内通者(4)
その結論に至るまでの経緯、ナターシャは惜しむことなく披露した。わざと大げさな身動きを話す、場を自分の色に染めるために。
「文書は伝書部内にて消えている。しかし、抜き取られた物がいつどこで誰の手に渡っていたのか……先の調査団の連中は四六時中の監視までしても発見できなかった。伝書部の人員が規定外の方法で文書を持ち出している形跡がないし、不審な人物の侵入、接触もない。ってのが、この前までの調査団が出した結論ね。でもさ、いくらなんでも諦めるのが早すぎるわ、そう思わない?」
おどけたように肩をすくめてみせる。が、もちろん同調する者はいない。緊張する空気の中、冷ややかな視線がひりひりと肌を刺す。ナターシャはいそいそと話の続きに戻った。
「よくよく考えたら簡単な話よ。持ち出すんじゃなくて、取りに来てもらえば危険を冒す必要がない。調査団が考えていた前提、政府の人間しか出入りしない場所っていうそもそもから間違っている。確かに、見慣れない顔が居たら一目瞭然でしょう。だけど、見慣れた仮面の中身は誰か確認したのかしら? 本物のヴィジラになりすまして別人が中に入っていても、全然わからないんじゃない? ねえ?」
ナターシャはきゅっと肩をすくめた。
調査団が見落としたのも無理はないだろう。ヴィジラは仮面で創り上げられる個を持たない存在だ、曖昧な認知が仇となった。また、なりすましが出るなどという事態を微塵も想像していなかっただろう。なりすますには本来の存在を消し去らなければならないのだ、並の神経ではヴィジラを相手にそんな真似できまい、普通の人間なら畏怖と共にそう感じる。
ナターシャたちが彼らの盲点にあっさりと気づけたのは、総監局だったから、だとしか言いようがない。アビリスタに対する過剰な畏怖も、ヴィジラに対する根拠のない信頼も持ち合わせていなかったがゆえの賜物だ。
どのようにして機密は外に消えたのか、どうすれば機密を外に持ち出せるか。一端にさえ気づけば、詳しい方法を推測するのは簡単だった。
「何食わぬ顔で装置の部品を交換する、そのどさくさに紛れて置いてある封書をいくつか拾ったら……ほら、簡単に泥棒できるわ。みんないつもの作業をしているって思い込んでいるから、あんたの仕事は一一観察しないでしょうし」
ヴィジラに向かって指をつきつけ刺々しく言い放つ。それから次いでエセリに向き直った。
「ね、そういう事じゃないかしら? あれがあなたの共犯、あなたの言った別の内通者。ここからはあたしたちの予想だけど……あなたが実際にやった事って、予め隠して溜めて置いた重要な封書を、ヴィジラが巡回に来る直前に装置に入れておく、くらいだったんじゃない?」
「そっ、そうなんだよ! あいつらがそうしろって言ったから! だから、悪いのはあいつだ! ぼくはただ――むぐっ」
「はいはい、了解。あのねえ、だからってあんたが無罪放免になるわけじゃないんだから、勘違いするんじゃないわよ」
エセリの口を封じながらナターシャは叱責した。理由と程度はどうであれ、機密漏洩の手助けをした事実は揺らがない。裁かれるべき罪である。
白服はまだ黙秘を貫いている。しかしこちらを向いた仮面の下には怒りの形相が描かれている、そう見えずとも肌で痛いほどに感じた。
だがナターシャはそんな威圧でやすやす屈するほど気弱ではなかった。逆に煽るように笑んだ。
「ああ、そうよね、証拠が欲しいわよねー。じゃあ……その、袖。広い袖は死角、物を隠すのに丁度良い。ま、うちの局長の受け売りだけどさ」
「そういうことだ。悪いな」
ナターシャに呼応して、ヴェルムが掴み上げたままにしていた右腕の袖を、逆の手で一気に引きずりおろした。
瞬間、十数通の封書がばらばらと床に落ち広がった。動かぬ証拠、伝書部の人間たちも確かに見た。
それとは別にもう一つ見たものがある。袖がまくられたと同時に、ヴィジラの腕に鳥の翼が展開したのだ。大きなどよめきを呼んだのは、機密云々より、こちらの事実。
「有翼人……!」
亜人だ。両腕に鳥に似た翼を持ち飛翔能力を有する種族である。東方大陸に勢力を築く彼らを中央諸島で目にすることは稀だ。
ナターシャも実物を目にしたのは初めてで、わずかに目を見張った。しかし、亜人が出て来る自体は予想の範囲内だった。エスドア案件に携わる者の文書が狙われているとなった時から、亜人が、そして宗教集団バダ・クライカ・イオニアンが絡んでいる可能性は高かった。
だからなおも怯まない。翼腕の亜人に指を向けて朗々と宣告する。
「さあ、もう言い逃れ出来ない! 総合監視局の名において、あなたを確保する!」
高らかな声は、勝利を告げる鐘の音のごとし。
だが、敵は白旗を振ってはいなかった。
「伏せろ!」
ヴェルムの野太い声が危急を知らせた。
反射的に身を低くしながら目にしたのは、偽ヴィジラが持っていた籠を床に叩きつけた、その瞬間。網越しでも衝突のダメージは大きい、金属の重低な響きに混ざって、高く軽やかな響きが空気を貫く。これはアビラ・ストーンが砕けた音だ。
アビラ・ストーンはいわば魔力の塊である。小さな石に押し込められていた強大なエネルギーは、殻を失うことで一気に拡散する。
今回は光の波へと変じて広がった。それは、居合わせたすべての目をくらませるに十分すぎる眩さだった。
誰もが顔を伏せ目を逸らし、腕や手で光を遮る。最も近くに居たヴェルムもまた、とっさに顔をかばっていた。脊髄反射で出た行動だから責めることはできないが、結果として有翼人を拘束していた手も放してしまった。
この上ない隙を与えた形だ。拘束を抜けた有翼人が駆けだした。眩んだ目のまま顔を上げるナターシャの耳にも、その足音がしっかりと聞こえていた。――まずい、逃げられる。
「ヴェルム!」
焦りの色を露わにした声で相棒の名を呼ぶ。が、返事は無い。敵が動くと同時に、彼も既に動き出していたから。
目が潰れても耳で聞けば敵の動きはわかる。しかし、実際に即対応した行動に出るには素人では無理だ。ヴィジラの一員として身を張っていた過去は決して飾りなどでは無い。
「逃がすかァ!」
咆哮を上げながら、ヴェルムは大きく振りかぶって渾身の投擲をする。投げたものは、先ほど相手が落としていった金属かご。そんなものでも天性の剛腕で繰り出されれば、鋼鉄の塊を投げつけたに等しくなる。
空を切った凶器は、白いフードを被った後頭部に命中した。脳髄が揺れたに違いない、足元をふらつかせ床に倒れ伏す。苦し気に腕をばたつかせ、仰向けに転じた。
その胸倉をつかみ上げようと、ヴェルムが手を伸ばした。が、事を成す前に後ろに飛び退った。
間髪入れず、彼の腕があった空間を、有翼の右手に握られた鋼の小剣が薙ぎ切り通る。どうやら、左側の袖に隠し持っていたらしい。
片膝をついたヴェルムの舌打ちがナターシャの耳にも聞こえた。やりづらいのだろう、なにせ物を隠すに長けるヴィジラの衣装だ、まだ武器を隠している懸念は捨てきれない。
劣勢、なのだろうか。あいにくナターシャには戦闘の知識は皆無だから、傍目で判定することはできなかった。ただ感情の赴くまま、受付台から身を乗り出すようにして叫ぶ。
「ヴェルム! 大丈夫!?」
「あたりまえだ! いいから引っ込んでろ! 馬鹿が、死ぬ気か!」
「えっ」
「有翼人だぞ!? 風が――」
ヴェルムの言わんとしたことは途中で遮られる。その言葉の続きは、身をもって知ることに。
風、それがナターシャの元へも飛んできた。ヴェルムの巌のような体をも煽り崩すほどの、強烈な突風が。正面より上体をあおられ、体が浮き、そのまま思い切り尻餅をつかされた。
だが初撃で倒れたのは幸運だったに違いない。散らかっていた封書が、割れたアビラ・ストーンの破片が、旋風に乗って襲って来たのだ。
たかが紙や石と侮るなかれ、加速がつけば鋭い刃となる。立ったままだったら頭に刺さっていた、想像するだに血が凍る。
ナターシャは忘れかけていた事実を思い出した。亜人の多くは、種族特異的に異能力・アビラを持っているということ。有翼人ならば、翼による飛翔能力を活かすため、誰もが風を操る技を心得ている。
もし戦闘になったなら、ヴェルムに任せて傍観者に徹する。そんな予定だったのだが、実行するのは難しそうな相手だ。裏付けるように有翼人の男が、受付内に居るナターシャたちに向けて、仮面越しのくぐもった声を手向けてきた。
「我らはバダ・クライカ・イオニアン。偽りの民に、死を……!」
有翼人の男が腕を振ると共に、今度はうねる曲線的な風が伝書部全域を荒らしまわる。旋風は作業台を舐め、すべての物を散らし、棚にある物品を叩き落とし、立ち尽くす人をなぎ倒した。沸き起こるのは、無数の悲鳴。
「逃げろ、アビリスタだ!」
「こ、殺される!」
「あいつ、バダ・クライカって……」
「誰か、どうにかしろ!」
そんな声を背中に浴びれば、ナターシャも人並みに持ち合わせている正義感を煽られるが、しかしどうする事も出来なかった。自分も身を低くし自分の身を守るので精一杯なのだ。頼みの綱は、武闘派の同僚だけ。受付カウンターの影に隠れて頭を守りながら、相方に祈りをささげた。
ややして、頭の上に雄叫びが届いた。遅れて重い打撃音も。蹴り飛ばしたか殴り飛ばしたか、とにかく、人が一人吹き飛んだ響きだ。
同時に風が止んだ。ナターシャは乱れた暗赤色の髪もそのままに、首を伸ばして受付の反対側の様子をうかがった。
壁際に吹っ飛んでいた有翼人の男が体勢を取り直すのが見えた。大きく弾む肩、息が苦しいのだろう、邪魔そうに仮面をはぎ取り捨てた。
下から現れたのは精悍な若者の顔だった。まるで部族の戦士と言った風貌、汗で額に張り付く茶色の前髪を払いもせず、強く歯噛みしてヴェルムを睨んでいる。
対する赤肌の男は動じない。そのまま足を踏み込み追撃の素振りを見せる。
と、有翼人は再び風の波を起こした。しかし先ほどの嵐に比べれば、これはそよ風だ。広く受付内まで届いたが、ナターシャの長い髪をなびかせ、散らかった封書を軽く遊ばせる程度の威力しかない。術者に余裕がないせいだ。
「まだ勝ち筋を望むか、甘いぞ!」
一喝を入れてヴェルムが床を蹴った。大股で弾みをつけた足取りで、真正面から堂々と突っ込む。
有翼人の青年はぐっと顎を引きながら右手の小剣を構えた。射程に入った瞬間切りつける、顔つきからしてその気迫がにじみ出ていた。
二人の距離がみるみる狭まる。もう互いに手が届く、そうなった瞬間、剣が閃いた。
待ち構えているのは明らかだったのだ、避けられないはずなかっただろうに、しかしヴェルムは身を引かない。胸から首をガードするように太い腕を立て、そのまま正面から飛び込んだ。
その太い左腕を小剣が容赦なく横から切りつけた。紺青の制服が裂け、引き締まった筋肉に刃が食い込む。
だが、それ以上は進まなかった。ヴェルムの右手が、相手の手首をつかみ、動きを押しとどめた。刃が身に触れた刹那に起こった反応だ。
そのまま握力に任せてひねり上げ、武器を遠くに捨てさせた。ぐう、と漏れた青年のうめきは痛々しい。
「で。結局また捕まったわけだが、どうする? やった事をここでばらすか? あァ?」
血が滲みそうな強さで歯を食いしばる有翼人に、ヴェルムは額を寄せ問い詰めた。
それでもまだ、相手は心折れてはいないらしい。疲弊の色が濃くなってきたが、ぎらぎらと光る目は、いまだ敵愾心と困惑とで彩られ、睨みに睨みで返してくる。
「我ら、バダ・クライカ・イオニアン! 赤き肌の同胞よ、なぜ邪魔をする!」
「邪魔をしているつもりはない。俺には俺の役目と信条があるんだ。俺は政府の役人だからな」
「……くそッ!」
有翼人はヴェルムの脛を蹴り上げた。反動を使って拘束から強引に逃れ出るも、勢い余ってたたらを踏んだところで、ヴェルムから蹴りの反攻をもらい、壁に体を打ち付けた。それでも、すぐに体勢を取り直したが。
そこからは格闘戦に突入した。殴る蹴るの攻防の決着は、どちらかの気力が尽き立てなくなった時である。しかし完全な徒手空拳の勝負ならどちらが勝つか、そんなこと圧倒的な体格差からして自明なこと。
「えっ、いや、ちょっとまずいんじゃない……?」
一歩退いた目をしていたナターシャに不安がよぎった。
暴を奮った異能者に、暴を持って対応するのは間違っていない。だが、何事にも限度はある。本来、総監局官の職務は犯罪者を逮捕拘束するだけ、やりすぎて再起不能にでもしてしまえば、咎められる可能性は否めない。そして今のヴェルムの熱感では、やり過ぎになる可能性が高い。冷静な判断ができるなら、二度目に捕まえた時に縛り上げていただろう。
止めるべきか、だが出て行ったとてでどう止められるか。ナターシャは受付台に手をついたまま、取るべき行動を迷っていた。立ち位置がちょうどヴェルムの大きな背中真後ろ、だから彼らの表情などが一切うかがい知れないのも躊躇いに拍車をかける。
と、その時。突如としてヴェルムが大きく飛び退った。いや、単に吹き飛ばされたのだろうか、原因ははっきりとわからない。とにかく、彼の巨体が後ろに飛んで、受け身を取るように床に横転した。
もちろんすぐに片手をついて起き上がる体勢を取る。が、その姿勢のまま、前方の有翼人を見て硬直した。
ナターシャも同じように目を向け、そして同じように唖然とした。
青年は汗だくで、息を切らせ、壁に寄りかかるようにして立っていた。顔は無残に腫らし、口元には血反吐の痕をつけている。据わった目はなおヴェルムを見てはいるが、先ほどまでの人を傷つける切れ味はない。言うなれば、覚悟を決めた男の目付き。
その手に握られているのは、どこから出したのかわからないガラスの小瓶。緑がかった透明の向こうには、色のない液体が入っているように見受けられるが、あれは、もしや――。
決意の源を察して、ナターシャは思わず飛び出した。
「馬鹿っ、待て、やめなさい!」
が、遅かった。長い足がカウンターを飛び越すころには、既に青年は栓を抜き捨てて、震える手で小瓶を掲げていた。いっそ神々しく。
そして、唱える。
「バダ、クライカ、イオニアン……キニア、ゲナ、イオニアン……!」
亜人の言葉での祈りが終わると同時に、有翼人は瓶を一息に干した。
瞬間、飛び跳ねる程に全身を震えさせ、ぐんにゃりと崩れ落ちる。獣のような苦悶の声を上げ、激しい痙攣でしばしのたうち回って。しかし、突如として糸が切れたように動かなくなった。口の端から赤い筋を静かに流したまま。
目標を失ったナターシャの足が、同じく沈黙している同僚の隣で止まった。
刹那の静寂。そして、人間たちの騒乱の声が怒涛となって押し寄せた。
「し、死んでるぞ! 死んでる!」
「あの鳥人間、毒飲みやがったんだ!」
「総監の連中が煽り過ぎなんだ、めちゃくちゃじゃないか!」
手前勝手に騒ぐ野次馬の声は聞き流すとして、ナターシャもヴェルムも得も言われぬ感情に包まれ脱力していた。真相不明で犯人死亡、逮捕劇の結末としては最悪だ。
「あァ……ナターシャ、悪い」
「あんたのせいじゃないでしょ。……あいつ、最後なんて言ったのよ」
「『イオニアンの真なる子、イオニアンの尊き人柱』、なんだと」
「人柱……ねえ」
つまり、神のためなら自ら命を捨てられる、と。ナターシャにはまったく理解できない感情だった。種族は違えど老い先長い若者であるのに違いはない、色々な未来があったはずなのに。言葉は悪いが、こんな機密盗難程度の罪を隠すために、命を捨てるほどの価値があったのだろうか。あるわけない、と、ナターシャは胸中で断言した。
「狂ってるわ。これだから、宗教家って、本当に」
ナターシャは誰にともなく吐き捨てた。理想の世界、幻想の神。そんな夢のごとき虚ろな物に身命を賭せる。己が目で見た物しか信用できない性質の身にしてみれば、狂気の沙汰だ。
可能であればすべての真相を問い詰めたい。しかし、死人に口無し。ナターシャができたのは、ただ、横たわる若人に哀れみの目を向けることだけだった。