表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
56/122

エスドアの使い(3)

 嫌な汗が全身を伝う。こちらの返事を待っているのか、エスドアの使いは動きを見せない。


 ナターシャは視線のみで周りを探った。路上には、身を守る武器になる物は無い。助けを求めようにも、人が歩いている気配はない。大声で叫べば近隣の住居に響くかもしれないが、目の前の女が黙って見逃してくれるとは思えない。相手は間違いなくアビラを持っている、一つ言動を間違えれば、すなわち死だ。


 幸いエスドアの使いは温和な態度を貫いている。会話で上手くやりすごすか、隙をついて逃げるか、どちらかが善策だろう。退くならば後ろ、大通りだ。そう心の内で確かめ、生唾を飲んでから、目一杯強がって言った。


「なんの用よ」

「我らが主の意向をお伝えに参りました」

「だから、それが、一体なんだって」

「主は、あなたを、同胞として迎え入れたいと」

「冗談じゃないわ! お断りよ。帰って」

「何故拒むのですか。あなたに拒む理由はないでしょう。我らバダ・クライカ・イオニアン、下賤な人間からこの世を取り戻す、真なる御子の集い。人魚族に生まれたあなたは、紛れもなく我らの同胞です。その選ばれし血を持ちながら、人間に味方した大いなる罪、それも主は全て許すと仰せです。さあ、共に参りましょう。我らに幸福なる未来を導くために」


 ふざけるな、と言い返そうとしていた。しかし、ナターシャの口は動かなかった。


 暗がりの中に女の双眸が、ぼんやりと紫光しこうを放って浮いている。抗いがたい強さで意識そのものを引きつけられ、一切の挙動が封じられる。周囲の風景すらも霧がかかったように認知できない。


 エスドアの使いは、瞬き一つしないで唱え続けた。


「ナターシャ=メランズ。それがあなたの運命さだめなのです。我らの同胞として、我らが主のために尽くす。運命に抗うことなかれ、其れは自ら苦難を望むことゆえ。心を開き、自ら問え、そして受け入れよ。ナターシャ=メランズ、我が言葉を受け入れ、忠誠を誓え」


 重々しく圧迫感のある響きだった。目から入り込む光と共に神経の中を駆け巡り、ナターシャの自我を殺して回る。体が重くなり、自分のものでないような錯覚に陥る。意識が浮つくこの感じは、眠りにつく時に似ている。


 しかし、心への浸食が進むのとは逆に、体が悲鳴を上げ始めた。頭が締め付けられるように痛み、吐き気をもよおす。脈拍が異常に速くなり、全身から汗が噴き出している。


 その不快感が意識の消失を妨げていた。苦しい、辛い。己が状態への不安が、従属への誘いを跳ね除ける。なおかつ苦痛の元凶へ気を巡らす。それは光、それは音。


 ナターシャは両手を振り上げ、耳を強く押さえた。同時に目を固く閉ざす。


 なおかつ、叫んだ。


「ふざけんじゃないわよ! あんたたちは、あたしの仲間に何をした!? 許すものか。信じるものか。あんたたちの神は、破滅をもたらす災いそのものだ!」


 瞬間、霧が晴れた。体の不調は一気に消えてなくなり、狭窄していた視野も戻る。明瞭になった意識に語り掛けるのは風の音のみ、エスドアの使いが発していた呪詛は消えている。


 ナターシャは目を開き、エスドアの使いを見た。たじいろいだ体勢で、フードの上からこめかみを押さえている。困惑と憎悪が滲んだ目には、もう幻惑の光は宿っていない。


「……なぜ催眠が効かない。完全に入り込んだはずなのに」


 女は小声で吐き捨てた。それをナターシャは聞き逃さなかった。何をされていたのか理解する、そして己が勝ったことも。形勢逆転、ここぞとばかりに畳みかけた。


「あたしは夢を見ない、あんたたちのうわべだけの理想には騙されない。エスドアが世界を救うなんて、信じるものか。主とやらに伝えなさい、あたしは必ず、おまえを獄に繋いでみせる」


 女は軽くかぶりを振り、肩を落とした。


 そのまま引き下がれ。強気で構えたままナターシャは念じた。だが、エスドアの使いが踵を返す様子はない。うすら寒い微笑みを浮かべ言った。


「素直に従っていただけず、残念です。心を許して頂けないということならば、仕方ありません、その肉体だけをもらい受けます」

「は? ……どういう意味よ」

「我らが主が御所望なのです。奇跡の力を持つその血肉にて、我らが神代に永遠をもたらして頂きたい。死に絶えることも、老い衰えることもない栄光を我らに」


 恍惚と語る意図を理解した途端、全身の毛が逆立った。開いた口も塞がらない。人魚の血肉を食らえば不老不死を手に入れられる、先住民に伝わる話だとディニアスは言っていた。試したがる馬鹿がいるかもしれないとも。まさか自分の目の前にかような愚か者が現れるとは、露にも思わなかった。


 こいつらは狂っている。バダ・クライカに対する嫌悪感は頂点に達した。しかし、今は噛み付いてかかる場合ではない。エスドアの使いは笑顔を消し、鋭い殺意をむきだしにしているのだ。


 白いローブの長袖をひらめかせ、ゆっくりと右腕を動かし始める。何を仕掛けるつもりかはわからない、が、ろくなものじゃないとはわかる。


 ここは逃げるしかない。ナターシャは敵に背を向け走り出した。一目散に細道を駆け抜け、石畳の大通りに飛び出す。街灯のおかげで視界が明るい、それだけでもましだ。


 西へ向きひた走る。港寄りの繁華街まで行けば人が居るはずだ。あるいは治安局の巡回に出くわすかもしれない。どちらでもいい、とにかく第三者の目が欲しかった。


 息を切らせるナターシャの脇を、一筋の光が追い越し、目の前に飛び出す。突然のことで、反射的に足を止めてしまった。


 光、違う、蛇だ。ぬらりとした質感の大蛇が、行く手で鎌首をもたげている。


「逃がしはしない」


 抑揚のない声が背後から届いた。振り返ると、エスドアの使いが足音も無く滑るように向かってくるのが見えた。露わになった腕には、顔と同じようにうねるような紋様がほどこされている。みるからに禍々しい。


 さらにその一部がぼんやりと光る。するとどうだ、蛇の頭が、細い隙間を無理矢理通るように這い出て来る。


 信じがたい光景を、ナターシャは愕然として見ていた。引き伸ばされたようになっていた蛇の顔は、外気に触れると正常な比率に戻り、さらに肥大していく。それは、ローブの女の腕より太い、いや、それどころか、人間を丸のみできてしまう大きさであった。先ほどの大蛇など、生まれたての赤んぼうに思えてきた。


 巨大な蛇は鋭い音を口から漏らしながら、長大な胴でナターシャの周りを囲った。そして、高く首をもたげる。


 見上げれば、温度の無い金色の目と目が合った。途端、狂喜するように大口を開ける。鋭い牙が並んでいる、その上、毒液が滴っていた。


「なによこれ……」


 後ずさりするが、既に囲まれている。逃げ場などない。


 焦るナターシャの頭目がけて、蛇の口が向かって来た。


 ナターシャはとっさに前方へ飛び込んだ。姿勢を低くして、地面にはいつくばるように。蛇の頭は空振りして、上を通り越していく。


 だが勢いをつけ過ぎて、このままでは蛇の腹につっこむ。向こうの動き次第では、叩き潰されるかもしれない。


 なるべく穏やかに衝突することを願って、ナターシャは眼前に迫る鱗肌を見た。


 しかし、予想だにしないことが起こった。艶めかしい蛇の体をすり抜けてしまったのだ。肌には何一つ触らず、視野には石畳が迫る。


「……幻!?」


 ナターシャは飛び起きざまに背後を振り返った。すると、あれほど存在感のあった大蛇が消えていた。代わりに、くすんだ紫の煙が居た場所を漂っている。初めに行く手を塞いだ蛇も、また同様に。


 ――やられた! ナターシャは歯噛みして、仕掛け人の女へ気を向けた。


 エスドアの使いは眼前に迫っていた。取ったと確信するように、不敵な笑みを浮かべている。振り上げた右手には、蛇の牙を思わせる鋭さのダガーナイフが光っていた。


 刃がナターシャの胸目がけて振り下ろされる。だが、その動きは予め察しがついた。だからダガーが刺さるより先に、空中で相手の腕を捕まえた。


 そのまま凶器をもぎ取り、地に落とし、自分の後方へ蹴り飛ばした。


 エスドアの使いは、直接戦闘が不得手らしい。武器をなくした途端、苦虫をかみつぶしたような顔を見せたのだ。


 ナターシャにしてみれば好都合、護身術程度の心得はある。だから、いっそ組み伏せてしまおうと、強行に打って出た。


 勢いよく足を踏みきって女に飛びかかり、そのまま地面に押し倒す。左手で相手の右腕を押さえ、右手で首を締めつける。死なせるつもりは無い、気絶させるだけだ。


 エスドアの使いは苦しそうに目を細めた。と、思った瞬間。首元がかっと赤くなり、ナターシャの顔めがけて炎が噴射された。


 迫る火柱に対して咄嗟に目を閉じる。脊髄反射的に腕もガードの体勢へと動いた。


 ――違う、また幻だ。脳が把握したころには、もう動作は終了していた。熱さの無い炎を、ナターシャは立てた両腕で防いだ。


 と、ちくりとした痛みが左手の甲に走った。幻覚ではなかったのだろうか? いや、火傷の痛さとは違う。もっと小さな点を突かれたような。


 急ぎ状況を確認する。すると、手の甲に真っ黒の針が刺さっていた。縫い針よりは一回り大きいが、暗器と呼ぶほどの代物でもない。


 だが、寒気がする。ナターシャは色を失くしてエスドアの使いを見た。


 彼女は、何かを延々と呟いていた。意味はまったく分からない、異言語であるゆえに。ただ、非常に不吉なものが滲んでいる。


 そして呪文に応じるごとく、針の表面がざわりと波を立てた。刹那、針の先からナターシャの肌へ、黒い影の浸食が始まった。それは細いつるが伸びゆくように、手の甲から手首、腕へと、皮膚を覆い尽くしながらじわじわと進んでくる。


 吐き気をもよおすおぞましい光景。裏腹に痛みは無い。ただ、影に飲まれた部分が動かないだけだ。


 しかし、このまま全身がつるに縛られたらどうなるか。考えたくも無い。


「ちょっと、待って……!」

「ナターシャ=メランズ、光栄に思え。我らは亜人に久遠の幸福をもたらす、あなたはそのための贄となれるのだ」

「誰が!」


 まだ動く右手で女の頬を引っぱたいた。くぐもったうめき声に呪詛がとってかわられる。すると、闇の浸食も止まる。


 打開策を察したナターシャは、もう一度、女の首を押さえつけ、落としにかかった。だが、今度は相手も許してはくれず、逆に胸をつきとばされ、逃げられた。


 ふらりと立ち上がったエスドアの使いは、再び口を開きかけた。

 

 しかし、その時。通りに大勢の足音が響いた。目にも見える。手燭を携えた、巡察隊だ。通常の治安部隊に加え、ヴィジラも一人ともなっていた。


 向こうも異常に気付いたらしく、ざわめいている。しめた、とナターシャは叫んだ。


「助けて! 襲われてる! バダ・クライカの手下よ!」


 訴えが疑われることは無かった。まず動いたのはヴィジラ、手のひらを立て、腕を前につきのばす。刹那、掌底から火炎放射が放たれた。これは幻ではない、確かな熱気がある。


 エスドアの使いは舌打ちしながら、後ろにかわした。ながらに、緩く握った拳を胸の上に置き、十字を書くように滑らせる。


 仕上げとばかりに、中心を一突き。その瞬間、女の白い影が漆黒に変じ、風船を膨らませるように膨張し、最後には爆発した。漆黒の粉じんが一帯に舞い、一切の視界を奪う。


 闇の支配は意外に短かった。面食らっている間にも、視界は元通り晴れていく。


 そして完全に常を取り戻した頃には、エスドアの使いは姿を消していた。


 治安部隊の長が指示を飛ばし、隊員たちが四方へ走っていく。自身は石畳の上にへたり込んでいるナターシャの元へと駆けた。


「大丈夫ですか……それは!?」

「よくわかんないですけど、やられました。手が動かなくて」


 投げ出した左手には針が残されたまま。影の浸食は二の腕で止まっているが、既に染まった部分が戻ることも無い。


 多少の逡巡はあったものの、ナターシャは思い切って針を抜いてみた。すると何の抵抗も無く、あっけなく抜けてしまった。かといって、何か状況が改善されるわけでもない。影のつるははびこったままだ。


「……異研か総監あたりに相談してみましょう。専門ですから、解決策があるはず」

「あの。あたし、総監局なんですけど」

「えっ」


 隊長はちらとナターシャの胸章を見やり、神妙な顔をした。


「なにか?」

「い、いえ……とりあえず、事情を聞きたいので、ついてきてください」


 そそくさと隊長は歩き出した。ナターシャもあれこれ感情が混ざった吐息をもらしてから、先行する影を追った。


 海より意気盛んに来たりし夜風が、長い髪を踊らせて遊んでいる。今宵は大荒れだ、ナターシャはぼんやりと思った。 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ