神の徒(2)
ナターシャはうんざりと言った風に頭をかいた。確かに朝一は話があった、が、その悩みはもう解決したようなもの、殊更に相談したいとは思っていない。おまけに気が立っているとなれば、ますます避けて通りたかった。
「あたしは別にもういいわよ。あんたも忙しいんでしょ? じゃ」
そっけなく言い放ってから、ディニアスを置いて廊下を進む。胸を張り早足で、背中から拒絶のオーラを昇らせながら。
もちろん、そんなことで退けられるほど気の優しい局長ではない。ナターシャよりも大股なのを活かし、猛然とついてくる。無視を決め込んでかかっても無駄、無神経に話しかけてくるのだから。
「まあまあ、よかったですよねぇ、たまたま幻術が効かない体質で。じゃなかったら死んでましたよ?」
「わかってるわ。運が良かっただけ」
「その通り。これにこりたら、余計なことせず大人しくしていなさい」
「……あたしは別に、何もしてないわよ。家の前で待ち伏せされた、それだけ」
「ふうん、そうですか」
冷ややかに言って、ディニアスは黙った。
しばし無言のまま並行して歩く。嫌な沈黙だ、かつ不吉めいてもいる。かといって、自ら破ろうとは思わない。それこそ向こうの思う壺かもしれないから。
対向から軍服を着た女性がやって来た。毅然とした早足の音で周りを威嚇するように。すれ違いざまに視線がかち合ったが、だからと言って特になにも無かった。特命部へ向かうということは、ギベルの指揮下で動いている者だろう。
彼女の足音が後ろへ遠ざかる。そこで、隣の男が再び口を開いた。また輪をかけて苛立たしげな声音だ。
「この期におよんで私に隠しごとが通じると、あなたはそう思っているのですか」
「か、隠しごとなんて。別に」
「嘘おっしゃい。……ミリア統括から聞きました」
うげ、とナターシャは苦虫を噛んだ後のような声を漏らした。おおよそ想像はつく、昨夜の事件の原因がライゾット事件を蒸し返したことであると勘違いしたミリアが、不安にかられて、あるいは妙な責任を感じて狂乱し、ディニアスの下へ押しかけたに違いない。
ミリアに悪気はなかっただろう。だが、余計なことをしてくれたと思わざるを得なかった。現に、局長はたいそうご立腹のようであるからして。
「あなたが昨日の夕方どこでなにををしていたか、大声でわめき立ててくれましたよ。まったく、勝手なことしてくれますね。しかも、わざわざ火を被りにゆく愚行。馬鹿ですかあなた、この際一回死んどきます?」
「こんなことになるとは思わなかったもの。終わった事件だし、今さら気に掛けるやつなんてどこにも居ない。第一、あたしが襲われたのとは別の問題よ」
「言い訳は無用。ライゾットさんのは終わったこと、指示もしてないのに、あなたが触れる必要もない。勝手滅茶苦茶に飛び回るんじゃあないですよ。大人しくしていなさい、局長としての命令です」
「……だけど。腑に落ちないことが色々あるもの」
実際に目で見たゆえの所感、それだけでも動いたかいがあっただろうものを。視点を変えたことによるささいな違和感が事件の解明につながるかもしれない、総監局に来て半年の新米でも心得ていることだ、局長なら理解してくれそうなものだが。
しかし、ディニアスはますます厭わしさ満点に顔を歪めた。鼻で冷笑一つして、口も閉ざしてしまう。
――おかしい。今日の彼は何かが変だ。「腑に落ちないことがある」などと言えば、真っ先に食らいついてきそうなものなのに。いや、平素はむしろ彼から「おかしなことはないですか」などと誘導的に聞かれるくらいだ。
「……あんた、どうかした? 体調悪いとか? あんたも寝不足?」
「まあ、それはそうですね。ろくに眠っていないので」
「……あんたねぇ、自己管理くらいしっかりしなさいよ。それで苛々されたら、いい迷惑だわ」
はあとため息が一つこぼれた。謎は解けた、大層な理由があるのかと思えば、どうでもいいことだった。
ならば遠慮をする必要もないだろう、とナターシャは強気にせがんだ。
「ねえ。エスドアについて詳しく教えて。何か掴めるかもしれない」
「お断りします。私はあなたと違って暇じゃないので」
「暇って……あたしだって、遊んでるわけじゃない。本気であいつらの尻尾を捕まえたいって思ってる」
「それが余計な真似だと」
「確かに規則じゃそうかもしれないけど、でも、あたしも当事者だし。それに、そうよ! あんただっておかしいって思ってたじゃない。ライゾットのこと、エスドアがやったんじゃない――」
「くどい!」
不意に立ち止まって放たれた、語気は非常に荒い。ナターシャの言葉も引っ込み、目が丸くなったまま足も棒に。呆気に取られて隣の男を仰ぎ見る。すると苛立ちのこもった声が正面切って降って来た。
「まったく、人の気も知らないであなたは……」
「どういうこと?」
怪訝に問い返せば、ディニアスの瞳がぎらりと光る。そこにうすら寒いものを感じて、ナターシャは肩を跳ねさせ、思わず後ろに足を出した。
その肩が、男にわしづかみにされる。さらには迫るように身を寄せて来る。たまらず後ずさりしたが、すぐに壁に追い詰められた。まるで磔にされるような図、気持ちよくはない。
なにを、と問いただすより先に、ディニアスの真顔が正面に迫りくる。体ごと覆いかぶさられるようにがっちりと固定され、息を呑む間もなく鼻と鼻とがふれあう距離に、呼吸も肌身に感じられる。
ナターシャの全身が粟立った。いっそエスドアの使いと相対した時より、おぞましさを感じている。唇を奪われる、蹂躙される、犯される。ナターシャの脳に駆け抜ける不埒な情景。しかも、この男だ。最悪である。
ところが、予想に反してディニアスの口は頬をかすめ耳元へ向かい、直接鼓膜へ吹き込むように、虫の羽音よりかそけき声を発した。
「私は監視されています。行動も、会話も、複数の方面から。接触するときは、そのおつもりで。……内緒の話にしておいてくださいね。気づいていないふりをしているので」
言い切るやいなや、ディニアスはあっけなく身を引いていく。もとの不貞腐れた面ではなく、馴染みのある妖しい笑みを浮かべて。
そういうことだったのかと一応は納得した。しかし総毛だったものは未だ解消されておらず、さっと自身の肩を抱き、神妙な面持ちで目線を下げる。飛び出す寸前だった悲鳴と罵詈雑言はどうにか喉の奥で留め、彼の意図と一緒に飲み下した。
さりげなく目線をやり周囲を調べる。長く伸びる来た道、三方に分かれる行く道、どちらにも他者の姿はない。柱の影や扉の隙間から誰かが様子を伺っている感じもない。となればナターシャには解せない方法、すなわちアビラの力で巧妙にやっているのだろう。
透明になった何者かがすぐ傍らに立っている。ぞっとしない状況だ。しかも、想像すると本当にその通りだと思えてきてしまう。人影がディニアスの背後にゆらりと浮き出てくるように――。
「ナターシャさん、そう怖い顔しないでください。いいじゃないですか、誰も見ていませんから」
「……今度やったら、蹴り潰すわよ」
「おぉう、恐ろしいこといいますねえ」
局長はけたけたと上機嫌に笑った。返答のしかたは間違っていなかったらしい。監視者の存在に「気づいていないふり」はナターシャにも求められている、それくらいは察した。
バダ・クライカ――ディニアスの言う「複数方向」に、間違いなく含まれているはずだ――はライゾットの件はエスドアの所業としたがっている。その裏を執拗に探っていることが発覚すれば、向こうも黙ってはいまい。ただでさえ別理由で命を狙われたのだ、より一層の殺意をもって、より確実な方法で消しにくる。今度は逃げられないだろう。
「ナターシャさん、余計なことに嘴つっこむ暇があるなら、一仕事お願いします。これ、リュウロさんのところに持って行ってくれませんか」
と言ってディニアスは上衣の合わせから手を突っ込み、左脇腹のあたりより何かを取り出した。
手に持っているのは握りやすそうな大きさの黒い石。明らかに天然のものではない、輪を描くように磨いた物の一部を割って取りだした形である。
そういう物にひとつ心当たりがある。ナターシャは不審な顔で瞬きを繰り返していた。
「これって、さ……あたしの記憶が確かなら、例の手枷よね?」
「ええ、異研ご自慢の封魔枷です」
「あんた壊したの!? っていうか、壊れていいの!?」
「よくは無いです。だから仕事ですって。……ちなみに、割ったのは私じゃないですから。特使官も暇なのでおもちゃ代わりに渡してみたら、馬鹿が叩き壊しました。まったく厄介ごとを起こしてくれますよ」
ディニアスは口を尖らせながらナターシャの手を掴んだ。なぜか、物を受け取るように差し出されていた右手ではなく、力無く垂れさがった左手の方を。
上に向けられた手のひらの真ん中に黒石の破片を押し付け、握りしめさせるように指を折り曲げる。最後にぐっと力を込めて拳の形に整えれば、まるで人形であるかのように、その形のまま固定された。それからまた元通り下に降ろされる。終始ナターシャには感覚が無かったから、他人事を見ている感覚であった。
「わざわざどうして。こっちの手だって空いてるじゃない」
「そうですね。この方がおもしろいから、とでも言いましょうか」
「あんた、人の不幸がそんなに楽しい?」
「まさか。ちゃんと早く治るようにお祈りしていますよ。……では、私はこれで」
早口で言い残してディニアスは分岐を直進していった。
「……まあ、異研には聞いてみるつもりだったから、いいんだけどさ」
ちらと呪われた腕を見る。放っておけば治るらしいが、いつまでかかるかはわからない。早く回復する方法が見つかるとよいのだが。
ナターシャは西棟へ向かうべく、右へ曲がる狭い廊下を進んだ。




