせるまではいかないから安心して」
ミリアの気遣いの言葉に、ナターシャは微妙な笑みを返した。――いっそ辞めさせてしまってくれても構わないのに。そんな私怨にまみれた本音は、口から飛び出す前にどうにか捕まえて引き戻した。
「だから、本人と話がしたいんだけど、ディニアスは今どこ?」
「ライゾットさんの件で、朝から。ご存じ、ですよね」
「もちろんよ。ライゾットは……素晴らしい人だったのに……どうして……」
ミリアの顔がにわかに暗くなった。夫のブロケードとライゾットとの繋がりは深く、聞くところによれば十代の下級士官時代から親友として共に歩んできた仲らしい。当然、職務外での親交も深く、であればミリアにとっても一際存在感が強い人物だっただろう。
親しき知己の訃報に悲しむ顔。しかし、ミリアは同時に疑問符も浮かべていた。
「だけど、どうしてそこにディニアスが首を突っ込んでいるの? 関係ないでしょう? 彼は」
「えっ。いや、だって、エスドア案件ですから。特命部として――」
「エスドア!? 待って、ライゾットは、エスドアに!?」
「あたしは、そうやって噂に聞きましたけど……ねえ」
「おう、俺も……。知らなかったんですか、統括」
「そんなの初耳よ! なんで誰も教えてくれなかったの!」
興奮して捲し立て、それからすぐに青ざめる。エスドア。それを神と信じぬ人間にしてみれば、最上級の脅威の代名詞だ。
「なんて、なんて恐ろしいこと……」
ミリアは夜に怯える少女のように自分の身を抱いている。少し俯かせた顔には、明瞭な恐怖が浮いていた。
「亜人を差別したから? だからエスドアが怒ったの? じゃあ、そんなの、もしかしたら、今度は……あの人と私……」
次の凶行があるのなら、ライゾットの同道者たるブロケード、そして両者と繋がりのあるミリアが標的の筆頭だ。この場に居合わせる三者の描いたイメージは一致した。
刹那、ミリアは狂乱し、ナターシャとヴェルムに助けを求めるよう縋り付いてくる。普段は統括の名に恥じぬ立派な姿勢を見せているが、こうなってしまっては形無し、ただの弱き女性だ。
「ねえ、どうしたらいい、どうにかしてよ、神なんて……! ただのアビリスタだって手に負えないのに、そんな、神なんて! 私、私……!」
「落ち着いてください統括。取り乱すお気持ちはわかりますが」
「だけど……! ねえ、ナターシャ、あなたは怖くないの!?」
「まあ……だいたい、まず神なんて実在するかって話で。あたしは、そんなもの居ないって思ってますから」
「じゃあ、誰が!? こんな残酷なことをする人間が、近くに居るっていうの!?」
「そりゃ……神が居る確率よりは高いんじゃないですか」
ナターシャは無意識に髪をいじりながら、気の無い返答をした。どこの誰がどうやって、そうとでも聞かれると困るから、ミリアのとげとげしい視線から目を逸らす。
その時だ。耳障りな笑い声がナターシャの耳へ届いた。くっくと声を押し殺した嘲笑、その主を取り違える事はない。露骨に顔をしかめると、追い討つようにねっとりとした声がやってくる。
「いいえ、ナターシャさん、居ますとも。我が神ルクノールも、もちろんエスドアも。このイオニアンのどこかに、必ず」
ナターシャは声の方を睨んだ。いつの間にか音もなくこの空間に登場し、にやけ面を晒して扉にもたれて立っている男。見る限りは三十手前の若者だが、彼こそが曲者揃いの総合監視局を束ねる局長、名をディニアス=セプテントリオンと言う。
まともな神経をしていないとは誰の目にも明らかである。上級官用の制服を勝手気ままに改造して来ている、そんな暴挙をしているのは政府内でこの男だけだ。
おまけに改造のセンスまで奇異なのだ。上着の袖と裾は長さを伸ばすように布が二重に足され、それぞれ別の原色使いで派手さを出す。その布がひらつくものだから、一挙一同が目にうるさい。通りすがりに見ただけでも強烈に印象に残る、もちろん、悪い意味で。
色鮮やかなのは服にとどまらず、身体そのものの特徴だ。髪の色、黒の中に白と紫の毛束が散りばめられている風変わりな色使いは、世界広しと言えど他には居まい。目の色もまた同様で、右は黒で、左はオレンジ色に分かれている。どこをとっても毒々しい男だが、ナターシャはこの左目に最も嫌悪感を抱く。暖色であるはずなのに、温かみをまったく感じないのだ。血の通った人間よりも、冷血生物の目の印象に近い。
ナターシャを筆頭に、残りの二人からも不信な目を向けられた。しかしディニアスはまったく意に介さず、机の方へと橙と赤の裾布をはためかせて歩んでくる。すました笑みを浮かべ、芝居がかった調子で持論を語りながら。
「しかし、敵の姿を勝手に決めつけて怯えるのは、いささか間が抜けていると言わざるを得ませんね。邪教の連中の思う壺ですよ、統括。不安を煽るのは、信仰を集めるのに最も楽な方法です。絶望すれば救いを求める、それは人間の本能に近いですからねえ」
くつくつと笑いながら、ディニアスは二つの机が向き合う境界上に腰を据えた。そして上から統括の顔を覗きこむように、背中を丸くする。
そして誰も聞いてもいないことを、勝手にぺらぺら喋りだす。この男は、大体いつもそうだ。
「屋敷に行って来ましたが、まあまあ、無残なものでしたよ。首なし死体が金の剣で床を背に標本にされていた、とでも言えば伝わりますか? 壁には血で描かれた見事な芸術品があった、と感想を述べましょうか? 恐ろしい怪物が壁を打ち破り飛び去った、そんなお話をお望みです? どうぞ、なんでもお聞きください、すべてこの目で見てきました、確かな事実を語れますとも。臓物溢れる死体の様子も、赤く穢された書斎の様子も、仔細に、すべてを」
人間の持つ想像力は大きい。こう間近で目を覗かれ心に言葉を流し込まれれば、それを基材として脳内には鮮明な映像が組み上げられる。ミリアの目には、あるいは本物よりもっと凄惨な殺人現場が見えていた。口元を押さえて、蛇のような眼光から目を逸らす。
――これだ。
ナターシャは目を怒らせた。人の心などお構いなし、むしろ嫌がらせをして愉しんでいる節すらある。丁寧な言葉尻も決して敬意の込められたものでなく、常に人を馬鹿にした響きだ。気に食わない、本当に。
「やめなさいよ、局長、そんな話」
「おや。てっきりあなた方も現場の様子が聞きたいと思ったのですが。まだ詳しい話は噂になり切ってないようですし。ま、どうせあなたの事ですから、興味ないと言うおつもりでしょうが。おもしろくはないですが、まあ、良いでしょう」
早口で一気に、興が冷めたとばかりに言い捨ててから、ディニアスはひょいと机より飛び降りた。しかし、そこで急に思い出したように人差し指を立てて言葉を続けた。
「ああ、そうそう。今回の件とエスドアとの結びつきに関しては、吹聴するのをやめた方が良いですよ。どうも上の連中はそうしたいようですので。ま、既に手遅れだと思いますが……今は放っておきましょうか。さて」
くるりと舞うように身を返して、ディニアスは満面の笑みでヴェルムに迫った。細められた目は不吉な弧を描いている。
「なんだよ……」
「いえいえいえ。ここに来る前に伝書部に呼ばれましてねえ。聞きましたよ? 『大活躍』だったらしいじゃないですか。さすがさすが赤肌殿、威勢がよろしい」
表面の言葉では褒め、音では嫌味だ。ヴェルムの強面が更に厳つくなるのも無視し、更に顔を近づけると、不敵な笑みと共に釘を刺す。
「しかし、随分と先走りましたねえ。殺すのは洗いざらい吐かせてからでよかったでしょう。あっちの弱虫は金に釣られて利用されていただけの雑魚でした。まったく、蜥蜴の尻尾だけ手に入れて、この私に一体何をしろって言うんです? そんなもの、質の悪い釣り餌ぐらいにしかできないでしょう。ねえ、そう思いません?」
「知るか。俺が悪いって事なら、はっきりそう言えや」
「悪い? いいえ、別に。私は不殺主義者でもなんでもないので。ただ、バダ・クライカに切り込む足掛かりを失った、局長としてその事実を惜しむだけ。あなたに殺人その他の咎を負わせる気などありませんよ。やってしまったものは、仕方ないじゃあありませんか」
毒を含ませた物言いに、横で聞いていたナターシャの堪忍袋の緒が切れた。実際現場に立っても居ない奴が何を言うか。苛立ちに任せて机を平手で打ち、局長に噛みついた。
「人聞きの悪いこと言わないでよ! 最初から殺る気だったみたいじゃない! あいつが追い詰められて勝手に死んだのよ。ヴェルムだって、あいつが抵抗しなければ――」
「ええ、聞きました聞きました、わかってますよ。きんきん声で騒がないでください、頭にきますから。こっちも疲れてるんです、早朝から血生臭い話ばっかりで、まったく勘弁してください」
ディニアスはナターシャに向いて腹が立つほど晴れやかに笑った。疲れている気色は一切ない。
ナターシャは舌打ちをして口をつぐんだ。この道化師の相手をまともにすれば、疲れるのはこちらだ。これでディニアスが仕事に関して無能であれば、いっそ全面対決もできるのだが。なまじ有能なのは理解しているだけ、最低の人間性が唯一最大の欠点として余計に鼻につくのだ。
さて、局長は、今度は不意に手を叩いて注目を集めた。二、三歩あるいて、三者を見渡せる位置に立った。そして顔の横に人差し指を立てて、出来の悪い教え子へ説くように語り始めた。
「ああ、つまり、今回のお話しのまとめはこう。赤肌殿に組み伏せられて、逃げ切れないと思った対象が、教団の秘密を守るために服毒死をした。死体に口はない、だから真相は闇の中。いやはやご立派な信仰心を持った犯人ですこと、対象が我が神であるなら表彰ものなんですがねえ」
惜しむように吐息をついて、やれやれと両手を開く。総監局が追い詰めた有翼人はエスドアの狂信者であったが、こちらの局長は局長でルクノールの狂信者なのであった。政府の律の上で信仰は縛られるものではないし、バダ・クライカの者たちのように過激な手で異教を排除する真似は見せない、職務上で問題は無い。
それで、言いたい事はその嫌味だけか。聞き手にそんな空気が満ちた折、ディニアスは静かに歌うような調子で次の言葉を連ねた。
「そして。ライゾット邸の惨劇も同じ手により起こされて、罪は彼の者と共に混沌の丘へと葬られる」
頭を槌で殴られたような衝撃だった。ナターシャは水色の目を見開いてディニアスを見据えた。心臓が弾み、口から飛び出そうだ。
伝書部に入る前に、そんな冗談を言った覚えが確かにある。ライゾット殺害の犯人がヴィジラの仮面の下に隠れているのではないか、と。しかし、まさか。あれはほんの冗談だったのに。
ナターシャは思わずヴェルムを見た。衝撃を受けたのは同じ、彼も目を見張り、信じられないとばかりに首を振っている。それもそうだろう、直接有翼人と相見えたのはヴェルムだ。彼もライゾットのように首を切り落とされていてもおかしくはなかったとなる。
言葉を失っている亜人二人の代わりに、絶え絶えの息を絞り出し、ほとんど縋りつくようにミリアが問いただした。
「ディニアス、あなた、それ、本当!?」
局長はにやりと不敵に口角を上げ、顎を引いた。