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地上の人魚は夢を見ない(3)

 ナターシャもベッドの縁に腰を下ろした。半人分ほど間は空け、一定の距離感は保つ。得も言われぬ緊張がそこに満ちていた。


 ゆっくりと相手の方を見る。露わになった柔肌には癒えぬ傷が浮いており、視神経から入り込む印象が棘として心に刺さり来た。


 この哀切な姿を見てなお鞭打つような言動が出来る連中は、一体どのような神経をしているのだろうか、まるで理解が出来ない。ナターシャは憎々し気に目を細めた。


 しかしそれは今向き合うべきものとは違う。自戒して、それ以上に矛を振り上げることは無かった。心を凪がせ、落ち着いたまなざしを人魚娘に捧げる。


「ごめんなさい、こんなところに閉じ込めて。それに、そんなに傷だらけになるまで、助けに行ってあげられなくて」

「……お姉ちゃんは、あなたが殺したの?」

「え?」

「わたしのお姉ちゃん。ユリャウムルさんがあなたの仲間に殺されたのは見た。わたしのお姉ちゃんは? あなたを連れて海に飛び込んで、あなただけが戻ってきた」

「……彼女は、わからない。あのまま沖に行ったから、自分の郷に帰ったんだと思う」

「そっか。じゃあ、きっと郷のみんなに殺されちゃうな」


 金色の髪をかすかに揺らして彼女は笑った。決して楽しいものではない、月なき夜の海原に一人取り残されたように寂寥の風が吹いていた。


「わかってるんでしょ。人魚なんだから」


 表面ばかりの笑顔と共に、ナターシャに釘が打ちこまれた。


 ――わかっていた。不可抗力とは言え地上の男と交わった、同族の者が知ったら「下賤な血で人魚の高潔な血を穢した」と吊るし上げるだろう。人魚族の習わし、ある種の常識だ。彼女に一切の非が無いと理解され、さらに同調して海上に憎悪を向けようとも、それはそれこれはこれ、咎人が許されることは無い。

 

 言葉に詰まった。わかっている理解している、しかし、苦く悲しい現実を平気な顔で受け入れられるかはまた別だ。形容しがたい胸のつかえをごまかすように、組んだ両手を無言で無意味に動かしていた。扉の方に立つ男たちから焦れている視線が向けられるのが、非常に鬱陶しい。


 ナターシャが黙り込んだところで、人魚の娘は再び口を開いた。いやにのびやかだった先ほどまでとは違う並みならぬ情念が込められた声音で、いっそ呪歌のように小部屋に染み渡る。


「許せない。あの人間たちが許せない。みんな死んじゃえばいい。お姉ちゃんの話を聞いて、郷のみんなが怒って、それを見た精霊様が怒って、それで地上を滅ぼしちゃえばいい。簡単よ、人間なんて、水の中じゃ生きられないもの。そうでしょう?」


 紺青の瞳の奥にぎらぎらと暗い炎が燃える。同情を誘い、隣の仲間をも巻き込まん、明確な意思と共にナターシャに狙いが据えられている。熱風が煽りつけ、怒りに駆り立てようとする、


 だがナターシャの精神は不思議なほどの安穏を保っていた。同情はする、憐れみはする、しかし、人魚の夢想を擁護する気持ちは微塵も沸き上がらなかった。


「……あたしも、同じ気持ちよ。あの男たちは、あなたたちにひどいことをした。他でもたくさんの命を奪っている。だから、許せない。あいつらも、あいつらが崇める『神』とやらも。でも、あたしはあなたたちと違うから、あたしはもう地上で生きる存在だから、人間すべては憎めないし、海の精霊様がなんとかしてくれるなんて、そんな夢みたいなこと信じられない。だから、あたしは自分の手で、あいつらを滅ぼしてやる」


 脚の上に置かれた手を無意識の内に強く握り、不敵に笑んだ顔を隣に向ける。一方の相手は、冷めた面持で口を開いた。


「あなたなんかに出来るわけない、それこそ夢みたいなことよ」

「寝言を言ってるつもりじゃない、やってみせるわ、約束する。あたしが必ず、あの連中の化けの皮を剥いでやる。そのほうが、どこで見てるかもわからない精霊様任せにするより、もっと現実的じゃない?」

「ふうん。強いこと言うのね」


 つまらなさそうに、そしてどこか悲しそうに、人魚はそっぽを向いてしまった。心の扉が閉じていく音が聞こえるようだ。


「おやあ?ナターシャさぁん、遊んでるんですぅ?」

「うるさいな、あんたは黙ってなさいって」

「黙らなかったら?」

「叩き出すわよ! 邪魔しないで!」


 思わず大声で毒を吐けば、隣の人魚が肩を跳ねさせ、怯えた目をこちらに向けた。言葉は通じなくても、激していることくらいは音や気配でわかるもの。ナターシャは彼女の不安を払うように手を振り、慌てて意の通じる言葉を投げかけた。


「ごめんなさい、あなたに怒っているわけじゃないの。ちょっと、あそこにいる馬鹿がちょっかいかけてくるから、つい」

「……わたし嫌い。あの禍々しい人」

「ええ。あたしも大っ嫌いよ。でもね、あれはどっちかっていうと味方なのよ、あたし『たち』の」


 仲間であることを強調すれば、娘の凍てついたまなざしもわずかに溶ける。ここぞとばかりにナターシャは畳みかけた。優しい声音を取り繕う。耳の奥で反響する音が自分らしくなくていっそ気色悪い、そんな風に内心で自嘲しながら。


「お願い。あなたが見たことを話して欲しい。何があったのか、覚えていること全部」

「嫌……」

「辛いのはわかる。だけど、あなたが話してくれればあの連中を滅ぼすことが出来る。だからお願い、あなたの怒りと悲しみを、あたしにも背負わせてちょうだい。そして、あたしの力になって。あたしはこれ以上同じ犠牲者を出したくない、地上の民だけのためじゃなく、誇り高き人魚族のためにも。だからどうか、お願いします」


 ナターシャは頭を下げた。打算は無い、自然と飛び出た行動だった。相手の娘がじっと見つめているのが、視線を交わさずとも肌で感じられる。


 にわかに沈黙が訪れて、その後。


「聞きたいことを言ってよ。全部なんて言われても、困る」


 かそけき声に、ナターシャは伏せていた顔を跳ね起こした。うら若き娘の暗い青の双眸が確かにこちらを捉えている。くっと閉められた唇は腹の内から逆流してくる苦渋に耐えているよう、見ているだに辛そうだ。しかし顔つき全てを見れば、覚悟を決めたことがしかと伝わってくる。


「……ありがとう」


 心が痛むなどとは今考えるべきことではない、彼女の決意を踏みにじるに繋がるから。公の法番として立つならば私情を持ち込むべからず、それは重々理解している。ナターシャも面持に毅然とした気迫を込めた。


「まず、あなたたちはどうして捕まったの? 人間は海深くに潜れない、普通に暮らしていれば出会うことすらないはずなのに」

「遊んでいたのよ。人間が乗った船をひっくり返すのは簡単おもしろいって言うから、お姉ちゃんとユリャウムルさんに付いて行ったの。浅海に出るのは初めてだったな」

「郷の誰かに止められなかった? あなたたちが居なくなって、助けに来てくれそうな人はいなかったの」

「ばれないようにしたもの。わたしたちが上に近づいたなんて誰も思ってないし、気づいていたって来てくれるわけない。掟破りだもの、自分が叱られたくないから、見てないふりするわ」

「そう……じゃあ、こっそり郷を出てきたなら、悪戯目的で人間に近づくのだって、見つからないようにしたのよね」

「あたりまえじゃない! 遠くから波を起こしただけだもの、気づかれるわけない」

「だったら、どうして捕まったの? 海で人魚に追いつける人間なんてまず居ないはず」

「……騙された。罠にかけられた」

「罠?」

「大きな船が浮かんでいた。そこから、仲間の声が聞こえた。人間を釣りだす呼び声よ、だから、わたしたちと同じように人間を海に落として遊んでるんだと思った。船にも人影は無かったから。だから、近づいた。そしたら……」

「誰かが声真似をしているだけだった」

「そう、そうなの! 船に近づいたら、人間の男が話してて。わたしたち三人とも、全然、わけがわからなくて、どうしていいかわからなくて。すると、網が投げられて、そしたら雷が落ちたみたいになって、痛くて、気を失った」


 息は荒く速く、一層暗くなった深海の瞳は右往左往する。手は腿の上で生成色のワンピースをぎゅっと掴み、当人の意志とは無関係に震えている。


 しかし言の葉を流すのは止めない、あるいは、止められないのかもしれないが。とかく娘は記憶を掘り起こし続ける。


「気が付いたらあの洞窟に居た。陸に上げられて、鎖でつながれて。叫んでもあいつら笑って、殴ったり、蹴ったり、交代でわたしたちのこと――」

「そいつらは、全部で何人いたかわかる。ううん、いつも同じ顔ぶれだった?」

「ちゃんとはわからない、人間の顔なんて、見分けられないし。でも、大勢いた。入れ替わってた。船で、海の方から入って来るやつもいた」

「それは、人間の男しか居なかった? 女の人とか、亜人とか」

「……違う服を着て入って来たのは時々居た。腕が鳥みたいな、変なやつも。でも、そいつは仲間じゃないみたいで、人間たちのこと怖がってた、そんな風だった。そんな気がする」

「じゃあ、何をしに。同じ風に捕まってたわけじゃないんでしょ」

「うん。でも、わからない。仲間なんだけど、仲間じゃないみたいな。男たちと何かを交換したら、地上の方へ帰って行った。そういうのが来るときは、わたしたちは物陰に隠されていた」

「……そう、か。なら、もう一つ。『エスドア』って音に聞き覚えは無いかしら」

「エ、ス、ドア?」


 たどたどしく綴られた単語は外野にも届いた。にわかに小さな部屋が緊張で満たされる。かの名を冠する者こそ敵の支配者だ、どんなものでもいい、到達する足掛かりをもたらしてくれないか。


 固唾を飲んで見守られる中、人魚の娘は小さく首を横に振った。

 


「知らない。聞いたことない」

「本当に?」

「あんまり覚えてないから。でも、言われてみれば、あの鳥のやつと話していた時に、聞こえたような」

「その時だけなの? 他は?」

「他……わからない。思い出せない、思い出したくない……!」


 食い気味であったナターシャが、しまった、という顔を見せたが、時すでに遅し。娘は錯乱し、頭を抱え悲鳴を上げた。


「怖い、怖いの。ずっと痛くて、気絶して、海に入れられて……悪夢よ! 悪夢しかなかった! その『夢』も、全部あいつらに持っていかれて! 嫌っ、もうあんなの嫌!」

「大丈夫、もう大丈夫だから」

「夢が見たいの、素敵なわたしの海の夢。綺麗で、楽しくて、優しい、海の夢。こんなところにはもう、居たくないの! 地上に夢なんて無いんだもの!」


 甲高い叫び声を上げながら、ナターシャの胸に縋り付いてきた。絶え絶えの息と共に弾む背中を、求められるがままいたわるようにさする。


「……お願い、夢を見せて。もう一度だけ、海の夢を見たい」


 囁くように唱えられた願望は、豊かな双丘を越え心に直接届いた。小さく震える肩をしかと抱き、一転、ナターシャは悲痛な顔で扉の方へ向き直った。 


「局長、大将、もう、限界。これ以上は、聞けない」

「まあ、それならそれでいいんじゃないですか。何を聞いたかなんて、あなたにしかわからないのですから」

「うむ、そうだ。君の好きにしなさい」


 彼らは単に聴取を終わらせると思っているだろう。しかし、違う。もっと根本的なことを懇願する。


「海に帰りたがってるの。もういいでしょ、解放してあげて。この子は役目を果たしたもの、だからお願い。お願い、します、局長」

「素朴な疑問なんですが。願ったところで、海に戻れるものなんです? 地上に出でた人魚は海に嫌われてしまう、私はそう存じていますが、随分様子が違うじゃないですか」

「それは……」


 意味深にじっと見据えてくる二色の視線に耐えかね、ナターシャは顔を背けて逃げ出したくなった。だが、言下にワイテが取りなすように割入って来た。


「まあまあ、今後の事はゆくゆく考えるとして、とりあえず海岸を散歩するくらいならどうだね? それなら誰も損はしないし、人魚のお嬢さんにも気晴らしになるさ。この島の砂浜も割と綺麗なものだよ、それでどうかね」

「わかりました。お心遣い感謝します」

「……ま、いいですけど。ああ、どちらにせよ目立たない方がいいですね。リュウロさん、ヴィジラの換えの衣装が異研にもあったと思うのですが、頂いてもよろしいです?」

「もちろんです、お待ちください」

「では、わしは警備を配させよう。万が一、バダ・クライカの跳ねっ返りが仕掛けてきたら――」

「必要ありませんよ、この私が居るんです。むしろ、下手に騒ぎを大きくしない方がいいと思いません? どこの誰が裏で手を引いているのかわからないんですから、ねえ」

「うむ、まあ、そうだな。時にディニアス君、君だけが頼りのような言いぶりだが、わしだって軍の長なのだ。いざとなったら、こう、やってやるともさ」


 ワイテはからからと笑いながら、握った拳をぶんぶん振り回した。ついで、どんと胸を叩く。頼みにしてくれと言わんばかりに。事実、大将の提案は解放への光明となったから、あながち間違っても居ない。


 ありがたいことだ、ナターシャは心の底から思いつつ、胸の中に居るか弱き娘を強く抱きしめた。


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