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誰がために(3)

 意識が深淵より浮かび上がった時、まず薬臭さが鼻をくすぐった。開けた目には、窓越しの柔らかな陽光に浮かぶ天井が映った。洞窟ではもちろんなく、窮屈な船室と言った風でもない。


 この天井には見覚えがある、本島の診療所だ、とナターシャはぼんやり思った。港近くにあって、腕のいい医師が駐在している。前に一度、高熱で倒れた時に世話になった。


 覚醒が進むにつれ、首元に非常な圧迫感があることを自覚する。例の刃傷を治療するために、きつく包帯が巻かれているのだ。痛みはうずく程度に済んでいる、きっと強烈な痛み止めを処方してくれたのだろう。


 そして、冴えてきた目は、ベッドの隣で椅子に座る人影をしかと認識した。首筋に短く流れるダークブロンド、真面目な顔で背筋をまっすぐ伸ばし、険とした空気をほとばしらせる彼女は。


「……セレン?」

「はい。お動きになられないほうがよろしいかと。傷が開きますので」

「……うん、そうする」


 体ごとひねろうとした途端に傷口にひりひりと走った痛みが、忠告通りのことを予感させ、ナターシャは大人しく仰向け姿勢に戻った。


 もう一つ、気づいたことがある。自分で切り開いたえら口は、まるごと切り傷として処され、糸できっちり縫い閉じられてしまったようだ。それもかなり奥深くまで。治癒が終われば強固に癒着してしまうだろう。まるで、もともとただの肉塊しかなかったように。


 しかたない。巷の医師に亜人の最適な診断を求めるのは酷だ。なにせ体の構造からして人間と違うのだ、土地柄で亜人に親しみがあるなどとでもない限り、誤認や不理解があって当然だろう。見たことない器官の存在に匙を投げず治療してもらえた、それだけでもずっとましだ。


 ふと思う。あの子――一人残された人魚娘はどうなったのだろうか。ひどく衰弱していた、体の外も内もぼろぼろで、よくない薬も飲まされたに違いない。医師による治療行為が必要なのは、彼女の方である。しかし、この病室には計三床のベッドがあるが、ナターシャ以外の患者が居る気配が無かった。


 もちろん他のことも気にかかる。昏睡している間に何があったか、どういう次第でここで目覚めることになったか。目を閉じていた時のことは、経過した時間すらも含め、一切わからない。


「ねえ、どうなったの、あのあと。あの子は? 助かった、わよね……?」

「ここには居ません、としか話せません」


 ナターシャの顔を覗き込み、セレンは窓の方を目で指示する。外に筒抜けだ、と言いたいのだろう。それくらいは察しが付く。


 政府中枢のある島で住民も関係者がほとんど、治安もこの上なく行き届いている。とは言え、下町には商人や店屋を営み暮らす一般人も多いし、港に停泊する船乗りも街に出歩くから、中枢の宮殿外で迂闊なことを口走れば、機密漏洩に繋がりかねない。人の目や耳などどこにあるかわからないし、人の縁がどこに繋がっているかもわからないものだ。


 誰が出入りしてもおかしくない診療所では、話せることなど限られている。


「あれから、どれくらい経った?」

「一晩を越しました。もうすぐ正中時です」


 丸一日眠り続けていたなんて初めてだ。それでもなお弱った体は重く、精神も疲労に満たされている。傷のための安静という以前の問題だ、動きたくないし、頭も回転が鈍い。起きているのに寝ているような、奇妙な感覚である。


 ナターシャは細く長い息を吐いた。同時にまぶたもゆっくりと閉ざす。眠気があるわけではないが、こうしていると段違いに楽だ。つまり、体がまだ休むべきだと主張しているに等しい。


 と、セレンが静かに口を開いた。


「ディニアス様から伝言です」

「なによ」

「『気が済むまで寝ていればよろしい。何なら永遠にでも構わない』と」

「……あいつの口も縫い合わせてもらいたいわ」


 いたわりの言葉を望むべく相手ではないが、せめてこんな時くらい、余計な一言を発せないでおくぐらいの配慮はできないのだろうか。あんまりな言葉に不貞腐れてそっぽを向けば、動いた傷口に鋭い痛みが走り、なお一層恨み節をかきたてられる。


 だが今は、いつものようにわめき立てる気力が無い。伏せた目を一層固く結び、心身を癒すことが最優先だ。



 ナターシャが中枢に戻ったのは、さらに二日後だった。上着の下で包帯は変わらず固く巻かれ、傷も痛みを残している、血を大量に失い落ちた体力も完全には戻っていない。しかし、根性がいつまでも無為に寝ているを良しとしなかった。結末が気になる、だから医師の静止をもふりきり復帰したのである。


 総監局の扉を開ければ、ヴェルムの姿があった。向こうは向こうで覇気が無いが、大きな怪我などはなさそうだ。ナターシャの登場に気づくなり、口をあんぐりとさせた。


「おまえ、大丈夫なのかよ。無理すんな、帰って休んでろ」

「もう平気よ。色々迷惑かけて、ごめんなさい」

「気にすんな。……俺の方こそ、すまねぇ」

「なんであんたが謝るのよ、おかしなことなんてしてないじゃない」


 その言葉に、ヴェルムはふっと失笑した。だが、決して心からは笑っていない。厳つい顔に滲む影は、果たして何に起因するのか。ナターシャと違い体調がどうということではなさそうだ。


 もしや、自分が居ない間に、良からぬ結末を迎えてしまったのではないか。ナターシャは色を変えた。対面の自席に腰を据えながら、静かに切り出す。


「……あの子はどうなったの」

「生きてはいる」

「よかった。でもどこに? 診療所には居なかった、あんなに弱ってたのに」

「それなんだが、異研の方で丁重に扱われて――」


 中枢の異能研究局、聞こえたその名から連想するのは、研究対象だとか人体実験だとか、よからぬことばかり。ナターシャは思わず机に両手を打ち付け、ヴェルムの言葉を遮り激した。


「なんでそんな所に!? あの子は研究材料なんかじゃない!」

「待て、落ち着け。もちろん保護のためだ、あそこが一番都合がいいって局長が押し通しただけだ。この辺の医者じゃあ亜人の扱いなんかまともにできやしないし、下手に衆目に晒せば、どんな騒ぎになるかわからん。わかるだろう?」

「だけど……」

「じゃなかったら、ワイテやギベルの監視下だったぜ。それに比べれば……まだ、うちの局長の方がいいだろう」

「まあ、そうかしら」

「そうだ。局長、いい仕事してくれたぜ。信号弾見た北港の連中と一緒に救援に来たし、船の上じゃ、おまえの処遇でマグナポーラとも大揉めしてる。今回ばかりは感謝しとけよ」

「あたしの処遇って?」

「あの馬鹿女、おまえとあの娘んことも容疑者に仕立てようとしやがった。そうでなくとも、規定違反で首切れってな」


 ナターシャはうなり声ひとつの後、絶句した。短絡的で乱暴にもほどがある。規定違反とは無許可で島に上陸したことだろうか、仮にそうだとしても、管轄違いのマグナポーラに裁量権は無い。限りなく好意的に解釈すれば、亜人教団が起こす事件では亜人が被害者にならない、という先入観ゆえとも考えられる。が、ヴェルムには何の咎めも無い辺り、むしろ私情による色眼鏡が大きそうだ。


 それにしても何故マグナポーラが絡んできたのか、疑問である。かの訓練島へは、ナコラ港より中枢側から船を出す方が近いのに。今一つしっくり来ない。


 断片ではなく全体的、かつ筋道の立った情報が必要だ。自分が倒れてからどうなったのか、ナターシャが求めると、ヴェルムは軽く頷いて教示した。



 大量に失血したナターシャの命が危険、なおかつ残された人魚娘の衰弱が激しいのも明らか、最優先すべきは救命だと判断し、すぐさま地下洞窟を離脱しにかかった。


 その道中、半ばほどまで上がったところで、ナコラ軍の先発隊と遭遇した。事情を説明したところ、奥へ行きバダ・クライカの一味を捕えた上、悪事の証拠品を押さえるにかかる部隊と、負傷者を連れ軍船まで戻る部隊とに分かれることになった。ヴェルムは前者に合流し、人魚たちの護り手はセレンに任せ地上に戻るのを見送った。


 その後、一通りの押収を終え、傾き始めた太陽の日差しを浴びながら波止場へ向かうと、二隻の船が停泊していた。司令たるマグナポーラ=グリーシー自ら乗り込んでいるナコラの大型船と、本島北港警備隊の小型船だ。ほぼ同時に到達したが、司令の顔を立てるため、北港隊は先鋒を譲り大人しく待機していたらしい。同行してきたディニアス一人除き。


「ちょっと待って。そこがよくわかんないんだけど、なんでわざわざナコラ港から来たわけ? しかも本島の連中より早いって」

「信号弾の煙なら、ナコラからでもぎりぎり見えるだろうからな。あれは元々軍内で救難を求める信号だ、見えたら動くさ。特にあのマグナポーラじゃ、何も考えず即行動でもおかしくねえ。対して北港の連中は練度が低いからな、船一つ出すにも大慌てだろうよ。うちの局長も茶々入れてるわけだしな」

「その局長は何してたのよ。じっと待ってるわけないじゃない」

「マグナポーラにはばれないよう隠れて洞窟を下りようとした、だが少し入って、迷いそうなのがわかったからすぐに引き返したらしい。まあ、単独で入るような場所じゃねえのは見りゃわかるからな。……話を戻していいか?」

「ええ、納得したわ。だからあたしはマグナポーラの馬鹿に捕まったわけだ。こういう時ばっかり手が早いんだから」


 マグナポーラ隊の下で応急手当をされたナターシャたちは、狭い船室に押し込まれ寝かされていた。その部屋の前で、マグナポーラとディニアスが言い争いをしていた。最も、吼えているのはマグナポーラばかりで、局長はいつもの飄然とした口ぶりで論をまくしたてているに過ぎなかったが。内容は、負傷者をナコラに運ぶか本島に運ぶか、容疑者として鎖につないでおくべきだ、いやその必要はない、などといったものだった。


 結果、ナコラ軍が本島に寄港し、この件に関わる一切を、特命部および島を管轄する大将ワイテ直属の部隊に引き継ぐことを取り決めた。そしてナターシャに関しては急を要するとして、取りも直さず診療所に連れ込まれたのである。


 一方、特命部も治安維持軍も驚天動地の大騒ぎとなった。バダ・クライカ・イオニアンの尻尾を捕まえた、しかもそれらは軍が管理する島に巣食っていた。おまけに、制服やら手枷やら、政府の内部から流出したとしか思えないものが大量に出てきて、身内に裏切り者の存在を匂わせる始末。どこから手を付けていいのかすらわからない。捜査方針も半ば混乱したまま、三日が過ぎて現在に至る。


 なお、総監局には捜査権は無く、特命部からもあまり勝手なことをするなと釘を刺されたことを付け加えるべきだろう。



 話し終わると、ヴェルムは重く湿った息を吐いた。気持ちが沈む、ナターシャも同じだ。


「任せるのはいいけどさ。真相、明らかになると思う?」

「無理だろ。あいつらの大好きな権威だ体裁だの危機だ。うやむやにするさ」

「やっぱりそう思うわよね」


 裏で手引きした者が、中枢の内部事情、特に治安維持省絡みに精通してるとは明らか。以前よりの疑惑が、いよいよ否定の余地を一切無くしたかたちである。当然、犯人たちは必死で身の潔白を偽装し捜査をかき乱すだろうし、身内を全て疑わなければならない調べる側の抵抗と疲労も大きい。それでもし、重役が捜査線に浮上した場合、権威に負けず立ち向かえる人間がどれだけいるだろうか。下手に騒ぐより見なかったことにした方が自分のためだ、そんな風に己の保身を考えない人間が、この政府中枢にどれほど居るだろうか。残念ながら特命部や治安維持軍にはほぼ居ない、ナターシャにはそう思っている。


 悪が目の前にあるのに手出しを出来ない、こんなに悔しいことはあるだろうか。噛んだ唇が心と共にひりひりと痛む。


 このまま終わりにしていいのか、これで自分は満足なのか。違うだろう。一つの「夢」から人魚の影を追い、暗闇の奥で真実を見た、しかしまだやり残したことがある。


 ナターシャはさっと立ち上がった。強い意志をたたえたまなざしは、扉の方へ向いている。 


「大人しくしといた方がいいぜ。あっちもこっちも気が立ってる、迂闊なことすりゃ、火傷じゃすまんぞ」

「……知ったことじゃないわ。これは元々あたしが調べ始めたことだもの、責任とって、幕引きまで自分でやるべきでしょ」


 けじめはつけなければならない。最初に調べを始めた折、何を求めていたか。人間世界に悪夢を振りまく邪教を打ち負かすこと、それだけではなく、対話を求めていた。バダ・クライカと共にある人魚族の同胞との対話を。


 当初と形は違ってしまったが、まだ叶うことだ。であれば、果たさない限り、ナターシャの捜査は終わらないのだ。


 ――何としてでも人魚に会いに行かないと。強靭な思いを胸にして、静けさを討ち破るように廊下へ足音を響き渡らせた。

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