冷厳なる面の下(3)
「あぁギベル君――」
ワイテの嘆きは中途で聞こえなくなった。エスドアの使いがギベルを振り払い、拡声の呪いを解いたのだ。両手でつかんだ札が、黒い炎によって灰と化す。
彼女は続けざまに額に手をやり、別の詠唱を始めた。すると足下、薄闇にいっそう暗く浮かぶ影から、黒い霧が立ち昇り始めた。濃くなってこれば一切視界は無くなるだろう。
まずセレンが動いた。持っていた兜を投げ捨て、呪文を唱えるエスドアの使いの横腹に蹴りかかる。
だが、もう一人の白ローブに割り込まれ、腕でガードされた。多少足元をぐらつかせるくらいで、負傷した様子はない。フードの下に見えるのは精悍な女の顔。相方と違って肉体派のようだ。
その女はローブを派手にひらめかせ、逆に殴り掛かって来た。今度はセレンが受け止める。思った以上に強靭で、後ろにたたらを踏んだ。
格闘のみなら互角か、疲労しているぶん不利か。ならば、とセレンは一歩跳びすさり、魔力を絞り出して紫色の光弾を作りだした。命中すれば精神を幻夢に閉じ込める、速度が遅めだが、至近距離なら欠点にならない。今ならギベルも背を向けており、止めに入られる心配もなかった。
ところが、相手の胸目がけて放ったアビラの弾は、なにかに吸い寄せられるように袖口へと向かったのである。そして、効果を発揮せずしぼんで消えてしまった。わずかに残った残渣が、左袖に隠し持っていた黒剣の折れた先端の存在を示している。知らぬ間に拾っていたらしい。
斜めに割れた先端は切っ先よりも鋭利だ。それを前に向けて女が襲い来る。心臓狙いだ、とっさに身をねじって刺突をかわす。だが服をえぐられ、皮膚に引っかき傷をつけられた。
たったそれだけがセレンには痛手だった。一瞬の接触ながら、黒石に体の魔力を吸い取られたのだ。影響は身体能力の維持にも現れ、足から脱力し崩れた。
その無防備な肩口へ女が封魔の石を刺した。深く、体の中に埋め込んでしまえとばかりに。先端が沈むほどに、セレンの顔が苦痛に歪んでいく。とうとう悲鳴も上げた。もがいて這いずり出ても、女にのしかかられ逃げさせてもらえない。その内首に手が伸びてきて、やわらかい喉を締め付けられた。
「……セレン!」
ナターシャは牽制の為に空のままギベルに向けていた魔砲を下げ、慌てて最後の弾を装填し始めた。体力限界まで撃った後遺症などどうでもよかった。霧の目隠しは濃くなっているし、悲鳴すらももはや聞こえない、助太刀は一刻を争う。
――なぜ誰も助けない。ながらに沸いた苛立ちは、しかしすぐに答えを思いつく。下に居るのは中央軍の者たちだ、先刻まで敬う対象だったギベルに刃を向けるのに迷いがあるのだろう。その命令を下すべき大将からしてそうなのだ。もしかしたら、セレンを押さえつけている女も彼らの顔見知りであったのかもしれない。
「ナターシャ、撃ってくれるなよ!」
引鉄に手をかけたところで、低く大きな声が鼓膜を震わせた。――ヴェルムだ!
了解、と砲口を引いたところで、セレンではない女性の悲鳴ともみ合いの音とが聞こえた。深まる黒の中を注視すると、ヴェルムがセレンを横抱きにして、本営の天幕方面へ素早く後退していく様子が見えた。
ところが、その天幕が吹き飛ばされたのである。続けて東方面の道や、そこに居た人間たちも。地溝の民の砲撃だ。攻撃を加えながら、重い靴音を立て中央へ迫る。
その群れの中から空へ飛び出す影があった。怒りを灯す有翼人が三人ほど。強風に乗ってギベルのもとへ突貫する。
「我らへの冒涜、断じて許さない!」
ギベルは眉間の皺を深くして、神の徒らを見上げた。猛然と迫る彼らに向かって、空にした手をかざす。
すると有翼人たちは風より勝る気質の渦に呑まれ、てんでばらばらに弾き飛ばされた。羽がいくつも抜け落ちる。体勢を整えもう一度、それでも同じ結果だった。
ただ、ギベルはそれ以上の手を加えようとしなかった。代わりに厳粛な声音で亜人たちに告げるのみ。
「私の命令は変わらない。この戦いは無益だ、退くがよいバダ・クライカ・イオニアン。私はおまえたちの命を散らさせたくはない」
「黙れ! 俺たちの主はエスドア様だ。貴様じゃない!」
「だがバダ・クライカを教団組織として機能させていたのは私たちだ。おまえたちがエスドアの意志と信じるものは、私たちの意志と同じだ」
「黙れっ! 神への冒涜、許すものか!」
思いのたけが込められた風がギベルに吹きつけた。耐える背で真っ白なマントが激しく暴れ回る。
ただ、その姿もすぐに覆い隠された。エスドアの使いが詠唱を終え、黒い霧が完全に周囲を埋め尽くしたのである。
その中から声が上がる。女の声だ。先ほどエスドアの代弁者になりきっていたものとは違う。周りが言葉を失い静かである分、耳を澄ませば喋る内容もはっきりとわかる。
「司令お逃げください。ファイス様の術が援護してくださいます」
「構わん、お前だけ共にゆけ。私は……私はこのまま、私の義を貫かせて頂きます。軍の諸氏、そして大将、おさらばです」
袂を分かつ言葉の直後、ぼんやりとした光を湛えた身体が霧の上に出た。ちょうど崖の高さ、ナターシャの目線とほぼ一致する。だが、ギベルはこちらではなく、西の方角へ向いていた。
アビラを応用して作った足場に立ち、険しい顔で月明かりの下を望む。ロータリーを越え道が細くなるあたり、そこまでは霧が届いていなかった。そしてそこに目標を見つけたか、ギベルはわずかに眉をもたげると、マントをなびかせ空中を走り始めた。
何を見つけた、何をする気だ、まさか逃げることはあるまいが。ナターシャも草地を踏みしめ崖の縁沿いに後背を追う。
長くは経たずしてギベルは下に降りた。ちょうどそこにあった街灯が、彼の目標をはっきり照らしている。シュドンの率いる一団だ。遅れて合流してきた者も二名共にし、ほうほうの体で西の埠頭方面へ逃げる、その前にギベルは立ちはだかった。軍人らしい威圧感を放ちながら。
急停止したシュドンが後ずさる。水は近くにない、丸腰だ。代わりに仲間たちが交戦の構えをとるが、誰しも満身創痍である。
しかし妙な光景だ。俯瞰するナターシャが首をひねっている。彼らはバダ・クライカの同志たちのはず、それがなぜ互いに牙を剥きあっているのか。もっと言えば、ギベルは教団の者へ「退け」と命じたのである。逃亡するシュドンが咎められる由はないだろう。
だがギベルは過剰なまでに冷酷な眼差しを向けていた。そのまま前進し、迫る。右手が腰に行き、二本並べて差した剣を即時とれるようになっている。異能の天敵だとは先に示したばかりだから、ただ手を添えるだけで十分な牽制効果だ。
「待っ、待てよ! 退けって言ったのはあんただ。俺たちはちゃんと言うこと聞いただけ、怒られる理由はねえぞ」
「都合の良い時だけ忠臣ぶるな。貴様らが重大な不義不実を成したこと、既に白日に晒されている。組織にて主に反することが何を意味するか、わかるだろう」
「そっ、それは……いや、悪かった! これからはあんたらの言うことに全部従う、絶対だ。もう表にも出てこないし、金もいらない、だから命は――」
「過去の背信が消えるわけではない。よって処分する」
言葉を切るより前に、ギベルは剣を抜いていた。先端の尖った両刃の剣、よく研ぎ磨かれた鋼の刀身は甲冑の光を鋭く反射している。
決裂と見るや、構えていた異能者たちが一気に攻撃へ移った。だが仮にも軍司令が相手、鎧の防御力も手伝って、ろくに痛手を与えられない。逆に二人が斬り捨てられたところで、戦意喪失し逃亡へ。頭のシュドンも一緒だ。
ギベルは振り向きざまにその背を斬りつけた。鮮血が吹き出し、白銀を汚す。
倒れ伏し、それでもなおシュドンは這いずって逃げようとしていた。口からは絶えず命乞いの言葉が漏れている。だが聞く耳はない。そして冷たい剣に心臓を貫かれ、最期は言葉の代わりに血を吐き息絶えた。
赤く濡れた剣を死体より引き抜きながら、ギベルは温度のない目で道の先を見ていた。頭を潰しても手足がまだ逃げている。
が、彼が追う必要はなかった。悪漢たちが上げる瀕死の叫びが前方より届いたのだ。それに加えて、中央軍の女司令が下の者たちの尻を叩く吠え声も。
「ほら見ただろ、アビリスタだって人間だ、血ぃ流せば死ぬし、喉かっ切れば死ぬんだ。やってみれば意外と簡単だろ? びびる暇あったら、とりあえず突っ込みな。敵はまだ残ってんだ」
「はっ……ッ! マグナポーラ司令、前方にエスドア……いえ、ギベル司令がっ!」
「ギベル!?」
マグナポーラは率いる一団に制止をかけ、自分単独で前に進んだ。胡乱げな眼差しで道に転がる死体を見て、その血溜まりの中心に立つ男を見て。手にした魔剣は既に周りの空気を凍てつかせ始めている。
「おいギベル、どういうことだ。その糞けったいな仮装はなんだ」
ギベルは黙したまま、マントを大きく翻らせ同輩に背を向けた。待て、と浴びせられる声も聞かず、宙へと足をかける。
そして上方へ向かって駆け上り始めた。血の滴る剣を持ったまま、ナターシャの頭上すぐを猛然と抜けていく。彼女がその刹那で見たのは決死した武人の顔、あるいは修羅の類。
次なる獲物を見定めた、それは明らかであった。さて、丘上でギベルが狙うのは誰だろうか。考えるまでもなく察し、ナターシャは目を見開いた。
「局長!」
宮殿を見上げた背で赤い髪が大きく振り乱れる。屋上の縁に腰掛け高みの見物を決め込んでいるディニアスが、不敵な笑みはそのままに、急ぎ立ち上がり後退する姿が見えた。
果たしてギベルを追うべきか、ナターシャは少しためらった。局長の力のほどを見たことはないが、あれも元ヴィジラ、一線級の戦闘能力は備えていると見てよいだろう。だったら下手に近寄らないほうが良策だ、それこそ激闘に巻き込まれる危険が否めない。まだギベルは追いついておらず、戦闘を放棄して逃げ隠れする暇だってあるのだから。
逡巡する中、坂を弱々しく打つ足の音が近づいてきた。セレンだ。顔は蒼白かつ焦りに満ちている。しかし足元はふらつき、思うような速度が出ない様子。肩は血色に染め上げられ、その先の腕は力なく垂れ下がっている。それでも歯を食いしばり、屋上に降り立とうとするギベルを睨んで歩み続けていた。
ナターシャは慌てて坂路に戻り、セレンの手を引いた。疲労を限界近くまで溜めた細い身体は、いともたやすくナターシャの胸のもとへ倒れこんできた。それをしっかり抱きとめ、言う。
「もういい、やめなさいセレン。そんなになるまでごめん、無理させた。ありがとう」
「しかし、私はディニアス様をお守りしなければ……それが役目ですので」
「あいつだってそこそこ強いんでしょ。いっつもそうやって威張ってるじゃない」
「肉弾戦は不得手だと言っておりました。ですから、敵を近づけてはいけないと……重々に言われていました。ですが、あの男は、ディニアス様のもとへ一直線に……。あの黒い剣が、魔力を奪います。非常に辛い、です」
それは主への評価か、それとも自身の弱音か。どちらにしても聞き流して見送ることはできなかった。満身創痍の体を抱いた腕に、慈しむ力が加わる。
「わかったから。あなたはここで少し休んでなさい」
「ですが、ナターシャ様」
「命令がなによ、たまには自分を第一にしなさい。あいつはそう簡単に死ぬような奴じゃない。あたしが行って援護すれば、逃げるくらいのことはできる。ううん、させてみせる」
ふっとセレンに強気の笑顔を投げてから、ナターシャは坂路を駆け上がり始めた。ギベルは既に屋上に到達している。が、この角度よりは詳しい状況を見て取ることはできない。ただ、剣が床壁を打ったような無機質な響きが時折聞こえる。あまり悠長にしてはいられなさそうだ。
走る。足が重い、胸が苦しい、それでも走る。局長の無事を願いながら。そして、バダ・クライカ・イオニアンとの戦いに終止符を打たんと意に決しながら、ひた走る。




