神の徒(1)
ナターシャは治安部隊の仮眠室で夜を明かした。帰路を待ち伏せされたかたち、とても自宅に戻る気分にはなれなかったのだ。なおかつ眠りは浅く、休まった気がしない。
治安隊は夜通し島中を駆け回った。しかし結局、逃げた女は見つからなかったそうだ。治安隊長は申し訳なさそうにしていたが、決して彼らの不手際ではないだろう。相手は幻影を扱うのだ、姿を隠されてしまえば、素人目で見抜くことは出来まい。
「特命部にはこちらより報告を入れます。ひとまず局にお戻り頂ければ」
生真面目そうな隊長に言われた通り、ナターシャは通常通り総監局へ向かった。今の時間帯ならば出仕する人の波がある、一人にならないように乗っていけば、また急襲されることはないはずだ。
なお、左腕は一晩越しても治っていない。黒塗りは擦っても叩いても消えることはなく、また、どれだけ力を入れても肩より先が動かない。
一生このままかもしれないと考えれば、ぞっとした。異能的傷害に関して泣き付くならば、異研か総監というのが定説だ。
「……局長、居るかしら」
彼のにやけ面を拝めることを珍しく期待しながら、ナターシャは荘厳な廊下を進んだ。
残念ながら執務室は空であった。昨日ナターシャが閉めて帰ったままの状態で、先にディニアスが立ち寄ったということもなさそうだ。思えばこの数日、彼の姿を見ていない。指示は都度書き置きしてあったから、来てはいるはずなのだが。
深くは考えないようにする。局長が神出鬼没なのは今に始まったことではない。きっと昨夜の事件を噂に聞けば、からかいついでにやってくるだろう、待つが得策だ、と。
ところが、朝の静かに冷えた空気にうつつを抜かす暇もなく、ナターシャに呼び出しがかかったのだ。特命部長ボレット=エストバルの秘書が息を切らせ来て、昨夜の件で話を聞きたいと。拒否権は無い。ナターシャは重い体を持ち上げて、特命部の会議室へと参じたのだった。
ここにはあまりいい印象が無い、そんなことを考えながら特命部の扉を叩き、開いた。今日はまだ殺伐とした音声は聞こえてこない。
中に居たのは二人、ボレットとギベル=フージェクロだ。どちらともが少しばかり疲労感をにじませている。あるいは事件を受け、彼らも夜も明けきらぬ内から動いていたのかもしれない。
「ナターシャ=メランズです。お呼びだとうかがったので、参りました」
「わざわざすまない、ひとまず座ってくれ」
「あの。昨日のことなら、治安部隊の方々から報告があったと思うのですが」
「さようだ。しかし、貴殿としても、直接証言を話しておいたほうがよいだろう。巡察隊から我らの下へ報告が来るまでに、誰がどのように捻じ曲げるかわからないからな」
一理ある、とナターシャは思った。ボレットの隣に居たギベルも同意するように首を振る。
まともに話を聞こうという意志があるならば、こちらもきちんと話をするべきだろう。だからナターシャは、治安部隊にした証言を、もう一度二人の前で繰り返した。起こったことをありのままに語り、左手に残された不気味な傷と、その源だろう黒い針も証拠として突き出した。
ただし、意図的に伏せた部分もある。中枢退出後、ライゾット邸へ寄ってから家路についたこと。それと、エスドアの使いが狙って来た理由だ。今相手するのは特命部きっての生真面目二人、「自分の血肉が不老不死の薬だと思われたのが動機です」なんて話を素直に飲み込んでくれるとは思えない。かと言って、馬鹿正直に信じ込んでもらっても嬉しくない。どこから伝え漏れて、第二第三の事件を起こされても困るからだ。
前者は隠したら知り様がないからともかく、後者は向こうとしても気になるところだったらしい。ナターシャが話す間は横槍を入れなかったが、終わったと見るや、ギベルが眉間に皺を寄せて突っ込んできた。
「なぜ襲われたかわかるか。なにか言っていなかったか」
「……さあ。特になにも」
「いや、なにか理由があるはずだ。でなければ、エスドアの使いがわざわざ姿を現すこともあるまい」
「そう言われても……」
「怨恨、ではないか?」
呟いたのはボレットだった。
「君らが潰したバダ・クライカの拠点。あそこは連中にとって最大の要であったようだ。目の敵にされていても不思議ではなかろう」
推理としては筋が通っているし、そう思っておいてくれるのなら好都合だ。ナターシャはとりあえず頷いておいた。
ちょうどその時だった。部屋の入り口が、ノックも無しで乱暴に開け放たれた。やってきたのはディニアス、今日も相変わらず目にうるさい色づかいの出で立ちである。
ただ、いつもと少々様子が違う。目に見えて機嫌が悪そうだ。平素の張り付いたにやけ面もなりを潜め、止まるを知らない口もが固く閉ざされている。
彼は離れたところにある椅子に背を預け、ふんぞり返ったままでナターシャに鋭い目を向けた。が、やはり何も喋らない。
いの一番に苦言を漏らしたのはギベルだった。
「ディニアス、なんだ貴様は。仮にも長官、他者に示しのつかぬ態度をあらわにすること、恥と思え」
「そろそろ言い飽きたんではないですか、その台詞。私は聞き飽きました、もう要らないです。鬱陶しいので黙ってください」
「貴様……!」
青筋立てるギベルの肩をボレットが叩いた。首を振ってやめろと諭す。ただ、彼も快くは思っていない、げんなりとした表情である。
そのまま、ボレットはディニアスに歩み寄った。手にはナターシャから証拠品として預かった黒い針がある。
「これが何かわからないか。それと、彼女の手も見てやってくれ。ただならぬ状態になっている」
「これは……キロハの呪具」
「なんだそれは」
「キロハ族は東方大陸の少数部族です。独自の文化風俗、あと信仰を持っていて、山奥で人目を忍ぶように暮らしている、そういう連中です」
「亜人なのか」
「血は人間ですけど、扱いとしては一緒でいいんじゃないですか。秘伝の呪を使うあたりも含めて、異端の側に入ります。……ああ、呪詛の残骸は放っとけば消えますよ。もう一度襲われたりしない限りですけど」
「そうか。ならば一安心だ、よかったな、ナターシャ殿」
「え、ええ」
ボレットの屈託のない笑みに、少し面食らってしまった。
ただ、ディニアスの側は、なおも苦い顔をしている。なぜか怒っているような、そんな雰囲気すら漂っている。それでナターシャに目玉を向けるものだから、つい、肩を跳ねさせてしまった。実際は、ただの質問であったのだが。
「ねえナターシャさん。あなたを襲った輩のことですが。身にも呪術式を刻み、あなたを呪殺しようとした、違いないですよね?」
「そうよ。幻とか見せられた」
「はて……妙な話だ」
ディニアスは不快を吐き捨てるように呟いた。どういうことかと誰かが問い詰める前に、勝手に語り始める。
「キロハ族はエルジュを神のように崇め慕っております。正確に言うなれば、エルの弟子の末裔と呼ぶべきか。扱う術も、古より伝えられたエルジュのそれです。それが、なぜ、バダ・クライカに加担する」
「えーっと、あんたの言うそれ、誰よ」
「知らない!? ルクノラムに数える第二の使徒、我が神の片腕、深遠なる魔術師、エルジュ。エスドアのことを調べていながら、その名を聞いて何も思わないと!? あり得ない。愚の骨頂。無知の極み!」
最大限に見開かれた目は烈火のごとき激情を映し、胸の横で上向きに開かれた手はわなわなと震えている。どうやら、逆鱗に触れてしまったらしい。
厚き信仰を持つ者は、時として非常に面倒くさい。対象がエスドアかルクノールかの違いなだけで、この辺りはバダ・クライカとも変わらない。
下手なことを言ってしまえば、ますますディニアスは発狂するだろう。ナターシャは意図して口をつぐんだ。言われてみればエルジュの名は聞いたことがある気がするし、何となく局長が怒った理由も察しがついたが。
彼女の代わりにボレットが口を開いた。
「なるほど。ルクノールの使徒を崇めている、それでいて、敵たるエスドアに味方するのはおかしい」
「その通り。異常なこと。我が神への背信者め」
ディニアスはいやに凄みのある声で言い捨てた。が、ナターシャには彼が違和を感じている部分が、どうにも的外れに聞こえてしかたがなかった。だから、つい勢いあまって、思ったことを口に出してしまった。
「ただの例外じゃない。どこの組織にだって、そんなの一人二人いるでしょ、全然不思議じゃないわ」
「……ああ、確かに。目の前に居ましたね」
嫌味な視線がナターシャに向いた。いつも通りだ、逆に安心する。
と、また口論になるのを恐れたボレットが、わざとらしい咳払いをした。眉を下げてディニアスへ向き直る。
「今はその論議をする必要はなかろう。理由がどうであれ、すでに本島に入り込み、危険を振りまいているのが事実。まずはこれをどうにかすべきだ」
「わかっていますが。それで? どうなさるおつもりです?」
「ただちに島の警戒態勢を強める。ナコラから応援をもらうべきかもしれん。ギベル、大将殿にも伝え、少し策を考えるぞ」
「承知しました」
「ディニアス、おまえはヴィジラの方を頼む。状況が状況、展開させて文句を言う者もおらんだろう。特使官だったか? そちらからも警邏に回せ」
「ハッ、今さらな対応ですね。言われずとも端からそのつもりですよ。……失礼します」
冷めた目のまま踵を返し、ディニアスは部屋を去った。後ろ手に閉ざされる扉を見ているボレットとギベルは、当然ながら、腹に据えかねるものがある様子だ。
八つ当たりを食らうのは勘弁願いたい。ナターシャは愛想笑いを浮かべながら、立ち上がりざまにボレットに告げた
「あの、あたしももういいですか……いいですよね、残ってたって、何もできませんし」
「そうだな。また何かあったら、すぐに知らせてくれ。ギベル、お前からは?」
「……いえ。事件に関しては、何もありません」
「じ、じゃあ、失礼します!」
ナターシャは逃げるように会議室を飛び出したのだった。
把手を動く右手でつかみ、そっと扉を閉めた。その姿勢のまま瞼を落とし、深くため息をつく。やはり特命部は苦手だ、色々と疲れる。
さて、切り替えて総監局に戻ろう。今日もヴェルムが非番だ、あまり悠長にはしていられまい。
そして、ナターシャは目を開けて回れ右をして、ようやく気づいた。
「……なによ。あんた、まだ居たの」
「言いたいことがあるでしょう、お互いに。だから待ってて差し上げたんですが、いけませんでした?」
ドアの横、局長ディニアスが不機嫌に腕組み、壁に背をもたせて立っていた。




