エスドアの使い(2)
古めかしい書斎机も、隣に並ぶ棚も、埃や汚れの一つも見当たらない、綺麗な状態だ。そう、綺麗すぎる。使用人が念入りに掃除をしたから、ということも無いだろう。壁や床の血は染みついて残っているのに、机まわりだけは一滴の残渣すら無く拭きあげられるとは考えづらい。
座っているところを背後から襲われ、悲鳴一つあげる間もなく斬られた。その線は無いだろう。仮に首を落とされたら、派手に吹き出す血しぶきにより、あたり一帯が血染めになるはず。
だとしたら、ライゾットが死の瞬間に立っていたのはどこか。ナターシャがまず考えたのが、ドアの前。誰かが訪ねてきたことに気づき、ペンを置いて椅子を離れた。そして扉を開いて――
「だめだわ、鍵がかかっていたって話だもの」
そうでなくとも、部屋の入り口付近に惨劇の痕跡は見受けられない。この線もまた棄却される。
なおかつ、血痕に着目して眺め渡すと、ライゾットは部屋の中央で殺された、としか考えにくい状態であった。すなわち、血だまりをつくって倒れていたその場で、である。
ナターシャは口元に手をやり、うめきながら考え込んでしまった。
「仮に、エスドアが部屋の中に直接現れたとしても、それならライゾットは部屋のど真ん中に立っていなくちゃいけない。どういう理由でそうなるのよ……」
普通ではない動きをするならば、何か理由があるはずだ。確固たる事実を材料に、ナターシャは脳を絞り推論を重ねる。
犯人の侵入方法は不明だが、とにかく密室の中に現れた。部屋の中央でライゾットに接近し、殺害した。叫び声や暴れ回るなど、夜の屋敷で響くような音は一切立てていない。
この条件を満たす状況は。例えば、エスドアが部屋の中央に先に佇み、ライゾットが歩み寄ったというのはどうだろうか。不審な影を調べようと思ったとか、対話をしよう誘われ騙されたとか、動機は考えられなくもない。
ただ、それだと迂闊すぎると思う。家人が書斎に入って来ることも拒むような男が、いきなり沸いて出てきた存在に、たやすく心を開くだろうか。
ナターシャが床の染みを見つめ、そんな風に延々悩んでいると、戻って来た使用人から声がかかった。
「どうかされましたか。もしや、なにかわかったのですか」
「いえ。ライゾットさんは、犯人と何か立ち話でもしたのかしら、と思って」
「まさかそんな! あのような夜更けに旦那様がご会談なされるような方など、奥様か、あるいはブロケード様のようなごく親しい方に限られます。我々使用人ですら、書斎にこもっているところへお訪ねしても、門前払いされて終わりですから。当然、あの日は来客などありませんでした。施錠も確かでしたし」
「アビリスタだったら、鍵なんて無視して入って来られるかもしれないわ。壁をすり抜けたり、透明になったり」
「であったとしたら、なおさら、旦那様が話をするなどありえません。見つけ次第、問答無用で切り捨てにかかりますよ。あの方にとって、人でないものはすべからく討滅の対象ですから」
使用人は何気なく事実を述べたのだろうが、ナターシャにはちくと刺さる。亜人嫌いの男が死んだ謎を解明するのに、亜人である自分が唯一動き続けている。皮肉なものだ、ライゾットが見ていたら、どんな気分でいるだろう。
気を取り直すように咳払いしてから、ナターシャは確かめるように言った。
「じゃあ、侵入者がここに立っているのに気づいたとしたら、ライゾットさんは椅子から飛び上がって、攻撃を仕掛けに行くかもしれない」
「それは十分あり得ます。我々が書斎を見た時にも、机や書棚の物がかなり散乱しておりましたので、あるいは、旦那様は懸命に戦ったのかもしれません。物音がしなかったのは、不思議ですが」
「無謀にも挑んで返り討ち、か……」
釈然としない。そもそも彼らが異能弾圧を進めたのは、その人外の力を恐れてのことだ。アビラを駆使する相手に、生身の人間が一対一で勝つのは至極難しいなどと、ライゾットこそが一番理解していそうなものである。
敵わない相手と知りながら、正面切って勝負を挑む剛毅さがライゾットにあるのだろうか。あいにく面識がないから、ナターシャにはわからなかった。ただ、思う。
「立場を思えば、勇敢に死ぬより、無様にでも生き延びることを選んだほうが、賢い気がするわ。そうしなかったのは、なぜ」
「それは……神が相手では、逃げることもできなかったのでは」
神、エスドアがここに降臨した。万物を統べる不可抗力で、ライゾットに傲慢な処断を下した。どんな理不尽も、神の手という一言で可能になる。まさにバダ・クライカ・イオニアンが主張する通りだ。
それが納得いかないから、自分はここにやってきたのに。ナターシャは苛立たしく髪をかき上げた。
「だったら、エスドアはどうしてこんな回りくどいことをする? どこにでも現れられて、なんでもできるっていうなら、政府の人間皆殺しにして、それでおしまいじゃない。そうしないのはどうして?」
思考を口に出しても、答える者は誰も居ない。
ひかかることは色々ある。たとえば、ライゾットを屠り、しかしブロケードを生かしているのはなぜなのか。わざわざ死体を損壊する行為には、ありあまる憎悪が感じられる。それが異能弾圧政策への反発だとは、容易に察せらるる。次に狙われるのは双翼のもう片割れ、誰もが思ったことだった。だが実際は、警戒するだけ損であった。
加えて、エスドアが逃げる際に、壁を壊すを選んだことについても。誰にも気づかれずに書斎に侵入することができたのなら、同様に立ち去ることもできたに決まっている。エスドアが、あるいはバダ・クライカの者たちが、居所を掴まれないように蠢いていることも明らかだ。それなのに、あの夜に限っては、わざわざ音と光で衆目を集める方法を選んだ。運が悪ければ、壁を落とした瞬間に、夜警の治安隊やヴィジラに捕獲されていたかもしれないのに。
ライゾットの首を持ち去ったのもそうだ。通った跡に血がしたたり落ちれば、鼻が利く誰かに後をつけられるかもしれないのに。凄惨さを強調したいのなら、頭部はまた別で晒しものにしそうなものである――ナターシャが憎悪を発散する殺人犯をイメージしてなりきったら、そうすることを選んだのだ。
わからない。知り得た事実に基づくイメージを具象化し、真実に迫ろうとするほどに、逆に謎が深まっていく。いや、ひどい違和感が増していくと言ったほうが正しいかもしれない。
お手上げだ、とナターシャは声を混ぜて息を吐いた。
「なんか……順番を間違えた気がする」
「順番とは」
「あたしは、エスドアのことを全然知らない。だから、ここに来たのがエスドアじゃないって、自信を持って否定することができない。先にエスドアの側を知っておくべきだった、そうしたら、何がおかしいのかはっきり言えたかもしれない」
苦笑の一つも浮かばなかった。
やがて陽が水平線に沈みきる。使用人がランプを灯してくれたが、小さな窓からの月光と合わせても、書斎を詳細に照らすには足りなかった。光源近くに寄らなければ、相手の顔もまともに認識できない。
そんな中で、あるかもわからない犯罪の証拠が見つけられるだろうか。否。ナターシャは使用人に礼を言い、ライゾットの書斎を去った。無駄足だったとは思わない、自分の目で見たものも、そこから考えたあれこれも、すべて心に焼き付けたから。
別室で休んでいたミリアに声をかけ、共に屋敷から発つ。未だ気分が優れないようだったので、馬車に同乗し、ロクシア家の邸宅へ向かった。
夫人を無事に送り届けたのちは、彼女の好意で、ナターシャの自宅がある島西部まで馬車を出してくれた。
中枢宮殿へ上る坂のふもとで馬車を下りた。ここからだと家までは少し歩かなければいけないが、簡易的なロータリーのようになっていて、馬車の転回がしやすいからである。
馬車が夜道に消えるのを見送ってから、ナターシャは西を向いて大通りを歩き始めた。ぽつぽつと街灯がある上、今宵は月も白く明るい。ちょっとした散歩だと思えば、心地よい雰囲気だ。
振り返っても先のロータリーが見えなくなるほどの地点で、南の細道へ入る。今度は街灯が無いその道を同じくらい歩くと、政務官専用の集合住宅が建っている。その一室が、ナターシャの住居だ。付近は静かで、窓からは海と灯台が見え、非常に気に入っている。
もう少しで家だ。そんな浮いた気持ちだったナターシャの足は、しかし道を曲がってすぐのところで止まった。
暗い道の真ん中、十歩ほど前方に、真っ白のローブを纏った人影がぼうっと浮かんでいる。ヴィジラか、と一瞬納得しかけたが、いや違う。同じようにフードを被っているが、仮面は付けていない。刺繍が施されているのも異なる点だ。
ナターシャは嫌な予感を覚え、警戒をあらわにした。
そこへ、白い影は地を滑るようにして接近してきた。ふわ、と布を呼吸させ、ナターシャの眼前で静止する。反射的に一歩、二歩とたじろいだ。
この距離だとどうにか顔が見える、女だ。背は自分より小さい。フードの影になってわかりにくいが、顔に彫り物を入れているようだ。
怪訝な面持で相手の顔色をうかがっていると、白ローブの女は、作ったような微笑みを浮かべて言った。
「ナターシャ=メランズさん、ですね?」
「あなたは……誰」
「エスドアの使いでございます」
友好的な声音で名乗ると、女は胸に手を添え、丁寧に頭を下げた。
だが一方ナターシャは、氷を食らったかのように肝を冷え上がらせ立ち尽くしていた。




