エスドアの使い(3)
嫌な汗が全身を伝う。こちらの返事を待っているのか、エスドアの使いは動きを見せない。
ナターシャは視線のみで周りを探った。路上には、身を守る武器になる物は無い。助けを求めようにも、人が歩いている気配はない。大声で叫べば近隣の住居に響くかもしれないが、目の前の女が黙って見逃してくれるとは思えない。相手は間違いなくアビラを持っている、一つ言動を間違えれば、すなわち死だ。
幸いエスドアの使いは温和な態度を貫いている。会話で上手くやりすごすか、隙をついて逃げるか、どちらかが善策だろう。退くならば後ろ、大通りだ。そう心の内で確かめ、生唾を飲んでから、目一杯強がって言った。
「なんの用よ」
「我らが主の意向をお伝えに参りました」
「だから、それが、一体なんだって」
「主は、あなたを、同胞として迎え入れたいと」
「冗談じゃないわ! お断りよ。帰って」
「何故拒むのですか。あなたに拒む理由はないでしょう。我らバダ・クライカ・イオニアン、下賤な人間からこの世を取り戻す、真なる御子の集い。人魚族に生まれたあなたは、紛れもなく我らの同胞です。その選ばれし血を持ちながら、人間に味方した大いなる罪、それも主は全て許すと仰せです。さあ、共に参りましょう。我らに幸福なる未来を導くために」
ふざけるな、と言い返そうとしていた。しかし、ナターシャの口は動かなかった。
暗がりの中に女の双眸が、ぼんやりと紫光を放って浮いている。抗いがたい強さで意識そのものを引きつけられ、一切の挙動が封じられる。周囲の風景すらも霧がかかったように認知できない。
エスドアの使いは、瞬き一つしないで唱え続けた。
「ナターシャ=メランズ。それがあなたの運命なのです。我らの同胞として、我らが主のために尽くす。運命に抗うことなかれ、其れは自ら苦難を望むことゆえ。心を開き、自ら問え、そして受け入れよ。ナターシャ=メランズ、我が言葉を受け入れ、忠誠を誓え」
重々しく圧迫感のある響きだった。目から入り込む光と共に神経の中を駆け巡り、ナターシャの自我を殺して回る。体が重くなり、自分のものでないような錯覚に陥る。意識が浮つくこの感じは、眠りにつく時に似ている。
しかし、心への浸食が進むのとは逆に、体が悲鳴を上げ始めた。頭が締め付けられるように痛み、吐き気をもよおす。脈拍が異常に速くなり、全身から汗が噴き出している。
その不快感が意識の消失を妨げていた。苦しい、辛い。己が状態への不安が、従属への誘いを跳ね除ける。なおかつ苦痛の元凶へ気を巡らす。それは光、それは音。
ナターシャは両手を振り上げ、耳を強く押さえた。同時に目を固く閉ざす。
なおかつ、叫んだ。
「ふざけんじゃないわよ! あんたたちは、あたしの仲間に何をした!? 許すものか。信じるものか。あんたたちの神は、破滅をもたらす災いそのものだ!」
瞬間、霧が晴れた。体の不調は一気に消えてなくなり、狭窄していた視野も戻る。明瞭になった意識に語り掛けるのは風の音のみ、エスドアの使いが発していた呪詛は消えている。
ナターシャは目を開き、エスドアの使いを見た。たじいろいだ体勢で、フードの上からこめかみを押さえている。困惑と憎悪が滲んだ目には、もう幻惑の光は宿っていない。
「……なぜ催眠が効かない。完全に入り込んだはずなのに」
女は小声で吐き捨てた。それをナターシャは聞き逃さなかった。何をされていたのか理解する、そして己が勝ったことも。形勢逆転、ここぞとばかりに畳みかけた。
「あたしは夢を見ない、あんたたちのうわべだけの理想には騙されない。エスドアが世界を救うなんて、信じるものか。主とやらに伝えなさい、あたしは必ず、おまえを獄に繋いでみせる」
女は軽くかぶりを振り、肩を落とした。
そのまま引き下がれ。強気で構えたままナターシャは念じた。だが、エスドアの使いが踵を返す様子はない。うすら寒い微笑みを浮かべ言った。
「素直に従っていただけず、残念です。心を許して頂けないということならば、仕方ありません、その肉体だけをもらい受けます」
「は? ……どういう意味よ」
「我らが主が御所望なのです。奇跡の力を持つその血肉にて、我らが神代に永遠をもたらして頂きたい。死に絶えることも、老い衰えることもない栄光を我らに」
恍惚と語る意図を理解した途端、全身の毛が逆立った。開いた口も塞がらない。人魚の血肉を食らえば不老不死を手に入れられる、先住民に伝わる話だとディニアスは言っていた。試したがる馬鹿がいるかもしれないとも。まさか自分の目の前にかような愚か者が現れるとは、露にも思わなかった。
こいつらは狂っている。バダ・クライカに対する嫌悪感は頂点に達した。しかし、今は噛み付いてかかる場合ではない。エスドアの使いは笑顔を消し、鋭い殺意をむきだしにしているのだ。
白いローブの長袖をひらめかせ、ゆっくりと右腕を動かし始める。何を仕掛けるつもりかはわからない、が、ろくなものじゃないとはわかる。
ここは逃げるしかない。ナターシャは敵に背を向け走り出した。一目散に細道を駆け抜け、石畳の大通りに飛び出す。街灯のおかげで視界が明るい、それだけでもましだ。
西へ向きひた走る。港寄りの繁華街まで行けば人が居るはずだ。あるいは治安局の巡回に出くわすかもしれない。どちらでもいい、とにかく第三者の目が欲しかった。
息を切らせるナターシャの脇を、一筋の光が追い越し、目の前に飛び出す。突然のことで、反射的に足を止めてしまった。
光、違う、蛇だ。ぬらりとした質感の大蛇が、行く手で鎌首をもたげている。
「逃がしはしない」
抑揚のない声が背後から届いた。振り返ると、エスドアの使いが足音も無く滑るように向かってくるのが見えた。露わになった腕には、顔と同じようにうねるような紋様がほどこされている。みるからに禍々しい。
さらにその一部がぼんやりと光る。するとどうだ、蛇の頭が、細い隙間を無理矢理通るように這い出て来る。
信じがたい光景を、ナターシャは愕然として見ていた。引き伸ばされたようになっていた蛇の顔は、外気に触れると正常な比率に戻り、さらに肥大していく。それは、ローブの女の腕より太い、いや、それどころか、人間を丸のみできてしまう大きさであった。先ほどの大蛇など、生まれたての赤んぼうに思えてきた。
巨大な蛇は鋭い音を口から漏らしながら、長大な胴でナターシャの周りを囲った。そして、高く首をもたげる。
見上げれば、温度の無い金色の目と目が合った。途端、狂喜するように大口を開ける。鋭い牙が並んでいる、その上、毒液が滴っていた。
「なによこれ……」
後ずさりするが、既に囲まれている。逃げ場などない。
焦るナターシャの頭目がけて、蛇の口が向かって来た。
ナターシャはとっさに前方へ飛び込んだ。姿勢を低くして、地面にはいつくばるように。蛇の頭は空振りして、上を通り越していく。
だが勢いをつけ過ぎて、このままでは蛇の腹につっこむ。向こうの動き次第では、叩き潰されるかもしれない。
なるべく穏やかに衝突することを願って、ナターシャは眼前に迫る鱗肌を見た。
しかし、予想だにしないことが起こった。艶めかしい蛇の体をすり抜けてしまったのだ。肌には何一つ触らず、視野には石畳が迫る。
「……幻!?」
ナターシャは飛び起きざまに背後を振り返った。すると、あれほど存在感のあった大蛇が消えていた。代わりに、くすんだ紫の煙が居た場所を漂っている。初めに行く手を塞いだ蛇も、また同様に。
――やられた! ナターシャは歯噛みして、仕掛け人の女へ気を向けた。
エスドアの使いは眼前に迫っていた。取ったと確信するように、不敵な笑みを浮かべている。振り上げた右手には、蛇の牙を思わせる鋭さのダガーナイフが光っていた。
刃がナターシャの胸目がけて振り下ろされる。だが、その動きは予め察しがついた。だからダガーが刺さるより先に、空中で相手の腕を捕まえた。
そのまま凶器をもぎ取り、地に落とし、自分の後方へ蹴り飛ばした。
エスドアの使いは、直接戦闘が不得手らしい。武器をなくした途端、苦虫をかみつぶしたような顔を見せたのだ。
ナターシャにしてみれば好都合、護身術程度の心得はある。だから、いっそ組み伏せてしまおうと、強行に打って出た。
勢いよく足を踏みきって女に飛びかかり、そのまま地面に押し倒す。左手で相手の右腕を押さえ、右手で首を締めつける。死なせるつもりは無い、気絶させるだけだ。
エスドアの使いは苦しそうに目を細めた。と、思った瞬間。首元がかっと赤くなり、ナターシャの顔めがけて炎が噴射された。
迫る火柱に対して咄嗟に目を閉じる。脊髄反射的に腕もガードの体勢へと動いた。
――違う、また幻だ。脳が把握したころには、もう動作は終了していた。熱さの無い炎を、ナターシャは立てた両腕で防いだ。
と、ちくりとした痛みが左手の甲に走った。幻覚ではなかったのだろうか? いや、火傷の痛さとは違う。もっと小さな点を突かれたような。
急ぎ状況を確認する。すると、手の甲に真っ黒の針が刺さっていた。縫い針よりは一回り大きいが、暗器と呼ぶほどの代物でもない。
だが、寒気がする。ナターシャは色を失くしてエスドアの使いを見た。
彼女は、何かを延々と呟いていた。意味はまったく分からない、異言語であるゆえに。ただ、非常に不吉なものが滲んでいる。
そして呪文に応じるごとく、針の表面がざわりと波を立てた。刹那、針の先からナターシャの肌へ、黒い影の浸食が始まった。それは細いつるが伸びゆくように、手の甲から手首、腕へと、皮膚を覆い尽くしながらじわじわと進んでくる。
吐き気をもよおすおぞましい光景。裏腹に痛みは無い。ただ、影に飲まれた部分が動かないだけだ。
しかし、このまま全身がつるに縛られたらどうなるか。考えたくも無い。
「ちょっと、待って……!」
「ナターシャ=メランズ、光栄に思え。我らは亜人に久遠の幸福をもたらす、あなたはそのための贄となれるのだ」
「誰が!」
まだ動く右手で女の頬を引っぱたいた。くぐもったうめき声に呪詛がとってかわられる。すると、闇の浸食も止まる。
打開策を察したナターシャは、もう一度、女の首を押さえつけ、落としにかかった。だが、今度は相手も許してはくれず、逆に胸をつきとばされ、逃げられた。
ふらりと立ち上がったエスドアの使いは、再び口を開きかけた。
しかし、その時。通りに大勢の足音が響いた。目にも見える。手燭を携えた、巡察隊だ。通常の治安部隊に加え、ヴィジラも一人ともなっていた。
向こうも異常に気付いたらしく、ざわめいている。しめた、とナターシャは叫んだ。
「助けて! 襲われてる! バダ・クライカの手下よ!」
訴えが疑われることは無かった。まず動いたのはヴィジラ、手のひらを立て、腕を前につきのばす。刹那、掌底から火炎放射が放たれた。これは幻ではない、確かな熱気がある。
エスドアの使いは舌打ちしながら、後ろにかわした。ながらに、緩く握った拳を胸の上に置き、十字を書くように滑らせる。
仕上げとばかりに、中心を一突き。その瞬間、女の白い影が漆黒に変じ、風船を膨らませるように膨張し、最後には爆発した。漆黒の粉じんが一帯に舞い、一切の視界を奪う。
闇の支配は意外に短かった。面食らっている間にも、視界は元通り晴れていく。
そして完全に常を取り戻した頃には、エスドアの使いは姿を消していた。
治安部隊の長が指示を飛ばし、隊員たちが四方へ走っていく。自身は石畳の上にへたり込んでいるナターシャの元へと駆けた。
「大丈夫ですか……それは!?」
「よくわかんないですけど、やられました。手が動かなくて」
投げ出した左手には針が残されたまま。影の浸食は二の腕で止まっているが、既に染まった部分が戻ることも無い。
多少の逡巡はあったものの、ナターシャは思い切って針を抜いてみた。すると何の抵抗も無く、あっけなく抜けてしまった。かといって、何か状況が改善されるわけでもない。影のつるははびこったままだ。
「……異研か総監あたりに相談してみましょう。専門ですから、解決策があるはず」
「あの。あたし、総監局なんですけど」
「えっ」
隊長はちらとナターシャの胸章を見やり、神妙な顔をした。
「なにか?」
「い、いえ……とりあえず、事情を聞きたいので、ついてきてください」
そそくさと隊長は歩き出した。ナターシャもあれこれ感情が混ざった吐息をもらしてから、先行する影を追った。
海より意気盛んに来たりし夜風が、長い髪を踊らせて遊んでいる。今宵は大荒れだ、ナターシャはぼんやりと思った。




