エスドアの使い(1)
一人の人魚が悪夢より救われた頃のこと。イオニアンの真なる子のもとへ、天からの布告がなされた。書いて字のごとく、それは青空から舞い落ちて来たのである。
拾い上げても、一見、何も書かれていない紙。しかし、アビラを使う者が手に取ると、文字が黒々と浮き上がる。魔の力で書かれた密書だ。
堂々と、しかし密やかに世に巡ったのは、並みならぬ気迫が込められえた檄文だった。
『非道なる人間たちは、我が同胞たる精霊の子に汚辱を与えしむ。今なお大海の御子は囚われの身なり。
止むことなき迫害、もはや看過できぬもの。我、ここに世の奪還を宣誓する。怒れる者は共に立ち上がれ、今こそ聖戦の時ぞ。
排すは我が物顔で世を支配する痴れ者たち。不平を嘆く同胞たちよ、イオニアンの真の子たちよ、中央宮殿の島へ参集せよ。恐れることなかれ、戦い、抗え。我は汝らの剣、汝らの導き手。
これは聖戦なり、新たなる世を創る聖戦なり。勇敢なる子らは集え、紅き狂乱の月が昇る前に全てを決さんと』
荒れ狂う雷雨のごとき勢いの筆致で記され、締めには一つの名が堂々と刻されていた。――エスドア、と。
これぞ天啓だ、世界を取り戻す時が来た。各所に息を潜めるエスドアの信徒たちは、神の意のままに武器を取り、立ち上がった。招聘に応じ、政府中枢を落とす神軍となるために。
同じ動きが東西南北の島で一斉に起こった。中央諸島には、エスドアの布告は降りてこなかった。だが、気のはやるものが空を駆け、海を渡り、教徒の伝達網にて啓示は口伝えられた。もちろん、政府の者たちには、絶対に知られないように。それがエスドアの意図であるとは、明らかであったから。
バダ・クライカ・イオニアンの教えを守る者たちは、みな同じ敵を見ていた。神の従僕として世を取り返す、異能者たちによる決起の準備は着々と進められていく。
愚昧な為政者たちはまだ知らない。史上最大の災厄がすぐ傍に佇んでいることを。
Chapter 4:大いなる罪人
出遅れた、とナターシャは思っていた。ライゾット事件を調べてみようと決してから、実際に動くまで、四日が経っていた。しかもすでに日も落ちかけている。
あれ以来、バダ・クライカは新しい動きを見せていない。なお特命部の捜査――先に捕えた一味への聴取や、物資と金銭の流れなど――も難航しているらしいが、総監局まで詳しい話が回って来ることは無かった。局長もまったく顔を見せていないから、なおのこと。
かと言って、総監局も暇ではない。過去に遡った資料をあれこれ求められたり、この度の当事者として報告をまとめたり。大陸からもあれこれ依頼が来るため、それの対応にも追われ。挙句の果てには本当の中で一つ不審死があり、ヴェルムと共に検分にも行かなければならなかった。とても管轄外の事件を考える時間など無かった。
ようやく一段落ついたのが今日で、二日の休みに入ったヴェルムの分も雑務をこなしたら、もう夕刻になっていた。
ただし、時間がずれこんだのにはもう一つ訳がある。島東部の街路を進む馬車の上には、気品に満ちた女性の影。同道するこの人物と、どうしても都合をつけねばならなかった結果、中枢の閉庁後の行動になってしまったのだ。
「ナターシャ。着いたわ、そこよ」
彼女――異能対策省統括、ミリア=ロクシアが柔らかい声をかけてきた。気丈に作ってはいるものの、どことなく苦し気な気配が滲んでいる。
「あの、統括。紹介だけしていただければ、あとはあたし一人で残りますけど」
「いいえ、私も行くわ。あなたの言う通り、自分の目で見たら、何かわかることがあるかもしれないし。このままじゃ、ライゾットが浮かばれないもの」
ミリアは深い憂いに満ちた愛想笑いを浮かべた。
あまり他人の心を傷つけるような真似はしたくなかったが、この手しか思いつかなかったのだ。自分にはライゾット=ソラーと面識はない上、向こうは亜人嫌いで鳴らした人物だ、ナターシャ一人で屋敷を訪ねたところで、受け入れてくれるはずがない。正当な捜査ならまだしも、個人の勝手な活動であるから、なおのこと。
ライゾットと縁故を持っていて、かつナターシャが友好的に接せられる人物、思い当ったのはミリアだけ。相談したところ、彼女は喜んで協力を買ってくれた。事件解明のためなら藁にでもすがりたい、それは向こうも同じだったらしい。
おかげでライゾット邸の使用人に話をつけるのは、非常にすんなりと進んだ。特に不審がられることも無く、屋敷に招き入れられ、二階へと案内される。惨劇の現場となった、ライゾットの書斎へと。
ひんやりとした階段を間に、使用人の男は現状を語ってくれた。ライゾットの細君は精神を壊し、今は子と共に生家へ戻っているという。現在ここに残っているのは、彼一人のみ。遺された物品を整理し、屋敷を維持管理しつつ、夫人より今後の処遇が伝え渡されるのを待っているそうだ。
二階に上がって二枚目、艷やかに磨き上げられた扉の前で使用人が足を止めた。ここがライゾットの書斎だ、と。鍵を挿し、静かに回せば、重苦しい響きが一つ起こった。
「ねえ、その鍵はいつもかけてあるものなの?」
「はい。他人に入られるのを嫌がっておいででしたから、ご不在の時はもちろん、ご自身がこもられる時も常に。ですので、あの夜も……」
「ここは密室だった」
その通りだと頷く使用人の顔は暗かった。悔しげに口元に力を入れ黙したまま、そっと書斎の入り口を開く。音も立てずにすんなりと扉は開かれた。
閉じ込められていた空気が一気にこぼれてきた。事件から日が経っているにも関わらず、生臭い鉄の匂いが鼻をついてくる。ナターシャは思わず顔をしかめた。
書斎は片付けられているように見えた。しかし部屋の中央には、床板に染み込んだ血痕が、拭いきれずにはっきりと残っている。惨殺の事実を生々しく語る跡に、一歩後ろに引いて居たミリアが、嗚咽を漏らし顔を背けた。
「そこに旦那様が」
声の調子を落とした使用人のつぶやきに誘われ、ナターシャは血だまりの元へ歩んだ。
しゃがみこんで黒々とした池を覗き込む、すると、中心近くに床板がえぐれているのを見つけた。細長で、深い。剣が突き立った跡だ。
ライゾットが見つかった時、どういう状態であったか。以前にディニアスがまくしたてていたことを、脳を絞るようにして思い起こす。確か、首をはね落とされ、胸を剣で打ち抜かれ、腹を割られ内臓を引きずり出され、そして。
「散々に遺体を弄んだら、犯人は、あそこをぶっ壊して逃げた」
ナターシャは部屋の西側の壁を見た。そこには広く板がはられている。崩落の跡を隠し、風雨を防ぐための、簡易的な措置だろう。
使用人は、間違いないと首を縦に振った。
「その音で我々が駆け付けた頃には、もう誰もおりませんでした。そして旦那様は……変わり果てた姿になっておりました。無念でございます。同じ屋根の下におりながら、凶行を防ぐことも、さらにはご遺体すらも綺麗にお守りできずに……」
使用人の声はしぼんで消えていった。心中は推し量るべきだろう。ナターシャとて一亜人であるゆえライゾットの施策に反感がゼロでは無いが、頭すらも見つからない惨い死に方と、その上で残された家人らのことを考えると、心が痛んでしかたない。
扉隣の壁面には、これまた急ごしらえで布が張られていた。ナターシャはそっと歩み寄り、下の端をつかんで目繰り上げ、隠しているものを衆目に晒す。
露わになった壁には、赤黒い色で紋章が描かれていた。見覚えがある、バダ・クライカ・イオニアンが存在を知らしめる際に使う印だ。不快な鉄臭さが鼻をつくあたり、ペンキで描いた芸術品というわけではあるまい。
「……悪趣味が過ぎるわ」
底しれぬ悪意と狂気を感じ取り、ナターシャは憎々しげに顔を歪めた。
と、ミリアが「ごめんなさい」と一言残し、書斎からふらつくように転げ出た。廊下の壁に身を預け、そのままずるずるとしゃがみ込む。顔は蒼白、目は涙で潤み、嗚咽漏れる口を両手で押さえている。
使用人が慌ててミリアに駆け寄った。背をさすり、支えるように立たせ、別室へと連れて行く。
書斎に残されたナターシャは、しかし二人の後を追うことはしなかった。自分が行ったところで特別なにかできるわけでもない、それならば、本来の目的を遂行するのに尽力したほうがましだ。ライゾット事件の解明こそ、真の意味で彼ら彼女らの薬になるはずであるから。
書棚と机が並ぶ部屋の一角へ近寄る。非常に片付いた雰囲気なのは、亡き主へ対する使用人の心遣いゆえだろう。壁に穴が空くような衝撃が襲ったらば、棚の書物や卓上の物品が床に散乱したに違いない。しかし、今は一切その様子が残っていなかった。
机上にはインク壺とペンが揃えて置かれたうえに、新しい紙も一山積まれている。すぐに筆が取れるように、あるいは、実際に死の直前まで書き物をしていた、その状況に復旧されているのかもしれない。東方大陸にまつわる史書も一冊並べ置かれていたから。
夜も更けた中、革張りの椅子に座り、一人政略を練るライゾット。ナターシャは彼と同じ目線になり、最後の瞬間を思い描く。
先の整ったペンを走らせ、己の脳内を書き留めていく。黙々と、粛々と仕事を進めていると、突然、部屋の中にエスドアが現れた。そして、助けを呼ぶ声を上げる間もなく、背後から首をばさりと落とされ――
「違う」
覚えた違和感。はっと顔を上げたナターシャは、注意深く周り一帯を観察した。




