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危急存亡(1)

 たった一日がおかしかっただけだというに、この朝の常なることがこんなにも愛おしいとは。ナターシャは中枢の廊下を歩きながら、しみじみと噛みしめていた。


 昨夜は何人の襲撃も無かった。それは偶然だったのかもしれないし、セレンが隣から離れなかったせいかもしれない。どちらかは明らかでないが、結果としては変わらないから良いだろう。


 さて、セレンに関しては一つ心配していることがあった。性格からして、夜通し寝ずの番をしていたのではないかということだ。ナターシャがベッドに入った時と、安眠を貪りすっきりと目を覚ました時と、立ち位置がまったく変わっていなかった。


 驚いて、仮眠ぐらいは取ったのかと尋ねても、「任務ですので」と返って来たのみ。見る限り体調なども問題ないようだから、それ以上の追及はやめたのだが、もし二夜目に突入するようであったら、無理矢理にでもベッドに押し込めようと心に抱いている。


 そして二人連れ立ちたどり着いた総監局の執務室。鍵は既に解かれている。


 扉を開ければ、規格外に大柄なシルエットが、逆光の中に赤みがかって浮かぶ。同時にナターシャの心に半端ではない安堵が沸き上がった。


「会いたかったわ。二日がこんなに長いなんて思わなかった」

「悪かったな、全部任せちまって。おかげで、いい気分転換になったぜ」


 鷹揚に笑うヴェルムは、元総監の知己に会いに行ってきたのだった。中央諸島、こと中枢のあるエバーダン大島だいとう付近は亜人の肩身が狭く、生きているだけでも神経がすり減り息が詰まる。このように気兼ねなく自分を解放できる機会と相手は、得難いことなのだ。


 ただし、息抜きを無条件で喧伝するには、自分が不在の間に深刻な事態が無かったことが前提である。それが崩れたということを、ヴェルムはセレンの姿で察した。ただならないことがあったのか、慎重な言い回しでナターシャに尋ねた。


 聞かれた方はあっけらかんとして「襲われた」と答えた。そして、赤い顔を青くして唖然としている大男に、特命部にて語ったのと同様の内容を聞かせた。意図的な省略も同じ点で。ただ、理由は少し違う。ヴェルムに余計な心配をかけたくないためだ。人魚の血ゆえ狙われたと言えば、この男はまた怒り嘆くだろうし、ライゾットのことを探っていたと言えば、余計な藪をつつくなとたしなめられるだろう。


 もっとも、襲撃の事実だけで、彼を懊悩させるには十分すぎるほどだったが。信じられないとばかりに、頭を抱えている。


「大丈夫よ、こうして生きているし」

「だがたまたま運が良かっただけだ。巡回の連中が通りかからなかったら、どうなっていた」

「……まあ、死ぬかと思ったわよ。でも、今はセレンも居るし、もしもまたのこのこ出てくるようなら、逆に返り討ちよ。幻術だってわかってるなら、あたしでも何とかなる気がする」

「やめとけ。キロハの女じゃ、他になに隠し持ってるかわからんぞ。逃げることを考えろ」

「私がナターシャ様をお守りしますので、ご安心を」

「あァ、ぜひそうしてくれ」


 焦れるように言ってから、ヴェルムは腕を組んで椅子にのけぞった。天井に向いた顔はいやにこわばっている。腹の虫がおさまらないようだ。


 ナターシャはぼんやりと頬杖をつく。返り討ちにというのは半ば本気だ。あの女を捕まえて締め上げれば、すべての解決にぐんと近づくはず。ディニアスに言われた通り、自分が幻術が効かない体質であるのならば、エスドアの使いの天敵ということ、この上ない好機ではないか。


 ただ、今は別のことを優先せねば。


「ねえ。あんたが居なかった間の色々、共有したいんだけど」

「そうだな。順番に教えてくれよ」


 総監局の平常業務が始まった。



 対面で細々と情報共有を進めてしばらくしたころ。古めかしい扉が、かなり急いだ調子でノックされた。ふっと三人ともが一斉に顔を向ける。


 出迎えや返事など待たず、訪問者は扉を乱暴に開け放って転がり込んできた。前を開いた制服の胸に、治安省組織犯罪捜査局の章を鈍く輝かせている青年、コープルだ。確かに訪問予告はあったが、どうにも予定通りという雰囲気ではない。


「ちょっと聞いてくださいよ、ナターシャさん!」


 肩で息をし、ずけずけと歩みながら、コープルは大声で愚痴っぽく言った。


「逃げられたって、報告がありました。昨日の今日でですよ!? しかも、組織丸ごと行方をくらましたって。ありえないって!」

「なに、また捜査情報流されたの?」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。なんかもう、向こうも慌てちゃってて。他に緊急で頼みたいことあったみたいなんですけど、間違えて白紙入れてるんです。はあ、なんだかなあ」

「なにか取っ掛かりくらい書いてないの?」

「無いです。だって、こんな走り書きですよ」


 と言ってコープルはポケットから折りたたんだ紙を出し、ナターシャの目の前にひらりと開いた。


 なるほど、報告書の体裁でしたためられた文書の頭に、「別添の次第、至急対応せよ」と後から書きなぐられた風になっている。伝書を飛ばす直前に発覚した何かをねじこんだ、つもりだったのだろう。急ぐあまり無地の紙と取り違えてしまっては、本末転倒なのだが。


「とにかく、詳しい話は後でしにきますので、今はこんなところでいいですか? とりあえず、ボレット統括に報告してこないと」


 コープルは事もなげに肩をすくめた。が、聞いた方は完全に度肝を抜かれた。


「ちょっ、馬っ鹿じゃないの! どう考えても、先にそっちでしょ! なんでこんなとこ来てんのよ!」

「省にも特命部にも居なかったんです。だから、ナターシャさん待たせるのも何だと思って、とりあえずここに――あたっ!」


 ナターシャの平手が、コープルの頭を軽く打った。言い訳無用、そんな心地である。此度の彼の行動は、誰がどう見てもおかしいと思うだろう。しかもよりにもよって政府の異端である総監へ踏み入れたのだ、ともすれば、内通を疑われる可能性すらある。迂闊だ、迂闊過ぎる。


 だが、ナターシャの憂いは、当の本人には通じていないらしい。不満げに口をとがらせて、ヴェルムの方へささっと寄ると、愚痴っぽくこぼした。


「ヴェルムさーん、見ました? 叩かれちゃいましたよ。僕、そこまで悪いこと言いましたかねぇ」

「強いて言うなら始めから全部だ」

「ええ!?」

「いいから、さっさとボレットんとこ行って来い。難癖付けたがるやつなんざ、山ほどいるんだぞ」

「……はーい」


 そしてコープルが気だるそうに踵を返した瞬間、外から扉がノックされた。しまった、と肩が弾み顔が苦く歪む。いそいそと襟元を整え、姿勢も正し、表面だけでも好印象に取り繕おうとしていた。


 そんなところへ遠慮なくドアは開かれ、若干横幅のある人影が焦り気味に踏み込んできた。下がり眉できょろきょろと室内を見渡すその人は、中央軍の総大将ワイテ=シルキネイトである。もとより白髪の混じる年頃合いなのだが、どうしたことか、今朝は一段と老け込んで見えた。


「ああ、みんなそろって……でも、君はここの子じゃあないね」

「治安省組犯のコープルです。捜査の関係で、少し。お邪魔ならすぐに出て行きます」

「いやいや、いい。わしこそちょっと来ただけだ。ディニアス君は……居ないようだしねえ。どこに行ったのか知らないかな?」


 周りを巡っていたワイテの目は、ナターシャの方へ向いて止まった。首を横に振って答える。


「最近はほとんどこっちには顔出してないですよ。特命部の方じゃないかしらと思うのですが」

「ふうむ、そうか。ちなみに、ギベル君がここに寄ったりしてないかね?」

「ギベル司令? いいえ」

「もし来たら、わしが探しておったと伝えておくれ」

「はあ……」


 小さく頷きつつも、疑問は拭えない。普通に考えれば、ギベルが総監局に立ち寄ることなど無いだろう。用も無いのに犬猿の仲たる相手の居所へやってくるわけがない。ということは、向こうにそうせざるを得ない用が出来てしまった、なにか普通ではないことが起きている証明だろう。


 ワイテはそそくさと去ろうとしている。――なにかあったのですか。そんな風にして、ナターシャは呼び止めようとした。


 しかしその時、三度となるノックの音が激しく鳴り響き、一同の動きを中断させた。今度は誰だ、と注目が一点に注がれる。


 そんな中、乱暴にドアが開け放たれ、威容のある髭を蓄えた男、ボレットが肩を揺らして踏み込んできた。が、視線の多さは予想外だったのだろう、怯んだような顔をして、数歩のところで立ち止まってしまった。


 驚いたのは迎える側も同じである。たて続いた客の来訪自体も相当だが、まったく予期できぬ顔が登場したものだから。ただ、コープルだけは好都合だとばかりに、顔をほころばせているが。


 さて、ボレットは神妙な顔つきになりながら、ひとまずワイテへと向いた。


「大将もこちらにおいででしたか」

「うむ。まあ、用件はたぶん同じだよ」


 ワイテが意味深な表情を見せ、それにボレットが弱ったように頷いた。やはり尋常ならぬことが起こった様子、ナターシャもヴェルムも察し、嫌な汗をかいていた。


 一方、コープルは今しかないとばかりに、治安省の二大柱の前に飛び出した。


「探していました、統括! シュドンの件で、急ぎご報告したいことが」

「すまぬが後にしてくれ。それどころではない。……ディニアスは居ないのか、どこだ」


 ボレットは青年の肩を押しのけ、亜人の二人を交互に見やった。


 ついさっきまったく同じ質問をされた。ナターシャは面倒くささを隠そうともせず、むっとした顔で首を振って答えるだけ。ヴェルムも手ぶりのみで、似たような返事のしかたである。 


 厳格な誰かなら指導を飛ばしてきただろうが、ボレットは激さなかった。怒りとは違う難しい顔をしただけである。


「であれば、見かけ次第、特命部に来るよう伝えてくれ。よろしく頼む。では……大将、お聞き及びと存じますが」

「ああ。わしも行こう」

「あっ、ちょっと待ってください、統括! こっちも一大事なんです!」

「ならば歩きながら聞く」

「はいっ!」


 足早に去っていく上長たちの背を、コープルが無い尻尾を振ってついていく。騒々しく現れた治安の一行は、かき乱すだけかき乱して、消えた。


 総監局には、筆舌に難いどんよりとした気が漂っていた。


「……何だったのかしら。嫌な予感しかないけど」

「あいつ、今度はなにしでかしやがった」


 局長の不吉な笑い声が聞こえてくる気がする。しかし、探される本人がここに居ない以上、詮索する手段はなかった。



 それからしばらく、平常通り仕事を進めていた。朝の駆け込み以外、変な案件は来ていない。せいぜい西方総裁府に貸していた資料が大量に返却され、その片づけに追われていたくらいである。とはいえ、セレンの手も借りたから、比較的楽に終わったのだが。


 時計が一周半めぐり、手作業が一段落した時だ。ヴェルムが資料棚に寄り、ひどく深刻な顔で一冊の紙束を開いていた。どうしたのかと尋ねれば、少しためらってから、


「あの坊主が言っていた名前がひかかってな」


 と。シュドンと呼んでいた、コープルたち組犯が調べている人物のことである。とすれば、見ているのは当時の捜査資料だ。興味を持ったナターシャは、ヴェルムの後ろから覗きこんだ。ついでにセレンもついてくる。


 東方大陸でなされていた、アビリスタたちによる組織的人身売買のあらましが、他ならぬヴェルムの細やかな字で記録されていた。


 概要をかいつまみ、ナターシャが思うのはただ一つ、ひどい、と。


 取引していたのは、亜人と人間の女子供。裏社会の金持ちを集め見世物にし、あるいは奴隷や使い捨ての玩具として売り払う。商品が無くなれば、孤児をかどわかしたり、暴力をもって狩ったり。


 ナターシャの脳裏に、バダ・クライカに乱暴された人魚たちの姿がよぎり、胸をつまらせた。それでも、記録を読むのはやめない。すると。


「……ライゾット?」

「討伐隊を仕切ったのが、あの畜生だ」


 憎々しさを隠そうともせずヴェルムが言い捨てた。なるほど、その理由はすぐにわかった。以下に、感情に震え乱れる筆致で、仔細に記されている。


 シュドンらの本拠が港町近郊の廃墟地下にある、それを掴んだ東方治安局は、ライゾットの采配の下、中央の総監や組犯との連携を無視し討滅を強行した。その手段は、火攻め。下手人たちを――そして商品として捕われている哀れな人々も――逃げ場のない地下に封じたまま、廃墟を火の海に変えた。辛うじて地上に出てきた者たちも、一人残らず武装した兵に袋叩きにされた。


 炎が静まり、狂乱する声も絶えた後。命が残っていたのは、虫の息のシュドンら敵の幹部三人。それに加えて、奇跡的に人間の被害者が五名ほど保護できた。囚人の大多数を占めた亜人については「不幸にも」全滅だった、と報告された。――このあたりの記述には、一際怒りが滲んでいる。


 はあ、とナターシャは重く息をついた。異能差別論者の手にかかればそんなもの、はなから助ける気など無く、いっそ丁度良い掃討の機会だと喜んでいたかもしれない。不愉快だが、理解はできる。そしてライゾットが他の折にも、かような強硬手段を取ってきたとも、容易に想像できてしまう。


 東方の亜人からはさぞ怨恨を買っているだろう。あの夜まで殺されていなかったのが不思議なくらい。アビラの持ち主が結託し、本気で暗殺を企てれば、ただの人間が太刀打ちできるはずもないのに。


 疑問を抱いたナターシャは、思いを巡らせる。差別への反発なら、なぜもっと早くに、もっとやりやすい場所で実行しなかったのか。


 深く考えると、わざわざあの夜に凄惨な現場を創り出した動機がぼんやりと見えてきた。本当の狙いは――


「演出のほう?」


 ふっと言葉にして口からこぼす。ヴェルムが、そしてセレンも、怪訝な面持ちでかえりみた。


 どうした、とヴェルムに問われ、ナターシャは逡巡した。ライゾット事件を探っていることを、素直に言うべきか言わぬべきか。赤肌の男が、差別論者に敵意を持っているのは明らか、自分の行動が知れたらどう思うだろう。しかも正当な任務でもなければ、過去に「興味ない」と切り捨てたもの。


 ためらったすえ、虚実どちらも発せずに終わった。口を開く前に、総監局の扉が開かれたからである。なお、今度はノックなどない。


 振り向けば、局長。上衣の橙赤二重の裾をひらめかせ、大股で悠々とこちらへ歩いてくる。いやにご機嫌な様子だ。


「セレン、おまえの任務を解きます、戻りなさい。状況が動きました」


 口角をつり上げ、部下に告げる。するとセレンは小さく頷き、それからナターシャの方を振り返る。目を真っ直ぐに見て「お気を付けください」と言い残し、凛とした足取りで去って行った。実にあっさりとしたものである、拍子抜けだ。


 そして、ディニアスは身構えている二人の前に立った。


「さて、赤肌殿、ナターシャさん。大事件です。一緒に来てください」

「何があった」

「バダ・クライカが何かしでかしたの?」

「そうですねえ、歩きながら話しましょうか。事件と言いましたが……これは戦争。ええ、戦争です! 向こうは聖戦のつもりでやってくるので。いよいよ、いよいよ! エスドアと決着をつける時が来た、そういうことですよ!」


 まるで時が止まったよう。後ろから殴りつけられた衝撃に、ただ唖然としている。鳴り響く局長の高笑いも、手から落ちた紙束が床を叩く音も、二人の耳をすり抜けていった。


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