危急存亡(5)
燭台を模した光源石の灯りが数多にともり、室内は意外に明るく感じられた。窓の無い部屋で、総監局と同じくらいの大きさだが、棚と机が無い分広々としている。
前方の壁には巨大な絵画が飾られている。イオニアンの地上に人の姿で降り立った創造神ルクノールを、等身大で描いたもののようだ。かなり繊細に写実的に描かれているのが、遠目からでもよくわかる。
宗教画の前には小さな祭壇もつくられ、いくつもの神像や祭具が据えられていた。現在は二人の黒マントが、そこへ向かってひざまずき、祈りの言葉を捧げている。近寄りがたい雰囲気だ。
両側の壁面には別の絵画が張り出されている。大小さまざまで、計十枚。ナターシャはそちらを静かに見てまわることにした。
いずれも神話の光景を切り取って描いたもの。主神だけではなく、使徒たちの姿も多い。一応題名がつけられているが、見識が狭い身では特別な感情が沸いてくることも無く過ぎる。ただ、綺麗な絵だと、その程度の感想だった。
しかし、最奥にあった一枚は違った。思わず凝視する。
それは、エスドアとルクノールの闘争を描いたもの。地につくほど長い黒髪に、ゆったりとした黒いローブの後姿の人物、ルクノールだ。背後には怯え震える民衆が居る。そんな状態のこちらへ向かって、白光を放つ甲冑を纏った女が、紅蓮に燃える剣を振りかざし斬りかかって来る瞬間。長い房の付いた兜を目深にかぶり、表情はうかがい知れない。が、それが逆に冷徹な恐ろしさを醸している。
これがエスドアなる存在。もちろん伝承に基づく想像の姿ではあろう。しかし、現代で各地に現れるエスドアの目撃談ともおおよそ一致する。これが異能の軍勢を率いて島に来たるというのなら、戦地に臨む騎士そのものと言えるだろう。
ナターシャにしてみれば憎き邪教が抱く神、好意的に見られるものではない。だが、描かれている分には美しい人だと感じた。冷たさは気高さ、そういった雰囲気で。
と、傍らに古びた掲示が小さくされているのに気づいた。資料室長の名を添えた注意書きだった。この絵は貴重な資料として保管されているのみで、反逆の徒を称える意図はない、と。こうでもしておかなければ、熱心な信者に引き裂かれてしまうのだろう。面倒な話である。
エスドアの絵に向かうナターシャの後方で足音が聞こえた。振りむけば、立ち去ろうとしている黒マントの二人組と目が合った。うっすらと侮蔑の色をにじませて、ひそひそと耳打ちをしている。感じが悪い、ナターシャも顔をしかめた。
そして、潔白証明という意味も込めて、ナターシャは祭壇の前へ進んだ。荘厳な絵画を仰ぎ見る。そんな背後から、何事も無く扉が開け閉めされる音が聞こえてきて、少しだけ安心した。
さて、信心なくまみえたイオニアンの創造神である。長い髪と、夜闇を切り取り纏ったとされる長い衣を、風の中へ自由にたゆたわせている立ち姿。胸を張った堂々たる様は、万物の父たるにふさわしい。切れ長の目は伏せられて、しかし慈愛に満ちたほほえみを浮かべている。わずかに広げられた腕は、まるで全てを抱きとめる母のように柔らかな印象だ。
信仰心の欠片も持たない、それでもこの絵画には魅入らされる神秘的な力があった。この人が神だと説かれれば、ああ成程尊いと頷いてしまう。顔立ちも体つきもあえて中性的に描いていることが、神秘性を高めている。
口を半開きにしてぼーっとしていた。すると、突如、声が聞こえたのである。あまり馴染みは無い、しかし聞いたことはある、そんな男の声で、
「人魚族とはルクノールを信奉するものなのか?」
と。どきりとして振り返る。そして背の高い男を見あげ、翡翠色の双眸と視線が合うや、再びぎょっと身をすくめた。思わず半歩後ずさる。
「ブロケード東方総裁次……」
「そう身構える必要はあるまい。私はライゾットと違う、顔を見ただけで斬りかかるようなことはしないさ」
ブロケードはふっと渋い笑みを浮かべた。確かに、彼の佇まいに攻撃的な印象は無い。反射的に警戒してしまったのは、周りから聞かされた排亜人派の前評判によるもの。なにせ、こうして一対一で顔を合わせるのは初めてなのだから。
ナターシャはひとまず非礼を詫び、姿勢を正した。しかし心の全てを許してはいない。ブロケードは腰に細身の剣を帯びていて、自然に垂らした手の先は、すぐさま鞘を捕まえられる位置にあるのだ。顔を見ただけでは斬られずとも、応答を間違えれば斬られるかもしれない、と。
澄んだ水色の瞳は、心のあり様を素直に映している。だが、ブロケードは以上には構わなかった。年嵩の美丈夫たる面を真摯な装いに換え、静かに口を開いた。
「ミリアに聞いた。君がライゾットのことを調べていると」
「……まあ、でも大して進んでいません」
「だろうな。向こうの方が上手だ、足がつかないよう巧妙に仕組んである。期待はしていない」
「はっきり言われると傷つくんですけど」
「世辞を言うようなことでもあるまい。だが、その様子では、本当になにもわかってはいないようだな」
そっけない物言いで、ナターシャの心に荒波立った。顔がますます強張る。唇も噛む。
かような亜人の女などに用は無い、無言の中にそんな気配を忍ばせ、ブロケードは一転祭壇の側へ向いた。描かれた神を仰ぎ、目を伏せ、手指のみで行う略式の祈祷をした。
静寂なるひととき。それから、ブロケードが目を開けるのを待って、ナターシャは食い下がるべく声をかけた。
「でも、なにかがおかしいことはわかっています。だから、特命部が下したように、このまま終わらせるなんて納得できない。バダ・クライカの後ろに神が居るなんてありえない。あの惨劇を起こした犯人は、罪をエスドアになすりつけて、どこかでのうのうと暮らしている。それなのに」
「許せない、というのなら、私も同じ気持ちだよ。エスドアなる者が誰であろうと、私はあれらを許しはしない」
神の顔を見据えたまま、ブロケードは強く宣言した。威厳のある声が礼拝室に反響する。
そしてブロケードはようやくナターシャの方へと正面を向けた。しかし、視線は明後日の方向へ。
ナターシャも自分の目でそれを追った。到着したのは、先ほども眺めた、壁にかかるエスドアの肖像画。
ブロケードの眼が鋭く尖った。
「戦火をもたらすというならば討つ、それだけだ。正体が何であろうと、政府に刃を向ける大罪人であることに変わりはなかろう」
「何が出てくるかわからないのに、ですか。ただ者じゃないのは明らか、無謀ですよ、人間の身で」
「今までずっとそうやってきたが? 私も、ライゾットも。君らの言うただの人間の身で、ここまでやってきたのだ。今さら無謀もなにもあるまい」
ふっとブロケードは笑った。見るに仰々しいものではない、しかし不思議と気おされる。ナターシャは感心めかせて男をみていた。
さらに東方の雄は語った。遠く、思い出語りをするかのように。
「いいや、決して無謀ではなかった。勝算が皆無の博打はしない。着実に挑みそして窮地に落ちたのならば、奇策を弄し死地を脱し次の機を狙う。私も頭を巡らせたものだ、だが、いつだってあいつが一枚上手だったさ。私がここに立っていられるのは、あいつが居てこそ。だったはずなのだがな……」
蝋燭の火を吹き消したように、男の顔が影をおびた。眉目を寄せて苦く見据えるその視線が射抜くのは、この場に有る物ではなさそうだ。
しんみりとした情緒に胸がおされる。それでも、どうしても確認したいことがナターシャにはあった。ライゾットに関して、彼の邸を訪ねた時に抱いた疑問について。
「一つ教えてください」
「なんだ」
「ライゾットさんは、誰かに襲われたとして、逃げもせず助けも呼ばす、あっさりと死を受け入れるような人なんですか」
「まさか。黙って首を取られるような奴ではない。……だから、信じられんのだ」
口ぶりはひどく冷静沈着であった。だが、それと裏腹に、ブロケードの顔は感情的に歪んだ。怒り、嘆き、ほとばしる情念を消し潰すように拳を握っている。
これ以上は踏み込むべきでない、少なくとも今は。ナターシャは引き際を見て取った。激するあまり刃を向けられる結末は勘弁願いたい。
しばらくしても続く言葉が無かったこと、ブロケードは会話の終止符だと取ったらしい。踵を返し、大きな背を向け去っていく。
しかし、三歩ほど進んだところで足を止めた。整えられた亜麻色の襟足をひねって、横顔をナターシャに向ける。そして、厳と言った。
「戦うつもりなのならば、生き延びることを死ぬ気で考えよ。最後に立っていた者が、正義となり、勝者となる。忘れるな」
優しさの欠片も無い音調だったが、その内実は確かに鼓舞激励の言葉。ナターシャは気を叩きこまれたように背を伸ばし、ぎこちなく畏敬の礼を返した。
ブロケードが立ち去った瞬間、緊張の糸は一気にたるんだ。意味の無い声を上げて、肩をぐるぐる回して解す。
しかし、若干拍子抜けだった部分もある。名を連ねて語られるライゾットが相当おっかない人間だと聞かされてきたから、絶対に似たようなものだと考えていたのである。しかし現実は、まともな人間であった。政府長官、人の上に立つ人だと、あれなら素直にうなずける。
さて、思わぬ邂逅があったことはそれとして、そもそも自分が何をしに来たのか。単に局長が居ないか覗いただけである。そしてかのまともでない男はここに居ない。都合よく来たる気配も無い。と言うことは、絵画があるだけのこの部屋に用はない。
「戻るか」
本来の仕事へ。史書室に向かうべく、ナターシャは礼拝堂を去った。
それから、中枢始まって最大の厳戒態勢が二日目に突入した。すべてが緊張に疲れきっている。町の住民も島外に避難しつつあり、島全体に寂しくものものしい雰囲気が満ちていた。
厚く武装した中央軍の部隊も、そろそろ気力が切れて油断が生まれるころ。ワイテが烈火のごとく旗下をしかりつけていた、という目撃談も出てきはじめた。指揮官たちは気が立っているのである。予告にあった紅い月が昇る季節まで五昼夜、ここが正念場だと。
二日の間、ナターシャも忙殺されていた。ことが明るみになるのを待ち構えていたように、四方の大陸からもバダ・クライカの決起に関する情報と対処を求める声とが続々届き、対応に追われていたのだった。
そうやって一人でこもっていると息が詰まる。休憩も兼ねて、屋上に行ってみることにした。おそらく局長が居るだろうと踏んで。なお異研から借りた魔砲は、常に離さず腰にぶら下げてある。
狭くほこりっぽい階段を上がり、半ばさび付いている扉を押しあける。正面方向に浮かぶ高い日の光が目に刺さり、反射的に手で遮る。
まぶしさに目を眩ませながら、一歩二歩と前へ。この宮殿の屋上は、随所随所に屋根飾りや明り取りがある以外、平らでだだっ広い。歩けば石の音が足下で鳴る。
尋ね人の居場所はすぐにわかった。ちょうど玄関ホールの真上、三角屋根のように作られた装飾に、暇そうな風を吹かせて腰かけている。傍らにはセレンが背筋を伸ばして立っていた。
歩み寄れば足音が響く。それに反応してディニアスが首だけをこちらにひねった。瞬間はいつもの胡散臭い笑顔をたたえていた。しかし、ナターシャの腰にある凶器を見てとると、途端に冷めた目に変ずる。
「そんなもの持ち出して。身のほど知らずが、隠れて震えていればいいものを」
「好きにしろって言ったじゃない」
「そうですね。ええ、どこで何を踊ろうと自由です。が、私の邪魔はしないでください」
「あんたと一緒に踊るなんて願い下げよ。ちょっと様子を見に来ただけ。上でさぼってるんじゃないかってね」
嫌味に嫌味で返してから、つんと顔を背ける。向かった先は南、宮殿の玄関と同じ方角だ。
島で最も高き丘の上の宮殿、その屋上に立っている。であるから、島が一望できた。ナターシャの自宅がある西側の港町も、高官たちの屋敷が並ぶ東側の街区も。水平線に帆船が浮かんでいるのすら見通せる。
なるほど、とナターシャは得心がいった顔をした。ディニアスがここに陣取りたかった理由、単なる対空の防衛だけでなく、この位置取りもあるのではないか。全てを高みで見物できる、いかにもこの男が好きそうな場所だ。
そんなナターシャの推測を肯定するように、ディニアスは語った。
「いいでしょう? エスドアがどこに出てきてもすぐにわかります。すぐに飛んでいける。だから、私はエスドアが出てくるまでここにいなければならない。あれは我が神の唯一にして最大の敵、排除しなければなりません。皆さまをお守りするのはそのついで、暇つぶしみたいなものですよ」
けらけらと笑っている。果たしてどこまでが本気なのかわからない。ナターシャは呆れて肩をすくめた。
「あんた、それで出てこなかったらどうすんのよ。かっこ悪いことになるわよ」
「出てきますよ。ここまで焚きつけて。これで出てこないようでは……まあ、そうなったら、所詮はその程度の存在だったと嘲るだけですかね」
言い捨てられた内容は、ナターシャが想定した方向性とは少し違った。が、まあよい。どうせこの高々とした鼻をへし折れないことに代わりはないだろう。
「ナターシャ様」
セレンが不意に声をかけてきた。気の利いた冗談を、という風ではない。いつも通り、凍り付いたように真面目な表情を浮かべている。
「必要の際はお呼びください。おそばに参ります」
セレンの淡い茶の目には、きらきらと光を反射していた。
ふっとナターシャは気丈に微笑んだ。
「大丈夫よ。あたしなんかより、ここで中枢を守ってちょうだい」
「……はい」
短く返事をした顔が、なぜか少しだけ残念そうに見えたが、気のせいだろうか。――きっとそうだ。ナターシャは小さく頷いて、ひらりと手を振ると、屋上を防衛する二人に別れを告げた。
かび臭い階段を下りながら、少しだけ考える。その時、自分はどこにいるべきなのだろうか、と。昼間は宮殿、夜は自宅、それが基本ではあるのだが。
「その時が来てみないと、どうしていいものやら」
すべては状況次第で。役割を与えられていないということは、裏を返せば、自分は観測者にも、狙撃手にも、警護にもなり得る。ナターシャは腹をくくった。
そして、この日の宵の口。夕日が地に落ち、世界に夜の帳が下りきった時だった。
西の町で火柱が上がった。島を揺るがす爆音を伴い、天高く。開戦を告げる合図のごとく。




